第5話 紬の名前

真琴が紬の名前を口にしたとき、俺はほんの少しだけ、彼女の目が逸れるのを見た。

それは照れとは違っていた。

いつもの軽口に隠すときの、わざとらしい明るさでもない。名前を呼んだ直後だけ、真琴の視線は舞台袖の暗がりへ逃げた。そこには予備の背景板と、丸めた緞帳、それから昨夜まとめ直したコードリールが置かれている。何もない場所だった。

なのに、真琴はそこに何かを見つけたように見えた。

「紬って、ああいう感じだよな」

真琴は舞台中央から戻りながら言った。

「どういう感じ」

俺は照明卓の横で、ケーブルの束を足元から壁際へ寄せていた。黒いゴムが床板の上を擦り、低い音を立てる。真琴は俺の手元を見たあと、客席のほうへ顔を向けた。

「ちゃんとしてるっていうか。何をしてても、置く場所が決まってる感じ。台本も、ペンも、言葉も」

「言葉に置く場所があるのか」

「あるよ。紬の言葉って、変なところに落ちないじゃん。必要なときに必要な場所へ来る。私なんか、思いついた順に投げて、あとから拾ってるのに」

「真琴のほうが話しやすい」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

「また、たぶん」

真琴は笑った。笑い声はいつも通りだったが、すぐに途切れた。

「紬の前だと、私、何を言っても余計な気がするんだよね。別に紬がそういう顔をするわけじゃないの。困った顔をするわけでも、嫌そうにするわけでもない。ただ、私が勝手に、こっちの中身まで見られてる気がしてくる」

「見られてると思うのか」

「思うというか……見られても、紬は何も言わないから」

真琴はノートの角を指で押さえた。

「何も言われないと、自分で勝手に答えを作るしかないじゃん。今のは変だったかな、とか。迷惑だったかな、とか。紬はそんなこと言ってないのに、私が全部先回りして、勝手に傷ついてる」

俺はコードを巻く手を止めなかった。

紬は、校内で誰よりも段取りが正確だった。演劇部の台本を抱え、実行委員の進行表を確認し、小道具の位置が数センチずれていれば無言で直す。大きな声を出すわけではないのに、彼女が舞台袖に立つと、周囲の動きが自然に整う。

真琴が見ているのは、その整った輪郭だった。

たぶん、輪郭の外側にあるものまで。

「夕貴は、紬のことどう思う?」

「仕事ができる」

「それだけ?」

「落ち着いてる」

「それも仕事の話じゃん」

「人の話を最後まで聞く」

「それは、夕貴もそうでしょ」

真琴はそう言ってから、少しだけ眉を寄せた。

「でも、夕貴の聞き方とは違う。夕貴は、相手が話し終わるまで待つけど、紬は話し終わったあとも、すぐに何かを返さない。聞いた言葉を一回、自分の中に置いてる感じがする」

「だから、返事が遅い」

「うん。あの一拍が怖いんだよ」

「何も悪いことを言ってないなら、怖がらなくてもいい」

「そういう問題じゃない」

真琴はノートを閉じた。

「返事が遅いってことは、その間にいろいろ考えてるってことでしょ。私が何を言ったか、どういうつもりで言ったか、次に何を言えば私が困らないか。そういうのを全部考えられてる気がする。だから、紬の前では、冗談も途中で止まる」

「今も止まってる」

「誰のせいだと思ってるの」

真琴は軽く睨んだ。けれど、すぐに視線を逸らした。

「……紬の前で、私がどんな顔してるか、夕貴は見たことある?」

「ある」

「どうだった?」

「固まってる」

「最悪」

「目が動かなくなる」

「もっと最悪じゃん」

「でも、嫌そうではない」

真琴の指が、ノートの表紙の上で止まった。

「それ、紬が?」

「真琴が」

「私が?」

「紬を見るときの真琴が」

「……そんなに分かる?」

「分かる」

「本人より先に?」

「たぶん」

「たぶん禁止にしようかな」

「難しい」

真琴は笑った。今度の笑いは長く続かなかった。体育館の外で、誰かが段ボールを運ぶ音がした。校庭の模擬店からは、試しに流した音楽の低い旋律が聞こえてくる。明日のために飾られた電球が、高い窓の向こうで一つずつ灯り始めていた。

旧体育館の中はまだ薄暗い。

夕方の光と照明の白が混ざり、舞台の上だけが夜の手前に取り残されている。

その入口から、紬が入ってきた。

片手に進行表を持ち、もう一方に小さなペンライトを握っている。舞台袖の床を一度見て、浮いた養生テープを見つけると、しゃがんで端を押さえた。髪が頬に落ち、彼女は耳へかけ直す。その仕草は一度だけだった。

「照明、確認してもいい?」

紬は俺に向かって言った。

「どうぞ」

「明日の二場面目、下手から入る役者がいる。暗転直後だから、袖の足元を少し見えるようにしてほしい」

「今、確認する」

俺が立ち上がると、紬は一歩横へ退いた。通路を空けるための動きだった。けれど、退いた先に真琴がいた。

「望月も来てたんだ」

「うん。たまたま」

「たまたま、昨日から告白の練習を?」

真琴の肩がわずかに固まった。

紬は、すぐには返事をしなかった。進行表へ目を落とし、紙の端を指先で撫でる。それから、真琴の顔を見る。

「聞こえた?」

「ちょっとだけ」

「そう」

それ以上、紬は追及しなかった。

その短さが、かえって真琴を追い詰めたようだった。真琴は笑おうとした。だが、声になる前に息がこぼれた。

「いや、まあ、練習っていうか。明日の演劇で告白する場面があるから、その、役作り?」

「演劇に告白の場面はない」

紬は淡々と言った。

「ないけど、ほら、演劇部じゃない人には分からない演出とかあるじゃん。見えないところで感情を作る、みたいな」

「そういう演出なら、台本に書いておく」

「紬はそういうところが紬だよね」

「どういうところ?」

「全部、台本に書かれてないと不安そうなところ」

真琴は笑いながら言った。けれど、最後の音が細かった。

紬は真琴を見て、首を少し傾けた。

「不安なのは、望月のほうじゃない?」

その言葉が落ちると、体育館の中の音が一度遠のいた。

真琴の笑顔が止まる。

俺は照明卓の前で、フェーダーに置いた手を動かせなかった。紬の言い方には、責める響きがなかった。だからこそ、真琴は逃げるための冗談を選べなかった。

「……何それ」

真琴が言った。

「顔に出てるから」

「出してないし」

「出てる」

「紬、そういうの分かるんだ」

「分かるというより、今日は分かりやすい」

「今日は、って何」

真琴の声が少しだけ尖った。

紬は返事の前に一拍置いた。いつもの間だった。けれど、真琴はその間に耐えられないように、先に言葉を重ねた。

「私が変なことしてるって思ってる? 告白の練習とかして、文化祭前日に浮かれてるだけの痛い人に見える? それとも、誰かに言われたから仕方なく付き合ってるだけ?」

「そうは思ってない」

「じゃあ、何を思ってるの」

「まだ、聞いてない」

紬は静かに言った。

「望月が何を言おうとしているのか、私はまだ聞いていないから、勝手に決めない」

真琴の唇がわずかに開いた。

紬は進行表を閉じた。普段なら必要なことだけを短く置く彼女が、今日は言葉を急がなかった。

「言いたいことがあるなら、言えばいい。言わないなら、それでもいい。私は、どちらかを選ばせたいわけじゃない。ただ、望月が笑って終わらせたときに、それを本当に終わったことにしていいのかは分からない」

「……それ、ずるい」

「何が?」

「そうやって、私に選ばせるところ。言えばいいって言われたら、言うしかなくなるじゃん」

「言わなくてもいいと言った」

「でも、紬は待つでしょ」

「待つ」

「それが困るんだよ。返事を急かされるより、待たれるほうがずっと怖い。私が何も言えなくても、紬は怒らないし、笑わないし、勝手に話を終わらせない。そうすると、私のほうが、自分の言葉を出すまでここに立ってなきゃいけなくなる」

紬は黙って真琴を見ていた。

俺は、スポットを調整するために舞台へ向かった。二人の間から少し離れる。けれど、照明卓からは会話が聞こえた。聞こうとしたわけではない。旧体育館の壁が、声を拾ってしまう。

「……紬って、ああいう感じだよな」

真琴が言った。

「どういう感じ?」

「ちゃんとしてるっていうか。近づくと、こっちがバレそうで」

「何が?」

「私が、全然ちゃんとしてないこと」

「そんなことはない」

「あるよ。紬の前でだけ、変になる。普通に話したいのに、どうでもいいことを何個も喋るし、あとで思い出して、何であんなこと言ったんだろってなる。紬が誰かに呼ばれると、行ってらっしゃいって言えばいいだけなのに、変な顔して見送るし」

「変な顔は、見ていない」

「嘘。見てたでしょ」

「見ていた」

「ほら」

「でも、変だとは思ってない」

真琴の息が、そこで詰まった。

紬は進行表の端を撫でながら、続けた。

「望月が何かを言おうとして、言わないことは分かっていた。何度か、話しかけてきて、途中で別の話に変えたから」

「気づいてたの?」

「気づいていた」

「いつから?」

「いつからかは、覚えていない」

「そこは覚えててよ」

「覚えていることより、今どうするかのほうが大事だと思った」

真琴は笑いかけた。けれど、笑い声は出なかった。

「紬は、そういうところがずるいんだよ。気づいてるのに、気づかないふりをする。私が言わない限り、ずっと待ってる。私が勝手に諦めるのも、勝手に近づくのも、全部こっちに任せる」

「それは、踏み込みすぎないようにしていた」

「どうして?」

「私が、望月の気持ちを勝手に決めたくなかったから」

その答えを聞いて、真琴は顔を上げた。

紬は大きく表情を変えなかった。ただ、台本の端を撫でていた指が止まっている。

「誰かに見られているからといって、その人が何を望んでいるかまで分かるわけではない。視線が長いから、近くにいるから、よく話しかけてくるから。それだけで、気持ちを決めてしまうのは違うと思う」

「じゃあ、私が何も言わなかったら、紬はずっと分からないまま?」

「分からないままでいる」

「それで平気なの?」

「平気ではない」

短い答えだった。

だが、その声には、昨日まで聞いたことのない重さがあった。

「分からないままのほうが、相手を傷つけないこともある。でも、分からないままにしておけば、相手が傷つかないとも限らない。だから、私は待つしかないと思っていた。待つことしかできない、と言ったほうが近いかもしれない」

真琴は、両手でノートを握りしめた。

「紬でも、怖いことあるんだ」

「ある」

「何が」

「言葉を受け取ったあと、軽く返してしまうこと」

紬は舞台中央を見た。俺が点けたスポットの白が、床板の傷を照らしている。

「誰かが勇気を出して言ったことに、すぐ答えを出してしまうのが怖い。嬉しいとか、困るとか、分からないとか。そういう言葉で返せば、その場は終わる。でも、言われた側が終わらせても、言った側の中では終わらないことがある」

真琴は息を飲んだ。

「紬、そういうこと考えてたの?」

「考える」

「何でも?」

「何でもではない。望月のことは、よく考えた」

舞台袖の暗がりに、真琴の沈黙が落ちた。

俺はスポットの角度を調整した。三度右。光の円が床の中央からわずかに移動する。紬がそれを見て、俺のほうへ歩いてきた。

「篠宮、そこから少し左」

「左?」

「舞台中央に立った人の顔の右側が暗くなる。客席から見て、もう少し正面へ」

紬は舞台中央へ歩き、光の中に立った。照明の当たり方を確かめるように、顔の向きを少しずつ変える。スポットの白が頬から喉元へ滑り、伏せた睫毛の影が床へ落ちた。

「ここなら、表情が見える」

「明るすぎないか」

「本番は客席が暗くなる。今より顔が沈む」

「分かった」

俺はフェーダーを微調整した。

真琴は舞台袖に残ったまま、紬の横顔を見ていた。目が逸れない。けれど、その視線は真っすぐすぎて、今にも何かがこぼれそうだった。

「真琴」

俺が呼ぶと、彼女の肩が跳ねた。

「なに」

「言うなら、今のうちに練習できる」

「夕貴、そういうところだよ」

「何が」

「私が逃げる道を、ちゃんと塞ぐ」

「コードがあると危ないから」

「分かってる。分かってるけど、今日はもう少し自分で歩かせてよ」

真琴は笑おうとした。今度は紬が見ている。紬の前では、その笑いがいつものように戻らなかった。

「紬」

真琴が呼んだ。

名前は、昨日の舞台で聞いたときよりも小さかった。けれど、体育館の奥まで届いた。

紬は、返事をする前に一拍置いた。

「うん」

「私、明日……」

そこで、真琴の喉が詰まった。

俺は何も言わなかった。フェーダーにも触れない。照明は白いまま、真琴の横顔を半分だけ照らしている。明るい場所と暗がりの境目で、彼女の指がノートの表紙を強くつまんだ。

「明日、少し話したい」

「分かった」

紬は短く答えた。

真琴の目が揺れる。

「……それだけ?」

「今は、それだけ」

「何を話すか聞かないの?」

「聞いてもいいけど、今ここで聞くと、望月は本番の前に全部言ってしまう気がする」

真琴は、初めて返す言葉を失ったようだった。

紬は続けた。

「明日、話したいと言った約束は、覚えておく。だから、明日になったら、私を探して」

「紬は、忘れない?」

「忘れない」

「もし、私がまた変なこと言ったら?」

「聞く」

「笑ってごまかしたら?」

「笑った理由を聞く」

「言えなくなったら?」

紬は一度、舞台袖の暗がりを見た。

「言えるまで待つ」

真琴の唇が震えた。

俺はその言葉を聞いて、昨夜の自分の声を思い出した。

言ったあとの自分も、そのままにしておけ。

同じ言葉ではないのに、どこか似ている。待つということは、相手の言葉を代わりに作らないことだ。支えるということは、相手の沈黙を自分の都合で埋めないことなのかもしれない。

真琴は目を伏せた。

「……紬って、ずるい」

「さっきも聞いた」

「何度でも言う。ずるい。そんなふうに待たれたら、言わない理由がなくなるじゃん」

「言わない理由が必要なら、探していい」

「今はもう、見つからない」

「そう」

紬の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

真琴は舞台中央へ歩き出した。スポットの輪の中へ入ると、白い光が髪と頬を照らす。昨日より足取りは遅かったが、袖の暗がりへ戻ろうとはしなかった。

「じゃあ、練習する」

「本番みたいに?」

紬が聞いた。

「うん。夕貴が相手役で、紬は……」

真琴はそこで止まった。

「紬は、そこにいて」

紬は頷いた。

「分かった」

俺は照明卓へ戻り、フェーダーに手を置いた。白い光が真琴の輪郭を浮かび上がらせる。紬は舞台袖に立ち、進行表を閉じた。二人の間には、客席ひとつ分の距離がある。

真琴は俺を見た。

「夕貴、ちゃんと聞いてて」

「聞く」

「私が逃げても?」

「戻ってくるまで待つ」

「止めてくれないの?」

「真琴が止めてと言ったら止める」

真琴は、少しだけ目を見開いた。

それから、ゆっくり息を吸った。

「……早瀬紬」

名前を呼ぶ。

今度は、視線が逸れなかった。

「明日、伝えたいことがある」

そこまで言って、真琴は一度唇を結んだ。笑い声は出なかった。喉の奥で詰まった息を、時間をかけて飲み込む。

「私、紬のことが――」

校庭のどこかで、拍子木が鳴った。

乾いた音が旧体育館へ入り込み、真琴の言葉を途中で断った。

彼女は目を閉じた。

けれど、舞台袖へは戻らなかった。

紬が、静かに言う。

「続きは、明日でいい」

真琴は目を開けた。

「……逃げたって思わない?」

「思わない。止まっただけ」

「同じじゃない?」

「違う。戻るつもりで止まるなら」

真琴は、白い光の中で小さく息を吐いた。

「戻る」

その言葉は、誰かへの宣言というより、自分自身へ向けた約束のように聞こえた。

俺はフェーダーを少し下げた。光の輪が狭まり、舞台中央の真琴だけが残る。袖の紬は暗がりに半分沈んでいる。それでも、二人の距離はさっきより近く見えた。

照明卓の赤いLEDが、俺の手元で規則正しく明滅している。

真琴が、俺のほうを振り返った。

「夕貴」

「何」

「明日も、ここにいる?」

「いる」

「本当に?」

「照明の確認がある」

「そうじゃなくて」

俺は返事をする前に、一拍置いた。

「いる。真琴が戻ってくるまで」

真琴は何も言わなかった。

紬も、何も言わなかった。

ただ、舞台中央の白い光だけが、傷の残る床板の上に静かに落ち続けていた。明るい場所に立つほど、周囲の暗がりは濃くなる。けれど今は、その暗がりが逃げ道ではなく、光の輪郭を確かめるための余白に見えた。

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