第6話 高瀬宗一の躊躇

高瀬宗一と会う約束をしたのは、街の記録係の家を出た翌日の夕方だった。

指定された喫茶店は、雨雲書房街区の南端にある。看板の文字は半分剥がれ、窓ガラスの内側には、いつから貼られているのかわからない映画のポスターが色褪せていた。店の前を通る車は少なく、濡れた路面をタイヤが擦る音だけが、建物の壁に沿ってゆっくり遠ざかっていく。

私は入口で一度立ち止まった。

高瀬に会うのは、手帳を見つけてから初めてだった。五年前、久瀬がいなくなった直後にも何度か顔を合わせたが、あの頃の高瀬は、何を訊いても「確認中です」「手続きが済んでいません」と、書類の表面を撫でるような言葉しか返さなかった。

その言葉を信じたわけではない。ただ、それ以上追及しなかった。

店内は夕方の光が薄く残っていた。照明は壁際の一つしか点いておらず、奥の席に座る高瀬の肩だけが、黄色く縁取られている。彼は新聞を広げていたが、読んでいる様子はなかった。同じ頁を開いたまま、紙の端を何度も折り直している。

私は向かいに座った。

「お待たせしました」

「いえ。私が早く来ただけです」

高瀬は新聞を二つ折りにした。折り目はすでに何本もついているのに、さらに角を合わせようとする。指先が紙の上を滑り、わずかに震えた。

「手帳を見せてもらえますか」

「その前に、訊きたいことがあります」

「どうぞ」

「久瀬の手帳に、あなたの名前がありました。『高瀬にはまだ渡さない』と書かれている」

高瀬はすぐには答えなかった。店の奥で、砂糖壺の蓋が触れ合った。誰かがコーヒーへ砂糖を入れたらしい。甘い匂いが一瞬だけ流れてきて、すぐに冷めた茶の匂いへ戻った。

「久瀬らしい書き方です」

「内容について訊いています」

「名前を書かれた理由は、いくつか考えられます。あなたは、その中から一つを選んで私に確認したいのでしょう」

「私は選ぶために来たんじゃない。記録と証言を合わせるために来た」

「記録は、証言より正確ですか」

「少なくとも、証言より後から形を変えにくい」

「書き換えられた記録は?」

高瀬は私を見なかった。机の上の湯呑みを、自分の手元へ少しだけ引き寄せる。

「それは、証言より始末が悪い。書いた人間がいなくても、紙だけは残る。残った紙が、最初からそうだったような顔をする」

「五年前の捜査資料は、書き換えられた」

高瀬の指が止まった。

「断定は避けたほうがよいでしょう」

「街の帳簿には、警察資料と違う時刻が残っていた。倉庫街へ入った荷物の位置も違う。現場記録には抜き取られた頁がある。偶然が三つ続けば、私は故意を疑う」

「疑うのは自由です。ただ、疑いを他人の生活へ持ち込むなら、それなりの重さを覚悟してもらわなければならない」

「それは塚原にも言われた」

「塚原さんが?」

「倉庫街で会った。久瀬が残したものを、すべて真実だと思うなと」

高瀬は湯呑みを持ち上げた。茶はもう冷めているらしく、口をつける前に一度だけ中を覗いた。

「塚原さんは、昔から言葉の並べ方がうまい人でした。相手が反論する前に、反論したあとの不利益を見せる。そうすると、相手は自分で口を閉じたような気になる」

「あなたも、同じことをしている」

「そう見えるでしょうね」

「実際に、いまもしている」

「では、ひとつだけ、はっきり申し上げます」

高瀬はようやく私を見た。

「五年前の夜、私は現場へすぐには向かいませんでした」

店内の音が、遠くへ退いた。

「出動要請は?」

「受けていました」

「なのに、遅れた」

「正確には、向かうのを遅らせた」

「誰の指示ですか」

「指示という言葉を使うと、命令した人間がいるように聞こえる。あの頃の組織では、命令されなくてもわかることがありました。何を優先し、何を後回しにすべきか。誰の名前を報告書に書かないか。誰の判断として処理するか。そういうものは、口頭で伝えられるより、周囲の沈黙で伝わる」

「つまり、上から圧力があった」

「圧力は、机の上に置かれるものではありません。置かれた書類の順番や、呼ばれた人間の名前や、会議の終わり方に混じる。気づかないふりをするには、十分に薄い。けれど、気づいた人間には、はっきり重い」

「誰が事故処理にしろと言った」

「事故として扱うのが妥当だ、と言われました」

「誰に」

「それを言った人物の名前は、記録から消えています」

「あなたが消したのか」

高瀬は湯呑みを置いた。底が机に触れ、乾いた音を立てた。

「私が消した部分もあります」

その答えは、予想より静かだった。

「なぜ」

「書けば、久瀬が追っていた相手が先に逃げると思ったからです」

「相手を知っていたのか」

「知っていた、という言い方は正確ではない。名前が確定していなかった。ただ、倉庫街の取引に関わっていた人間と、警察の内部で資料を動かせる人間が、同じ方向を見ていることはわかっていた」

「塚原も、その中にいた?」

高瀬は視線を机へ戻した。新聞の端を揃え、今度は一度もずらさなかった。

「塚原さんは、当時から再開発の調整役でした。警察の人間ではない。ですが、警察がどの情報を必要とし、どの情報を必要としないかを、よく理解していた」

「それは、関係していたという意味ですか」

「あなたは、答えを二つに分けたがる」

「事実を訊いている」

「事実は、いつも二つに分けられるほど整っていない。塚原さんは、倉庫街の荷の流れを知っていた。警察の上の人間と話ができた。久瀬が記録の欠落に気づいていることも、おそらく知っていた。ですが、久瀬を消したとまでは言えません」

「消したのではなく、消えるようにした?」

高瀬の眉が、ごくわずかに動いた。

「その言葉を、どこで聞きました」

「聞いたんじゃない。記録を並べると、そう見える」

「久瀬は、失踪する前から、自分がいなくなった場合の準備をしていました」

胸の奥で、何かが冷えた。

「自分から消えるつもりだったということか」

「そうとは限りません。追われている人間は、逃げる準備をする。逃げる準備をした人間が、必ず自分から逃げたとは限らない」

「では、なぜ止めなかった」

「止めようとしました」

「どうやって」

「呼び出して、話をしました。あの日の夕方です」

高瀬はポケットへ手を入れた。煙草を探す仕草に似ていたが、取り出したのは短く削られた鉛筆だった。彼はそれを机の上へ置き、芯の先を指で確かめた。

「久瀬は、手帳を開いていました。頁には倉庫街の見取り図と、いくつかの名前があった。私は、いったん捜査から外れろと言った。正式な命令ではない。休め、と。資料を私に預けろ、と」

「久瀬は従わなかった」

「従うような人間なら、五年前の時点で、あれほど多くの記録を別々の場所へ残してはいません」

「何と言った」

高瀬は鉛筆を横へ置き、角度を直した。

「『記録を渡す順番を間違えると、人間が先に消える』と」

私は息を止めた。

久瀬が書いた線。街の帳面に分けられた痕跡。理沙へ渡されなかった封筒。すべてが、同じ考えの上に置かれている。

「それで、あなたは何をした」

「久瀬の資料を預かると言いました」

「受け取ったのか」

「一部だけ」

「一部?」

「久瀬は、資料を三つに分けていました。警察へ渡すもの。街に残すもの。最後まで誰にも渡さないもの」

高瀬の声が、少しだけ掠れた。

「私は、最初の束だけを受け取りました。警察へ出すべきものだと思った。ですが、その束は翌朝には別の書類に差し替えられていた」

「誰が差し替えた」

「保管担当の人間です」

「名前は」

「退職しています」

「死んだのか」

「生きています。けれど、もうこの街にはいない」

「あなたは、名前を知っている」

「知っています」

「なら、なぜ言わない」

高瀬は目を閉じた。まぶたの上に、夕方の光が薄く載っている。

「名前を出せば、その人間は逃げられないでしょう。けれど、その人間だけが判断したわけではない。上から渡された書類を、決められた場所へ戻しただけかもしれない。責任を一人に集めれば、仕組みは残る。私はそれを、何度も見てきました」

「それでも、名前は記録されるべきだ」

「あなたは、正しい」

「正しいと言われても、何も進まない」

「正しさだけで進めば、誰かを踏みつけます。私はそれを知っているから、あなたを止めている」

「止めているんじゃない。あなたは、まだ自分が沈黙する理由を選んでいるだけだ」

高瀬の指先が、鉛筆の先へ触れた。

「その通りです」

返事があまりに早く、私は言葉を失った。

「私は、久瀬を守ったつもりでした。資料を分けさせ、理沙さんの家へ行く人間を抑え、久瀬の名前が組織の中で不用意に使われないようにした。久瀬が生きている可能性を、最後まで捨てなかった」

「だから、失踪として処理した」

「事故にも、逃亡にも、断定しなかった。断定すれば捜索の範囲が狭まる。けれど、断定を避けた結果、誰も本気で探さなくなった」

高瀬は新聞を折り直した。今度は折り目が少しずれた。

「私は、久瀬を消した人間を逃がさないために、久瀬の不在を曖昧にした。その曖昧さが、久瀬自身を消すことになった」

私は鞄から手帳を出した。机の上へ置くと、高瀬の視線が初めて正面から表紙へ落ちた。

「最後の頁を見てください」

高瀬は手を伸ばさなかった。

「その一文は、私が見るべきものではありません」

「久瀬は、あなたへ渡すなと書いた」

「だからです」

「あなたが何かを知っているから?」

「私が知っているからではない。私が知っていると思われているからです」

「意味がわからない」

「久瀬は、記録を渡す相手を選んでいました。私へ渡せば、組織の中で処理される。理沙さんへ渡せば、理沙さんの生活が壊れる。あなたへ渡せば、あなたは自分の正しさを証明するために、誰かの沈黙を破る。だから、直接は渡さなかった」

「月舟堂の棚へ戻した」

高瀬は手帳から目を上げた。

「久瀬が戻したと、あなたは考えているのですね」

「違うのか」

「わかりません」

「あなたは何でもわからないと言う」

「わからないことを、わかったふりで埋めるよりはましです」

「それで、久瀬はどこにいる」

高瀬の顔から、わずかに血の気が引いた。

「私は、そこまでは知りません」

「最後に見たのはあなたでしょう」

「最後に見たのは、私だけではありません」

「誰がいた」

「久瀬と、私と、塚原さんです」

喫茶店の壁時計が、時刻を一つ進めた。

「三人で何をしていた」

「話し合いです」

「久瀬を説得した?」

「塚原さんは、説得という言葉を使いました。私は、確認だと思っていました。久瀬がどこまで記録を持っているのか。誰へ渡したのか。これから何をするのか。そういうことを確認する場でした」

「それは尋問だ」

「否定できません」

「塚原は、久瀬を脅したのか」

「露骨な言葉は使いませんでした。街の未来、理沙さんの生活、捜査の継続。そういう言葉を並べて、久瀬が何を選ぶかを見ていた」

「久瀬は何を選んだ」

高瀬は答えず、茶を一口飲んだ。冷めた茶が喉を通る音まで聞こえそうだった。

「久瀬は、手帳を閉じました。それから、私にこう言いました」

高瀬は一度だけ息を吸った。

「『高瀬宗一。あなたは、記録を守るために人を消すのか。それとも、人を守るために記録を消すのか。どちらにしても、消した事実は残る』と」

私は手帳の表紙へ指を置いた。

「あなたは何と答えた」

「答えられませんでした」

「そのあと、久瀬は?」

「席を立ちました。塚原さんが止めようとした。私は止めなかった」

「なぜ」

「止めれば、その場で久瀬を組織へ戻すことになると思ったからです。戻せば、記録も、久瀬自身も、完全に消える」

「だから逃がした?」

「逃がしたのか、見送ったのか、今もわかりません」

「あなたは、久瀬が自分から姿を隠したと思っている」

「そうであってほしいと思っています」

高瀬の声は、初めて老いた人間のものに聞こえた。

「そうでなければ、私は久瀬を見殺しにしたことになる」

私は返す言葉を探した。だが、机の上の鉛筆と新聞と湯呑みだけが、過去の言葉を置き去りにしていた。

「手帳の最後の頁を、あなたは書いていない」

「書いていません」

「久瀬でもない?」

「字を見れば、あなたにもわかるでしょう」

「久瀬の字に見える。ただ、筆圧が違う」

「最後の一文は、久瀬が書いたものではない」

高瀬は手帳へ手を伸ばした。指先が表紙に触れる前に、一度止まる。

「では、誰が」

「それは、まだ言えません」

私は笑いそうになった。笑える話ではない。

「あなたも、白石も、街の記録係も、みんな同じ言葉を使う。言えない。わからない。まだ早い。そうやって五年が過ぎた」

「五年を過ぎさせたのは、私たちだけではありません」

「私も加担したと言いたいのか」

「言いたいのではなく、あなた自身が知っているはずです」

高瀬は手帳を開かなかった。表紙の上に手を置いたまま、薄く息を吐いた。

「久瀬は、あなたを責めていませんでした」

「慰めはいらない」

「慰めではありません。記録に残っていた言葉です」

高瀬はポケットから、古びた茶封筒を取り出した。封は開いている。中から、折り目のついた紙を一枚出した。

「これは、失踪当夜の資料のコピーです。正式な記録ではありません。私が残したものです」

紙面には、倉庫街の到着時刻が書かれていた。警察資料では二十三時五十五分。だが、その横に高瀬の手書きで、二十三時四十分とある。さらに、赤い線で一箇所が囲まれている。

北側三番倉庫、内側より開扉。

「このコピーを、なぜ今まで出さなかった」

「出す相手がいなかった」

「私は?」

「あなたは、まだ記事を書くために記録を欲しがっていた。久瀬を探すために、ではなく」

胸の奥を、古い傷のような痛みが横切った。

「それは違う」

「違うと言い切れますか」

私は答えられなかった。

高瀬は紙を私へ渡した。

「この記録を、あなたが持つかどうかは任せます。ですが、ひとつだけ約束してください。私の証言を、久瀬の代わりに使わないこと」

「どういう意味です」

「私が話したことで、久瀬の意思を上書きしないでほしい。私は久瀬を見送った。あなたはその事実を、久瀬が望んだ結末として使うかもしれない。あるいは、私が彼を消した証拠として使うかもしれない。どちらも、私にとって都合のいい物語です」

「では、何を書けばいい」

「起きたことを書いてください。私が遅れたこと。記録を分けたこと。久瀬が立ち去ったこと。塚原さんがその場にいたこと。そこから先は、あなたが決めることではない」

「決めなければ、誰かが決める」

「ええ。だから、決めた人間の名前を残すのです。正義という言葉で包まずに」

高瀬は手帳を私へ戻した。

「最後に一つだけ」

「何です」

「久瀬は、手帳を棚へ戻せとは書いていません」

指先が止まった。

「では、何と書いた」

「私が見た頁には、別の言葉がありました」

高瀬は視線を少しだけ逸らした。

「『ここで終わりにしろ。棚に戻せ』ではなく、『ここで終わりにしろ。棚へ戻せ』だった」

「助詞が違うだけです」

「久瀬は、助詞を間違えない」

高瀬は封筒へコピーを戻した。

「誰かが、最後の一文字を書き換えたのかもしれません。あるいは、久瀬が途中で書き直したのかもしれない。紙を見ればわかるでしょう」

私は手帳の最後の頁を開いた。

ここで終わりにしろ。棚に戻せ。

白石は「に」と言った。記録係の老女は、その一文が久瀬の字ではないと言った。高瀬は「へ」だったと証言した。

同じ言葉が、ほんの一文字で置き場所を変えている。

「高瀬さん」

「はい」

「あなたは、これから証言するつもりですか」

高瀬はすぐには答えなかった。

窓の外で、雨が降り始めた。細い雨粒がガラスを叩き、店内の音を少しずつ遠ざけていく。

「証言は、誰かの生活へ入っていく行為です。話せば、取り戻せるものもある。取り戻せないものもある。黙れば、守れるものがある。守ったつもりで、消してしまうものもある」

「それは答えではない」

「ええ。まだ」

高瀬は湯呑みの位置を揃えた。今度は角がぴたりと合った。

「あなたが、どの順番で記録を並べるのかを見てからにします」

「私を試しているのか」

「試すほど若くはありません。怖がっているだけです」

その言葉は、思いのほかまっすぐだった。

「何を」

「久瀬が戻したものを、また誰かが勝手な順番で消費することを」

私はコピーをノートへ挟んだ。紙が一枚増えただけなのに、鞄の中身が急に重くなった。

立ち上がると、高瀬も遅れて腰を上げた。

「佐伯さん」

「何です」

「久瀬の手帳を、しばらく私に預ける気はありませんか」

「ありません」

「そうでしょうね」

「あなたは、まだ見せるべき記録を隠している」

「ええ」

「それでも、手帳を預けろと言う」

「だからこそです。私が持てば、あなたは私を疑い続ける。あなたが持てば、私の沈黙も記録の一部になる」

「都合のいい言い方だ」

「そうかもしれません」

高瀬は椅子を引き、元の位置へ戻した。新聞をその上へ置く。折り目のずれた紙が、夕暮れの光の下でひどく白く見えた。

「ただ、ひとつ覚えておいてください。久瀬は、誰かを裁くためだけに記録を残したのではない。裁かれる人間の中に、自分も含めていた」

「自分も?」

「守るために隠したこと。逃げるために分けたこと。理沙さんへ渡せなかったこと。久瀬は、自分が正しい側にいるとは思っていなかった」

「それなら、なぜ戻した」

高瀬は店の外へ目を向けた。

雨に濡れた歩道を、黒い靴の男が一人通り過ぎた。踵の外側が減っている。右足だけが、ほんの少し遅れていた。

私は反射的に立ち上がりかけた。

だが、窓の外を見直したときには、男の姿は角の向こうへ消えていた。

「高瀬さん」

呼びかけても、高瀬は答えなかった。

机の上には、冷めた茶と、折り直された新聞と、私が持ち帰るべきコピーだけが残っている。高瀬は湯呑みの底に沈んだ茶殻を見つめていた。

私は手帳を鞄へしまった。

店を出ると、雨が頬へ細かく当たった。喫茶店の軒下から路地へ出ると、濡れた石の上で街灯が細くほどけている。私は高瀬の言葉を、年代順には並べなかった。

現場への遅れ。

差し替えられた資料。

塚原と久瀬と高瀬。

そして、「に」と「へ」。

その順番で並べると、久瀬は自分から消えたようにも、消される前に逃げたようにも見えた。

どちらの読み方にも、同じ空白が残る。

私は歩きながら、その空白をノートへ書いた。

――高瀬は、久瀬を見送った。だが、見送る以外の選択をしなかった理由は、まだ語っていない。

書き終えたところで、ペン先が止まった。

空白の横に、もう一行を加える。

――高瀬は、最後まで言わなかった。

その文章を見つめていると、鞄の中で手帳の角が、ノートの表紙へかすかに触れた。

紙と紙が擦れる音は、誰かが遠くで頁をめくる音に似ていた。

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高瀬宗一の躊躇 - 棚の空白 - 誰でも作家life