第7話 抜き取り帳の頁

月舟堂の閉店後は、昼間よりも棚が近くなる。

客がいなくなり、表通りの音も戸の向こうへ遠ざかると、本の背表紙が互いに寄り添っているように見える。帳場灯の黄色い明かりは店の中央まで届かず、奥の棚には薄い影が溜まっていた。雨は上がっていたが、古い木棚はまだ湿気を含み、指で触れると冷たかった。

私は帳場の前に座り、街の記録係から借りてきた薄い帳面を開いていた。

表紙には何も書かれていない。背の糸だけが新しく、綴じ直された跡がある。最初の頁には倉庫街の簡単な見取り図、その次には荷物の記録、さらに先には未送達郵便の番号が並んでいた。紙質も、筆跡も、書かれた時期もばらばらだった。

ひとつの帳面に見えて、実際には複数の記録を綴じ合わせたものだった。

白石は私の向かいで、抜き取られた頁の断面を調べていた。

帳面の中央付近だけが、焼け跡のように空いている。だが、紙は黒くなっていない。切り口は揃っていて、破れた繊維がほとんどなかった。白石は祖父から譲られた拡大鏡を片手に、紙の断面へ灯りを近づけている。

「燃えたんじゃない」

彼女は言った。

「焼け跡に見える」

「見えるようにしただけ。紙の端に煤を擦りつけて、火事か何かで失われたように見せた。でも、熱で縮んだ跡がない。糊も浮いていない」

「切り取ったのか」

「ええ。細い刃物で、綴じ糸を避けながら」

白石は頁を一枚ずつめくった。空白の両側に残った紙の端は、ほとんど同じ幅で揃っている。

「急いで破った人間なら、ここまできれいには切らない。抜いた人間は、抜く頁を知っていた。帳面を読む順番まで知っていたのよ」

「どの頁が抜かれたか、わかるか」

「完全にはわからない。ただ、前後の記録から見れば、失踪当夜の前後三日分。それから、倉庫街の搬入記録がいくつか」

白石は帳面を閉じ、指先で表紙を撫でた。

「焼けたように見せたのは、見つけた人間に諦めさせるためでしょうね。残っているものだけ読めばいい、と。失われた頁を探すより、今ある記録を信じたほうが楽だから」

「楽なほうへ誘導した」

「記録を消す人間は、いつもそうする。全部を消す必要はないの。残った部分が自然に見えれば、それで十分」

私は手帳を開いた。

久瀬の字が、細い線の列になっている。倉庫街の区画番号、車両の進入時刻、搬入口の位置。名前の代わりに丸をつけられた人物。何度も引き直された線。高瀬の名の横に残る、短い書き込み。

――まだ渡さない。

さらに、最終頁の一文。

ここで終わりにしろ。棚に戻せ。

高瀬は、最後の一文を久瀬の字ではないと言った。記録係の老女も同じことを言った。白石はインクの沈み方が浅いと見ている。

私はその頁を、帳面の空白の隣へ置いた。

「並べてみる」

「何を」

「抜かれた頁の前後と、久瀬の手帳を」

白石は黙って、帳面を開き直した。

抜けた頁の直前には、倉庫街へ運び込まれた資材の記録がある。送り主は、再開発組合が当時使っていた資材会社だった。受取先は北側三番倉庫。搬入時刻は、午後十一時二十分。

警察資料に残る搬入時刻は、十一時四十分だった。

二十分の差がある。

私は高瀬から受け取ったコピーを横に置いた。失踪当夜、警察が現場へ到着した時刻は十一時五十五分。だが、そのコピーの端には高瀬の字で、二十三時四十分と書かれている。

北側三番倉庫、内側より開扉。

街の帳面では、十一時二十分に搬入。二十分後、帳面から頁が抜かれた範囲に入る。久瀬の手帳には、十一時四十分の搬入と、十一時五十五分の内側からの開扉が記されている。

数字が、三つの紙の上でずれていた。

私はそれぞれの時刻を鉛筆で書き出した。

十一時二十分。

十一時四十分。

十一時五十五分。

「単純な書き間違いではない」

「同じ時刻を、別々にずらしている」

白石が言った。

「街の帳面では、荷物が早く入っている。警察資料では遅い。久瀬の手帳は、その両方を見ていた」

「では、どれが正しいの」

「時刻だけなら、まだ決められない。記録が正しいかどうかは、数字の形だけではなく、その数字が何を隠しているかで見るものだから」

「何を隠している?」

「人の動き」

白石は倉庫街の古い区画図を開いた。北側三番倉庫の搬入口、裏手の細い通路、隣接する空き地。久瀬の手帳に引かれた線を、街の帳面の余白に残る線と重ねていく。

線は、搬入口から始まり、倉庫の裏手へ伸びていた。

「久瀬は荷物を追っていなかった」

「人を追っていた?」

「人が動いた順番を追っていたの」

白石は地図の上に、鉛筆の先を置いた。

「十一時二十分に荷物が入った。十一時四十分に、警察資料上の搬入が記録される。十一時五十五分に、内側から扉が開いた。問題は、荷物が二度入ったのか、誰かが荷物の時間を二重に作ったのか」

「荷物の時間を二重に作る?」

「同じ車両を別の時刻に記録すれば、その間に人を動かせる。車両が来た時刻を証人に見せておけば、誰かが倉庫へ入っても、荷物の搬入として処理できる」

「人間を荷物に紛れ込ませた」

「あるいは、荷物が人間を隠した」

白石はそう言ってから、言葉を止めた。

店の奥で、天井から水が一滴落ちた。木の床に小さな音がして、そこだけ時間が止まったように聞こえた。

「五年前の倉庫街で、事故があった」

私は言った。

「警察は、何の事故だと説明した」

「資材の落下。作業員が一人、倉庫内で負傷した。だが、その作業員の名前は記録にない」

「人がいたのに、名前がない」

「久瀬の手帳には丸印がある」

「名前を書けなかったのかもしれない」

「書かなかったのかもしれない」

私は手帳の丸印を見た。

以前は、ただの不審人物を示す印だと思っていた。だが、街の帳面にも同じ印がある。名前を消されたあとに、誰かが名前の代わりとして残した印。人間の存在だけを記録するための、頼りない輪郭。

「記録は、人を消すために使われた」

私は言った。

「名前を消し、時刻をずらし、事故だけを残す。そうすれば、倉庫の中にいた人間は、最初からいなかったことになる」

「事故と失踪を別々に処理できる」

白石が続けた。

「事故は倉庫で起きた。久瀬さんは、その事故を調べていた途中で消えた。二つの出来事を別の事件に見せれば、どちらも単独では追いにくくなる」

「だが、本当は同じ夜の、同じ記録から始まっている」

「そうでしょうね」

白石は帳面の表紙裏へ指を入れた。

紙が一枚、隠れている。

私は息を詰めた。白石は定規を差し込み、糊で固まった部分を少しずつ浮かせていく。無理に引けば紙が裂ける。彼女は焦らず、紙の繊維が動く方向へ刃先を滑らせた。

「何かあるのか」

「まだ、紙だけ」

「紙の下に何がある」

「それを知るために剥がしているの」

しばらくして、表紙の内側から薄い紙片が現れた。

折り畳まれた紙だった。

開くと、古い鉛筆で街区の簡単な地図が描かれている。月舟堂、記録係の家、倉庫街、久瀬理沙の家。四つの場所が細い線で結ばれ、その横に数字が並んでいた。

四・一・二。

そして、その下に小さく書かれた文字。

――先に戻す。

私はその字を見つめた。

「久瀬の字だ」

「本当に?」

「書く前にペン先を止める癖がある。線の始まりに溜まりができる」

「でも、最後の頁とは違う」

「違う。こちらは久瀬の字だ」

白石は紙片を帳場灯の下へ持ち上げた。

「この紙は古い。手帳へ後から入れられたものではない。帳面の表紙裏にずっと貼りついていた」

「つまり、久瀬はこの帳面を知っていた」

「それだけではない。自分が戻れなくなったときのために、記録を戻す順番を残していた」

私は地図の線を追った。

倉庫街から記録係の家へ。そこから月舟堂へ。最後に、理沙の家へ向かっているように見える。だが、数字は四・一・二で、地図上の順番とは一致しない。

「四、一、二。三がない」

「三番目は書かなかった」

「書けなかった?」

「書かないと決めたのかもしれない」

白石は地図を裏返した。

裏には、何もない。

「三番目が、最後まで誰にも渡さない記録」

「理沙さんへ渡さなかった封筒か」

「あるいは、久瀬さん自身の行方」

私は手帳を閉じた。

喉の奥に、乾いた痛みがあった。久瀬がどこにいるのかを知りたい。生きているのか、死んでいるのか。誰かに消されたのか、自分で消えたのか。その答えを、私はずっと欲しがっていた。

だが、帳面の空白は、答えを遠ざけるためではなく、答えを誰に渡すか選ぶために残されていた。

「久瀬は、あの事故を隠した側へ、記録を返そうとしていた」

私は言った。

「復讐のために?」

「それだけではない。記録を戻せば、消された人間の存在も戻る。事故として処理されたものが、誰かの手で作られた筋書きだったとわかる」

「わかれば、誰かが責任を取る」

「塚原が」

「塚原さんだけではないでしょう」

白石は紙片を机へ戻した。

「記録を消した人間だけでなく、見ないふりをした人間もいる。高瀬さんも、あなたも、私も」

「あなたまで入れるな」

「入れるわ。帳簿を隠した。置いていかれた記録を、誰かを守るために見なかったことにした。そういう人間が、記録を戻すときだけ自分を外へ置くことはできない」

「それでも、塚原は知っていた」

「知っていたことと、やったことは違う」

「知っていて止めなかったなら、同じだ」

「同じではない。でも、無関係でもない」

白石は紙片の端を揃えた。

「人は、何かをしたか、しなかったかだけで分けられない。やらなかったことで誰かを守ることもある。やらなかったことで、別の誰かを消すこともある」

その言葉は、理沙の家で聞いた声と重なった。

守るために何も言わない人間は、守られる側を一人にする。

私は白石へ視線を戻した。

「この紙片を、なぜ今まで見せなかった」

「見つけたばかりだから」

「嘘だ」

白石は顔を上げた。

「あなたは、帳面を最初から知っていた」

「知っていたのは、帳面の存在だけ。表紙裏に何があるかは、さっき初めて見た」

「では、なぜ開き方を知っている」

「古い帳面には、表紙の裏へ紙を隠す人がいる。帳場で何度も見てきた」

「久瀬がここへ置いた可能性は?」

「ある」

「あなたは、久瀬から直接何かを預かったことがあるのか」

白石は答えなかった。

店内を車が通り過ぎる音が横切った。雨を含んだタイヤの音が、窓の向こうで長く引き伸ばされる。

「あるなら、言ってくれ」

「佐伯さん」

「理沙さんは、兄が何を守ったのかを知りたいと言っている。高瀬さんは、自分の沈黙を証言に変えるか迷っている。街の記録係は、封筒を渡さないことで誰かを守っているつもりだ。みんな、自分だけが決める側にいる。けれど、その決定の結果を背負うのは、残された人間だ」

自分でも、言葉が荒くなっているのがわかった。

「あなたも、久瀬から何かを預かったなら、もう知らないふりはできない」

白石は紙片を見たまま、静かに言った。

「預かったのは、物ではない」

「何を」

「言葉」

「言葉だけ?」

「言葉は、物より始末が悪い。紙なら破れる。燃やせる。どこかへ隠せる。でも、聞いた言葉は、自分の中に残る。残ったものを、なかったことにはできない」

白石は目を伏せた。

「五年前、久瀬さんが店へ来た。まだ警察を辞める前だった。雨の日で、濡れた手帳を持っていた。彼は帳場の前に立って、古い地図帳を一冊だけ買った。代金を払ったあと、帰らずに言ったの」

「何を」

「『誰かが戻してきたものを、すぐに元の棚から動かさないでください』」

私は息を詰めた。

「そのときから、久瀬は手帳を戻すつもりだった?」

「わからない。あの人は、戻すという言葉を、場所にも記録にも使っていたから」

「あなたは、何と答えた」

「『戻す場所が違っていたら?』と聞いた」

「久瀬は?」

「『そのときは、間違えた人間がわかるように、隣へ置いてください』と言った」

白石は最後の頁へ目を向けた。

「だから、私は手帳を棚から動かさなかった。あなたが持ち出すときも、戻す場所を記録させた。久瀬さんが誰かに託したものなら、受け取った人間もまた、置き場所を選ばなければならない」

「それは、久瀬の命令か」

「違う。私が勝手に引き受けた」

私は紙片を手に取った。

四・一・二。

先に戻す。

抜き取られた頁の空白。ずらされた時刻。名前の代わりに残された丸印。久瀬は、自分がいなくなったあとでも、記録が一つの場所に閉じ込められないようにしていた。

それは捜査のためだけではない。

誰かが一冊を奪っても、別の場所に残った記録が、欠けた部分を呼び戻すように。

「この帳面を戻す順番がある」

「ええ」

「まず、街の記録係の家へ戻す」

「違う」

「では月舟堂へ?」

「それも違う」

白石は私の手から紙片を取り、数字の横へ指を置いた。

「順番は場所ではなく、記録の種類。四は現場。ひとつ目は倉庫街。次の一は、警察資料。二つ目は、街の帳面。そして最後に、理沙さんへ渡すもの」

「三がない」

「三は、人の選択よ」

「記録ではない?」

「記録にできないものもある」

白石は帳面を閉じた。

「久瀬さんが自分から姿を消したのか、消される前に逃げたのか。それを決めるのは、残った紙だけではない。彼が誰を守ろうとしたのか、その結果、誰が傷ついたのかを見なければならない」

私は高瀬のコピーを取り出した。

二十三時四十分。

内側より開扉。

この記録が正しいなら、久瀬は警察が到着する前から倉庫の内側にいた。だが、手帳には、その後の行動がない。街の帳面にも、抜き取られた頁の先はない。

久瀬の行方は、空白の向こうに置かれている。

私は帳面を鞄へしまった。

「これを返しに行く」

「どこへ」

「理沙さんのところへ」

「封筒は持っていかないのね」

「まだ、渡せない」

「あなたが判断していいの?」

「判断しない。今は、渡さないという記録を残す」

白石は私を見た。

わずかに目を細めたが、止めなかった。

私は仕入れ帳を開き、今日の日付と時刻を書いた。持ち出したもの――無題帳簿、一冊。久瀬慎一の手帳、一冊。高瀬宗一の記録、複写一枚。

最後に、少し迷ってから書き足した。

抜き取り帳の頁、欠落あり。

ペン先を紙から離したあと、私はその下にもう一行を書いた。

欠落は、消失ではない。

白石が黙って見ている。

「それは、久瀬さんの言葉?」

「違う。私の言葉だ」

「残すのね」

「消したくない」

店の外で、雨がまた降り始めた。窓ガラスに細い水筋が走り、街灯の光を歪めていく。私は帳簿を鞄へ入れ、手帳の角と揃えた。

閉店後の月舟堂には、まだ誰もいない。

それでも棚の奥には、誰かが置いたものと、誰かが抜き取ったものの気配が残っていた。空白は何も語らない。ただ、そこへ何を戻すべきかを、黙ったまま待っている。

私は戸を開けた。

雨の匂いが店内へ流れ込み、紙の乾いた匂いと混ざった。

今度は、記録を一冊だけ持って歩くのではない。

欠けた頁の周囲に残った、複数の時間を抱えて歩く。

それが誰かを救うのか、さらに傷つけるのかは、まだわからない。

けれど、抜き取られた頁を、最初から存在しなかったことにはしない。

雨の中へ出ると、鞄の中で紙と紙が触れ合った。

遠くで、誰かが頁をめくったような音がした。

← 横にスクロールして読み進められます

抜き取り帳の頁 - 棚の空白 - 誰でも作家life