第7話 空白に名を与える

朝、私は味噌蔵から持ち出した日記を、東京から持ち帰った手帳の下へ隠した。

隠したというより、押し込んだ。角の擦れた手帳の表紙が、湿った紙の重みでわずかに沈んだ。私はその歪みを指でなぞり、元の位置へ戻そうとした。けれど、日記は厚く、手帳の下から端が少し出ている。

私は何度も押し込んだ。

それでも、黒ずんだ紙の端は、畳の上へ細く顔を出していた。

家の中の物は、正しい場所へ戻せば落ち着く。茶碗も、布巾も、帳面も。そう思ってきた。だが、その日記だけは、どこへ置いても家の中のどこかとつながっているようだった。味噌蔵の湿った匂いが、部屋の空気に薄く残っている。紙から漂っているのか、廊下の奥から流れてきているのか、分からなかった。

仏間の灯は、朝になっても消えたままだった。

油は残っている。芯も折れていない。ただ、火だけが戻らない。マッチを三本擦ったが、どれも芯へ近づく前に細く揺らぎ、黒い煙になった。

ふじはそれを見ても、何も言わなかった。

囲炉裏端で薬草茶を淹れ、湯飲みを一度だけ布巾で拭いてから、私の前へ置いた。湯気は立った。けれど、香りが薄い。薬草の苦みより、冷えた土の匂いが先に鼻へ入ってくる。

「慶一さんのところへ行く」

私が言うと、ふじの手が止まった。

「寺へ?」

「日記を見せる」

「宗太郎には言ったのかい」

「言えば、行くなと言うでしょう」

「そうだね」

否定しないことが、祖母の返事だった。

私は手帳の下から日記を取り出し、風呂敷へ包んだ。紙が擦れる音に、廊下の奥で障子が揺れた。

ふじが顔を上げた。

「千歳」

「何」

「その人に、何を聞くつもりだい」

「何が起きたのか。誰が家に入って、どうして帰れなくなったのか。神棚の灯を消したのは誰なのか」

「聞いて、分かったらどうする」

「帰す」

口にした瞬間、味噌蔵で見た文字が胸の中へ戻ってきた。

帰すなら、灯を消してはならない。

帰すな。家を失う。

ふじは湯飲みを両手で包んだ。ひびの入った陶器が、祖母の指の間で小さく鳴る。

「名のないものを、どうやって帰すんだい」

「だから、名を探す」

「名前があれば、帰ると思うのかい」

「少なくとも、今のままでは帰れない。誰もその人を呼ばないから、家の中で私たちの声を借りている。父さんの声を使い、母さんの声を使い、私の声まで使う。名前を呼ばれない者が、呼ばれたことを確かめるために、誰かの声を真似ているなら――」

「呼ばない方がいいものもあるよ」

「おばあちゃんは、ずっとそう言ってきたね」

ふじは目を伏せた。

「呼ばなければ、傷つけずに済むこともある」

「傷つけないために黙っていたの?」

「そう思っていた」

「今は?」

祖母はすぐには答えなかった。囲炉裏の灰を火箸でならす。赤い炭がひとつ現れ、ふじはそれを灰の下へ押し戻した。

「今は、黙っていることが、別の傷を作ると分かっているよ」

その声は細かった。けれど、逃げてはいなかった。

「千歳。あの人の名前を、私は知らない」

「本当に?」

「呼ばなかったから、覚えられなかった。覚えないようにしたのかもしれない。あの晩、家の者は客の名前を聞かなかった。聞けば、帰せなくなったときに責任が残るから。名前がなければ、いなくなった人間ではなく、ただ消えたものとして扱えると思ったんだろうね」

「それで、消えたの?」

「消えなかった」

祖母の視線が、消えた仏間の灯へ向いた。

「名前を呼ばれなかったものは、名前の代わりに家の中の音を覚えた。戸の音、茶碗の音、誰かを呼ぶ声。そういうものを一つずつ借りて、そこにいたことを残したんだと思う」

「思う、で済ませるの?」

「長く見ないようにしてきた人間には、それしか言えないこともある」

私は風呂敷を結んだ。

「慶一さんなら、知っているかもしれない」

「寺にも、全部は残っていないよ」

「それでも、行く」

ふじは私の手首へ触れた。止めるためではなかった。指先が冷たく、確かめるように脈の上へ置かれる。

「雪が深い」

「分かってる」

「帰り道を見失うよ」

「それは、もう家の中で起きてる」

祖母は私を見た。

長い沈黙のあと、ふじは自分の首に掛けていた小さな鍵を外した。錆びた鍵だった。鍵穴の形も、何の鍵かも分からない。

「これを持っておいき」

「何の鍵?」

「神棚の下の戸の鍵だよ」

「開けるの?」

「慶一さんに見せて、開ける順番を聞きなさい」

「おばあちゃんは、開け方を知ってるんでしょう」

「知っているから、私一人では開けられない」

祖母はそう言って、鍵を私の掌へ押し込んだ。

金属は冷たかった。長く人の体温から離れていたものの冷たさではなく、触れた指の熱を吸い取る冷たさだった。

土間へ降りると、父の姿はなかった。外套もない。早朝から除雪へ出たのだろう。玄関脇には、使い込まれたスコップが立てかけてある。柄の先に、白い雪が薄く積もっていた。

私は戸を開けた。

雪は膝下まで積もっていた。庭と道の境目が分からない。父が朝に除雪したはずの通路にも、細かな雪が流れ込んでいる。

私は一歩踏み出した。

その足元に、濡れた草履の跡があった。

家の中から、外へ向かっている。

私は息を止めた。

跡は縁側から続き、雪の上へ入っていた。だが、父の長靴の跡ではない。細い藁の底が、雪を浅く押している。ひと足、またひと足。昨夜まで家の奥へ進んでいたものが、今度は外へ向かっている。

ただし、跡は庭の途中で途切れていた。

その先には何もない。雪の白さだけが続いている。

戻りの跡も、もちろんない。

「千歳」

背後から声がした。

私は振り返らずに答えた。

「父さん?」

「違う」

低い声は、私のすぐ後ろから聞こえた。

私は振り返った。

父が土間の入口に立っていた。雪を払ったばかりの作業着を着て、片手に鉈を持っている。けれど、私を呼んだのは父ではなかった。

「今、誰かが呼んだ」

「呼んでない」

「でも、千歳って」

「俺は、今来たばかりだ」

父は私の足元を見た。家の中から外へ伸びる跡を見て、鉈を持つ手が下がった。

「寺へ行くのか」

「うん」

「行くな」

「行く」

「慶一に何を話す」

「日記を見せる。神棚の鍵も」

「ふじが渡したのか」

「父さんは知ってたの?」

「知っている」

「じゃあ、どうして何も言わなかったの」

父は雪の庭へ目を向けた。白い跡の先に、誰もいない。けれど、父はそこから目を逸らさなかった。

「言えば、戻れなくなる」

「何が」

「家が」

「また家の話?」

「お前には、家の話にしか聞こえないだろうな」

「だって、父さんはいつも家を理由にする。家を守る。家を崩すな。家の恥を外へ出すな。でも、その家の中で誰かが苦しんでいるのに、家を守ることだけを繰り返す。私やおばあちゃんを守ると言いながら、私たちを黙らせているだけじゃない」

父は鉈の刃を見た。刃には薄い錆が浮いていた。磨けば落ちる程度の錆だったが、父はそれを落とさずにいる。

「俺は、お前を外へ出したくなかった」

「東京へ行ったことを?」

「違う。あの家から出したくなかった」

父の声は、雪よりも低かった。

「お前の母親が死んでから、家の中はずっと足りなかった。食卓に座る人間が一人減った。声が一つなくなった。だが、俺はそれを言えなかった。家の中からいなくなったものを認めれば、本当にいなくなる気がしたからだ。だから、茶碗を一つ余分に並べたこともある。ふじに見つかって、片づけられたがな」

「父さん」

「お前が東京へ出たときも、帰ってこいとは言えなかった。言えば、お前まで家の不足を埋めるものになる。だから、病院だの帳面だの、戻る理由を並べた。必要だから呼んだと言えば、お前は戻ってくると思った」

「戻ってきたよ」

「そうだな」

「でも、私は誰かの代わりになるために戻ったんじゃない」

「分かっている」

「分かってないよ」

「分かっている」

父はそこで初めて、私を見た。

「分かっていたから、余計なことを言わなかった。言葉にすれば、お前が家の重さを測ってしまう。測れば、重すぎると分かる。分かれば、また出ていく。俺はそれが怖かった」

私は返事ができなかった。

父が誰かの声を借りるものを恐れていたのではない。家から人が出ていくことを恐れていた。だから、帰れないものを家の中へ残し、家族の誰かがそこに居続ける理由を作っていた。

それは守ることに似ていた。

似ているだけで、守ることではなかった。

「慶一さんに会ってくる」

私は言った。

「帰ってくるのか」

「帰る。でも、父さんが思っているような意味ではない」

父は少しだけ目を伏せた。

「外の雪道は、道を見失いやすい」

「家の中の方が、もう分からないよ」

父は何か言いかけた。けれど、結局、鉈を腰へ差し戻した。

「手袋を替えろ。今のは濡れている」

そう言って、父は納屋へ向かった。

私は自分の手袋を見る。確かに指先が湿っていた。父は何も言わず、納屋から乾いた手袋を持ってきた。私の手から古いものを取り、乾いた手袋を差し出す。子どもの頃、雪遊びのあとに母がしてくれたのと同じ手つきだった。

「ありがとう」

父は返事をしなかった。

私は手袋を替え、寺へ向かった。

集落の道は、雪に埋もれていた。父が除雪した筋を外れると、膝まで沈む。雪は音を吸い、私の呼吸だけが布の内側で大きく響いた。風はない。山の斜面は白く、木々は枝を折られそうなほど雪を抱えている。

歩くたび、家が遠ざかる。

それなのに、背中の風呂敷から、味噌蔵の匂いが消えなかった。

寺の山門が見えたのは、家を出てから二十分ほど経った頃だった。門前の雪は慶一が除雪したらしく、石段の両脇に高く積まれている。足元には、慶一が狭い歩幅でつけた跡が続いていた。

私は本堂脇の帳場へ回った。

戸を叩く前に、中から声がした。

「どうぞ」

慶一は、戸を開ける前から私が来たことを知っていたようだった。

帳場には、小さな灯油ストーブが置かれていた。炎の青い部分が硝子の向こうで揺れている。木と古い紙の匂いに、茶の香りが混じっていた。壁際には寺の帳面が積まれ、窓辺には雪解け用の古い草履が一足、新聞紙の上に置かれている。

慶一は私の顔を見ると、すぐに何も尋ねなかった。

「濡れていますね。まず、こちらへ」

手のひらで火の近くを示す。私は腰を下ろし、手袋を外した。指先が赤くなっている。慶一は湯飲みを一つ、私の前へ置いた。

「熱いので、すぐには飲まないでください」

「慶一さん。聞いてほしいことがあります」

「はい」

「先に、日記を見てください」

私は風呂敷をほどき、黒ずんだ帳面を取り出した。

慶一は表紙へ触れなかった。まず私の顔を見、それから日記へ視線を落とした。すぐに手を伸ばさず、灯油の炎を確認するように一度だけ目を向ける。

「ふじさんのものですか」

「若い頃の字だと言っていました」

「読んだのですね」

「はい」

「どこまで?」

「雪の晩に客を泊めたこと。草履が片方濡れていたこと。夕飯が三人分なのか四人分なのか分からなくなったこと。それから……『帰り道、なし』」

慶一は、日記を開いた。

紙をめくる音が、帳場の静けさの中で異様に大きく響いた。墨のにじんだ頁を一枚ずつ確認し、彼は最後に、私が印をつけた紙片へ指を置いた。

「この言葉を見て、千歳さんは何を思いましたか」

「帰れなかった人がいた。家の人が帰さなかった。どちらなのか、分かりません」

「分からないままでも、足跡は戻ってきた」

「はい」

「神棚の前に出て、家の中を歩いている」

「声も真似します。父の声、祖母の声、母の声。昨日は私の声で私を呼びました」

慶一は返事をしなかった。数珠を一度撫でる。木の珠が擦れ、乾いた音を立てた。

「家の中に、誰かを招き入れたとき、帰り道を示す責任が生まれます」

「帰り道は、戸を開ければいいんですか」

「戸だけでは足りないでしょうね」

「じゃあ、何が必要なんですか」

「その人が、どこから来て、どこへ帰るはずだったのか。その人が帰ることを、迎え入れた側が認めることです」

「認める?」

「泊めたことではありません。泊めたままにしたことを。帰すと言ったのに、帰す順番を変えたことを。名前を聞かず、名前を呼ばず、いなくなったあとも、いなかったことにしたことを」

私は湯飲みへ手を伸ばした。熱が掌へ移る。茶の表面で湯気がゆっくりほどけていた。

「それは、幽霊なんですか」

慶一はすぐには答えなかった。

「そう呼ぶと、少し簡単になります」

「簡単?」

「幽霊なら、追い払えばいい。祓えばいい。帰すべき場所へ返せばいい。けれど、家に残っているのが、誰かを帰さなかった記憶そのものだとしたら、祓っても終わりません。記憶を作った人間が、何をしたかを認めない限り、別の形で残る」

「草履の持ち主は、人だったんですか」

「おそらくは」

「名前は?」

「日記にないのですね」

「ありません。ふじも知らないと言った」

「知らないのではなく、呼ばなかったのかもしれません」

私は息を止めた。

「呼ばなかったことと、知らないことは違う」

「はい。名前を聞けば、その人を家族として扱わなければならなくなる。客としても、迷い人としても、ひとりの人間としても。けれど、名を聞かなければ、責任を曖昧にできる。『誰か』のままなら、誰もその人を帰さなかった罪を引き受けずに済む」

慶一の声は静かだった。責める調子ではない。だからこそ、私には父や祖母の沈黙が、これまでよりはっきり見えた。

「父は、家が崩れると言います」

「家を守るために、残すものを選んできたのでしょう」

「父も、その人を置き去りにしたんですか」

「宗太郎さんが、その夜に何をしたかは知りません。ただ、家の中で起きたことを知りながら、長く黙っていたなら、無関係とは言えないでしょう」

「それでも、父は家を守ろうとしている」

「守る、という言葉は便利です」

慶一は茶を一口飲んだ。

「人を外へ出さないことも、傷を見せないことも、古いものを捨てないことも、家を守ると言えてしまう。ですが、家は人が帰るための場所です。帰ることを拒まれた人を閉じ込めたままなら、その家はもう、守られる場所ではなく、留め置くための器になっている」

私は日記の頁へ目を落とした。

「神棚は?」

「見せてもらえますか」

私は風呂敷の中から、錆びた鍵を出した。

慶一は鍵を手に取らなかった。指先を近づけるだけで、しばらく眺めた。

「これを、ふじさんが?」

「はい。神棚の下の戸の鍵だそうです」

「開けるつもりですか」

「開けなければ、何があるか分からない」

「開けることが、知ることとは限りません」

「では、どうすればいいんですか。毎晩、声を聞いて、灯を消されて、濡れ跡を拭いて、何もないふりをして暮らせばいいんですか。私は、もう家の中の物を整えるだけでは、何も戻せないと分かってしまったんです」

声が震えた。

慶一は私を見ていた。急かさず、言葉を挟まず、私が言い終わるまで待っている。その静けさが、家の沈黙とは違っていた。家では、言葉を飲み込ませるために沈黙がある。ここでは、言葉が形を得るまで置いておくために沈黙がある。

「私は、家を守りたいんです」

自分でも驚くほど、言葉が続いた。

「父さんを責めたいわけじゃない。祖母を追い詰めたいわけでもない。家を捨てたいわけでもない。ただ、誰かが何かを知っているのに、私だけが知らないまま、家の乱れを拾い続けるのが嫌なんです。茶碗を戻して、灯をつけて、濡れた板を拭いて、そうしていれば家族を守れると思っていた。でも、私が整えていたのは、家族の暮らしじゃなくて、家族が見ないための形だったのかもしれない。もしそうなら、私は何のために戻ってきたんでしょう」

慶一は数珠を撫でた。

「千歳さんが戻ってきた理由を、私が決めることはできません」

「はい」

「ただ、家を守ることと、家族を守ることが同じでない場合はあります。家族を守るために、家の一部を閉じることもある。反対に、家を守るために、家族の誰かを沈黙の中へ置くこともある」

「それは、父のことですか」

「あなた自身のことでもあるでしょう」

私は湯飲みの縁を見た。

茶が冷めかけている。湯気が細くなり、灯油の火が硝子の向こうで青く揺れていた。

「私は、家を整えれば、ここにいていいと思えるんです」

口にすると、胸の奥に隠していたものが、ゆっくりと姿を現した。

「役に立たなければ、戻ってきた意味がない。父さんの代わりに帳面を見て、祖母の代わりに台所に立って、誰かが気づかない乱れまで拾えれば、私はこの家にいる資格があると思える。でも、そうやって役割を埋めていけば、家の中に別のものが入る隙間までなくなる。なのに、あの草履の持ち主は、私の役割の隙間へ入ってくる。私の声を使い、私の場所へ立とうとする」

「場所を奪われるのが怖いのですね」

「はい」

「それは、草履の持ち主だけが怖いのではない」

私は答えられなかった。

寺の帳場の窓から、雪が見えた。白い斜面の上を、細かな粉雪が横へ流れている。音はしない。道も消えている。けれど、寺の石段には慶一の歩いた跡が残っていた。短く、狭い歩幅の跡だった。

慶一は鍵を私の掌へ戻した。

「名前を探すことは、正体を暴くことではありません」

「では、何ですか」

「その人を、誰かとして扱うことです」

「名が分からなくても?」

「名がないなら、まず『帰らなかった客』と呼ぶことはできるでしょう。草履の持ち主、濡れたもの、何か、ではなく。かつてこの家へ来て、帰るはずだった人として」

「それだけで、出ていくんですか」

「それだけでは足りないでしょうね」

「何が足りないんですか」

慶一は、窓の外へ目を向けた。

「迎え入れた側が、帰すことを恐れないことです」

私は鍵を握りしめた。

「父は、家を失うと言っています」

「家を失うことと、家の形が変わることは、同じではありません」

「でも、父にとっては同じなんです」

「そうでしょう。長く守ってきた人ほど、手放すことを崩れることだと思いやすい」

「慶一さんは、手放したことがあるんですか」

慶一は少しだけ笑った。笑ったというより、昔の傷へ触れたときの顔だった。

「あります。若い頃、ある家で、私も早く祓おうとしました。家族は怖がっていたし、村の者も騒ぎ始めていた。だから、原因を聞くより先に、追い払おうとした。結果、その家からは人が一人出ていきました。怪異が消えたのかどうか、今も分かりません。ただ、家族はその人を失ったまま、何も終わっていない顔で暮らしていました」

「その人は、戻ったんですか」

「戻りませんでした」

慶一は一拍置いた。

「だから私は、祓うという言葉を簡単には使いません。追い出すことが、帰すことになるとは限らない。帰る道を示すには、まず、そこにいたことを認めなければならない」

腕時計の秒針が、帳場の静けさの中でやけに大きく聞こえた。

一秒。

また一秒。

家の中で何かが欠けたまま、ずっと同じ時間を踏み続けている。

私は日記を閉じた。

「帰らなかった客」

口にしただけで、背中が冷えた。

寺の戸は閉まっている。風も入っていない。それなのに、私の足元へ冷たい湿り気が流れてきた。

畳の上に、濡れた跡が一つ浮かんでいた。

寺へ入る足跡ではない。

帳場の奥から、私の方へ向かっている。

慶一も、それを見た。

彼は立ち上がらなかった。ただ、数珠を一度撫で、私の手元へ目を落とした。

「今、名前を呼びましたね」

「はい」

「誰を?」

「帰らなかった客を」

濡れ跡が、もう一つ増えた。

私の足元まで来て、そこで止まっている。戻る跡はない。

慶一は、低い声で言った。

「それは、もう家の中だけのものではないようです」

私は振り返らなかった。

寺の奥に、誰かが立っている気配がした。姿は見えない。けれど、濡れた藁の匂いが、木の香りのする帳場へゆっくり満ちていく。

慶一が灯油の火を見た。

炎は消えなかった。

ただ、火の向こうの暗がりに、誰かの声が混じった。

「……帰る」

それは、私の声ではなかった。

父の声でも、ふじの声でもない。

聞いたことのない声なのに、私はその言葉を知っていた。何十年も前、神棚の前で、誰かが待ちながら口にしたはずの言葉だった。

帰る。

けれど、その声には、帰る道を失った者だけが持つ、薄い諦めがあった。

私は腕時計を見た。

秒針は、まだ動いている。

その音を聞きながら、私は初めて、家の中へ残っていたものに、呼び名を与えた。

草履の持ち主ではない。

何かでもない。

帰らなかった客。

そう呼んだ瞬間、寺の床に残っていた濡れ跡が、わずかにこちらへ寄った。

帰り道を探すように。

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空白に名を与える - 戻らぬ灯 - 誰でも作家life