第5話 街の記録係

白石が言った家は、雨雲書房街区の外れにあった。
倉庫街から戻った翌日の午後、私は彼女の少し後ろを歩いていた。雨は上がっていたが、軒先から落ちる雫がまだ路地の石を濡らしている。古い看板の文字は水の膜に歪み、道の端に溜まった泥には、昨夜から今朝までの靴跡が重なっていた。
白石は傘を持っていなかった。濡れた路面を避けるようには歩かず、しかし水たまりの中央だけは踏まない。店の棚で本を戻すときと同じように、足元の状態を一度見てから、置く場所を決めているようだった。
「名前は?」
私は尋ねた。
「知らない」
「知らない人の家へ行くのか」
「知っている人の家へ行くより、知らない人のほうが話しやすいこともある」
「それは相手が、こちらを知らない場合だ」
「向こうは、あなたを知っているかもしれない」
白石は振り返らなかった。
「街の人間は、記者の顔を覚える。書いた記事より、書かなかった記事を覚えていることもある」
「私が何を書かなかったかまで?」
「雨雲書房街区では、紙が回るのが早いの。新聞は遅いけれど、切り抜きは早い」
私は返す言葉を失った。
通りの角に、閉店した文具店があった。ショーウィンドウの中には、色褪せた便箋と鉛筆削りが並んでいる。ガラスの内側に、再開発説明会のチラシが貼られていた。新しい道路、新しい店舗、新しい生活。そのどの言葉も、古い文具の上に重ねて貼られている。
白石はその前で足を止めた。
「ここを覚えている?」
「文具店だろう」
「五年前は、まだ営業していた。久瀬さんは、ここで帳面を買っていた」
「本人から聞いたことはない」
「言わなかったでしょうね。久瀬さんは、使う紙を他人に見られるのを嫌がった」
「手帳の紙にもこだわっていた」
「紙より、順番にこだわっていた」
白石はショーウィンドウの奥を見た。埃をかぶった便箋の束が、箱の中でわずかに傾いている。
「帳面を買う順番。書く順番。渡す順番。隠す順番。あの人は、順番さえ守れば、最後には何かが正しい場所へ戻ると思っていたのかもしれない」
「戻らないものもある」
「ええ。だから、記録を分けた」
彼女は歩き出した。
目指す家は、通りの奥にあった。古い木造家屋で、雨戸が半分だけ閉まっている。閉めきってはいない。外を見張るには開けすぎていて、中を見せないには閉め方が足りない。玄関脇には、濡れた新聞の束と、紐で縛られた封筒が積まれていた。
白石が戸を二度叩く。
返事はなかった。
もう一度叩くと、内側で紙を動かす音がした。続いて、錠が外れる。
「白石さん」
扉の隙間から、老女が顔を出した。
髪は白く、細い。背は曲がっていたが、目だけはまっすぐだった。彼女は白石を見、それから私を見た。驚いた様子はない。訪ねてくる人間の順番を、ずっと前から知っていたような目だった。
「佐伯です」
名乗ると、老女は私の顔より先に、鞄へ視線を落とした。
「持ってきたね」
私は足を止めた。
「何をですか」
「聞き返す人は、持ってきたものをまだ自分のものだと思っている」
白石が黙っている。
私は鞄の中の手帳を意識した。濃紺の表紙。新品に近い紙。最後の頁に残った、細い文字。
「久瀬の手帳です」
老女はそれ以上訊かなかった。扉を開け、身体を横へずらす。
「入って。靴は脱がなくていい。土間の紙を踏まないなら」
土間には、新聞紙が何枚も敷かれていた。濡れた靴の跡を残さないためではない。新聞紙の上に、古い封筒や帳簿が並べられている。紙を床の湿気から守るために敷いたものだろう。
私は靴底を見た。倉庫街の砂が少し残っていた。新聞紙の端を避け、壁際へ足を置く。
「几帳面だね」
老女が言った。
「そう見えますか」
「久瀬さんに似ている」
その名が、古い家の中で別の重さを持った。
老女は私たちを奥へ案内した。廊下は狭く、両側に紙箱が積まれている。箱の蓋には、年月日と短い記号が鉛筆で書かれていた。封筒、請求書、配達票、自治会の回覧。街の生活からこぼれた紙が、捨てられずに保存されている。
部屋の中央に、小さな机があった。
その上に帳面が一冊置かれている。
老女は椅子を勧めなかった。茶も出さなかった。ただ、帳面の表紙を指先で二度撫でた。
「まず、これ」
私は帳面を開いた。
表紙の内側に、古い日付がある。五年前の秋。倉庫街で事故があったとされる日の数日前だった。
頁には、配達された荷物の記録が並んでいた。時間、荷姿、送り主、受け取り人。だが、警察資料に残っていた搬入記録とは、いくつも食い違っている。
夜十一時四十分の搬入が、こちらでは十一時二十分になっている。
北側三番倉庫へ入った荷物が、警察資料では南側の倉庫に移されている。
そして、五年前の失踪当夜の頁だけ、三枚分が切り取られていた。
「この帳面は、誰のものですか」
「街のもの」
「持ち主の名前を聞いています」
「名前を書くと、名前のない人間が見えなくなるでしょう」
老女は机の向かいに座った。椅子の脚が畳を擦り、乾いた音がした。
「ここへ運ばれてくる紙は、誰かのものだった。けれど、持ち主がいなくなったあとも、紙だけが残ることがある。持ち主を探すために残す紙もある。探されないために残される紙もある。私はそれを、分けずに置いてきた」
「分けずに?」
「分けるのは、捨てることと似ている。これは大事、これは不要。これは正しい、これは嘘。そんなふうに分けているうちに、都合の悪いものだけが消える」
白石は机の端へ手を置いた。紙の角を撫でている。
「でも、あなたは順番を決めている」
老女は白石を見た。
「順番は、捨てるためではなく、見せるために決める」
「誰に見せるの」
「必要になった人に」
私は帳面の頁をめくった。日付の横に、細い鉛筆の線がいくつもある。線は荷物の記録を囲み、別の頁へつながるように端へ伸びていた。久瀬の手帳にあった線とよく似ている。
けれど、同じではなかった。
久瀬の線は、迷いながらも最後には行き先を決める。こちらの線は、途中で何度も切れ、別の頁からまた始まっている。
「この線を書いたのは、久瀬ですか」
老女は答えなかった。
「久瀬はここへ来たんですか」
私が重ねると、彼女は机の上の封筒を一枚、少しだけ横へ動かした。封筒の角が、帳面の角と揃う。
「来た。五年前にも、その前にも」
「何をしに?」
「置きに来た」
「何を」
「紙を」
「それは見ればわかる。何を伝えるために置いたのかを聞いている」
声が強くなった。
老女は眉ひとつ動かさなかった。白石が私を見たが、止めなかった。
「伝えるために置いたのではないでしょう」
「では何のためです」
「消されないため」
「同じことでは?」
「違う。伝えるには、相手が必要です。消されないためなら、相手がいなくてもいい。紙が残れば、いつか誰かが読む」
私は手帳を取り出した。
鞄から出しただけで、部屋の空気が変わった。白石の指が止まり、老女の視線が表紙へ落ちる。
「これを、月舟堂の棚へ置いたのは誰ですか」
「私は置いていない」
「誰が置いたか知っていますか」
「知っていることと、言うことは別でしょう」
「また沈黙ですか」
老女はゆっくりと手帳を見た。
「沈黙を嫌う人は、沈黙してきた人間をすぐに裁く。けれど、街に残る人間は、言えば誰かが困ることを知っている。困るだけなら言える。暮らしが壊れる、店が潰れる、子どもが学校へ行けなくなる、借金を返せなくなる。そういうことまで見えてしまうと、正しい一言が簡単には出なくなる」
「久瀬も、同じ理由で黙った」
「久瀬さんは、黙ったのではない。分けたの」
「何を」
「人を」
老女は手帳へ手を伸ばさなかった。
「守る人、守れない人、守ってはいけない人。あの人は、記録を分けることで、人まで分けた。自分が選ぶ側に立った。それが正しいと思っていたのか、そうするしかないと思っていたのかは知らない」
「誰を守ったんですか」
問いは、ほとんど喉から押し出すように出た。
老女は窓の外へ目を向けた。雨戸の隙間から、濡れた路地が見える。向かいの家の軒下で、誰かが古紙を紐で束ねていた。束ねるたび、紙の端が少しずつ揃っていく。
「あなたは、久瀬さんが誰かを追っていたと思っている」
「違うんですか」
「追っていた。けれど、追っていた相手を捕まえることが目的ではなかった」
「では?」
「相手が動く順番を知りたかった」
老女は机の上の帳面を開いた。
倉庫街へ運ばれた荷物の記録。受取人の欄に、いくつかの名前がある。ひとつは再開発組合に関係する会社名。ひとつは、当時の警察署で管理されていた資材業者。もうひとつは、名前の代わりに小さな丸印がつけられていた。
「これは誰ですか」
「名前が書かれていない人」
「そんな記録が残るのか」
「残す人がいれば」
私は丸印を見つめた。
手帳にも、名前のない人物を示す丸印があった。久瀬はその人物の正体を書かなかった。書かなかったのではなく、書けなかったのかもしれない。
「この丸印は、久瀬のものですか」
「途中から、そうなった」
「途中から?」
「最初にこの帳面を持ってきた人間は、丸印を使わなかった。名前を書いていた。次に来たとき、名前が消されていた。三度目に来たとき、丸印をつけた。人の名前は消せるけれど、印は消しにくい。消しても、跡が残るから」
「久瀬は、ここで記録を組み替えた」
「組み替えたというより、戻した」
「何を元へ?」
「順番を」
老女は帳面の頁を何枚か飛ばした。
「警察の資料では、荷物が先で、人があとになっている。ここでは逆だった。人が倉庫へ入り、そのあと荷物が来た。荷物が来たあと、別の車が出た。けれど、警察の記録では、車が出た時間に久瀬さんが現場へ到着したことになっている」
私は手帳のメモを開いた。
到着時刻と搬出時刻が合わない。
北側三番倉庫。二十三時四十分、搬入車両一台。
その十五分後、内側から開扉。
「久瀬は、搬入された荷物の中身ではなく、その前に入った人物を追っていた?」
「あなたは、もう答えを決めている」
「決めたくて訊いているんじゃない」
「けれど、訊く順番は決めている」
老女の言葉に、私は口を閉じた。
白石が帳面の端を覗き込む。
「この頁は、後から書かれています」
「なぜわかる」
「朱肉の乾き方が違う。古い頁の印は紙の繊維へ沈んでいる。でも、この名前の上に押された印だけ、表面に残っている。押した人間は、元の記録を消してから、別の印を置いた」
老女は頷いた。
「白石さんは、やはり紙を見るね」
「見ないと、置き方を間違える」
「あなたも、置く側の人間ですか」
白石はすぐに答えなかった。
私は彼女の横顔を見た。いつものように冷静だったが、指先は帳面の端から離れている。
「私は、店を守るために置いてきた。誰かが困らないように、見なかったことにした記録もある」
「そのことで、困った人は?」
「いる」
「今も?」
「たぶん」
白石の声は小さかった。
「だから、今回は自分で見極める。置くことが守ることなのか、ただ先送りしているだけなのか」
老女は目を伏せた。
「それなら、あなたはもう記録係の側へ来ている」
「私は記録係ではない」
「誰も最初から、そう呼ばれたわけではない」
私は帳面の隅にある小さな文字を見つけた。薄く、ほとんど読めない。鉛筆で書かれた数字が三つ並んでいる。
四・一・二。
倉庫で見た線の終点にもあった。
「この数字は、何の順番ですか」
老女は少しだけ息を吐いた。
「久瀬さんが決めた順番」
「何の」
「最初に見るもの。次に確かめるもの。最後まで人に渡さないもの」
「最後まで渡さないものは何です」
「それを知るには、三つ目の帳面が要る」
老女は机の下から、薄い帳簿を取り出した。
表紙には何も書かれていない。紙は手帳より古く、端は湿気で波打っていた。だが、背の糸だけは新しい。誰かが一度ばらし、別の糸で綴じ直したように見える。
「開けていいですか」
「あなたが開けると、戻せなくなる」
「戻せなくても、見る必要がある」
「そう言う人は、戻せなくなったあとで、戻すべきだったと言う」
「だったら、戻せるように見ます」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
老女は私の手元を見た。私は帳簿を受け取る前に、紙の角を揃えた。久瀬の癖だった。白石がそれを見て、目を伏せる。
「あなたは、久瀬さんに近づいている」
「近づきたいわけじゃない」
「近づいている人は、みなそう言う」
帳簿を開いた。
最初の頁には、倉庫街の見取り図がある。だが、倉庫の配置だけではない。雨雲書房街区の古い家々、郵便受け、古書店、質店の裏口まで線で結ばれている。線の途中には、小さな印がついていた。
月舟堂。
老女の家。
そして、久瀬理沙の住所。
私は頁から顔を上げた。
「理沙さんの家も、記録の置き場所だったんですか」
「置き場所にするつもりはなかった」
「では、なぜ印がある」
「久瀬さんが、自分でつけた」
「理沙に何かを渡した?」
「渡さなかった。渡せなかった」
老女の指が、地図の端にある小さな封筒の印へ触れた。
「封筒を一通、ここへ預けた。理沙さんへ渡すように言われた。けれど、私は渡さなかった」
「なぜです」
「渡せば、あの人の暮らしが壊れると思ったから」
「あなたも、守るために黙った」
「ええ」
「何が入っていたんですか」
「手紙ではない。記録の束」
「久瀬の失踪に関する?」
「そう」
「なぜ渡さなかった」
老女は窓の外を見た。雨戸の隙間から入る光が、机の上の封筒を白く照らしていた。
「その束には、久瀬さんが何を知っていたかだけでなく、誰を疑っていたかも書かれていた。理沙さんが持てば、警察も、組合も、あなたのような人間も、そこへ向かう。理沙さんは兄を失っただけで十分だった。さらに、兄の残した疑いまで背負わせる必要はないと思った」
「その結果、久瀬は消えたままになった」
「そうですね」
「記録も消えた」
「全部ではない」
「あなたが隠したから、見つけられなかった」
「あなたが見つけられなかったのは、私が隠したからだけではありません」
老女の声に、初めて硬さがあった。
「あなたも、見つけようとしなかった。久瀬さんがいなくなったあと、あなたは記事を書かなかった。高瀬さんに聞きに行かなかった。理沙さんの家へも、しばらく近づかなかった。私だけが黙ったような顔をしないでください。街の人間は、それぞれの場所で少しずつ口を閉じた。あなたも、その一人です」
私は手帳を閉じた。
反論できなかった。
五年前、私は久瀬の名前を記事にしなかった。証拠が足りないという理由の裏で、名前を書いた後のことを恐れていた。久瀬が戻らなかったとき、私は彼の不在を追うより、自分が追わなかった理由を忘れるほうを選んだ。
「……では、なぜ今、見せるんです」
ようやく尋ねた。
老女は机の上の封筒を見た。
「再開発が始まるからです」
白石が顔を上げる。
「倉庫街がなくなれば、地図の線は切れる。帳簿を置く場所も、封筒を預ける場所もなくなる。記録係というものは、建物がなくなれば役目を終えるのではありません。記録を置いた場所がなくなれば、記録そのものが誰のものかわからなくなる」
「だから、久瀬の手帳を戻した」
「私は戻していない」
「では誰が」
「それは、まだ言えない」
「言えないのか、言わないのか」
「違いを知りたいなら、あなた自身が記録を持ってみることです。言えない人間には、声が出ない理由がある。言わない人間には、選んでいる理由がある。外から見れば、どちらも黙っているだけですが」
老女は、無地の帳簿を私の前へ押し出した。
「これを持っていきなさい」
私は手を伸ばしかけて止めた。
「持ち出していいんですか」
「返す場所を知っているなら」
「返す場所は、月舟堂ですか」
「棚に戻せ、と書いてあるでしょう」
「それが手帳の命令なら?」
「命令だと思うなら、従えばいい。合図だと思うなら、探せばいい。私は、あなたの代わりに意味を決める気はありません」
白石が帳簿の表紙を見つめる。
「この中に、失踪当夜の記録がある?」
「一部だけ」
「久瀬さんの最後が?」
「最後とは、どこからどこまでを言うのかしら」
老女は問い返した。
「倉庫街を出たところまでを最後と呼ぶ人もいる。誰かに追われ始めたところまでを最後と呼ぶ人もいる。理沙さんへ渡せなかった封筒を、私の家に置いたところまでを最後と呼ぶ人もいる。記録は、終わりを一つに決めてくれない」
私は帳簿を持ち上げた。
表紙は湿っていた。古い紙の匂いに、雨と煤のような臭いが混ざっている。重さは軽かったが、中に書かれているものを知らないまま持つには重すぎた。
「これを読めば、久瀬が自分から姿を隠したのか、消されたのかわかりますか」
「あなたは、二つに分けたいのね」
「事実を確認したい」
「自分から隠れた人間も、消された人間です。誰かを守るために姿を消したなら、少なくとも自分の生活からは消えた。誰かに消されたなら、他人の記録から消えた。どちらも、不在を残す」
「では、何を調べればいい」
「誰のために、どの記録が分けられたか」
老女は、三冊の帳簿を机の上へ並べた。
警察の資料。街の帳面。久瀬の手帳。
大きさも紙質も違う。けれど、頁の隅にある線だけが、同じ場所へ向かっている。
「ひとつの記録では、真実にならない。警察の資料だけでは、事故になる。街の帳面だけでは、噂になる。久瀬さんの手帳だけでは、執念になる。三つを同じ順番で並べたとき、初めて、誰が何を消したのかが見える」
「誰が並べるんです」
「あなたでしょう」
「なぜ私が」
「久瀬さんは、あなたが記録を嫌いではなく、恐れていることを知っていたから」
私は老女を見た。
「彼が、そんなことを言ったんですか」
「言っていない。書いていた」
老女は手帳の最後の頁を指した。
ここで終わりにしろ。棚に戻せ。
「この一文は、久瀬さんの字ではない」
部屋の空気が固まった。
私は白石を見た。彼女も老女を見ている。
「誰の字ですか」
「それは、帳簿を三冊並べたあとでわかる」
「あなたは知っている」
「知っているから、言わない」
「守っているんですか」
「ええ」
「誰を」
老女は答えなかった。
代わりに、机の端に置かれた封筒を私へ向けた。封は切られていない。表には宛名がなく、裏にだけ、薄い鉛筆の跡がある。
久瀬理沙。
その文字は、久瀬の字だった。
私は封筒へ手を伸ばした。
「それは持っていかないで」
老女の声が、初めて私を止めた。
「なぜです」
「そこに入っているのは、理沙さんへ渡すべきものだから」
「今すぐ渡せばいい」
「今のあなたには、渡せない」
「なぜ」
「あなたがまだ、真相を正義の形にしか考えていないから」
私は封筒を見つめた。
「正義でなければ、何だ」
「責任です。真実を知ることではなく、知ったあとに誰の生活をどこまで壊すかを、自分の名前で引き受けること」
「久瀬は、その責任を引き受けた」
「だから消えた」
「逃げたとも言える」
「ええ。守ったとも、逃げたとも言える。人は一つの言葉では片づかない」
老女は封筒を元の位置へ戻した。
「久瀬さんは、理沙さんを守るために、理沙さんへ知らせなかった。その沈黙は愛情だったかもしれない。でも、愛情だから許されるわけではない。あなたが手帳を戻すとき、そのことを忘れないでください」
部屋の外で、雨戸が風に揺れた。
遠くを車が通り過ぎる。濡れた路面を踏む音が、古い家の壁を伝わってくる。私は三冊の帳簿を見下ろした。紙の色も、角の擦れも、文字の癖も違う。それでも、どれも同じ夜を抱えている。
白石が立ち上がった。
「行きましょう」
「まだ聞きたいことがある」
「聞くべきことは、帳簿の中にある」
「彼女は、手帳の字が久瀬ではないと言った」
「聞こえた」
「誰が書いたのか、知りたい」
「だから、戻る」
老女は私たちが立ち上がるのを見ていた。私は無地の帳簿だけを鞄へ入れた。封筒には触れなかった。
玄関へ向かう途中、廊下の紙箱が一つ、わずかに傾いているのに気づいた。白石が足を止め、箱を持ち上げる。底には、古い郵便物が一枚だけ挟まっていた。
宛名は消されている。
差出人の欄には、倉庫街の住所が残っていた。
「それも記録ですか」
私が訊くと、老女は背中を向けたまま答えた。
「置いたものは、置いた場所に戻しなさい」
月舟堂の手帳と同じ言葉だった。
外へ出ると、雨は細く降り始めていた。路地の石は濡れ、古い家々の壁から冷気がにじんでいる。私は鞄の中の帳簿を押さえた。紙が動かないように、手帳と並べて置いた。
白石は、しばらく黙って歩いた。
「あなたは、あの人のことを知っているのか」
「街の記録係のこと?」
「久瀬のことだ」
「少しは」
「なぜ教えなかった」
「教えたら、あなたはすぐに来たでしょう」
「来てはいけなかったのか」
「早すぎた」
「何が早い」
「手帳を見つけた翌日に、倉庫へ行った。塚原さんに会って、記録を掘り起こそうとしている。あなたはいつも、紙を見つけると、その紙が何を言うかより先に、誰を責めるかを考える」
「責めるべき人間がいる」
「いるでしょうね。でも、責める順番を間違えれば、責めるべき人間のために別の人が傷つく」
白石は歩みを緩めた。
「記録係は、街に残るために黙ってきた。私は店を守るために黙ってきた。理沙さんは暮らしを守るために黙ってきた。高瀬さんは組織を守るために黙った。塚原さんは、自分の秩序を守るために黙っている」
「同じ沈黙に見える」
「同じではない」
「何が違う」
「沈黙のあとに、何を残すかよ」
白石は濡れた路地の先を見た。
「記録係は、帳簿を残した。理沙さんは、生活を残した。高瀬さんは、まだ何も決めていない。塚原さんは、書類の形だけを残そうとしている。久瀬さんは、手帳を残した。あなたは、何を残すつもり?」
私は答えられなかった。
鞄の中で、二冊の帳簿が触れ合った。紙と紙が擦れる、乾いた小さな音だった。
月舟堂の前へ戻ると、白石はすぐに戸を開けなかった。鍵を差し込む前に、足元を見た。雨に濡れた砂の中に、新しい靴跡がある。
黒い靴。
踵の外側が減り、右足だけが少し遅れる。
私は息を止めた。
「店の中にいるのか」
「わからない」
「入るな」
「入らないと、何をされたか確認できない」
白石は鍵を回した。
戸を開けると、店内は暗かった。閉店していた時間だから当然のはずなのに、空気がわずかに違う。棚の奥から、紙をめくる音がした。
一枚。
間。
もう一枚。
白石は灯りを点けなかった。私は鞄の中の手帳を押さえた。
音は、手帳が置かれていた棚のほうから聞こえている。
白石が指を伸ばし、私の袖をつかんだ。
店の暗がりで、誰かが息をしていた。
← 横にスクロールして読み進められます
