第3話 ステージ中央の言い直し

真琴は、舞台袖の暗がりから一歩出た。
たった数歩の距離なのに、光の中心へ向かう彼女の歩みは、廊下の端から端まで移動するより長く見えた。床板が靴の裏でかすかに鳴る。古い木の匂いと、熱を持った照明器具の金属臭が、舞台の上に薄くこもっていた。
俺は照明卓のフェーダーに指を置いたまま、真琴の位置を目で追った。
舞台中央。
明日の演劇で、役者が最初に立つ場所だ。客席からもっとも見えやすく、同時に、袖から逃げるにはもっとも遠い。スポットを合わせると、白い光が真琴の肩から頬へ落ちた。髪の表面に細かな埃が浮き、喉元が一度だけ上下する。
光は、見せるつもりのないものまで見せる。
「じゃあ、言うね」
真琴はそう言って、俺の少し横を見る。
「えっと……」
「待ってる」
俺が返すと、真琴は一度だけ目を合わせ、それからすぐに逸らした。視線は客席へ流れ、空になった椅子の列を通り越し、緞帳の裏へ沈んでいく。
「えっと、好き、なんだけど」
言った直後、真琴は笑った。
「あはは、なにこれ。告白ってこんなに恥ずかしいものだっけ」
笑い声が体育館の高い天井へ上がり、少し遅れて戻ってくる。だが、声の終わりに残った息は浅かった。笑いで包んだはずの言葉が、包まれたままにはならず、光の下に取り残されている。
俺はフェーダーから手を離した。
「今の、もう一回」
「うわ、鬼」
「練習だろ」
「そうだけどさ。そこは普通、よかったよとか、自然だったよとか言うところじゃない?」
「自然ではなかった」
「そこ、正直に言う?」
真琴は口を尖らせた。いつもの軽口に戻ろうとしている。けれど、頬に残った照明の熱のせいか、笑みは少しだけ歪んでいた。
「どこが悪いの」
「最後、笑った」
「笑ったら悪いの?」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、何が駄目なの」
「言ったことを、笑って消そうとしてる」
真琴は黙った。
舞台の上で、照明のファンが低く回っている。天井近くから流れてくる風が、真琴の髪をわずかに揺らした。彼女は耳にかかった髪を指で直し、今度は俺の顔を見ようとした。けれど、目が合う直前にまた横へ逃げる。
「消そうとしてないし」
「そう見えた」
「見えただけでしょ」
「うん」
「じゃあ、違うかもしれないじゃん」
「かもしれない」
「……そうやって、相手に決めさせるの、ずるいよ」
声が少し低くなった。
真琴は、明るい人間だと思われている。教室で誰かが黙れば、すぐにくだらない話を始める。準備中に空気が重くなれば、わざと大げさに失敗して、周囲を笑わせる。誰かの失敗を笑いに変えられるのは、真琴の優しさでもあった。
けれど、自分の失敗まで笑いに変えてしまうと、あとに残るものがなくなる。
「もう一回」
真琴は言った。
今度は笑わなかった。
「好き……」
そこまで言って、喉が詰まる。
真琴は唇を閉じ、少しだけ顔を伏せた。白い光の中で、まつげが頬に影を落としている。俺は待った。催促することも、台詞を変えることもできたが、どちらも違う気がした。
「……かもしれない」
「それは違う」
言ったあとで、俺の声が思ったより早く出ていたことに気づいた。
真琴が顔を上げる。
「何が?」
「今のは、たぶん違う」
「どこが?」
「好きかもしれない、じゃなくて、好きかどうか分からない、に聞こえた」
「同じじゃない?」
「違う」
「どう違うの」
俺は舞台中央の白い光を見た。真琴の立っている場所は明るい。けれど、そのすぐ外側には濃い影がある。白と黒の境目ははっきりしているようで、床に落ちた埃がその線を曖昧にしていた。
「好きかもしれない、は、好きだと思ってるけど、言い切るのが怖いときに使う」
「……詳しいね」
「照明と同じ」
「どこが?」
「光が当たってる場所と、当たってない場所の境目は、完全には分かれない。でも、光がないわけじゃない」
真琴はしばらく何も言わなかった。
「告白を照明で説明する人、初めて見た」
「説明になってない」
「なってるよ。夕貴の中では」
彼女はそう言って、ほんの少し笑った。さっきの笑いとは違っていた。逃げるためではなく、俺の不器用さを受け取ったときの笑いだった。
だが、そのあとに続く言葉は、また喉の奥で止まった。
「好き……かもしれない、じゃなくて」
真琴は言い直す。
「好き、なんだけど」
「それだと最初と同じ」
「分かってる。分かってるけど、これ以上どうすればいいの」
声の端が震えた。
真琴はノートを開いた。何度も折り返されたページが、照明の下で白く浮かぶ。そこには同じ文がいくつも書かれていた。
好きです。
好き、だと思います。
ずっと前から気になっていました。
どの言葉も途中で消され、黒い線の下に埋められている。ページの隅には、紬の名前らしい文字が一度だけ書かれ、それも乱暴に塗りつぶされていた。
「どれを言っても変になる」
「変じゃない」
「変だよ。好きって言うだけなのに、どうしてこんなに息が苦しいの。たった二文字なのに、喉に引っかかって出てこない。出てきても、すぐに笑いたくなる。笑えば楽になるし、相手も困らないし、何より、言わなかったことにできる」
真琴はノートを閉じた。
「でも、それじゃ駄目なんだよね」
俺は返事をしなかった。
真琴の目が、光の中で揺れている。客席は空っぽだった。誰もいない。明日の本番なら、そこに生徒や保護者が座り、舞台の上に立つ人間の一挙手一投足を見つめる。今は誰もいないのに、真琴は何百人もの視線を浴びているみたいに立っていた。
「相手は、早瀬か」
聞いてから、余計なことを尋ねたと思った。
真琴の指がノートの端で止まる。ほんの一瞬だけ、照明の熱より強い沈黙が落ちた。
「……うん」
「早瀬紬?」
「フルネームで言わないでよ。急に本番っぽくなる」
「本番なのか」
「練習」
「そうだな」
「でも、言うつもりではいる」
真琴は客席の奥を見た。
「文化祭が終わってからって、何度も思った。準備が落ち着いたら。演劇の本番が終わったら。実行委員の仕事が片づいたら。紬が忙しくなさそうなときに。そうやって、言いやすい日を探してた」
「見つからなかった?」
「見つからないよ。だって、言いやすい日なんてないもん」
真琴の声が、少しだけ乾いた。
「紬に話しかけるだけなら、いくらでもできる。備品の数を確認したり、台本のページを聞いたり、髪にテープがついてるって教えたり。そういうのは平気なのに、好きって言おうとした瞬間、全部が変になる。言ったあと、紬がどんな顔をするか想像すると、足元がなくなる」
「断られるのが怖い?」
「それもある」
「それも?」
「断られるだけなら、たぶんまだ耐えられる。紬が困った顔をして、どう返事すればいいか分からなくなるのが嫌。私のせいで、紬が今まで通りに振る舞えなくなるのが嫌。明日から、私と話すときだけ少し間を置くようになったらどうしようって思う」
真琴は光の外へ目を向けた。
「失いたくないんだと思う。紬に断られることより、言ったせいで、今まであったものまでなくなることが怖い」
その言葉は、告白の練習という名前を越えていた。
俺は、真琴の声を聞きながら、以前のことを思い出した。放課後の廊下で、紬が台本を抱えて歩いていた。真琴は「今日、言えるかも」と笑っていた。だが、紬が足を止めると、真琴は台本の端を指して、紙の挟み方がきれいだとか、ページを折らないのは偉いとか、そんな話を始めた。
帰り道、真琴は言った。
「まあ、今日は忙しそうだったし」
俺は、その言葉を理由だと思った。真琴が笑っていたから、深く考えなかった。
今になって、あの笑い声のあとに残った息の浅さを思い出した。
「夕貴」
真琴が呼ぶ。
「何」
「今、私のこと、面倒だと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ、可哀想?」
「思ってない」
「じゃあ、どう思ってるの」
答えがすぐには出なかった。
俺は人の気持ちを察するのが早いと言われる。だが、それは相手のために動く理由を見つけるのが早いだけだった。脚立を動かす。ケーブルをまとめる。水を渡す。帰る時間を知らせる。そういう形なら、気持ちは扱える。
「言ったほうがいいと思う」
やっと出た言葉は、自分でも驚くほど普通だった。
真琴は目を細めた。
「それ、誰にでも言える?」
「誰にでもは言わない」
「私だから?」
「真琴が、言いたいのに言えてないから」
「言いたいなら言えばいい、って簡単に言うよね」
「簡単だとは思ってない」
「でも、夕貴は言わないじゃん」
胸の奥に、細い針が入った。
「私には言えって言うのに、自分のことになると何も言わない。誰かに頼まれたらすぐ動くのに、自分から欲しいものがあると、なかったことにする」
「欲しいものなんてない」
「嘘」
真琴は初めて、俺の目をまっすぐ見た。
「その言い方、夕貴が嘘をつくときの言い方だよ」
「俺のことはいい」
「よくないよ」
「真琴の練習だろ」
「だから、夕貴が相手役なんでしょ」
「相手役なら、俺は紬じゃない」
「分かってる」
真琴は目を逸らした。白い光が頬の上で揺れ、まぶしさに耐えるように瞼が細くなる。
「分かってるけど、夕貴の前で言えるかどうかは、私には大事なの。紬の前で言えるかどうかを決めるために、夕貴の前で逃げない練習をしてる」
「逃げない?」
「うん。笑わない。言い換えすぎない。自分が軽い人みたいに振る舞って、相手を困らせないようにしない。好きなものを好きだと言った自分を、すぐに馬鹿にしない」
真琴は、手のひらを強く握った。指先が白くなる。
「だから、もう一回やらせて」
「何度でも」
「夕貴、そう言うと思った」
「頼まれたから」
「そこは、頼まれたからじゃなくて、真琴だからって言ってよ」
言われて、俺は黙った。
真琴も、その沈黙に気づいたようだった。軽口を言ったつもりが、戻ってこない。彼女の手がゆっくり下がり、握っていたノートの表紙を撫でる。
「……ごめん。今のは、ちょっと卑怯だった」
「何が」
「夕貴が断らないのを知ってて、そこに乗っかった」
「別に」
「別に、って言わないでよ。夕貴の別には、たまに本当に何もないみたいに聞こえる」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「真琴だから、頼まれたら手伝う」
真琴の顔が、わずかに上がった。
俺は続けた。
「誰でもいいなら、俺に頼まないだろ」
「……そうかな」
「そうだと思う」
「自信あるんだ」
「そこは、少し」
真琴は口元だけで笑った。けれど今度は、その笑いを消さなかった。笑ったあとも、こちらを見ていた。
「じゃあ、言うね」
「うん」
真琴は姿勢を正した。いつもの彼女なら、ここで大げさに深呼吸をして、舞台俳優の真似をする。けれど今は、胸を一度上下させただけだった。
「好き……」
言葉が途切れる。
「好き、かもしれない、じゃなくて」
真琴は自分で首を振った。
「違う。今のはなし」
「うん」
「好き、なんだけど、じゃなくて」
再び息が止まる。
俺は舞台中央のスポットを、ほんの少しだけ絞った。光の輪郭が狭くなり、真琴の顔の横に影が落ちる。眩しさを和らげるためだったが、真琴はすぐに気づいた。
「……暗くした?」
「少し」
「なんで」
「光が強いと、目を逸らしやすいから」
「逆じゃない?」
「見えすぎると、逃げたくなることもある」
真琴は、光の外側を見た。
「夕貴は、よくそんなこと分かるね」
「分かるのは、照明のことだけだ」
「それ、今の私にも当てはまってるじゃん」
「そうかもしれない」
「じゃあ、もっと早く言ってよ」
「何を」
「私が逃げてるってこと」
「言ったら、もっと笑うだろ」
「……そうかも」
真琴は、今度は自分から笑った。短い声だったが、すぐに消えた。
「でも、言ってほしかったかも」
「どうして」
「分からない。自分で逃げてるって気づいてても、誰かに見つけてもらわないと、戻れないことってあるから」
その言葉は、俺の中に静かに沈んだ。
舞台の上で、真琴は一度目を閉じた。まぶたの裏にいる誰かへ話すように、ゆっくり息を吐く。俺は何も言わず、フェーダーから手を離した。
「もう一回」
真琴が言った。
「今度は、笑わない」
「分かった」
「途中で変なことを言っても、止めないで」
「止めない」
「言い直しても?」
「待つ」
「長くなっても?」
「待つ」
真琴は、わずかに頷いた。
「……好き」
今度の言葉は、先ほどよりも低かった。
「早瀬紬が好き」
名前を言ったあと、真琴は目を逸らさなかった。声は震えていた。それでも、言い終わったあとに笑い声を足さなかった。
白いスポットが、彼女の横顔を照らしている。光にさらされた肌は、機材の熱を受けて薄く赤みを帯びていた。舞台の端と端ほど離れているわけではないのに、手を伸ばせば触れられそうな距離には、まだ届かない。
「ずっと前から、たぶん好きだった」
真琴は続けた。
「でも、好きって言い切ると、急に自分が大げさに見える気がして。紬はそんなつもりじゃないのに、私だけ勝手に特別な意味を持たせてるみたいで。だから、憧れとか、尊敬とか、そういう言葉に置き換えてた。そうすれば、紬のそばにいても変じゃないし、何も壊れないから」
俺は黙って聞いた。
「でも、違った。私は紬のことを、ただすごいと思ってるんじゃない。紬が誰かのために動くところを見てると、自分もそこにいたいと思う。紬が疲れてると、何か渡したくなる。紬が笑うと、もっと見たくなる。そういうのを、ずっと別の言葉にしてた」
真琴の指から力が抜けていく。
「言わなければ、紬は困らない。私も失わない。そう思ってた。でも、本当は違う。言わないまま近くにいるほうが、どんどん自分を小さくしていく。紬の前で笑って、何でもないふりをして、あとでひとりになってから、言えなかったことだけを思い出す。それがもう、嫌」
声の最後が、少し掠れた。
「私は、紬に好きって言いたい。返事が欲しいからじゃなくて、私がそう思ってることを、なかったことにしたくないから」
体育館の中に、機材の熱と埃の匂いが満ちていた。
真琴は、そこで初めて俺から目を逸らした。けれど逃げたわけではなかった。言葉を言い終えたあと、自分の中に残ったものを確かめるように、空席の客席を見ていた。
俺は、胸の奥に生まれたざらつきを持て余していた。
真琴を支えたい。
それは、いつもの気持ちだった。困っている人がいれば手を貸す。言葉に詰まるなら待つ。足元が危ないなら、ケーブルをどかす。
けれど、今はそれだけでは足りないように思えた。
真琴が紬の名前を口にしたとき、俺の中で何かがずれた。光の角度が三度狂ったような、小さな違和感だった。気のせいだと思えば済む程度のものだった。だが、機材のわずかなズレを見逃せないように、いったん気づいてしまったものは、元の位置へ戻せなかった。
「これで、告白になってる?」
真琴が聞いた。
俺はすぐに答えられなかった。
「夕貴?」
「なってる」
「即答じゃない」
「考えてた」
「何を?」
俺はフェーダーに置いた手を見た。指先が汗ばんでいる。普段なら、道具を確認しているうちに落ち着くはずだった。だが、今日は何度コードを直しても、手が静まらない。
「告白は、相手にどう思われるかを考えながら言うものだと思ってた」
「違うの?」
「違わない。でも、それだけじゃない気がする」
「じゃあ、何?」
「言ったあとも、自分の言葉を自分で取り消さないこと」
真琴は黙った。
俺は、自分の声を聞きながら続けた。
「真琴は、今まで言ったあとに笑ってた。笑って、冗談にして、何でもないみたいにしてた。でも、今は笑わなかった。だから、今のは台詞じゃないと思う」
「台詞なら、笑うの?」
「台詞なら、もっと上手く言う」
真琴の唇が、少しだけ緩んだ。
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「俺は、告白されたことがないから」
「そこに戻るんだ」
真琴はようやく笑った。
けれど、その笑いはもう、言葉を消すためのものではなかった。言ったあとに残った自分を、笑いながらも手放さないためのものだった。
舞台袖から、九条先輩の声が届いた。
「篠宮。暗転確認、もう一度」
「はい」
俺は照明卓へ向き直った。
「真琴」
「何?」
「もう一回だけ、聞かせて」
真琴は目を見開いた。
「え、まだやるの?」
「確認したい」
「何を」
「さっきの言葉が、今も同じか」
真琴は光の中で、しばらく俺を見た。
「……夕貴、そういうこと言うんだ」
「分からない」
「分からないのに?」
「分からないから、聞きたい」
真琴は、目を逸らさなかった。
「じゃあ、もう一回言う」
「うん」
「好き。早瀬紬が好き」
今度は、言い直さなかった。
その声は白い光の中でまっすぐ伸び、空っぽの客席を越えて、体育館の奥まで届いた。俺は彼女の頬の熱を見た。指先の震えを見た。言葉より先にこぼれた息を聞いた。
拍子木が鳴った。
乾いた音が、二人の間を断ち切る。
俺は三秒を数え、フェーダーを下げた。
白い光が消える。
真琴の姿も暗闇へ沈んだ。けれど、いなくなったわけではない。さっきの言葉は、暗転の中にも残っている。舞台の床板や、緞帳の折り目や、熱を失いかけたコードリールの金属にまで染み込んでいるようだった。
赤いLEDが、照明卓の上で小さく明滅している。
真琴が暗がりの中から、低い声で言った。
「ねえ、夕貴」
「何」
「私、ちゃんと言えたかな」
俺は、消えた舞台中央を見つめた。
「言えたと思う」
「そっか」
「でも、まだ終わってない」
「うん。明日、紬に言うまで」
真琴の呼吸が、暗闇の中で一度だけ揺れた。
「……明日、見ててくれる?」
「見る」
「逃げそうになったら?」
「止める」
「笑ってごまかしそうになったら?」
「それも止める」
「もし、私が何も言えなくなったら?」
俺はフェーダーから手を離した。
「待つ」
「ずっと?」
「言えるまで」
真琴は返事をしなかった。
代わりに、暗い舞台の上で足音が一つ鳴った。光のない場所を確かめるような、慎重な足音だった。やがて彼女は舞台袖まで戻ってくる。近くに立つと、照明が落ちているのに、頬に残った熱が分かる気がした。
触れそうで触れない距離に、真琴が立っている。
俺は視線を下げた。彼女の手には、何度も書き直されたノートがある。紙の角は折れ、指の跡が残っていた。
「夕貴」
「何」
「さっきの、私が言ったこと」
「うん」
「忘れないで」
「忘れない」
「絶対?」
「絶対」
真琴は一拍置いた。
「……なら、よかった」
体育館の入口の向こうから、校庭の明かりが細く差し込んでいる。模擬店の看板に使う電球が、夜の風に揺れていた。遠くでは、明日の朝に向けて誰かが笑い、何かを運び、まだ終わらない準備を続けている。
その熱気は、旧体育館の静けさまで届かなかった。
ただ、暗い舞台の上には、さっきまで白い光に照らされていた真琴の輪郭だけが、俺の目の奥に残っていた。
← 横にスクロールして読み進められます
