第9話 家を守る、という言い訳

朝、囲炉裏の灰はまだ昨夜の形のままだった。

誰も火箸を入れていない。私は寝不足の目をこすりながら土間へ降り、灰の表面に浮いた赤い点をひとつ見つけた。消えかけた炭が、息を止めたまま夜を越したらしい。私はしゃがみ込み、灰をならし、新しい薪をくべた。乾いた木が爆ぜる音が、やけに大きく響いた。

その音に重なるように、納戸の方から釘を打つ音が聞こえてきた。

トン、トン、と規則正しい。急いでいるのでも、苛立っているのでもない。むしろ丁寧すぎるほどの手つきだった。私は茶碗を棚から下ろす手を止め、しばらくその音を聞いていた。

納戸へ行くと、父は木枠に向かって屈み込んでいた。古い枠板の歪みを直しているらしい。爪先で木目を弾き、節のある場所を避けて釘を打ち込んでいく。背中は、いつも通り頑丈に見えた。肩の線も、首の傾け方も、昨日と同じ宗太郎の背中だった。

けれど、私にはその落ち着きが、落ち着きではないと分かってしまった。

父は、何かを見ないようにするとき、必ず手を動かす。屋根の雪を落とし、薪を割り、道具を磨く。昨夜、仏間の灯が消え、誰かが私たちのすぐそばまで来たというのに、朝になればまた木枠を直している。異変の次の日に修繕を始める人間は、落ち着いているのではない。むしろ、落ち着くための道具を探している人間だ。

「父さん」

私は声をかけた。

「ああ」

父は顔を上げなかった。釘の頭に金槌の面を合わせる動きだけが続く。

「昨夜のこと、話したい」

「話すことなんかない」

「ある」

私は父の手元ではなく、横顔を見た。

「縁側の跡から始まって、台所、廊下、座敷、味噌蔵、神棚。濡れた跡はもう家じゅうを歩いてる。昨夜は、仏間の灯が消えて、誰かが畳をすべる音が囲炉裏のすぐそばまで来た。私の名前を呼んだ声も、父さんの咳払いも、母さんの声も、全部真似された。これだけ並べても、話すことがないの?」

父の金槌が止まった。

止まったのは一瞬で、すぐにまた動き出した。けれど、さっきより力が強くなっていた。釘が木に食い込む音が、少し硬くなる。

「雪のいたずらだ」

その言葉を、私はもう何度聞いただろう。最初に聞いたときは苛立ちだけだった。今はそれより深いところで、疲れに似た冷たさが胸に落ちる。

「雪のいたずらが、味噌蔵の奥に日記を隠させたの? 神棚の灯を誰かに消させたの?」

「黙れ」

「黙らない。もう、黙っていられる段階は過ぎてる」

父は金槌を床へ置いた。木の床に鈍い音が響く。彼はようやく私を見た。目の奥には、いつもの苛立ちとは違う、もっと古い恐れが沈んでいた。

「家の中で起きたことは、家の中で片づける。それが桧原のやり方だ」

「そのやり方で、今まで何が片づいたの。片づいたんじゃなくて、しまい込まれただけじゃないの」

「お前に、家の重みの何が分かる」

「分からないから聞いてるんだよ、ずっと」

声が震えた。怒りよりも、もっと別のものが喉の奥にあった。

「お父さんは家の恥を外へ出すなと言う。でも、家族の中にいるものが、もう誰かの声を借りて歩き回ってる。これのどこが恥なの。これは、恥じゃなくて、誰かが置き去りにされたまま残ってるってことでしょう」

「置き去りにしたのは俺じゃない」

父の声が低く沈んだ。

「じゃあ、誰」

「……ふじだ。いや、違う。みんなだ。あの晩、家にいた者、みんなが黙っていた」

父は視線を納戸の暗い隅へ落とした。木枠の隙間から、冷たい外気がわずかに入り込んでくる。

「俺が生まれる前の話だ。だが、親父から聞いたことがある。客を一晩泊めて、朝には消えていた。雪崩だ、迷ったんだ、村の誰もがそう言って、それで終わった話にした。終わった話にしなければ、村の中で生きていけなかったからだ」

「終わった話になんかなってない」

「分かってる」

父はそう言って、初めて私から目を逸らさなかった。

「分かってるんだ、千歳。だが、認めれば、家は崩れる。何十年もかけて、ないことにしてきたものを、今さらあったことにすれば、桧原の家はもう元の形じゃいられない」

「元の形じゃなくていいよ」

言った瞬間、自分の声が思ったより大きく響いて驚いた。

「家は、形を保つための箱じゃないでしょう。中に誰かを閉じ込めたまま、外側だけきれいにしておくための器じゃないでしょう。私は、家の形を守りたくて戻ってきたんじゃない。父さんと、おばあちゃんと、ちゃんと息をして暮らしたくて戻ってきたんだよ」

父の手の甲に、力がこもるのが見えた。拳を握ったわけではない。ただ、指の関節が白くなるほど、何かをこらえていた。

「お前の母親が死んだとき、俺は茶碗を一つ余分に並べたことがある」

唐突な言葉だった。

「食卓にだ。四人分、用意させたことがあった。ふじに見つかって、片づけられたが」

「父さん」

「その話を、お前にしたことはなかったな」

父の声は、怒っていた先ほどとは違う響きを帯びていた。

「いなくなったものを、いなくなったと認めれば、本当にいなくなる気がした。だから、茶碗を並べた。声をかけそうになったことも、何度もある。馬鹿げてると分かっていても、やめられなかった」

私は言葉を失った。父がそんな夜を、何度も一人で越えてきたことを、私は知らなかった。知らないまま、父の沈黙を頑固さとしか見てこなかった。

「それと、これと、同じことなの」

「同じかもしれん。違うかもしれん。だが、俺が怖いのは、お化けなんかじゃない。家の中から、誰かがいなくなったことを認めることだ。認めれば、また誰かがいなくなる気がする」

そのとき、台所の方から湯の沸く音が聞こえた。ふじが鉄瓶を火にかけ直したらしい。やがて祖母がゆっくりと納戸の戸口に現れ、何も言わずに立っていた。

私はふじを見て、それから父を見た。

「おばあちゃんは、灯を消したことを認めた。それでも家は崩れなかった」

「まだ、何も終わっていない」

「終わらせるために、認めるんでしょう」

父は答えなかった。代わりに、金槌をもう一度拾い上げた。けれど、木枠には向けず、ただ手の中で重さを確かめるように握っていた。

ふじが台所の端から歩み寄り、私の肩に手を置いた。叱るためでも、止めるためでもない。ただ、そこに触れておきたいというような、軽い指先だった。火の前に長くいた温もりが、薄い上着越しに伝わってくる。

「千歳。今日ばかりは、そこまでにおし」

「おばあちゃん」

「宗太郎にも、宗太郎の時間がいるんだよ」

その言葉に、私は唇を噛んだ。急かしたい気持ちと、急かしてはいけないという気持ちが、同時に胸の中でせめぎ合った。

父は木枠へ視線を戻し、釘の位置を確かめるふりをしていた。けれど、金槌を打ち下ろす手は、もう動かなかった。

家を守るという言葉を、父は何十年も自分に言い聞かせてきたのだろう。けれどその言葉の裏で、本当に守ろうとしてきたのは、家の柱でも、田畑の境でもなく、いなくなった者をいなかったことにしておきたいという、自分自身の弱さだったのかもしれない。

私はそのことに気づいてしまった。気づいてしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。

納戸の隙間から入り込む冷気が、足元を這うように広がっていた。濡れた木の匂いが、どこかでまだ薄く続いている。

父は木枠に手を置いたまま、長いこと動かなかった。

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家を守る、という言い訳 - 戻らぬ灯 - 誰でも作家life