第8話 真似る声、濡れる畳

寺を出たときには、雪はさらに細かくなっていた。

石段を降りる足元に、慶一の作った狭い歩幅の跡が残っている。私はその跡を踏みながら、掌の中の鍵を握りしめた。錆びた金属は、寺の帳場の暖かさを吸ってもなお冷たいままだった。指の熱だけがそこへ沈んでいくようで、握れば握るほど、自分の体温が削られていく気がした。

帰らなかった客。

声に出さずに、もう一度その名を胸の中でなぞった。名前を与えたことで何かが変わったのか、それとも変わらなかったのか、歩きながら確かめようとしたが、分からなかった。ただ、風呂敷の中の日記が、行きよりも重く感じられた。

家までの道のりは、行きよりも長く思えた。山の斜面は白い幕の向こうに沈み、木々は雪の重みに耐えるように枝をたわめている。音はない。自分の呼吸だけが、布の内側で大きく響いていた。

桧原家の屋根が見えたとき、私は無意識に足を速めていた。

土間に入ると、灯油の匂いと、炊きたての飯の匂いが混じって漂っていた。父が先に戻っていたらしい。長靴が土間の隅に揃えて置かれている。私の長靴の方は、脱いだときのまま斜めになっていた。父はそれを直さなかった。

「遅かったな」

囲炉裏端から、父の声がした。

「寺にいたから」

「分かっている」

父は火箸を手にしたまま、こちらを見なかった。灰をならす仕草に迷いがない。けれど、いつもより一度多く、同じ場所を撫でていた。

「慶一さんに、日記を見せた」

「聞かなくても分かる」

「それから、神棚の鍵のことも」

父の手が止まった。

「ふじが渡したんだな」

「うん」

父は火箸を灰の中へ差し込んだまま、しばらく動かなかった。赤い炭が一つ、灰の表面に顔を出し、また沈んでいく。

「それで、何が分かった」

「名前は分からなかった。でも、呼び方は決めた」

「呼び方?」

「帰らなかった客、って」

父の喉から、低い息が漏れた。笑ったのか、呆れたのか、私には判別できなかった。

「名前のつもりか、それは」

「名前じゃない。でも、何もなくていいとは思えなかった。草履の持ち主でも、何かでもなく、誰かとして扱うことから始めるしかないって、慶一さんが言った」

「坊主の理屈だ」

「理屈でも、何もしないよりはいい」

父は火箸を置いた。長い沈黙のあと、彼は囲炉裏の向こうの闇へ目をやった。仏間へ続く廊下が、墨を流したように暗い。

「飯にしろ」

それだけ言って、父は茶碗を取った。話を切り上げる、いつもの合図だった。私はそれ以上、言葉を重ねなかった。重ねたところで、今夜のうちに父の考えが変わるとは思えなかったし、何より、腹の底に重く沈んでいる予感が、言葉より先に体を強張らせていた。

夕飯は静かだった。味噌汁の湯気が、いつもより早く冷めていくように感じられた。ふじは箸を取ったが、ほとんど食べなかった。皿の縁を指でなぞり、何かを数えるような仕草を繰り返していた。

「おばあちゃん」

「何だい」

「寺で、名前の代わりに呼び方を決めたって話した」

ふじの箸が止まった。

「それで、何か変わったのかい」

「分からない。でも、今夜は何か起きる気がする」

ふじはしばらく私を見ていた。やがて視線を膳の上へ落とし、小さく息を吐いた。

「起きるなら、起きるんだろうね」

それ以上は言わなかった。

夜、家の空気が変わったのは、私が仏間の前へ水を取りに行こうとしたときだった。

廊下に出た瞬間、息を吸っても喉の奥に何も触れない感覚があった。土間から廊下へ抜ける冷えだけが、足首にまとわりつく。毛糸の靴下を履いていても、骨の内側まで冷えが届くようだった。

仏間の襖の前に立つと、内側から低い音が返った。

宗太郎の咳払いに似た音だった。喉の奥で一度だけ鳴らす、父の癖そのままの響き。父は囲炉裏端にいるはずだった。だが、襖の向こうにも同じ音がある。

次に、ふじの呼ぶ声がした。

「千歳」

台所の方からではない。襖の奥から聞こえた。本物のふじは囲炉裏端で火箸を握っているはずだった。

茶碗を置くときの小さな音が続いた。かち、という陶器の触れ合う音。朝、私が茶碗を棚へ戻すときに立てる音と、寸分違わなかった。

そして最後に、母の名を呼ぶ声がした。

あまりにもよく知った声だった。幼い頃、縁側で遊んでいた私を呼ぶときの、少しだけ語尾を甘くする呼び方。私はもう、その声の主がどこにもいないことを知っている。知っているのに、体が勝手に振り向こうとした。

振り向くたび、そこには何もなかった。

だが畳には湿った輪が残り、ひとつ、またひとつと濃くなっていく。私は無意識に足元を見て、跡を数えた。草履の幅、歩幅、止まった位置。来た跡はあっても、戻った跡はない。人のものを借りながら、家の中で居場所を増やしているとしか思えなかった。

宗太郎はなおも「戸締まりを確かめろ」と言うだけだった。

「父さん、今の声、聞こえたでしょう」

「聞こえた」

「それでも戸締まりの話をするの?」

「他に何をすればいい」

「村の誰かに知らせるとか、せめて今夜だけでも、誰かに来てもらうとか」

「余計な人間を入れるな」

「余計じゃない。家族だけで抱えて、どうにかなる段階はもう過ぎてる」

父は囲炉裏の縁に手を置いたまま、私を見なかった。その横顔には、怒りよりも深い疲労があった。何十年もかけて積み上げてきたものが、音もなく傾いていくのを見ている人間の顔だった。

「外へ知らせれば、村中に知れる。知れれば、二度と元には戻らない」

「元に戻るって、何が?」

「桧原の家だ」

「家はもう、元の形じゃないよ。毎晩、誰かの声で呼ばれて、毎朝、濡れた跡を拭いて、それのどこが元の形なの」

父は答えなかった。

ふじは何かを言いかけて、口を閉じた。唇の端がかすかに動いただけで、言葉にはならなかった。私には、その沈黙が最初の拒絶ではなく、長く続けてきた後悔の表情に見えた。祖母は膝の上で指を折り、数えることで言葉の代わりにしていた。

「おばあちゃん、言いかけたでしょう」

「……今夜は、まだ」

「まだ何」

「灯をつけるには、まだ足りない」

その言葉が終わるのと同時に、仏間の灯がふっと消えた。

油は残っている。芯も折れていない。けれど、火だけが音もなく失せた。暗がりの中で、誰かが畳をすべる音だけが長く続いた。

草履を引きずる音ではなかった。もっと静かで、もっと近い音だった。畳の目に沿って、何かが体重を少しずつ移しながら進んでいる。その動きは、迷いのない足取りに似ていた。

私は灯りの消えた方へ手を伸ばしかけた。

マッチを擦れば、火はつくだろう。けれど、火をつけた先に何があるのか、想像するだけで指の先が冷たくなった。慶一の言葉が耳の奥でよみがえる。

迎え入れた側が、帰すことを恐れないこと。

帰す相手の名だよ。

名は、まだ足りない。呼び方を決めただけで、本当の名前には届いていない。それなのに、向こうはもう、私たちの声を使って、家の中を歩き回っている。

私は冷えた空気に指先を引っ込めた。

灯りのない仏間の奥で、畳をすべる音が、一度だけ止まった。

止まった場所は、いつもより家の中心に近かった。

台所でも、座敷でもない。

囲炉裏端、私たちのすぐそばだった。

← 横にスクロールして読み進められます

真似る声、濡れる畳 - 戻らぬ灯 - 誰でも作家life