第6話 帰宅確認

夕方、照明卓の赤いLEDが、暗がりの中で細く滲んでいた。

旧体育館の高い窓から差し込んでいた西日も、いつの間にか床板の端から消えている。舞台の上には作業灯だけが残り、白いスポットを落とした中央だけが、夜の手前で取り残されたように明るかった。

俺は卓の前に座り、配光図の端に小さく数字を書き込んでいた。中央スポット、三度左。上手のライト、出力を二段下げる。暗転後、役者が下手から入るまで四秒。

数字を書いていると、世界は扱いやすくなる。

何秒で灯すか。どこまで明るくするか。何センチずらせば、舞台中央の椅子の背に影が落ちないか。決められるものなら、迷わずに済む。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

画面を見ると、母からメッセージが届いていた。

『遅くなる? 夕飯、温め直す?』

短い文だった。

けれど、画面に並んだ文字を見ただけで、家の台所が浮かんだ。鍋の蓋を開けたときに上がる湯気。味噌汁の中で揺れるわかめ。食器を重ねる音。洗い終えた皿を布巾の上へ置く、乾いた小さな音。

体育館にいる間、そういうものを忘れていた。

忘れていたというより、遠ざけていた。照明とケーブルと進行表に囲まれていると、帰る時間も、空腹も、母が一人で食卓を整えていることも、舞台袖の暗がりへ置いておける。

俺は返信欄を開いた。

『もう少しかかる』

そこまで打って、指が止まった。

何分なのか分からない。真琴の練習が終わる時間も、美里先輩が最後の確認を切り上げる時間も、まだ決まっていない。曖昧なまま送るのは嫌だった。けれど、正確な時間を言えるほど、俺は今夜の自分を管理できていなかった。

背後から、紙の擦れる音がした。

「お母さん?」

真琴が、俺の肩越しに画面を覗き込んでいた。

近づいた気配に気づくのが遅れた。真琴の髪が頬に触れそうな距離にあり、甘い飲み物の匂いと、照明器具の熱を吸った制服の布の匂いが混ざって届く。俺は反射的にスマートフォンを伏せた。

「見なくていい」

「見てないよ。見えただけ」

「同じだろ」

「違うって。盗み見じゃなくて、自然な視界に入っただけ。夕貴のスマホ、画面が大きいから」

真琴は言い訳をしながら、俺の隣の椅子へ腰を下ろした。金属の脚が床板を擦り、体育館の奥へ細い音が走っていく。

「夕飯、温め直す? って、いいねえ」

「何が」

「帰る場所がある感じ」

「真琴にもあるだろ」

「あるよ。あるけど、夕貴のお母さんみたいに、帰る時間を聞いてくれる人はいないかな」

真琴は明るく言った。

明るく言ったのに、その声はいつものように跳ねなかった。客席の空っぽな椅子へ落ちて、そのまま戻ってこない。

「別に、うちだって大したことしてない」

「そういうところ。大したことじゃないみたいに言うところ」

「夕飯を温めるだけだ」

「それが大したことなんだよ」

真琴は舞台中央へ視線を向けた。さっきまで彼女が立っていた場所に、白い光が落ちている。光の中には埃が浮かび、細かな粒がゆっくりと上下していた。

「誰かが帰ってくる前提で、ご飯を作って待つってことでしょ。帰ってくるか分からなくても、帰ってきたとき困らないようにしておく。そういうの、私はあんまり知らないから」

俺はスマートフォンの画面へ目を戻した。

「真琴の家は?」

「普通だよ。普通だけど、みんな忙しいし。私も忙しいふりしてれば、何も聞かれない。文化祭とか委員会とか、友だちとか。帰るのが遅くても、連絡さえすれば大丈夫。……たぶん」

最後の二文字だけ、ひどく小さかった。

俺は返信欄へ文字を打った。

『あと一時間くらい。帰ったら食べる』

送信する。

すぐに既読はつかなかった。母は台所にいるのかもしれない。スマートフォンを手元に置いていないのだろう。返事が来ないことが、かえって家の中の気配を近くした。

真琴は、俺の画面を見ないまま言った。

「夕貴は、ちゃんと帰るんだね」

「帰る」

「私の練習が終わっても?」

「終われば」

「終わらなかったら?」

「終わらせる」

「それ、私を帰すってこと?」

「真琴を帰すんじゃなくて、練習を終わらせる」

「同じじゃん」

「違う」

「どう違うの」

俺は、指先で卓の端をなぞった。赤いLEDの列が、一定の間隔で明滅している。

「帰ることと、終わることは同じじゃない」

真琴はしばらく黙っていた。

「夕貴、それ、たまにすごく分かりにくいこと言うよね」

「そうか」

「うん。私が今聞きたいのは、夕貴が私と一緒にいたいかどうかとか、そういうことだったのに」

胸の奥で、何かが小さく擦れた。

俺は返事を探した。けれど、真琴は先に笑った。

「うそうそ。そんな顔しないでよ。今のは冗談」

「……そういう冗談は、分かりにくい」

「分かってる。分かりにくく言ったから」

「それは、冗談じゃないだろ」

真琴の笑顔が止まった。

体育館の天井近くで、ライトの冷却ファンが回っている。遠くの校庭から、模擬店の看板を固定する音が聞こえた。釘を打つ乾いた音が何度も響き、誰かの笑い声がその間を縫って流れてくる。

明日のために、学校じゅうがまだ動いている。

それなのに、俺たちのいる舞台袖だけが、時間の外側に取り残されていた。

「ねえ、夕貴」

真琴が言った。

「何」

「私、そんなに分かりにくい?」

「何が」

「紬のこと」

俺はすぐに答えなかった。

真琴はノートを膝の上で開いた。ページには、昨日まで何度も書き直していた言葉が残っている。『好きです』の上に線が引かれ、その横に『好き、だよ』と書かれている。さらにその下には、『ずっと前から』という四文字があり、最後の二文字だけが何度も消されていた。

「紬のことを話すときの真琴は、いつもより声が小さくなる」

「え、そこ?」

「目も動かなくなる」

「それ、褒めてないよね」

「見てる場所が決まる」

「どこ」

「紬の手元」

真琴は、ノートを閉じた。

「手元?」

「紬が台本を持ってるときは台本を見る。ペンを持ってるときは指を見る。顔を見てるようで、顔を見ていない」

「……そんな細かいところ見てたの?」

「見えるから」

「見えるからって、見ないでよ」

「真琴が見てるから」

「それは、見てるんじゃなくて、勝手に目が行くの」

「同じだろ」

「違うよ。自分で見に行くのと、気づいたら見てるのは違う」

真琴はそう言ってから、口を閉じた。

その言葉が、自分自身へ返ってきたようだった。

気づいたら見ている。気づいたら耳を澄ましている。気づいたら、誰かのために足を動かしている。

俺にも、それに似たものがある。

真琴が緊張していると、喉の動きを拾う。手が震えていれば、水を渡す。コードが足元にあれば、先にまとめる。そうしているあいだは、真琴を見ている理由を、全部「必要だから」と言える。

「真琴」

「なに」

「もう一度、やるか」

「今?」

「今」

「夕飯の連絡をした直後に告白の練習って、情緒が忙しくない?」

「練習に時間が必要だろ」

「そういうところだよ。私がしんみりしてるのを、すぐ次の作業にする」

「しんみりしているのか」

「してるよ。かなり」

「じゃあ、少し待つ」

「待つんだ」

「待てと言われたら」

「言ってないけど」

「なら、始める」

真琴は笑い、けれどその笑いをすぐに引っ込めた。椅子から立ち上がり、舞台中央へ歩いていく。床板の継ぎ目を避けるように歩く癖がある。何度もここへ立ったせいで、どこに小さな段差があるか覚えているのだろう。

俺はフェーダーを上げた。

白い光が、真琴の足元から肩へ広がっていく。

彼女は光の中心で立ち止まり、目を細めた。スポットの熱が肌に触れる。頬の上に薄い赤みが浮かび、首筋に落ちた影が呼吸のたびにわずかに揺れた。

「好き、だよ」

真琴は言った。

「……たぶん、じゃなくて。ちゃんと」

昨日より、言葉は早かった。

けれど、最後に微かな笑いが混じる。笑い声というより、笑い声にしようとしてこぼれた息だった。

「今のは?」

俺が聞く。

「何が?」

「ちゃんと、のあと」

「何もないよ」

「笑おうとした」

「してない」

「した」

真琴は、白い光の中で俺を見た。数秒だけ目が合い、それから先に逸らす。

「……夕貴ってさ」

「何」

「私が笑うの、嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、どうして止めるの」

「笑って終わると、そこから先が聞けないから」

「聞かなくてもいいじゃん。私が笑ったら、冗談だったってことにできるし」

「本当に冗談なら」

真琴は黙った。

俺は、卓の赤いLEDへ目を向けた。正面から見れば、ただの小さな光の列だ。だが、消えかけた明かりの中で見ると、そこには明滅の間隔まで見える。

「真琴は、本当に冗談のときは、もっと早く笑う」

「何それ」

「今は、言ってから笑うまでに間がある」

「測ってるの?」

「測ってない。分かる」

「分かるんだ」

「分かる」

真琴は俯いた。白い光の中で、指先がノートの角をつまんでいる。紙がくしゃりと鳴った。

「じゃあさ、私が本当に冗談だったらどうする?」

「終わるまで聞く」

「最後まで?」

「最後まで」

「本当にくだらない話でも?」

「真琴が話すなら」

「それ、ずるいよ」

「何が」

「そうやって、条件をつけずに聞くところ。私が何を言っても受け止めるみたいに言うから、余計に言わなきゃいけなくなる」

「言いたくないなら、言わなくていい」

「でも、夕貴は待つでしょ」

「待つ」

「待たれると、逃げられない」

「逃げたいのか」

真琴はすぐには答えなかった。

舞台の外から、タイマーの電子音が鳴る。短い音が二度、体育館の壁に反響した。どこかでリハーサルの区切りがついたらしい。拍子木が一度鳴り、続いて複数の足音が走る。

真琴はその音を聞きながら、ゆっくりと首を振った。

「逃げたいんじゃなくて、逃げたくなったときに、戻れなくなるのが嫌なの」

「戻れる」

「どうして分かるの」

「戻ってきたから」

「私が?」

「昨日も、今日も」

真琴は顔を上げた。

「夕貴が、そういうふうに言うの、反則だと思う」

「そうか」

「うん。私がいくら言い直しても、笑っても、夕貴は『もう一回』って言うだけで、怒らない。だから、今度こそ本当に言わなきゃって思う」

「言わなくても怒らない」

「それがまた困るんだよ」

真琴は白い光の中で、少しだけ後ろへ下がった。光の輪の端に足がかかる。肩の半分が暗がりに沈み、顔の片側だけが照らされる。

「怒られたら、怒られたせいにできるじゃん。夕貴が急かしたから、仕方なく言ったとか。夕貴が待つから、私が勝手に言うしかなくなる」

「俺のせいにしていい」

「よくないよ」

「必要なら」

「そういうことじゃない」

真琴は、光の中心へ戻った。

「私が自分で言ったことにしたいの。夕貴に押されたからじゃなくて、紬に伝えたいから。怖いけど、それでも言うって決めたのは、私だから」

その声は、昨日よりも静かだった。

けれど、静かなぶんだけ、言葉が床板に深く落ちた。

「夕貴は、私の背中を押してくれる。でも、押されたまま進んだら、たぶんまた誰かのせいにする。だから、明日は自分で歩く。遅くても、途中で止まっても、私が戻る場所は私が決める」

俺は返事をしなかった。

真琴の言葉は、俺が普段やっていることを、少し違う角度から見せていた。支えているつもりで、相手の足元を先に整えてしまう。転ばないように、迷わないように、道を決めてしまう。

それは、本当に支えることなのか。

「……分かった」

俺が言うと、真琴は首を傾けた。

「何が?」

「明日は、止めすぎない」

「止めないの?」

「真琴が逃げると言ったら止める。でも、迷っているだけなら待つ」

「その違い、夕貴に分かるの?」

「分かるようにする」

「言い切ったね」

「うん」

真琴は、わずかに笑った。

今度の笑いは、言葉を消すためではなかった。言葉を言ったあとも、そこに置いておくための笑いだった。

俺はフェーダーを少し下げた。眩しさを抑えると、真琴の表情の輪郭が柔らかくなる。暗がりとの境目に立つ彼女は、完全に明るい場所にいるよりも、今のほうが近く見えた。

「じゃあ、もう一回」

真琴が言う。

「何を」

「さっきの」

「どれ」

「好き、だよ。たぶんじゃなくて、ちゃんと、ってやつ」

「同じでいいのか」

「同じじゃないように言う」

真琴は、ノートを胸の前で握った。

「早瀬紬に言うつもりで、聞いてて」

「聞く」

「笑っても止めないで」

「笑うなら」

「笑う。たぶん」

「たぶんじゃなくて?」

「そこ拾う?」

「真琴が言った」

「じゃあ、笑わない。……いや、笑うかもしれないけど、今度は逃げるためじゃない」

「分かった」

真琴は、舞台中央の白い輪の中で息を整えた。

空っぽの客席を見て、それから俺を見る。目が合った。いつもなら一秒も保たずに逸らすのに、今度は逸らさなかった。

「好き、だよ」

声が体育館の奥へ伸びる。

「たぶん、じゃなくて。ちゃんと、紬が好き。紬が誰かと話してると気になるし、疲れてると何かしてあげたくなるし、私がいないところで紬が笑ってると、少しだけ悔しい。そういう自分を、ずっと嫌な人だと思ってた。でも、嫌な人になりたくないからって、好きじゃないふりをするのは、たぶん優しさじゃない」

真琴は一度、息を吸った。

「私は、紬に困ってほしくない。でも、困らせたくないから何も言わないって決めるのも、紬の気持ちを勝手に決めてるみたいで嫌になった。紬がどう思うかは、紬が決めることだから。私は私の気持ちだけ、自分で引き受けたい」

言葉が途切れない。

「だから、明日言う。もし返事がすぐにもらえなくても、もし今までみたいに話せなくなっても、言わなかったことには戻らない。戻りたくない。怖いけど、怖いまま言う」

そこで、真琴の声がかすれた。

「……これ、重い?」

俺は、すぐには答えなかった。

舞台の中央に立つ真琴の横顔が、スポットの白に照らされている。肌の熱、浅い呼吸、強く握った指先。そのどれもが、言葉の外側にある本音だった。

「重い」

真琴の肩が少し下がる。

「やっぱり」

「でも、重いままでいい」

真琴は顔を上げた。

「どうして?」

「軽くしたら、真琴が言ったことじゃなくなる」

「夕貴は、最近そればっかりだね。私の言葉を私のままにするって」

「忘れないようにしてる」

「何を?」

「俺も、自分の言葉を消さないように」

真琴は何も言わなかった。

スマートフォンが、卓の上で再び震えた。母からの返信だった。

『分かった。味噌汁、弱火にしておくね。気をつけて帰ってきて』

俺は画面を見た。

真琴が、今度は覗き込まなかった。舞台中央から、少し離れた場所に立ったまま、俺の顔を見ている。

「帰ってきて、だって」

「うん」

「いいね」

「何が」

「帰ってきて、って言われるの」

「真琴も帰ればいい」

「帰るよ。私も帰る。明日、紬に言ったら、そのあとちゃんと帰る」

「うん」

「でも、明日の夜は、今日と同じじゃないかもしれないね」

真琴の声に、期待とも不安ともつかない震えが混ざった。

「同じではないと思う」

「それ、怖い?」

俺は画面を閉じた。

「少し」

「夕貴も怖いんだ」

「分からない」

「それ、便利な言葉だね」

「そうかもしれない」

「じゃあ、分からないままでもいいから、明日ここにいて」

真琴はスポットの外へ歩き出した。光の中心から離れるにつれて、輪郭が暗がりへ溶けていく。けれど、今度は戻るためではない。自分の足で舞台を降りるための歩みだった。

俺は照明卓のフェーダーを下げた。

白い光が消える。

舞台の中央が暗くなり、真琴の姿も見えなくなった。けれど、彼女がどこに立っているかは分かる。床板の軋む音が二度続き、やがて舞台袖の近くで止まった。

「夕貴」

「何」

「夕飯、食べて帰ってね」

「真琴も」

「私はいいの。甘いの飲んだから」

「それは食事じゃない」

「お母さんみたい」

「うちの母に失礼だろ」

「そこ?」

真琴の笑い声が、今度は体育館の奥まで届いた。

俺は照明卓の赤いLEDを見つめながら、配光図の余白へ数字を書き込んだ。

中央スポット、三度左。

その下に、短く一行を足す。

帰る。明日も来る。

遠くで、模擬店の灯りがいくつか消えた。明日の朝まで残すものと、片づけるものを分けているのだろう。体育館の窓に映る色とりどりの光が、ひとつずつ減っていく。

真琴の足音が、舞台袖から入口へ向かって遠ざかる。

「先に帰るね」

「うん」

「夕貴」

「何」

「明日、私が笑ったら」

俺はフェーダーから手を離した。

「逃げたのか、笑いたいのか、見てる」

「見てるだけ?」

「必要なら聞く」

「何を?」

「笑った理由」

入口の前で、真琴の足音が止まった。

しばらくして、静かな声が返ってくる。

「……じゃあ、明日ね」

扉が開く。

廊下の蛍光灯が、舞台袖の暗がりへ細い帯になって差し込んだ。真琴の輪郭がその中に浮かび、すぐに扉の向こうへ消える。蝶番が鳴り、体育館はまた広い静けさへ戻った。

俺は一人で、赤いLEDの列を見ていた。

舞台の中央には、まだ照明の熱が残っている。手のひらをかざすと、わずかな温度が肌へ伝わった。真琴が立っていた場所。何度も言い直し、笑い、黙り、それでも最後には自分の声を置いた場所。

俺はスマートフォンをポケットへしまい、照明卓の電源を確認した。

フェーダー。ケーブル。コードリール。脚立。ペンライト。

帰る前に、いつものように持ち物を確かめる。

けれど、最後まで確認しても、胸の奥に残った違和感だけは消えなかった。真琴を見送ったあと、俺がここに残った理由を、機材の確認だけでは説明できない。

暗い舞台の中央へ、もう一度だけ白い光を落とす。

誰もいないはずの場所で、光は床板の傷を照らし、周囲の暗がりを深くした。

俺はその境目を見つめながら、明日、真琴が紬の前で何を言うのかを考えた。

そして、そのとき自分は、ただ見ているだけでいられるのかを考えた。

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