第10話 名のない客

昼を過ぎても、父は納戸から出てこなかった。

私は台所で大根を切りながら、包丁の音を数えていた。まな板に当たる刃の音が、一定の間隔で続いているあいだだけは、家の中にまだ人の暮らしがあるように思えた。けれど、手を止めると、納戸の方から木を擦る音が聞こえる。父が何かを直している音ではない。釘を打つでも、板を削るでもない。重いものを、床の上でゆっくり引きずる音だった。

私は包丁を置き、手を拭いた。

「父さん」

返事はなかった。

納戸の戸は半分だけ開いている。隙間から見える父の背中は、座り込んだまま動かなかった。手元には、古い鍵束が置かれている。数が足りない。昨夜、ひとつ減っていた鍵が、父の膝の脇に転がっていた。

「何をしてるの」

「探してる」

「何を?」

父はしばらく黙っていた。やがて、鍵を一本拾い上げ、掌の中で向きを変えた。

「味噌蔵の奥に、もう一つ戸がある」

私は戸口に立ったまま、息を浅くした。

「そんなの、聞いてない」

「聞かせてない」

「開けるの?」

「開けるために探してる」

納戸の中は、乾いた木の匂いと、湿った布の匂いが混じっていた。父の背後には、古い農具や空の樽が寄せられている。壁際の板を一枚外したらしく、その向こうに黒い隙間が見えていた。隙間から冷気が流れ込み、足首にまとわりついている。

「父さん、昨日は家を守るって言ったよね」

「ああ」

「今度は自分で奥を開けるの」

「閉じたままじゃ、守れんものもある」

父の言葉は、納戸の暗がりへ吸い込まれていった。

そこへ、ふじが杖を引きずる音が近づいた。祖母は戸口まで来ると、父の手元を見た。鍵を見た瞬間、顔から血の気が引いた。

「それは、使わなくていい」

ふじがそんなふうに言い切るのを、私は初めて聞いた。

父は振り返らなかった。

「もう、使わないままにはできない」

「宗太郎」

「千歳に話す」

「話せば、戻れなくなる」

祖母の声が、わずかに震えた。

「もう戻れないよ」

私が言うと、ふじは目を閉じた。長いまつげの下で、何かを押し戻すように瞼が動いた。

「そうだね」

祖母は納戸の床へ視線を落とした。

「あの戸の向こうに、客を寝かせた」

「客って、日記に書いてあった人?」

「名は、知らなかった」

「知らなかったのに、泊めたの」

「吹雪の夜だったからね。名前を聞く余裕もなかった。あの人は、土間に立っていた。濡れた草履を脱がずに、ただ中へ入れてくれと言った」

ふじの指が、杖の柄を強く握った。

「父さんの祖父が、入れと言った。私は味噌蔵の脇の小部屋へ案内した。そこなら風が入らないからって。でも、あの人は神棚の前で立ち止まった」

「何か言った?」

「言ったよ。帰ると」

祖母はそこで言葉を切った。

「朝になったら、帰ると。けれど、夜のうちに家の中が騒がしくなった。屋根の雪が落ちた。納戸の梁が外れかけた。みんなそちらへ行った。あの人が何度か呼んだのは、覚えている」

「誰を?」

ふじは答えなかった。

代わりに、納戸の奥から小さな音がした。

かち、と鍵が回る音だった。

父の手の中にある鍵は、まだ差し込まれていない。

私は喉の奥で息を止めた。味噌蔵の方から、濡れた木の匂いが強く流れてくる。甘く腐った味噌の匂いに混じって、古い藁の匂いがした。

「今の、聞こえた?」

父が立ち上がった。

「聞こえた」

ふじが言った。

その返事には、諦めに近い静けさがあった。

父は鍵を差し込むため、納戸の奥へ進んだ。私は止めようとして、一歩遅れてその背中を追う。ふじも杖をつきながら続いた。

味噌蔵の戸を開けると、冷気がまともに顔へ当たった。樽の蓋には白い粉が浮き、土壁の隅から水が滲んでいる。奥の棚を父が動かすと、板壁の継ぎ目が現れた。そこには、戸というより、戸の形に塗り固められた壁があった。

鍵穴だけが、黒く濡れている。

父は鍵を差し込んだ。

回す前に、奥から声がした。

「宗太郎」

父の声だった。

私の背中に冷たいものが走った。

「開けるな」

声の主は、父の声でそう言った。

目の前の父は、まだ鍵に手を置いたままだ。顔をこちらへ向け、唇を閉じている。

ふじが私の袖を掴んだ。指先がひどく冷たい。

壁の向こうで、誰かが草履を脱ぐ音がした。

片方。

もう片方。

それから、板の向こうを歩く気配が、私たちのいる側へ近づいてきた。

「入れてくれ」

今度の声は、知らない男のものだった。

低く、掠れていて、雪を口に含んだような声だった。

「寒いんだ」

父の指が鍵を握りしめる。開けるつもりなのか、閉じるつもりなのか、私には分からない。

ただ、壁の下から濡れた跡が一つ、ゆっくりと滲み出した。

草履の跡ではなかった。

裸足のような、細長い跡だった。

それがこちらへ向かって、ひとつ、またひとつと増えていく。

父は鍵を抜いた。

私は安堵しかけた。けれど父は、鍵を自分の懐へしまったのではない。私の手を取り、その掌へ押しつけた。

「千歳。今夜、俺が呼んでも開けるな」

「父さん?」

「俺の声でもだ」

父はそう言って、初めて私の目をまっすぐ見た。

その背後で、壁の向こうからふじの声がした。

「千歳、開けておくれ」

祖母は私の隣にいる。なのに、同じ声が、暗い壁の向こうで私を呼んでいた。

父が板壁を押さえた。湿った木が、内側からゆっくり膨らんだ。

私は掌の鍵を握ったまま、祖母の手を探した。けれど、触れたのは冷たい空気だけだった。

隣にいたはずのふじの杖が、音もなく床へ倒れた。

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