第4話 倉庫街の湿り気

翌朝、私は月舟堂の前で白石を待った。
雨は夜のうちにもう一度降ったらしく、軒先から落ちる雫が、歩道のひび割れた部分へ細い筋を作っていた。空は明るくなりかけているのに、雨雲書房街区の路地にはまだ夜の湿り気が残っている。古い看板の裏で、どこかの換気扇が回っていた。油と濡れた木の匂いが混ざり、遠くで始発の車が走る音がした。
私は手帳を鞄から出し、最後に開いた頁を確かめた。
――現場記録、一部欠落。到着時刻と搬出時刻が合わない。
その下にある倉庫街の区画番号を、昨夜から何度も見返していた。数字は四つだけだった。だが、久瀬は数字の横に二本の線を引き、一本を消し、また別の場所から引き直している。地図の線というより、何かの順番を示しているように見えた。
「早い」
月舟堂の戸が開き、白石が出てきた。
濃い色の上着を着て、片手に紙包みを持っている。店の鍵を閉める前に、彼女は扉の縁と地面の隙間を見た。誰かが触った跡を確認しているのだろう。私はその視線の先を追ったが、濡れた砂が薄く残っているだけだった。
「遅いよりはいい」
「早すぎる人は、見たいものを先に決めていることが多い」
「私は見たいものを決めていない」
「倉庫街へ行くと決めている」
「それは決めた」
白石は鍵をポケットへしまった。
「では、見たいものも半分は決まっている」
「何を見に行くと思う」
「久瀬さんが見ていたもの。搬入口、鉄扉、車輪跡。それから、自分が書かなかった部分」
白石の言葉が、朝の湿った空気の中へ落ちた。
私は手帳を閉じた。紙の束が小さく鳴る。
「書かなかった部分まで、現場に残っていると思うか」
「残っていなければ、久瀬さんは街中に記録を分けて置かなかった」
「記録係の老女のことを知っているのか」
「名前は知らない。けれど、帳簿を持っている家なら知っている」
「ずいぶん詳しいな」
「本がどこから来るかを見ていると、持ち込まれない紙の流れもわかる。月舟堂へ来るはずだった帳面が、別の家へ流れていることがある。誰かが預けたのか、置いていったのかは、紙の湿り方でだいたい見当がつく」
「紙の湿り方で、人間の意図までわかるのか」
「意図はわからない。ためらいはわかる」
白石は歩き出した。
私はその横へ並んだ。倉庫街は街区の南端にある。古本屋と文具店の並ぶ通りを抜け、閉店した質店の前を曲がり、使われなくなった市場の脇を通る。朝の店先には、まだ誰もいない。シャッターに貼られた再開発説明会の案内だけが、雨に濡れて波打っていた。
案内図には、新しい歩道、集合住宅、商業施設、緑地の位置が色分けされている。倉庫街は灰色の線で囲まれ、「物流拠点予定地」と記されていた。
「五年前も、この計画はあったのか」
私が訊くと、白石は案内図を見上げた。
「計画はあった。今より小さかったけれど」
「久瀬の手帳にある線は、現在の計画と重なる」
「重なるように、計画が変えられたのかもしれない」
「誰が?」
「それを見に行くんでしょう」
濡れた路面を踏むたび、靴底が薄く鳴った。歩道の端には、剥がれかけたチラシがいくつも貼りついている。立ち退き相談会、土地売却の案内、商店街の反対署名。紙はどれも雨に耐えられず、文字の輪郭を失っていた。
街を変える計画は、紙の上ではいつも乾いている。
現実に貼られた途端、湿気を吸い、角から崩れていく。
倉庫街の入口には、白い仮囲いが立っていた。囲いの向こうに、古い倉庫の屋根がいくつか見える。再開発の工事はまだ始まっていないが、敷地内には測量用の杭が打たれ、赤いテープが風に揺れていた。
白石は仮囲いの脇にある細い隙間へ近づいた。
「ここから入る」
「立入禁止では?」
「まだ工事は始まっていない。敷地の管理者も、朝は来ない」
「それを知っているのか」
「本を配達していた頃に、何度も通ったから」
「古本屋の配達先に倉庫が?」
「倉庫の事務所にも、本を買う人はいる」
白石は隙間へ身体を滑らせた。私は鞄を押さえ、あとに続いた。金属板の端に上着が引っかかり、乾いた音がした。向こう側は、表通りより空気が冷たかった。
倉庫街の路面は、舗装と土がまだらになっていた。雨水がアスファルトの継ぎ目に溜まり、黒い筋を作っている。倉庫の鉄扉はどれも錆びていたが、錆の浮き方が微妙に違っていた。長く閉じられている扉と、最近触れられた扉がある。
白石は手帳を見ずに、三つ目の倉庫へ向かった。
「ここだ」
「どうしてわかる」
「手帳の区画番号と、建物の並びが合う」
私は頁を開いた。久瀬の記した番号は、倉庫の壁に残る薄いペンキの数字と一致していた。数字の下には、黒い線が一つ。さらにその横に、短い斜線が二本ある。
「この線は何だと思う」
「あなたが考えるものではないの」
「考えている。搬入口の位置か、見張りの位置か、車両の向きか」
「全部かもしれない」
白石は鉄扉の下へ指先を伸ばした。埃の層が途切れ、扉の内側だけがわずかに薄くなっている。
「最近、開けられている」
「昨日のコーヒー缶と同じか」
「それより新しい」
彼女は埃を指先で拾い、親指と人差し指の間で擦った。濡れて固まった砂の感触を確かめるように、しばらく黙っている。
「誰かが中へ入った」
「再開発組合の人間か」
「わからない。靴跡がない」
「それなら、どうして開閉の跡だけがある」
「中から出た人間が、痕跡を消したのかもしれない」
白石は鉄扉の取っ手に触れた。錆が浮いているのに、握る部分だけが黒く滑らかだった。
私は手帳の現場メモをめくった。
――北側三番倉庫。二十三時四十分、搬入車両一台。荷台の高さ、通常より低い。
その下に、別の記述がある。
――二十三時五十五分、内側から開扉。搬出は未確認。
「搬入の十五分後に、内側から扉が開いている」
「中に人がいた」
「あるいは、最初から誰かが中にいた」
白石がこちらを見る。
「久瀬さんは、搬入車両を見ていたのではなく、車両が出ていく順番を見ていたのかもしれない」
「荷物の順番?」
「人の順番」
白石は扉から手を離した。
「何かが運び込まれた。そのあと、誰かが中へ入り、別の誰かが出た。もし記録に残したくない人間を移動させるなら、車両の出入りだけを記録させる。人が同じ場所にいる時間を消してしまえば、あとから見た者は荷物しかなかったと思う」
「久瀬は、それを追っていた?」
「だから、時刻を書いた」
扉の向こうから、かすかな水滴の音が聞こえた。
私は耳を澄ました。倉庫の内部に雨漏りがあるのかもしれない。だが、一定の間隔で落ちる音の中に、別の音が混じった気がした。金属が擦れる音。遠くで何かを引きずる音。
「誰かいる」
私は声を落とした。
白石は返事をせず、扉の脇へ移動した。指先で壁面をなぞり、赤いテープの切れ端を見つける。再開発の測量に使うものと同じだが、切り口が新しかった。
「開ける」
「待て。音がした」
「だから開ける」
白石は取っ手を下げた。
鉄扉は、驚くほど静かに動いた。蝶番に油が差されている。内部の空気が外へ流れ、湿った布と古い油の匂いがした。
倉庫の床には、何も置かれていなかった。
棚も台車もない。天井近くの窓から入る光が、床に細長く落ちている。だが、埃の上にいくつもの線が残っていた。大きさの違う車輪跡が、入口から奥へ伸び、壁際で途切れている。
「片づけられたばかりだ」
私は言った。
「床が乾いていない」
白石がしゃがみ込む。
車輪跡の一部には水が溜まり、輪郭が崩れていた。雨のあとに台車が通ったなら、もっと広く泥が残るはずだった。濡れたのは車輪ではなく、床のほうだ。
「水を撒いた?」
「消すために?」
「消すには足りない。残すには多すぎる」
白石は壁際へ歩いた。そこには、古い荷台の車輪が一つだけ立てかけられていた。金属の縁に赤い塗料が残っている。久瀬の手帳に書かれた「赤線」の意味が、初めて具体的な形を持った。
私は壁に貼られた古い紙片を見つけた。剥がされた掲示物の裏側に、鉛筆で細い線が引かれている。線は倉庫の見取り図らしく、入口、搬入口、壁際の空間を結んでいた。
その線の終点に、数字がある。
四・一・二。
手帳の区画番号とは違う。だが、久瀬が資料を並べるときに使っていた順番の記号に見えた。
「四、一、二……」
私は呟いた。
「何の順番?」
「久瀬は、重要なことを順番で書いた。現場を見た順ではなく、起きた順に並べることがある」
「では、これは?」
「倉庫に入った順番かもしれない」
「誰が?」
私は答えられなかった。
そのとき、外で砂を踏む音がした。
一度だけ。続いて、鉄板に何かが触れる音。白石が手を上げた。私は反射的に手帳を閉じ、壁際へ寄った。倉庫の内部には隠れる場所がほとんどない。古い車輪の影と、崩れかけた木箱が一つあるだけだった。
足音が近づく。
白石は木箱の陰へ視線を向けた。私はそこへ身を寄せる。木の表面は湿っており、指に細かなささくれが刺さった。痛みを感じたが、手を動かさなかった。
扉の向こうで、誰かが立ち止まった。
「……誰か、入ったのか」
男の声だった。
若くはない。低く、しかし怒鳴る気配はない。声の主は扉を開けず、しばらく外にいる。私の胸の奥で鼓動が大きくなった。狭い倉庫の中では、自分の息が周囲の空気を押し動かしているように感じられた。
白石が私の袖をつまんだ。動くな、という意味だろう。
男は扉に触れた。金属が小さく軋む。
「白石さん」
呼ばれた。
白石の指が離れた。
「いるんでしょう」
男の声には、親しさの形を借りた圧力があった。
私は白石を見た。彼女は表情を変えなかったが、右手の指先が木箱の角を押さえている。棚の角を撫でるときと同じ仕草だった。
「出る」
白石は小さく言った。
「誰だ」
「塚原さん」
白石は立ち上がり、扉へ向かった。私も続くしかなかった。
鉄扉を開けると、倉庫街の薄い光の中に塚原耕介が立っていた。濃紺のジャケットに、雨粒ひとつついていない。後ろには再開発組合の腕章をつけた若い男がいる。彼は私たちを見ると、驚くより先に、靴元へ視線を落とした。
「佐伯さんまでご一緒とは。倉庫街に関心を持っていただけるのはありがたいことです」
「立入禁止の場所へ入った人間に言う言葉ではない」
「まだ正式な工事区域ではありません。そういう意味では、立入禁止と断じるほどのものでもないでしょう」
「では、なぜここにいる」
「管理のためです。古い建物は、誰かが勝手に入ると危険ですから」
塚原は倉庫の中へ視線を滑らせた。壁際の車輪、濡れた床、鉛筆の線。見ているはずなのに、見たものを言葉へ変えようとはしない。
「久瀬さんの手帳をお持ちですね」
声は柔らかかった。
私の鞄へ視線が落ちたわけではない。だが、そこに手帳があることを知っている目だった。
「なぜそう思う」
「この倉庫へ入る人間は、たいてい図面を持っています。現場を見るには、何らかの案内が必要ですから」
「これは図面ではない」
「ええ。そうでしょうね」
塚原は一拍置いた。相手の言葉を受け止めるふりをして、その実、次の言葉を選んでいる間だった。
「久瀬さんのことは、私も気にかけています。あの方は責任感の強い人でした。だからこそ、残されたものを不用意に扱うと、かえってご家族を傷つけることがあります」
「家族を理由にするな」
私の声が荒くなった。
塚原は目を細めたが、表情は崩さなかった。
「理由にしているのではありません。現実を申し上げているだけです。記録は、誰かの名誉を守ることもあれば、生活を壊すこともある。佐伯さんは、その両方をご存じのはずです」
「あなたは、五年前の現場を知っている」
「倉庫街の事情なら、地域の関係者として知っています。事件については、捜査機関へお尋ねになるべきでしょう」
「その捜査機関の記録が欠けている」
「欠けているのではなく、整理されているのです」
塚原の言葉は丁寧だった。丁寧であるほど、こちらの怒りだけが粗雑に見える。
「整理と改ざんを、あなたは同じ顔で話す」
「改ざんという強い言葉を使う前に、何がどう違うのかを確認なさるべきです。五年前の記録が完全でないのは、珍しいことではありません。担当者が変わり、部署が統合され、資料の保存期間が過ぎる。街を運用するには、古い情報をすべて抱えているわけにはいかない」
「街を運用するためなら、人間の不在も整理できるのか」
塚原の背後で、若い男が目を伏せた。
塚原は私をまっすぐ見た。
「不在を利用しているのは、あなたのほうではありませんか。久瀬さんがいないことを、いまの計画を止める材料にしようとしている」
「計画を止めるためではない」
「なら、何のためです?」
私は答えに詰まった。
久瀬を見つけるためか。消された記録を戻すためか。それとも、五年前に記事を書かなかった自分へ、遅すぎる形で決着をつけるためか。
塚原はその沈黙を見逃さなかった。
「佐伯さん。過去を掘り返すこと自体が悪いとは申しません。ですが、掘り返したものを誰が受け止めるのかまで考えていただきたい。理沙さんは、もう一度、お兄さまの失踪を世間にさらされることになります。商店街の方々は、再開発に賛成した理由を問い直される。月舟堂も、古い記録を隠していた店として見られるかもしれない」
「脅しているのか」
「心配しているのです」
「心配という言葉で、人を退かせるな」
「退くかどうかは、佐伯さんが決めればいい。ただ、決める前に、決めた後の人間の顔を想像してほしいのです」
塚原はそこまで言うと、倉庫の壁に残った鉛筆の線へ目を向けた。
「久瀬さんも、最後にはそれを考えたのでしょう」
私は息を止めた。
「最後には、とはどういう意味だ」
「さあ。私は久瀬さんの最後を見届けたわけではありません」
「今、最後と言った」
「失踪に至るまでの、最後の時期という意味です。言葉尻を取らないでください」
塚原は笑わなかった。ただ、書類の端を揃えるように、右手の指でジャケットの袖口を整えた。
白石が初めて口を開いた。
「塚原さん。あなたは倉庫の中を見ていない」
「見ています」
「車輪跡を見た。でも、床の水の流れは見ていない」
「それが何か?」
「水は入口から入っていない。壁際から流れている。誰かが奥で撒いた」
塚原の目が、ほんの一瞬だけ車輪跡へ戻った。
「古い建物です。雨漏りでしょう」
「雨漏りなら、天井の錆が新しい。ここは違う」
「白石さんは、ずいぶん詳しい」
「店をやっていると、紙が濡れた場所くらいはわかる」
「その知識を、倉庫の捜査に使われるのは感心しません」
「捜査ではない」
「では、何です?」
白石は塚原の目を見なかった。床の濡れた部分を見たまま答えた。
「置かれたものを、置かれた場所で見ているだけ」
塚原の口元から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。だが、私は見逃さなかった。
「この倉庫は、近く解体されます。古い床の跡を見たいのであれば、今のうちに見ておくのがよいでしょう。ただし、記録を持ち出すなら正式な手続きを取ってください」
「あなたに許可を求める必要はない」
「必要があるかどうかは、手続きの問題です」
塚原はそれ以上、私たちを責めなかった。代わりに、若い男へ目配せをする。男が倉庫の扉を閉めようとした。
私はその前に、壁際の赤いテープへ手を伸ばした。
白石が私の手首をつかんだ。
「触らないで」
声は低かった。
テープの下には、薄い紙片が貼られていた。剥がれかけた端から、数字が一つだけ見えている。
二十三。
私は手を伸ばすのをやめた。
塚原は私たちを見ていた。紙片の存在に気づいているのか、気づいていないふりをしているのか、判断できなかった。
「佐伯さん」
「何だ」
「久瀬さんが残したものを、すべて真実だと思わないことです。あの人は、正しい記録を残そうとする一方で、守るために記録を分けることもあった。分けられた記録は、読む側の都合でつなぎ替えられます」
「それは、あなたが一番よく知っていることではないのか」
塚原は答えなかった。
倉庫の外へ出ると、雨がまた細く降り始めていた。仮囲いを叩く音が、遠くの車の走行音に重なる。白石は歩きながら、先ほどの紙片を見ていた。
「二十三」
「時刻か」
「区画番号かもしれない」
「剥がせなかった」
「剥がさなかったの」
「なぜ」
「塚原さんが見ていたから」
私は足を止めた。
「では、見たまま帰るのか」
「見たものは持ち帰る」
「紙片を持っていない」
「あなたの記憶に残っている」
「記憶は記録より弱い」
「だから、今から書く」
白石は濡れた紙包みの中から小さなノートを出した。雨を避けるため、身体を仮囲いへ寄せ、紙の端を濡らさないようにして鉛筆を走らせる。
二十三。壁際。赤いテープ。水は奥から。
書き終えると、彼女はノートを閉じた。
「これで記録になった」
「見間違いかもしれない」
「そう。だから、見間違いかもしれないと書いた」
私は手帳を開き、久瀬の線を見た。
細い線。消された線。順番を示す数字。
倉庫の床に残った水の流れと、壁の赤いテープと、塚原の言葉。その三つが、まだ一つの形にならないまま頭の中に残っていた。
帰り道、雨は次第に強くなった。倉庫街の鉄扉が背後で閉まり、金属音が通路を長く震わせる。振り返ると、塚原が扉の前に立っていた。彼は私たちを追ってこなかった。ただ、閉じた扉の表面を指先で一度撫で、それから錆の浮いた鍵穴へ手を伸ばした。
鍵は、すでに掛かっていた。
月舟堂へ戻る頃には、鞄の外側が濡れていた。手帳は古いノートに挟んであり、紙面へ水は入っていない。私は帳場で鞄を開き、手帳を取り出した。
最後の頁の文字は、朝に見たときより濃くなっているように思えた。
もちろん、インクが濃くなったわけではない。
私の目が、そこへ戻る理由を増やしただけだ。
ここで終わりにしろ。棚に戻せ。
私はその一文の下へ、今日見たものを書き足したくなった。二十三。水の流れ。塚原の言葉。
だが、ペン先を紙に当てる前に止めた。
久瀬が残した頁へ、私の手で新しい順番を混ぜていいのか、まだ決められなかった。
白石は濡れた上着を脱ぎ、棚の端を拭いていた。倉庫街から戻ったばかりなのに、いつものように背表紙の高さを揃えている。
「ここは終わった場所じゃない」
私は言った。
「最初から、そう言っている」
「誰かが最近も入っている」
「ええ」
「塚原は知っている」
「知っているか、知らないふりをしている」
「同じことだ」
白石は棚の角を指でなぞった。
「同じではない。知らないふりをしている人間は、まだ自分が何を守っているのか選べる」
「選ばなければ、何も変わらない」
「選んだ結果、別のものが壊れることもある」
彼女は手を止めた。
「でも、今日は一つだけわかった」
「何が」
「久瀬さんは、場所を残したかったんじゃない」
白石は手帳を見た。
「順番を残したかったのよ。何が先で、何が後だったのか。誰が入って、誰が出たのか。何が運ばれ、何が置き去りにされたのか」
私は手帳の頁を閉じた。
外では、雨が本降りになっていた。屋根を叩く音が、店の静けさを少しずつ埋めていく。
私は今日見た倉庫の床を思い出した。乾きかけた水、途切れた車輪跡、赤いテープの下に隠れた数字。濡れた路面は、何かを消すためにあるのではない。消えたものの輪郭を、別の場所へ移すためにあるのかもしれない。
鞄の中の手帳は、相変わらず軽かった。
けれど、その軽さの下に、五年前から動かなかった順番が沈んでいる。
私はノートを開き、今日の出来事を記した。
二十三。北側三番倉庫。水は奥から入口へ流れていた。塚原耕介、久瀬の「最後」を知っているような言い方をした。
書き終えてから、私は最後の一行を消した。
塚原が知っている、と断定するには、まだ早い。
消し跡は紙の上に残った。完全には消えず、鉛筆の黒が繊維の間へ沈んでいる。
白石がそれを見ていた。
「消したのね」
「断定できない」
「でも、書いた」
「書かなければ、消したことになる」
「消しても、消えたことにはならない」
白石の言葉を聞きながら、私は消し跡の上へ、もう一度だけ小さく書いた。
――塚原は、何かを知っている。
その文字は、久瀬の字より大きかった。
だからこそ、誰かに読ませるための記録のように見えた。
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