第2話 告白の練習をしてほしい

夕貴が二度目の暗転を確認しようとしたころ、体育館の入口が、きい、と小さく鳴った。
俺は照明卓のフェーダーから指を離さずに、そちらを見た。
入口の向こうには、廊下の蛍光灯が細長く伸びていた。提灯の赤や、教室の窓に貼られた養生テープの白が、その光の中に途切れ途切れに浮かんでいる。昼間なら何人もの生徒が行き交っていた場所なのに、今は誰もいない。遠くの校舎から、机を引きずる音が一度だけ聞こえ、それもすぐに壁の向こうへ消えた。
その明るさの中から、真琴が入ってきた。
片手に、いつものくたびれたノートを持っている。文化祭の進行や買い出しの予定が細かく書き込まれたものだが、今日は胸元に抱え込んでいて、表紙の角が指に食い込んでいた。
「今、ひま?」
声はいつもの真琴に近かった。
近かったが、少しだけ乾いていた。笑い出す直前の明るさではなく、笑わないと何かが崩れそうなときの声だった。
俺はフェーダーへ視線を戻した。スポットの白が、舞台中央に置いた椅子の背を照らしている。次の暗転まで、あと一つ確認が残っていた。
「五分くらいなら」
「五分で済むと思う?」
「内容による」
「うわ、そういう返しするんだ。もっとさ、暇だよ、真琴ちゃんのためなら何時間でも、とか言わない?」
「言わない」
「そこは言ってよ」
真琴はいつもの調子で笑った。けれど、その笑いは床板の上に落ちたあと、跳ね返らずに沈んだ。
俺は照明卓の横に置いていたチェック表を手に取った。暗転確認、二回目。中央スポット、三度右。上手のライト、出力に問題なし。書かれた項目を指でなぞる。真琴は舞台袖に立ったまま、俺の手元を見ていた。
「まだ終わらない?」
「終わらせる」
「相変わらず、機材には優しいね」
「機材は待たせても文句を言わないから」
「それ、私には文句を言うみたいじゃん」
「真琴は言うだろ」
「言うけど。言うけどさ」
彼女はノートを胸から少し離し、表紙を撫でた。油性ペンで書かれた名前の横に、細かな予定が並んでいる。明日の開会式、演劇の転換、模擬店の備品確認。その隙間に、別の色のペンで何度も書き直した跡があった。
真琴は何かを言おうとして、やめた。
体育館の天井近くで、機械の冷却ファンが低く回っている。熱を持ったライトの匂いと、古い床板の埃が混ざって、喉の奥に薄い膜を作った。真琴が息を吸う音だけが、その中で妙にはっきり聞こえた。
「告白の練習に付き合って」
言葉が、舞台の中央まで転がっていったように聞こえた。
俺はフェーダーを一つ下げた。けれど、予定より遅れていた。白いスポットが消えるまでに、普段なら必要としない一拍があった。
「……告白?」
聞き返してから、自分でも間抜けな質問だと思った。真琴はすぐに笑った。今度の笑いは、さっきよりも明るかった。明るくしようとしていた。
「そう。告白。知らない? 好きな人に、好きですって言うやつ」
「知ってる」
「じゃあ話が早い。相手役、お願い」
「相手役、でいいのか」
「それ以外に何があるの」
「いや、俺が相手役でいいのかと思って」
「夕貴以外に頼める人、今ここにいないし」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
真琴は一歩だけ近づいた。
舞台袖の暗がりから、照明の落ちた床へ。白い光はすでに消えていたが、天井の作業灯が彼女の肩を薄く照らしている。目元は見えにくい。それでも、視線が俺の顔ではなく、少し下のあたりへ落ちていることは分かった。
「……相手が、俺でいいのかって聞いた」
言ってから、真琴の顔を見た。
言葉にしてしまったことが、少し遅れて胸へ返ってくる。俺は普段、人の話を聞くとき相手の手元や足元を見る。顔を見続けると、余計なものまで拾ってしまう気がするからだ。けれど今は、真琴の指がノートの角を折り曲げていることより、その目がどこへ逃げるのかのほうが気になった。
真琴は、すぐには答えなかった。
「……なにそれ」
「質問」
「分かってるけど。夕貴、たまに変なところだけ真面目になるよね。普通は、はいはい、相手役ね、で終わるじゃん」
「普通を知らない」
「それはそれで寂しいなあ。十七歳男子としてどうなの」
「真琴に頼まれたら、相手役をする」
「それ、答えになってない」
「相手役はする」
「夕貴」
呼ばれた声に、冗談の膜がなかった。
体育館の中に、遠くからタイマーの電子音が届いた。短く、乾いた音だった。どこか別の教室で、作業の区切りを知らせているらしい。音は一度、二度と反響し、三度目には消えた。
真琴はノートを開いた。
紙の中央に、何度も書き直された文章があった。文字の上から別の文字を重ねた跡があり、消しゴムのかすがページの隅に残っている。最初の一行だけは何度も書かれていた。
好きです。
その四文字の周りだけ、紙が少し毛羽立っている。
「これ、読めばいいのか」
「うん」
「俺が?」
「私が言うから、夕貴は聞く側」
「聞くだけ?」
「うん。聞いて、できれば、いい感じの顔をして」
「難しい」
「そこを頑張ってよ。舞台照明で人の顔をいい感じにするの、得意でしょ」
「照明で変わるのは顔じゃなくて見え方」
「そういうところだよ。そういうところが、今ちょっと腹立つ」
真琴は笑おうとした。しかし口元だけが動いて、声は出なかった。
俺は照明卓の前に戻り、フェーダーの位置を確認した。指先に、さっきまで触れていた金属の冷たさが残っている。機材の確認を先に済ませる。脚立の足元に浮いた養生テープを押さえ、コードリールから伸びたケーブルが通路を塞いでいないことを確かめる。
真琴は黙って見ていた。
「何してるの」
「確認」
「告白の練習より大事?」
「暗転中に誰かが転ぶと困る」
「誰かって、私?」
「明日、役者が通る」
「今日は?」
俺は手を止めた。
真琴の声が、照明の消えた舞台のように、急に近く感じられた。
「今日は、真琴が通る」
「……そっか」
それだけ言って、真琴は視線を落とした。ノートのページを親指で押さえ、折れた角を伸ばそうとする。だが、折り目は簡単には戻らなかった。
「夕貴ってさ」
「何」
「人のためなら、頼まれてなくても動くよね」
「そうか?」
「そうだよ。コードが邪魔なら直すし、脚立が危なかったらどかすし、誰かが忘れ物したら取りに戻るし。自分が帰る時間とか、ご飯食べたかとか、そういうのは後回しにするくせに」
「それは、必要だから」
「必要って、誰が決めるの?」
返事が遅れた。
真琴は、俺が答えられないことを知っているようだった。いつもなら、ここで冗談を挟む。夕貴は働き者だから、とか、無償の奉仕活動だから、とか。だが今日は、その逃げ道を自分で塞いでいる。
「……頼まれたから」
「ほら、それ」
真琴は一度笑った。けれど、その笑いは薄かった。
「頼まれたらやる。頼まれなかったら、自分からは何も言わない。夕貴って、そういう人だよね。誰かが困ってるのを見たら、すぐそっちへ行くのに、自分が困ってるときは、暗いところに置いていく」
「俺は困ってない」
「そういうところが困るんだって」
真琴の声が、床板に反響した。
俺は何も言えなかった。言葉を探すより先に、舞台袖の暗がりへ目が向いた。緞帳の裏には、何もない。明日の演目で使う背景板と、丸めた布、それから予備のケーブルが置かれているだけだ。
それでも、そこに逃げ込める場所があるように見えた。
真琴が小さく息を吐く。
「ごめん。今のは、練習と関係ない」
「関係あるかもしれない」
「ないよ。私が勝手に夕貴の生活指導を始めただけ」
「真琴」
「なに」
「誰に言うつもりなんだ」
問いかけた瞬間、真琴の指が止まった。
空気が一度、きれいに静まった。
俺は自分が何を聞いたのか、少し遅れて理解した。相手の名前を聞くことは、相手の事情へ踏み込むことだ。真琴の気持ちを勝手に決めつけたくないと思っているのに、答えを知りたいという欲が先に出た。
真琴は舞台の中央を見た。
消えたスポットの跡だけが、床板の上に薄く残っているように見える。実際には、光が消えたあとに残るのは、見えなくなった傷や埃だけだ。
「……早瀬」
「早瀬?」
「紬」
名前を聞いたとき、胸の奥で何かがわずかにずれた。
早瀬紬。演劇部と実行委員を掛け持ちしていて、必要なことだけを短く言う。小道具の位置が数センチ違っていてもすぐに直し、台本の端を指で撫でながら次の動きを考えているような人だ。声は大きくないのに、彼女が舞台袖に立つと、周りの音が少しだけ整理される。
真琴はその名前を口にしたあと、すぐに笑った。
「なにその顔。意外だった?」
「別に」
「嘘。今、照明が一段暗くなったみたいな顔してた」
「照明は変えてない」
「そういう話じゃないよ」
真琴は俺の横を通り、舞台へ上がるための低い段差に足をかけた。床板が、きし、と鳴る。暗い客席を背にして立つと、彼女の姿は輪郭だけになった。明るいところに出れば、たぶんいつものように見える。笑って、軽口を言って、失敗しても自分で先に笑う。
けれど今は、光のない場所にいるせいか、輪郭が揺れていた。
「紬に言うの?」
「言うつもりだから練習してるんでしょ」
「言うつもり、はある」
「ある?」
「あるよ。あるけど……明日、実行委員の仕事もあるし、演劇の確認もあるし、変なタイミングで言ったら困らせるかもしれないし」
「じゃあ、いつ言う」
「そこを考えてる」
「前にも考えてたよな」
真琴は黙った。
以前にも、似た話を聞いたことがある。放課後の廊下で、紬に書類を渡したあとだった。真琴は「今日こそ言えるかも」と笑い、結局、紬が持っていた台本の挟み方についてどうでもいい質問をした。帰り道には「まあ、文化祭が終わってからでいいし」と言った。
そのとき俺は、何も聞かなかった。
真琴がいつもの調子で笑っていたから、それで大丈夫なのだと思った。
「……前にも、言おうとしてた」
「うん」
「どうして言わなかった」
真琴は、ステージの中央からこちらを見た。照明が落ちているせいで、表情はよく見えない。けれど、目を逸らしていないことだけは分かった。
「言えなかったから」
「言葉が出なかった?」
「それもある。でも、たぶん違う」
「違う?」
「言ったら、今までと同じようにはいられないから」
真琴の声が、体育館の高い天井へ吸い上げられる。
「紬が困るかもしれない。私も困る。周りに知られたら、変な目で見られるかもしれないし、明日から同じ委員会で顔を合わせるのに、返事を急かしてるみたいになるかもしれない。もし断られたら、今までみたいに普通に話せるか分からない。だから、忙しいからとか、タイミングが悪いとか、そういう理由をいくらでも作った」
「それは、仕方ないんじゃないか」
「仕方ないって言われると、楽だよね」
真琴の声に、初めて苛立ちが混じった。
「だって仕方ないんだもん。怖いし、失敗したくないし、困らせたくない。全部本当。でもさ、仕方ないってことにしておけば、私が何も選ばなくて済むじゃん。言わないことを選んでるのに、言えないだけみたいな顔ができる」
俺は返す言葉を失った。
真琴は、そこでようやく視線を逸らした。
「だから、夕貴に練習を頼んだ」
「俺でいいのか」
「またそれ?」
「真琴は、俺に頼めば断らないと思っただけじゃないのか」
「それもある」
「それも」
「うん。それだけじゃない」
彼女は段差を下りた。暗がりから、照明卓の近くへ戻ってくる。近づくにつれて、頬の輪郭や、唇の乾きが見えてきた。舞台の光が消えているのに、俺の目は彼女の細部を拾ってしまう。
「夕貴の前だと、失敗しても、すぐに笑わなくていいから」
その言葉に、俺は真琴の顔を見た。
「……笑わなくていい?」
「夕貴は、私が笑っても、笑ったことにして終わらせないでしょ」
「そうか?」
「そうだよ。みんなは、私が笑えば、それで大丈夫だと思う。私もそう思わせたいから笑う。でも夕貴は、笑ったあとに残った息とか、手の動きとか、そういうのを見る。見て、何も言わない」
「何も言わないのは、言わないほうがいいと思うから」
「それがいいんだよ」
真琴は、照明卓の赤いLEDを見つめた。
「何か言われたら、また笑わなきゃいけない。でも夕貴は待つから。待たれると、こっちが本当に言いたいことを探すしかなくなる」
その言葉を聞いているうちに、胸の奥が少しずつ熱を持っていった。機材の熱ではない。自分の手のひらに汗が滲み、俺は無意識に作業用グローブの縁を指でなぞった。
「……分かった」
「ほんと?」
「相手役をする」
「ちゃんと?」
「ちゃんとする」
真琴は、ようやく少しだけ笑った。今度の笑いには、さっきまでの逃げ道だけではなく、わずかな安心が混じっていた。
「じゃあ、始めていい?」
「ステージ中央で」
「本格的だなあ」
「照明、入れる」
「え、そんなに?」
「顔が見えないと、確認できない」
「私の緊張を確認するの?」
「声だけでも分かるけど、見えたほうが早い」
「ほんと、そういうところが容赦ないよね」
俺はフェーダーに手を置いた。
舞台中央に、白い光が落ちる。
真琴はその中へ歩いていった。数歩しかない距離なのに、舞台袖の暗がりから光の中心へ出るまで、妙に時間がかかったように見えた。白い光が彼女の髪と頬を照らし、肌に残った熱まで浮かび上がらせる。目を細める仕草、喉が一度だけ動くこと、指先がノートの端を握り直すこと。その全部が、客席のない舞台には大きすぎるほど響いた。
真琴は俺のほうを向いた。
「じゃあ、言うね」
「待ってる」
「……好き」
その一言のあと、真琴はすぐに笑った。
笑ったが、声が続かなかった。
短い息だけが、白い光の下で揺れている。俺はフェーダーに置いた指へ力を入れた。明るさを変える必要はない。けれど、何かを調整しなければいけない気がした。
「今の、もう一回」
「うわ、鬼」
「練習だから」
「分かってるけどさあ。もうちょっと、こう、初回は優しく褒めるとかないの?」
「どこが悪かったか言ったほうがいい」
「悪かったって言うんだ」
「悪くはない。ただ、最後が笑いになった」
「笑ったんだから笑いでしょ」
「本当に?」
真琴の表情が止まった。
光の下では、冗談のために上げた口元も、すぐに崩れる。真琴は目を逸らし、客席の暗がりへ顔を向けた。空席が並んでいる。誰も見ていないのに、見られているような沈黙だった。
「……夕貴って、たまにずるい」
「何が」
「そういう聞き方するところ。私が逃げられないじゃん」
「逃げてもいい」
「よくないよ」
「じゃあ、続ければいい」
「簡単に言うなあ」
真琴は笑おうとしたが、やはり笑い切れなかった。白いライトの熱が彼女の頬に残っている。距離は舞台の端から端ほどもないのに、触れそうで触れない。近づけば呼吸の温度まで分かりそうなのに、俺は一歩も動けなかった。
「もう一回」
真琴が言った。
今度は、俺にではなく、自分に言い聞かせるようだった。
「好き、です」
語尾が少し伸びた。
「……好き、だから」
言い直してから、真琴は眉を寄せた。
「違う。違うんだけど、なんか変」
「何が違う」
「分からない。好きって言うだけなら言える。でも、好きだからどうしたいのかまで言おうとすると、急に変になる」
「どうしたいんだ」
「だから、それを練習してるんでしょ」
「練習で作るものじゃない気がする」
「じゃあどうすればいいの」
声が大きくなった。
体育館の壁がそれを受け止め、遅れて返した。真琴は自分の声に驚いたように口を閉じる。次に何か言えば、泣くかもしれない。そう思ったわけではない。ただ、笑いに戻れないところまで来ていることだけは分かった。
俺は舞台中央の光を少しだけ落とした。
真琴の頬にあった白さが薄れ、目元に影が落ちる。
「……暗くしないでよ」
「眩しいかと思った」
「眩しいけど、今はいい。見えないほうが困る」
「真琴が?」
「私が。夕貴が」
その言葉は、どちらへ向けられたものなのか分からなかった。
真琴は舞台中央に立ったまま、ノートを開いた。書き直された「好きです」の文字が、スポットの端で白く浮かんでいる。
「もう一回、やる」
「うん」
「今度は笑わない」
「分かった」
「途中で変なこと言っても、笑わないで」
「笑わない」
「失敗しても?」
「笑わない」
真琴は一度、深く息を吸った。
喉が詰まるような音が、こちらまで届いた。
「……好き」
今度は、言葉のあとに笑い声がなかった。
白いスポットが、彼女の横顔を照らしている。光の外側では、緞帳の裏の暗がりが深く沈んでいた。真琴はそこへ逃げようとするように一度だけ視線を動かし、それから、戻した。
俺のほうへ。
「早瀬紬が好き」
名前を口にした瞬間、彼女の声はかえって静かになった。
「ずっと、たぶん前から。文化祭の準備で一緒になる前から、気になってた。紬が何かをきちんと並べてるところとか、誰かが失敗しても責めないところとか、声が大きくないのに、みんなが紬の言葉を聞くところとか。そういうのを見てると、私もちゃんとした人になれる気がした。でも、実際は全然で、肝心なことになると笑って逃げるし、言おうと思っても別の話をするし、忙しいからって自分に言い聞かせて、ずっと先延ばしにしてた」
俺は黙って聞いた。
真琴は、話しながら少しずつ自分の指を開いていった。ノートを握りしめていた手が緩み、紙の角が元の形へ戻っていく。
「紬に好きって言ったら、困らせるかもしれない。今の関係が変わるかもしれない。明日、同じ舞台に立つのに、変な空気になるかもしれない。だから、言わないほうがいいと思ってた。言わないほうが、紬のためだって。でも、それって結局、私が傷つきたくないだけなんだよね」
真琴はそこで一度、息を止めた。
「なのに、どうしても言いたい。言わないまま、ずっと紬の近くで普通の顔をしてるほうが、もう嫌になった」
照明のファンが回る音だけが残った。
真琴は俺を見た。
「これで、告白になってる?」
俺はすぐに答えなかった。
真琴の声は震えていた。けれど、震えたままでも言葉を置いた。言い直して、笑いかけて、やめて、それでも最後には自分の声でここまで来た。
「なってると思う」
「思う、なんだ」
「俺は、告白されたことがないから」
「そこ比較する?」
「でも、今のは台詞じゃない」
真琴の目が、わずかに揺れた。
「台詞じゃないって、どうして分かるの」
「台詞なら、もっと上手く言う」
「上手く言うほうがいいんじゃない?」
「違う気がする」
「何が違うの」
俺はフェーダーから手を離した。
「言葉をきれいにすることより、言ったあとに黙らないことのほうが大事なんじゃないか」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。けれど、口に出した言葉は、舞台の上へ落ちた。真琴はその先を急かさず、目を逸らさずに待っている。
「真琴はいつも、言ったあとに笑うから。笑って、今のなしってできるようにする。でも、本当に伝えたいなら、言ったあとの自分もそのままにしておかないと、相手には届かないと思う」
「……夕貴は、できるの?」
問い返されて、息が詰まった。
真琴は続けた。
「自分の言葉を、言ったあともそのままにしておける? 誰かに頼まれたことならできるよね。最後までやるし、相手が困らないようにする。でも、自分が何を思ってるか聞かれたら、すぐ機材の話とか、明日の段取りとかに戻るじゃん」
「それは」
「それは?」
言葉が続かなかった。
真琴の声は責めているようでいて、責めてはいなかった。むしろ、俺がいつも見ないようにしている場所へ、明かりを向けているようだった。
「夕貴も、言ったほうがいいことがあるんじゃないの」
体育館の空気が、わずかに変わった。
遠くの校庭から、模擬店の看板を打ちつける音が聞こえた。誰かの笑い声。明日のために残っている人たちの足音。世界は体育館の外で、明日の形を急いで作っている。
俺は舞台の白い光を見た。
その中心にいる真琴の横顔は、さっきよりも近く感じられた。近づいていないのに、呼吸の温度が分かる気がする。
「……分からない」
ようやく出た声は、自分で思っていたより低かった。
真琴は笑わなかった。
「うん」
「分からないけど、考える」
「それ、夕貴にしてはすごい返事」
「そうか」
「うん。いつもなら、分からないまま手伝うって言うから」
「今日は、真琴が頼んだ」
「じゃあ、これも頼んでいい?」
俺は顔を上げた。
真琴は光の中で、まっすぐ俺を見ていた。けれど、その目の奥にはまだ怯えが残っている。怖くないわけではない。それでも、目を逸らさないことを選んでいる。
「明日、私が紬に言うところを見てて」
「見てるだけでいいのか」
「うん。今度は、逃げそうになったら逃げないように。笑ってごまかしそうになったら、止めて」
「それは、俺が言うのか」
「言って。夕貴の声なら、たぶん聞ける」
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
真琴はしばらく俺を見たあと、ようやく笑った。
今度の笑いは、逃げるためのものではなかった。まだ少し震えていたが、言葉を言ったあとに残った顔だった。
舞台袖から、九条先輩の声がした。
「篠宮。暗転確認、もう一度」
「はい」
真琴が光の中心から一歩下がる。
白いスポットが、彼女の肩から離れていく。袖の暗がりへ戻るにつれて、表情の細部が見えなくなった。それでも、さっきまで聞いていた声の余韻だけは消えなかった。
俺は照明卓のフェーダーへ手を置く。
真琴が、暗がりの中から言った。
「夕貴」
「何」
「さっきの、もう一回言って」
「どれ」
「言ったあとの自分も、そのままにしておけってやつ」
「必要か?」
「うん。忘れそうだから」
俺は舞台中央を見た。
「言ったあとの自分も、そのままにしておけ」
真琴はすぐには返事をしなかった。
やがて、暗がりの中で小さく息を吸う音がした。
「……分かった」
拍子木が鳴る。
乾いた音が天井へ昇り、空っぽの客席へ落ちていく。
俺は三秒を数えた。
白い光が消える。
舞台は暗くなった。真琴の姿も見えなくなった。けれど、消えたわけではない。彼女はそこに立っている。俺の言葉を聞いたまま、明日のために、もう一度自分の声を持とうとしている。
照明卓の赤いLEDが、暗い袖で静かに瞬いていた。
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