第4話 照明卓の横で

翌日の夕方、旧体育館には、昼間の喧騒がまだ薄く残っていた。
校舎の窓から差し込む西日が、舞台袖の床に細長く伸びている。校庭では模擬店の看板を立てる音がして、誰かが試しに鳴らした呼び込みの声が、体育館の壁にぶつかって戻ってきた。昨日の夜より人の気配は多い。それなのに、照明卓の周りだけは、音の届き方が少し違っていた。
赤いLEDが、夕暮れの残る暗がりで小さく光っている。
俺は配光図を膝に置き、中央スポットの角度を確認していた。昨日、真琴が立っていた場所に、今日も白い光を落とす。舞台中央の床板には、靴の跡がいくつか増えていた。明日の本番を待つだけの舞台は、使われるほど傷が増え、傷が増えるほどそこに人が立つ場所らしく見えてくる。
「さっきのやつ、もう一回だけやっていい?」
隣から声がした。
振り向くと、真琴がチェック表を胸に抱えて立っていた。何事もない顔をしている。髪はいつも通り後ろでまとめられ、手には文化祭用の油性ペンが握られていた。ただ、ペンの先が何度も出し入れされたらしく、軸の周りに黒い指の跡がついている。
「さっきのやつって」
「ほら。昨日の。好きです、のやつ」
「ここで?」
「ここ以外に、私たちが練習できそうな場所ある? 教室は人がいるし、廊下は誰か通るし、校庭で言ったら模擬店の呼び込みに負けるし」
「体育館も、誰か来る」
「そのときは、照明の確認をしてましたって言う」
「嘘になる」
「練習も確認のうちでしょ」
真琴はそう言いながら、俺の隣の折り畳み椅子を引いた。金属の脚が床を擦り、耳の奥に細い音が残る。座る前にチェック表を卓の端へ置き、曲がっていた紙の角を指で丁寧に伸ばした。
その動作を見ていると、昨日のノートの折れた角を思い出した。
「昨日の文章、変えたのか」
「一応」
「見せて」
「やだ」
「練習するなら、先に確認したほうがいい」
「夕貴は、何でも確認してからじゃないと始められないの?」
「機材はそうする」
「私は機材じゃない」
「知ってる」
「じゃあ、もう少し雑に扱ってよ」
真琴は笑った。けれど、声の終わりがわずかに揺れていた。
彼女はノートを開き、昨日のページを指で押さえた。紙面には、黒い文字が何度も重なっている。最初に書かれた「好きです」は、消しゴムで薄くなったあとも残っていた。その下に、「ずっと前から」「もっと話したい」「明日も一緒にいたい」といった言葉が並び、どれも途中で線を引かれている。
「重いかな」
真琴が聞いた。
「何が」
「この文章。好きですだけならまだしも、ずっと前からとか、もっと話したいとか。いきなりそこまで言ったら、相手が引くかもしれない」
「引くかどうかは、相手が決める」
「そういう正論、今はいらない」
「じゃあ、どう答えればいい」
「軽くしたほうがいい、とか。もっと自然に、とか。そういう、逃げ道になるやつ」
真琴はノートを閉じた。
「私、重い人に見られたくないんだよね」
「真琴が?」
「なに、その意外そうな顔」
「真琴は、重く見られる前に自分で笑うから」
「それ、褒めてる?」
「分からない」
「夕貴の分からないは、今日も健在かあ」
真琴は笑った。けれど、今度はすぐに笑い終えた。俺は卓の赤いLEDへ目を戻した。機材の電源は安定している。昨日から変な点滅もない。中央スポットの出力も問題ない。
問題がないものを確認していると、問題のあるものが余計に目立つ。
真琴が、ノートを開き直した。
「じゃあ、言うね」
「相手は誰」
「昨日言ったでしょ」
「練習のときは、名前を出していなかった」
「出したら、夕貴が変な顔するから」
「変な顔はしていない」
「してたよ。照明が一段暗くなったみたいな顔」
「照明は変えてない」
「顔の話だってば」
真琴は椅子から立ち上がった。舞台へ向かう前に、俺の横を通る。肩が触れそうになり、触れなかった。けれど、近づいたときだけ、甘い飲み物の匂いと、少し汗ばんだ制服の布の匂いが混ざって届いた。
真琴は舞台中央まで歩き、そこで振り返った。
俺はフェーダーを上げる。
白い光が、彼女の足元からゆっくり広がった。夕方の光が残る体育館の中で、スポットの白さだけが別の時間から来たもののように浮かび上がる。真琴は目を細め、手の中のノートを握り直した。
「眩しい」
「昨日も入れた」
「昨日は昨日。今日は心の準備が」
「昨日も準備できてなかった」
「それはそうだけど、言わないでよ」
真琴は光の中心で、軽く肩を回した。役者が舞台に立つ前のような仕草だったが、指先は落ち着かず、ノートの表紙を何度も撫でている。
「じゃあ、言います」
「うん」
「早瀬紬さん」
「さん付け?」
「本番を想定してるから」
「普段は呼び捨てなのに」
「普段から呼び捨てじゃないよ。心の中では呼び捨てだけど」
「それは言わなくていい」
「今のも減点?」
「練習なら、言う必要のないことを足さないほうがいい」
「出た。照明班の無駄を嫌うやつ」
「言葉も配線と同じだろ」
「絶対違う」
真琴は笑った。笑いながら、俺から視線を逸らす。舞台袖の暗がりへ向けられた目が、しばらく戻ってこない。
「……早瀬紬さん」
そこで一度、息を吸う。
「私、あなたのことが――」
「待って」
真琴の声が止まった。
「今の、あなたって言うの?」
「駄目?」
「真琴らしくない」
「告白って、真琴らしくするものなの?」
「相手に伝えるものだから、真琴が誰か分からない言い方はよくない」
「じゃあ、夕貴ならどう言うの」
「俺は言わない」
「練習相手なんだから、言ってみてよ」
「俺が?」
「そう。私が紬役をするから」
真琴はノートを閉じ、舞台中央から一歩だけ近づいた。スポットの外へ出た彼女の頬が、白い光と暗がりの境目にかかる。半分だけ照らされた顔は、昨日よりも不安定に見えた。
「ほら。夕貴、私を見て、好きって言ってみて」
「何のために」
「告白する側の気持ちを分かるため」
「俺が分かっても、真琴の練習にはならない」
「なるよ。相手の目を見て言われると、どれくらい逃げたくなるか分かるから」
「真琴は、俺が言ったら逃げるのか」
「……たぶん」
「じゃあ、言わないほうがいい」
「ほら、そうやってすぐ支える側に戻る」
真琴の声は軽かった。だが、語尾に笑いはなかった。
「夕貴は、私が困らないように、何でも先に避けるよね。変な沈黙も、気まずい質問も、私が答えに詰まりそうな言葉も。そういうの、優しいけど、たまにずるい」
「ずるい?」
「うん。私が自分で踏み込む前に、夕貴が道をきれいにしてしまうから。転ばないように、傷つかないように、言いやすいように。けど、道がきれいすぎると、どこへ行けばいいか分からなくなる」
俺は卓の端に置いたペンを指先で転がした。
真琴は続けた。
「だから、今日は少しぐらい困らせてよ。私が重いことを言っても、変なことを言っても、すぐに正しい形へ直さないで。好きって言うのが下手なままでも、それを下手じゃないことにしようとしないで」
「それは、直さなくていいということか」
「違う。直してほしい。でも、消さないでほしい」
体育館の外で、拍子木が一度鳴った。
乾いた音が壁を伝い、真琴の最後の言葉を切った。彼女は口を閉じ、俺も返事をしなかった。拍子木の余韻が消えるまで、照明器具の冷却ファンだけが回り続ける。
真琴はゆっくりと舞台袖へ戻った。
「今の、言い方重かった?」
「少し」
「やっぱり?」
「でも、悪くない」
「悪くないって、いちばん反応に困るやつ」
「本当にそう思った」
「じゃあ、もうちょっと言って」
「何を」
「どこが悪くないのか」
俺は、舞台中央へ落ちた光を見た。
「真琴が、自分で分かっていることを言葉にしたから」
「自分で分かってること?」
「俺に、消さないでほしいって言ったこと」
真琴は黙った。
「昨日まで、真琴は言えないって言ってた。でも、たぶん違う。言葉が出ないんじゃなくて、言ったあとに残るものを怖がってる。だから、言ったことを笑ってなかったことにする。今日は、それをしないでほしいって、自分で言った」
「……そんなに分かるもの?」
「分かるというか、聞こえた」
「夕貴は、そういうところだけ変に鋭いよね」
「そういうところだけ?」
「それ以外は鈍い」
「何が」
「それは自分で考えて」
真琴はノートを胸元へ抱えた。明るい光の下にいると、いつもの彼女に近く見える。けれど、目の下には薄い疲れがあった。文化祭の準備で睡眠も削っているのだろう。俺は卓の脇に置いていた水筒を手に取り、真琴へ差し出した。
「飲む?」
「珍しい。夕貴から気遣いが来た」
「喉、詰まってる」
「見てたの?」
「聞こえた」
「やだなあ、もう」
そう言いながら、真琴は水筒を受け取った。蓋を開け、少しだけ口をつける。喉が動くのを見ていると、妙に近い場所にいる気がした。真琴は飲み終えると、俺へ返す前に水筒の蓋をきちんと閉めた。
「ねえ」
「何」
「昨日より、今日のほうが言いにくい」
「理由は?」
「昨日は、告白の練習をするって決めただけだったから。今日は、昨日より本気で言うことを考えちゃった」
「本気で言うと、言いにくくなるのか」
「なるよ。夕貴は、作業の確認を本気でやるとき、手が震える?」
「震えない」
「それは機材だからでしょ」
「機材でも、失敗すれば誰かが困る」
「人は?」
「人も困る」
「違うよ。人は、失敗して困るだけじゃない。言ったあとで、自分のほうが変わってしまうから怖いの」
真琴は再び舞台中央へ歩き出した。
今度は、スポットの中へ入ってからも、すぐにはこちらを見なかった。空っぽの客席を見渡し、天井のトラスを見上げ、光の外側にある緞帳の暗がりへ視線を置く。舞台へ立つ前の役者というより、舞台から降りられなくなった人の姿に見えた。
「じゃあ、普通に言うね」
「うん」
「紬が好き」
一言目は、昨日よりも早かった。
「好きっていうか、好きだし。もっと話したいし、紬が私じゃない誰かと楽しそうにしてると、ちょっと嫌だし、でもそんなこと言ったら嫌な人みたいだから、ずっと黙ってたし。紬のことを考えてる時間が増えるたびに、これはただの憧れだって言い聞かせてたけど、憧れなら、こんなに名前を呼ぶ練習なんてしないと思う」
真琴は一度、息を整えた。
「私は、紬に選ばれたい。……違う。選ばれなくても、私が紬を好きだってことを、紬の前で言える人になりたい。今までみたいに、忙しいからとか、文化祭があるからとか、そういう理由を並べて逃げたくない」
俺は何も言わずに聞いた。
「でも、やっぱり怖い。言ったら、紬の顔が変わるかもしれない。今までみたいに、隣に立てなくなるかもしれない。私だけが勝手に近づいて、紬が一歩下がったら、その距離を戻せなくなるかもしれない。それでも、言いたい。言わないでいると、紬の隣にいる自分まで嘘になるから」
そこまで言うと、真琴は唇を結んだ。
「……重い?」
「重い」
「やっぱり」
「でも、軽くする必要はない」
真琴は顔を上げた。
「どうして?」
「それが真琴の言葉だから」
「夕貴がそう言うと、何でも許されるみたいに聞こえる」
「許してるわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「受け取ってる」
真琴は目を逸らさなかった。
「受け取るだけ?」
「今は」
「今は、ってことは?」
「俺が勝手に答えを作ると、真琴の言葉を俺のものにするから」
「……そういうこと、考えてたんだ」
「考えてなかった。今、言いながら分かった」
「夕貴にしては、すごい」
「真琴が言わせた」
「私が?」
「言葉を消さないでほしいって言ったから」
真琴の指が、ノートの表紙の上で止まった。
彼女はしばらく黙っていた。体育館の外から、誰かが走ってくる音がした。入口の前で止まり、別の声と短く言葉を交わしてから、また遠ざかっていく。明日のために動いている人たちは、誰もこの舞台の上で交わされた言葉を知らない。
学校という狭い場所では、噂は光より速く広がる。けれど、今ここにある気持ちは、赤いLEDほど小さく、誰にも見えないまま二人の間に置かれていた。
「もう一回、言っていい?」
真琴が聞いた。
「何度でも」
「その言い方、少しだけ優しくなったね」
「そうか?」
「うん。前は、頼まれたから何度でもって感じだった」
「今は違うのか」
「分からない。でも、違うと思いたい」
真琴は舞台中央で、ゆっくり息を吸った。
「好き」
今度は、名前を付けなかった。
「紬が好き。私は、紬ともっと一緒にいたい。もし紬が私のことをそういうふうに見てなくても、私が好きだったことまで、なかったことにはしたくない」
声は震えていた。けれど、言葉の途中で笑わなかった。
「だから、明日言う。たぶん、また変なことを言うし、途中で笑うかもしれない。でも、そのときは……」
「止める」
俺が言うと、真琴は少しだけ頷いた。
「うん。止めて」
「逃げそうになったら?」
「戻して」
「どこへ」
真琴は一瞬、言葉を探した。
「私が言った場所へ」
その答えが、舞台の上に残った。
俺はスポットを一段落とした。真琴の輪郭が白から淡い灰色へ変わり、光の外側の暗がりが少し近づく。完全に暗くすることはできなかった。舞台中央の位置を見失わないために、最低限の光は残す。
真琴が、舞台袖へ戻ってくる。
すれ違うとき、肩が俺の腕にかすかに触れた。制服越しに伝わった体温は一瞬で、触れたことを確かめる前に離れていく。真琴は何も言わなかった。俺も言わなかった。
照明卓の横へ戻ると、彼女は昨日と同じ椅子に座った。
「明日、本当に見ててね」
「見る」
「紬に告白して、変な空気になったら?」
「場を整える」
「夕貴らしい」
「でも、真琴が言うことは、俺が代わりに言えない」
「うん」
「だから、そこだけは自分で言って」
真琴は、ノートのページを開いた。昨日まで何度も書き直されていた文字の横に、新しい一行が増えている。
好き。紬が好き。
それだけだった。
「これ、短すぎるかな」
「十分だと思う」
「でも、理由とか、ずっと前からとか、いろいろ言いたい」
「言いたくなったら言えばいい」
「途中で言えなくなったら?」
「黙ってもいい」
「沈黙しても?」
「相手が待てるなら」
「紬は待ってくれるかな」
俺は答えなかった。
紬がどんな返事をするのか、俺は知らない。落ち着いた顔で一拍置いて、真琴の言葉を最後まで聞くのかもしれない。困ったように目を伏せるのかもしれない。何も変わらない顔をして、けれど以前とは違う距離を取るのかもしれない。
分からないことは、機材の不具合より扱いにくい。
「分からない」
「そっか」
「でも、待てないとは限らない」
真琴はノートへ視線を落とした。
「夕貴、少しだけずるくなったね」
「そうか?」
「うん。答えを出さないまま、可能性だけ残すから」
「それが必要なときもある」
「照明みたいに?」
「光が届く場所を決めるのは、俺だけど。そこに立つかどうかは、立つ人が決める」
「じゃあ、私は明日、立つ」
真琴はノートを閉じた。
そのとき、校庭の模擬店から、試験点灯の明かりが一斉に灯った。体育館の高い窓から、色とりどりの電球が見える。まだ人のいない店先に明かりだけが並び、明日の熱気を先取りしていた。
真琴は窓の外を見た。
「きれい」
「明日はもっと明るくなる」
「でも、明るすぎると、隠れられないね」
「隠れなくていい」
言ってから、俺は自分の言葉に少し驚いた。
真琴は、すぐには返事をしなかった。やがて、ノートの表紙を指で一度撫でる。
「それ、明日も言って」
「何を」
「隠れなくていいって」
「必要なら」
「必要になると思う」
「分かった」
赤いLEDが、俺たちの横で規則正しく瞬いている。
俺は配光図へ目を落とし、中央スポットの角度を一度だけ確認した。昨日より三度、わずかに左へ戻っている。舞台の中心を照らす白い円は、床板の傷を隠さず、その周囲の暗がりも残したまま、真琴が立つ場所を静かに示していた。
真琴は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、もう一回だけ」
「まだやるのか」
「うん。今度は、名前を呼ぶところから」
彼女は舞台中央へ歩き出す。
俺はフェーダーに手を置いた。
光が灯る。
真琴は白い輪の中で、一度だけ喉を鳴らした。それから、逃げずに客席の奥を見た。
「早瀬紬」
名前は、昨日よりもまっすぐ響いた。
「明日、少し話したい」
そこで真琴は止まった。けれど、笑わなかった。
「……ううん。今、練習だからじゃなくて」
彼女は俺を見た。
「明日、ちゃんと話したい」
その言葉を聞いて、俺はフェーダーから手を離した。
光はそのまま、舞台中央に残った。暗転の合図はまだ鳴らない。真琴の輪郭も、言葉の余韻も、しばらくは消えずにそこにあった。
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