第7話 暗転のあとに残るもの

真琴は、舞台中央から動かなかった。

スポットはもう落ちている。けれど、照明器具の熱だけが空中に残り、さっきまで白く照らされていた場所には、光の記憶みたいな明るさが浮いていた。床板の傷も、椅子の脚も、真琴の足元に落ちた小さな紙片も、暗闇の中へ戻っている。

見えなくなっただけで、なくなったわけではない。

俺は照明卓のフェーダーを確認し、赤いLEDの列を一つずつ目で追った。数字はいつも通りだった。出力にも異常はない。器具の冷却ファンが低く回り、金属の熱を少しずつ夜へ返している。

「……もう終わり?」

真琴が、舞台中央から言った。

声は軽かった。けれど、軽くしようとしたぶんだけ、語尾が薄く震えていた。

「通し確認は終わり」

「練習は?」

「練習も」

「そっか」

真琴の足音が一つ鳴った。

俺は返事をしなかった。何か言えば、今の時間に蓋をすることになる気がしたからだ。真琴は、言葉を置いたあとに笑って蓋をする。俺まで同じことをしたら、さっきの「失いたくない」は、また舞台の床下へ押し込まれてしまう。

舞台袖で、九条先輩が進行表の端を折った。

「終わったかどうかは、本人が決めればいい」

「九条先輩?」

「通し確認は終わった。けど、あの子の中では、まだ暗転してない」

先輩は舞台中央ではなく、俺の手元を見ていた。

「篠宮、フェーダーを戻しすぎ」

「え?」

「中央の作業灯。今のままだと足元が見えない」

俺は卓の端にある小さなスイッチへ手を伸ばした。作業灯が一段だけ明るくなり、舞台中央の床板が淡く浮かび上がる。真琴の靴先と、そこから少し離れた場所に落ちた紙片が見えた。

「見える?」

「うん」

真琴はしゃがみ込み、紙片を拾った。

それは、彼女が何度も書き直していたノートの切れ端だった。白い紙の中央に、「好き」という二文字が残っている。何度も消されたせいで、紙は薄く擦れていた。最後の「き」の払いだけが、少し強く乱れている。

真琴はその紙を指先で挟んだまま、立ち上がらなかった。

「ねえ、夕貴」

「何」

「これでいいのかな」

昨日から何度も聞いてきた言葉だった。

けれど、今夜のそれは台詞ではなかった。真琴はノートを開かず、紙片だけを見ている。誰かに正しい言い方を教えてほしいという顔ではない。言葉にしたあと、それを自分のものとして持っていていいのか、確かめる顔だった。

俺は舞台へ上がった。

暗転中の通路には、まだケーブルの熱が残っている。黒いゴムの表面に指を添えながら、足元の輪を避けて進む。昨日なら先にコードをまとめていた。今日は、真琴のところへ行くことを優先した。

近くまで来ると、彼女の呼吸が聞こえた。機材のファンより小さく、けれど、さっきの告白より近い。

「何が?」

「何がって……全部」

真琴は紙片を俺へ向けた。

「言葉。声。タイミング。紬の前で、これを言って、ちゃんと届くのかな。届いたとして、紬が困ったらどうしよう。困らなくても、今までみたいに笑ってくれなかったら。私が余計なことをして、紬の明日を変えたら」

「明日が変わるのは、真琴だけじゃない」

「夕貴は、そういう言い方するんだね」

「どういう」

「私が変えるみたいに言わないところ。私が一人で関係を壊すみたいに考えてたから」

「紬にも選ぶことがある」

「うん」

「真琴が全部背負う必要はない」

「でも、言うのは私だよ」

真琴は紙片を握り直した。紙の端が指に食い込み、白い跡が残る。

「言うのは私。傷つくのも私。気まずくなるのも私。だから、私が全部責任を持たなきゃいけないと思ってた。紬が困らないように、紬が嫌な気持ちにならないように、紬が私を見なくても平気な顔をできるように。そうやって考えてたら、告白する前から、紬の返事まで私が決めてた」

「それは、紬の気持ちを考えているようで、自分が傷つかない形を選んでいるだけかもしれない」

言葉にした途端、自分にも向けられているように感じた。

真琴は、俺を見た。

「夕貴も?」

「何が」

「私のためって言いながら、私が転ばないように、先に道を作る。私が何を言えばいいか考えて、どこまでなら傷つかないか決めて、私が迷ったらすぐ戻す。夕貴も、私の気持ちを勝手に決めてるんじゃない?」

俺は答えられなかった。

舞台中央の作業灯が、真琴の横顔を薄く照らしている。スポットほど強くはない。だから、表情の全部は見えない。それでも、彼女の目が俺から逃げていないことだけは分かった。

「……そうかもしれない」

「認めるんだ」

「分からないから、認めるしかない」

「それ、便利な言葉だね」

「うん」

「でも、今日は許す」

真琴は笑おうとした。

けれど、笑い声になる前に息へ戻った。

その音を聞いて、俺は胸の奥が痛むのを感じた。真琴が紬を好きだという事実が痛いのか。明日、真琴が俺の前から一歩先へ行くことが怖いのか。それとも、今まで自分が「支える」という言葉の陰に隠れていたことが、ようやく見え始めたからなのか。

どれも同じ場所にあった。

「夕貴」

「何」

「私が明日、紬に言ったらさ」

「うん」

「今までみたいに、夕貴に練習を頼めなくなるかもしれない」

言葉が、暗い舞台の上で静かに響いた。

「どうして」

「だって、終わるかもしれないじゃん。告白したら、紬との関係も変わるけど、夕貴との関係だって、今のままではいられないかもしれない。私、夕貴に告白の練習を頼んで、何度も言い直して、夕貴に待ってもらって、その間ずっと、夕貴のことを一番近い場所に置いてた気がする」

「一番近い?」

「紬のことを話せるのは夕貴だけだった。笑わないで聞いてくれるし、変なところで真面目だし、私が逃げても、追いかけて引きずり戻したりしない。ただ、ここにいる。そういうところに甘えてた」

真琴は紙片を胸元へ寄せた。

「だから、明日、紬に言ったら、夕貴に頼れなくなる気がする。頼る理由がなくなるっていうか。今までみたいに、告白の練習っていう名前で、夕貴のところへ来られなくなる」

俺は、舞台袖の暗がりを見た。

そこには、昨日から何度も真琴が立った場所がある。照明の外側。冗談を言い、言葉を飲み込み、戻ってきた場所。俺はいつも、そこにいる彼女を舞台中央へ呼んだ。

けれど、明日からも同じ場所にいるとは限らない。

「練習が終わっても、話す理由はなくならない」

「本当に?」

「真琴が話したいなら」

「夕貴は?」

問いが、思ったより近くへ落ちた。

「夕貴は、私と話したい?」

俺は指先でコードの感触を探した。黒いゴムの表面には細かな埃が付いている。いつもなら、巻き方を整えれば考えがまとまる。だが、今夜はどれだけ触れても、答えの形にならなかった。

真琴は待っている。

紬の前で待つのとは違う。真琴は、俺が言葉を返すまでここを動かないつもりだった。普段なら彼女のほうが沈黙を嫌い、冗談で場をほどく。けれど今は、笑わずに俺の答えを受け止めようとしている。

「……話したい」

やっと言った。

「それだけ?」

「今は、それしか言えない」

「そっか」

真琴は俯いた。肩が小さく揺れたが、泣いているわけではない。笑ったのだと思う。ただ、その笑いはいつものように明るく広がらず、唇の端で止まった。

「夕貴がそう言うと、ちゃんと嬉しいのに、ちょっとだけ寂しい」

「どうして」

「もっと早く言ってくれたらよかったのにって思うから」

「早く?」

「うん。私が何度もここに来る前。紬の話をして、告白の練習をして、夕貴の前で何回も恥ずかしい思いをする前。最初から、話したいって言ってくれたら、私ももう少し違うふうに夕貴を見られたかもしれない」

息が止まった。

真琴は、すぐに視線を逸らした。

「今のは、変な意味じゃなくて」

「変な意味じゃないなら、何の意味だ」

「そういう聞き方する?」

「聞かないと分からない」

「分からないなら、分からないままでいてよ」

真琴の声に、初めて苛立ちが混じった。

「私だって分からない。紬が好きなのは本当。夕貴と話したいのも本当。夕貴の前にいると安心するし、私が何を言っても待ってくれるから、ここへ来るのが楽だった。でも、楽だからって、そこに何もないわけじゃない。近いからこそ、言葉を間違えたら全部壊れる気がする」

「真琴」

「だから、私に聞かないでよ。夕貴のことをどう思ってるのかなんて、今すぐ答えられるわけないじゃん。私は明日、紬に言うんだよ。その前に夕貴のことまで考えたら、何も言えなくなる」

俺は黙って聞いた。

真琴の声は震えていた。けれど、逃げるための笑いはなかった。

「ごめん」

「謝らなくていい」

「でも、夕貴に期待させるみたいなことを言った」

「期待はしてない」

真琴の目が、俺を捉えた。

「それも、嘘のときの言い方」

胸を突かれた。

俺は、視線を舞台中央へ落とした。白い光は消えている。けれど、さっきまで真琴が立っていた場所は、暗闇の中でも分かった。光を落とす位置を知っているからだ。何度も照らし、何度も消したからだ。

「……期待してないと言えば、真琴が明日言いやすくなると思った」

「ほら」

「でも、分からない」

「何が?」

「明日、真琴が紬に言ったあと、俺がどう思うか」

真琴は動かなかった。

俺は続けた。

「真琴を応援したい。紬に言ってほしい。自分の言葉で、逃げずに伝えてほしい。それは本当だ。でも、真琴が紬の名前を言うたびに、胸の奥がざらつく。真琴が明日、紬の隣に立つことを考えると、うまく呼吸できないときがある」

声にした途端、その感覚が輪郭を持った。

「それが何なのか、まだ分からない。嫉妬なのか、寂しいだけなのか、俺が真琴を支える側でいられなくなるのが怖いだけなのか。分からないけど、なかったことにはできない」

真琴は紙片を握る手をゆるめた。

「夕貴が、そんなに喋るの初めて見た」

「自分でもそう思う」

「……私、どうしたらいい?」

「何を」

「今の夕貴に、何て返せばいいの?」

「返事は要らない」

「でも」

「明日のことを考えてほしい」

言ってから、胸に小さな痛みが走った。

それは本心だった。真琴には、明日、自分の足で紬の前に立ってほしい。俺の言葉で足を止めてほしくはない。俺の揺れを理由にして、また告白を先延ばしにしてほしくない。

「俺の気持ちは、俺が考える。真琴が引き受けなくていい」

「夕貴は、そうやってまた一人で持つんだね」

「持てる」

「持てるかどうかじゃなくて、持つって決めてるだけじゃん」

真琴は一歩近づいた。

舞台の中央と袖の間にあった距離が、少しずつ狭くなる。照明のない舞台では、彼女の顔はよく見えない。それでも、呼吸の温度が分かるほど近かった。

「夕貴は、私に自分の言葉を持てって言った。言ったあとも、自分をそのままにしておけって。だったら、夕貴も自分の気持ちを、私に返さないで持っていかないでよ」

「真琴」

「返事をしろって言ってるんじゃない。今すぐ好きかどうか決めろって言ってるんじゃない。ただ、私が明日を選ぶために、夕貴がまた自分を暗いところへ置いていくのは嫌なの」

その言葉が、九条先輩の声と重なった。

暗いところばかり見ていると、自分がどこに立っているか分からなくなる。

俺は、真琴の顔を見た。

いつもなら目より先に手元を見る。だが今は、彼女の目から逃げられなかった。

「分かった」

「何が?」

「明日、真琴が紬に言うのを見届ける」

「うん」

「そのあと、俺も考えたことを言う」

真琴の唇がわずかに開いた。

「誰に?」

「真琴に」

「……私に?」

「自分の気持ちを、真琴に」

「それ、明日じゃなくてもいいよ」

「明日でいい」

「どうして?」

「言ったあとの自分を、そのままにしておくために」

真琴はしばらく黙っていた。

舞台袖から九条先輩が、進行表を閉じる音がした。紙の束が重なり、乾いた音を立てる。

「篠宮」

「はい」

「そこまで決めたなら、暗転を戻して」

「暗転を?」

「明日の本番は、暗いまま終わらない」

先輩は照明卓の横へ来ると、赤いLEDの列を見下ろした。真琴にも、俺にも、直接は目を向けない。

「照明は、落とすより戻すほうが難しい。落とすだけなら、スイッチを切ればいい。でも、次に誰をどこへ立たせるか決めて、そこへ光を戻すには、暗いあいだも舞台を見ていないといけない」

「先輩、今のは照明の話ですか」

真琴が尋ねた。

「半分」

「残り半分は?」

「自分で考えて」

先輩は俺へペンライトを差し出した。

「中央、三度左。作業灯だけで合わせて」

「今、点けるんですか」

「明日に持ち越したくないなら」

俺はペンライトを受け取った。使い込まれた筒の表面に、細かな傷がある。スイッチを入れると、白い円が床板へ落ちた。

暗い舞台の中央に、小さな光が生まれる。

俺はその光を、床の傷に合わせた。椅子の脚、舞台の継ぎ目、紙片の落ちた位置。白い円を少し右へ動かし、戻す。三度左。昨日書いた角度を、今度は自分の手で確かめる。

真琴は、その光の外側に立っていた。

「夕貴」

「何」

「明日、私が紬に言うとき、見てて」

「見る」

「でも、私が止まったら、すぐに助けないで」

「分かった」

「私が笑っても、すぐに止めないで」

「分かった」

「私が戻るって言ったら、そのときだけ、ここへ戻して」

「分かった」

真琴は光の円の端へ、つま先を入れた。

「あと」

「何」

「明日、私が終わったら、夕貴の話を聞く」

俺はペンライトの光を下げた。

「逃げないでね」

「逃げない」

「本当に?」

俺は一拍置いた。

「逃げたくなっても、戻る」

真琴は小さく頷いた。

その横顔が、ペンライトの白い光にかすかに照らされた。スポットほど強くない。輪郭の一部だけを浮かび上がらせ、残りを暗がりに置く光だった。

けれど、その不完全さが今はちょうどよかった。

全部を照らさなくても、立っている場所は分かる。

九条先輩が、舞台袖のスイッチへ手を伸ばした。

「最後に一回だけ、暗転」

真琴が光の外へ下がる。

「明日も、ここにいる?」

「いる」

「今度は、照明の確認があるからじゃなくて?」

俺は、ペンライトを消した。

「真琴が言ったから」

暗闇の中で、真琴の息が止まった。

九条先輩がスイッチを入れる。舞台中央のスポットが、ゆっくりと灯った。白い光が床板を照らし、真琴の輪郭を拾い上げる。彼女は光の中心へ歩き出した。昨日よりも遅く、けれど、迷いは少なかった。

拍子木は鳴らなかった。

俺は合図を待たず、フェーダーへ手を置く。

真琴が舞台中央で立ち止まる。

「明日、言う」

「うん」

「ちゃんと、自分で言う」

「うん」

「そのあと、夕貴も言う」

「言う」

真琴は一度だけ笑った。

笑い声は小さかったが、もう逃げるためのものではなかった。

俺はフェーダーを下げた。

白い光が消える。

暗闇の中に、真琴の足音だけが残った。舞台中央から袖へ戻る音。床板の継ぎ目を避け、コードリールを踏まないように進む音。やがて、その足音が俺のすぐ前で止まる。

触れそうで触れない距離に、真琴が立っている。

「夕貴」

「何」

「帰ろう」

俺は照明卓の電源を落とした。

赤いLEDが、一つずつ消えていく。

「うん」

扉を開けると、廊下の蛍光灯が旧体育館へ差し込んだ。校舎の外では、模擬店の灯りがまだいくつか残っている。明日の朝には、そこに人が集まり、声が重なり、今夜の静けさは別の熱気に塗り替えられる。

真琴が先に歩き出した。

俺はコードリールの位置を確認し、脚立の足元を確かめ、それから彼女のあとを追った。いつもなら最後まで機材を見てから帰る。けれど今夜は、暗闇の中に残っているものを、見えないまま置いていくことにした。

廊下を進む真琴の背中が、提灯の赤い明かりの間を縫っていく。

その先に明日がある。

俺はまだ、自分が誰のために残りたいのか、答えを持っていなかった。

ただ、明日、真琴が言葉を置く場所から目を逸らさないことだけは決めていた。

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