第1話 赤いLEDの列

文化祭前夜の県立桜並木高校は、昼間に詰め込まれていた音を、校舎のどこかへ置き忘れてきたみたいに静かだった。

廊下には提灯の予備が積まれ、窓枠には養生テープが何重にも貼られている。教室の前を通るたび、段ボールの角が膝に触れた。昼のあいだは誰かの声や笑い声に紛れていたそういうものが、夜になると妙に存在を主張してくる。白いテープ、茶色い紙、剥がれかけたポスター。明日のために急いで整えられたものが、まだ整いきらないまま廊下の暗がりに浮かんでいた。

俺はその隙間を縫って、旧体育館の扉を開けた。

蝶番が、きい、と鳴る。

中に入ると、外よりも空気が重かった。昼間の熱が床板や壁に残っている。鼻の奥に、埃と古い木材、それから熱を持った電気コードの匂いが混ざって届いた。体育館の天井は高く、入口を閉めた途端、校舎の気配が一枚の壁の向こうへ遠ざかった。

舞台袖に置かれた照明卓では、赤いLEDが細く並んでいた。

消えているように見えて、消えてはいない。暗闇の中で、ひとつひとつが小さな呼吸みたいに明滅している。俺はその列を見てから、卓の前の折り畳み椅子に腰を下ろした。座面がわずかに軋み、音が舞台の奥へ吸い込まれていく。

手元の配光図を開く。紙の端は何度も折り直したせいで柔らかくなっていた。舞台中央、上手、下手。スポットの番号と角度。暗転から次の転換へ移る秒数。細い鉛筆の線が、明日の舞台をまだ存在しない形で支えている。

俺はフェーダーを一つ上げた。

天井のトラスに吊られたライトが、遅れて白く灯る。光は舞台の中央へ落ちた。使い古された床板の上で埃が舞い、空気の流れに押されてゆっくり沈んでいく。脚立の影が長く伸び、緞帳の裏側に濃い境目を作った。

「三度、右」

誰もいない舞台に向かって呟き、手元のメモ帳に書き込む。

スポットの角度をほんの少し変える。照らされる場所が数センチずれ、舞台中央に置かれた椅子の背もたれが白く浮かび上がった。さっきまで見えていなかった傷が、光の下ではっきりする。塗装の剥がれ、木の継ぎ目、床に残った黒い靴跡。

照明は、隠すためのものではない。少なくとも俺は、そう思っている。

光を当てれば、見えるものが増える。けれど、光の外側にある暗がりも同時に濃くなる。舞台の中央を調整しているときでさえ、俺の目はその周囲へ向かってしまう。緞帳の裏、袖の端、客席の最後列。誰かが立っていたなら、きっとそこに残る気配まで探してしまう。

遠くで、運動部の掛け声が聞こえた。

「ラスト一本!」

体育館の壁が声を受け止め、少し遅れて返した。旧体育館にいると、校内の音はみな遠くなる。近くにあるのは、金具を締める音と、コードを引き直すときの擦れた音だけだった。

俺は舞台袖へ出て、延長ケーブルを持ち上げた。黒いゴムの表面には細かな埃が付着している。コードリールの側面に手を添えると、金属の熱が手の甲へ移った。誰かが昼間に巻き取ったばかりなのだろう。熱はまだ、機材の内側に残っていた。

ケーブルを一度ほどき、足元に輪ができないように引き直す。

こういう作業をしているときだけ、呼吸の位置が分かる。コードは絡まれば直せる。ライトの角度は測り直せる。機材の異音なら、耳を澄ませば原因が見つかる。人の気持ちよりは、ずっと扱いやすい。

「篠宮」

舞台袖の暗がりから声がした。

振り返ると、九条美里先輩が立っていた。三年生の舞台監督で、いつも進行表を片手に歩いている。髪を後ろでまとめ、作業用の黒い服を着ているせいか、明るい場所にいても輪郭が静かだった。

先輩は俺の顔ではなく、まず脚立を見た。

「それ、少し下げて」

短い指示だった。

俺が脚立へ近づくと、先輩はその足元に貼られた養生テープの端を見ていた。テープは床板から半分浮き、誰かが急いで貼ったらしく、端がめくれている。俺は脚立を持ち上げ、舞台袖の壁際へ寄せた。先輩は何も言わず、その位置から客席までの動線を確かめた。

「ここなら、転換のときに人が通れる」

「はい」

「ケーブルも、あとで一度まとめ直して。今のままだと、暗転中に足を取られる」

「分かりました」

それだけ言って、先輩は進行表へ目を落とした。

俺はケーブルを見た。確かに、黒い線が舞台袖の床に斜めに走っている。明るいときなら避けられる。けれど、明日の本番で照明が落ちれば、誰かの足元から消える。

「すみません。先に気づくべきでした」

「謝らなくていい」

先輩は紙から顔を上げた。

「今、気づいたなら直せばいい。舞台は、間違えない人が作るんじゃないから」

その言葉は、叱るときのものではなかった。だから余計に残った。

「じゃあ、誰が作るんですか」

尋ねると、先輩は少しだけ考えた。返事を急がないところは、機材の調子を見ているときと似ていた。

「気づいたあとに、見なかったことにしない人」

先輩はそう言い、コードリールの脇に置かれていた布を拾った。ケーブルの表面を軽く拭きながら、舞台の中央を見る。

「明日は、役者が台詞を飛ばすかもしれない。音が遅れるかもしれない。客席で子どもが泣くかもしれない。予定通りにいかないことは、たぶん起きる」

「それは、困りますね」

「困る。でも、困ったまま立ち尽くす必要はない」

先輩はケーブルの端を俺へ差し出した。

「舞台監督は、起きたことを消せない。だから、次に誰がどこへ動けばいいかだけは、見失わないようにする」

受け取ったケーブルは、まだ温かかった。先輩の手の温度が残っているのか、機材の熱なのか分からない。

「篠宮は照明を見るとき、明るいところより暗いところを見てる」

「そうですか」

「悪いことじゃない。暗い場所に何があるか分からないと、光の位置も決められないから」

先輩はそこで言葉を切った。赤いLEDの列が、俺たちの間で小さく瞬いた。

「ただし、暗いところばかり見ていると、自分がどこに立っているか分からなくなる」

胸の奥で、何かがわずかに引っかかった。

意味を尋ねようとしたが、先輩はもう進行表を閉じていた。問いを待ってくれる顔ではあった。それでも俺は、何を聞けばいいのか分からなかった。機材のことなら、番号を言える。角度なら測れる。けれど、自分がどこに立っているのかと聞かれても、答えは出てこない。

先輩はそれ以上、踏み込まなかった。

「五分後、暗転確認」

「はい」

「それが終わったら、今日は上がっていい」

俺は反射的に首を振りかけた。

「まだ、中央のスポットが三度ずれてます」

「三度なら、明日でも直せる」

「でも」

「明日でも直せるものを、今夜ぜんぶ直そうとしなくていい」

その言い方は穏やかだったが、先輩の目は舞台袖の隅に置かれた時計へ向いていた。針は十時を少し回っている。俺はポケットのスマートフォンを取り出した。画面には、母からの着信履歴が一件残っていた。

折り返そうと思いながら、まだしていなかった。

「家からですか」

先輩が言った。

「たぶん。夕飯のことだと思います」

「食べてないの?」

「昼に弁当を」

「それは食べたうちに入らない」

先輩の言葉に、俺は返事をしなかった。母の作った弁当箱は、鞄の底で空になっている。けれど、空になった容器を思い出しても、腹が減ったという感覚はなかった。旧体育館にいると、時間も空腹も、機材の熱の中へ溶けていく。

「九条先輩は、帰らないんですか」

「帰る。帰るために終わらせてる」

先輩は進行表を脇に挟み、舞台中央へ歩き出した。

「篠宮も、終わらせるために確認して。残るためじゃなくて」

その背中を見ていると、先輩が言ったことの一部だけが妙に耳に残った。

残るためじゃなくて。

俺は照明卓へ戻った。赤いLEDの列が、暗い袖の中で規則正しく光っている。フェーダーに指を置き、明日の進行を頭の中でなぞる。開演。暗転。スポット。転換。幕間。終演。

決められた順番に沿って手を動かせば、舞台は進む。

けれど、舞台の外では、何を終わらせれば帰れるのか分からないことがある。誰かに頼まれれば手を貸す。足元に危険があれば直す。言いかけた言葉があっても、相手が続けるまで待つ。そうしているうちに、自分が何を言おうとしていたのか忘れる。

俺は水筒の蓋を開け、少しだけ水を飲んだ。冷たさが喉を通り、そこで止まったように感じた。

体育館の入口の向こうで、誰かが走る音がした。近づいて、通り過ぎて、やがて消える。校庭のほうからは、模擬店の看板を打ちつける音と、短い笑い声が流れてきた。明日のために残っている人間は、まだ校内のどこかにいるらしい。

ここだけが取り残されているわけではない。

それでも、舞台袖の暗がりにいると、明日という時間が少し遠く見えた。

九条先輩が舞台中央から声をかける。

「篠宮、いける?」

「はい」

「暗転から三秒。合図を聞いたら落として」

俺は照明卓のスイッチへ手を置いた。

舞台の中央に白い光が広がる。空っぽの客席が照らされ、古い床板の傷が一つずつ浮かび上がった。俺は先輩の視線を待つ。先輩が小さく顎を引いた。

拍子木が鳴る。

乾いた音が、天井へ昇っていく。

一秒。

二秒。

三秒。

俺はフェーダーを下げた。

白い光が消え、舞台は暗くなった。さっきまでそこにあったものが、見えなくなる。けれど消えたわけではない。椅子も、床の傷も、緞帳の折り目も、暗闇の中にそのまま残っている。

赤いLEDだけが、俺の手元で静かに光っていた。

その列を見つめながら、俺はようやく母へ返信を打った。

「もう少しで帰る」

送信したあと、画面に残った自分の言葉をしばらく見ていた。正確ではない。もう少しが何分なのか、俺にも分からない。それでも、帰るという言葉を先に置いたことで、体育館の外に細い道ができた気がした。

舞台袖の暗がりで、コードリールの金属が冷え始めている。

俺はメモ帳を開き、スポットの角度を一度だけ書き直した。三度右。暗転三秒。ケーブル、壁際へ。

その下に、何も考えず、ひとつだけ言葉を付け足した。

帰る。

書いた文字は、赤いLEDの光では読みにくかった。俺はペンライトを点け、紙の上へ白い円を落とす。光の中心だけが明るくなり、その外側は一段深い暗がりになった。

← 横にスクロールして読み進められます

赤いLEDの列 - 暗転前夜 - 誰でも作家life