第6話 使われない神棚

味噌蔵から日記を持ち出した翌朝、家の中には、昨夜までなかった匂いが残っていた。
濡れた藁と古い木。それに、火を消したあとの灰に似た、乾いた苦さが混じっている。私は朝飯の支度をしながら、何度も鼻を動かした。鍋の中では大根と人参が煮え、味噌の湯気が立っている。いつもなら、湯気の匂いが家の隅々まで行き渡るはずだった。
けれど、その日は違った。
台所の熱が、廊下の途中で途切れている。
鍋の蓋を少し持ち上げる。味噌とだしの匂いが顔へ触れた。私は火を弱め、濡れ布巾を戸棚の縁に掛け直した。布巾の端が三センチほどずれている。指でつまんで揃えようとしたとき、背後の廊下で、板がかすかに鳴った。
振り向かなかった。
振り向けば、誰かがいる気がした。
昨夜から、家の中の音を聞くたび、私はそう考えるようになっていた。父の咳払いも、ふじの湯飲みを置く音も、もう一つの音に似せられてしまう。暮らしの中にあるものと、暮らしを真似るものの境目が、少しずつ薄くなっていた。
囲炉裏端では、ふじがひびの入った湯飲みを両手で包んでいた。火は低く、灰の中に赤いところがほとんど見えない。祖母は火箸で灰をならし、何かを数えるように指先を動かしていた。
「おばあちゃん」
ふじは顔を上げた。
「神棚を見せて」
火箸の先が止まった。
「どこの神棚だい」
「仏間の奥の、使われていない方」
ふじはすぐには答えなかった。湯飲みを一度、布巾で拭いた。すでに拭いたものを、もう一度。そうしてから、湯飲みを置く位置を探すように畳へ目を落とした。
「行って、何をするんだい」
「見るだけ」
「見たら、戻っておいで」
「何かあるの?」
「何もないよ」
「何もないところへ行くなと言う人は、何もないとは言わない」
ふじの目が、わずかに揺れた。
日記は、私の部屋の手帳の下へ隠していた。父には見つからないようにしたつもりだったが、隠したという事実そのものが、胸の奥へ重く残っている。古い紙の湿り気が、まだ指先にある。ページの隅に描かれていた楕円と、その横で途切れた線。あれが草履なのか灯明皿なのか、私は決められずにいた。
決めてしまえば、それが居場所になる。
ふじの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「神棚に、日記と関係するものがあるの?」
祖母は湯飲みから目を上げなかった。
「日記は味噌蔵にしまっていた」
「どうして味噌蔵に?」
「紙は、目につくところへ置かないものだよ」
「誰の目につかないように?」
ふじの手が湯飲みの縁で止まった。
「千歳。お前は、知れば楽になると思っているのかい」
「分からない。でも、知らないまま家の中を歩く方が苦しい。何かがいる場所を避けて、何かがいない場所だけを使って、誰かの声を聞いても聞き間違いにして、そうやって普通に暮らす方が、私は嫌だ」
「普通に暮らすというのは、そういうことだよ。分からないものがあっても、飯を炊いて、火を守って、眠る。全部分かろうとしたら、暮らしは続かない」
「でも、見なかったことにしたものが、暮らしの中へ戻ってきてる」
ふじは火箸を置いた。
しばらく、囲炉裏の灰だけを見ていた。やがて祖母は、膝に手を置き直した。
「神棚の前で、大きな声を出してはいけない」
「名前を呼んでも?」
「誰の名前でも」
「それは、そこに誰かいるから?」
「名前を呼ばれたものが、呼ばれたと思うからだよ」
「思うって、どういうこと」
「人でも、ものでも、忘れられたものでも。呼ばれたと思えば、そこへ寄ってくる」
「じゃあ、ずっと呼ばないでいたら、いなくなるの?」
ふじは私を見た。
その目には、私が答えを欲しがっていることへの苛立ちではなく、答えを知ったあとに私が何をするのかを恐れる色があった。
「呼ばないだけでは、いなくならないものもある」
祖母は立ち上がろうとした。私は腕を貸した。細い肩が私の手の中で揺れる。ふじは礼を言わず、代わりに私の袖口の糸くずをつまんで取った。小さな白い繊維だった。
「神棚へ行くなら、私も行く」
「おばあちゃんは、ここにいて」
「一人で行かせる方が怖い」
「私が?」
「お前が、何かを見つけることがだよ」
祖母はそう言って、廊下へ歩き出した。
仏間へ続く道は、昼間でも薄暗い。障子から入る雪明かりが畳の上へ白く落ちている。私たちが歩くたび、床板の下で家が小さく軋んだ。
仏間の襖の前で、ふじの歩幅が狭くなった。
普段なら、ここを通るときも祖母は足を止めない。仏壇へ一礼することもなく、台所と自分の部屋を往復する。けれど、その日は敷居の前で立ち止まり、指先を三度、胸元で折った。
何を数えたのかは聞かなかった。
襖を開けると、仏間の灯明皿が見えた。火は消えている。油は残っているのに、芯の先は黒く湿っていた。私は新しいマッチを取り出しかけたが、ふじが首を振った。
「今は、つけない」
「灯を消したままにするの?」
「神棚の前で、火を動かしてはいけない」
「仏間なのに?」
「ここは、仏間だけじゃない」
その言葉に、私は奥を見た。
仏壇の脇、建て増しされた座敷へ続く細い廊下の先に、古い障子がある。障子紙は黄ばんでいて、桟の一本がわずかに傾いていた。そこからさらに奥へ進むと、普段は使わない小部屋がある。その壁に、神棚が据えられているのだと、私は子どもの頃に一度だけ聞かされていた。
私は障子へ手を伸ばした。
指が触れる前に、紙の向こうがふくらんだ。
風はない。
障子紙が内側からゆっくり押されたように、中央だけが白く浮いた。私は手を引いた。ふじの肩が私の腕へ触れる。
「おばあちゃん」
「見てはいけないよ」
「もう見えてる」
「見えるものだけを見ておいで」
「見えないものが、家の中を歩いてる」
私は障子を開けた。
古い座敷には、家具がほとんどなかった。壁際に低い箪笥が一つ、隅に壊れた火鉢が一つ。畳は日焼けし、部屋の中央だけが妙に濃く黒ずんでいる。誰も使っていないはずなのに、そこだけ畳が湿っていた。
空気が薄い。
息を吸っても、胸の奥へ入ってこない。土間の囲炉裏の熱とも、台所の油の匂いとも違う。鼻の奥へ冷えた木の粉が入り、喉の裏側へ張りつくようだった。
部屋の正面に、神棚があった。
木は黒ずんでいる。屋根の飾りは片方が欠け、扉は閉じたままになっていた。埃が積もっているのに、棚の縁だけは薄く拭われている。誰かが布巾を通した跡が、横一文字に残っていた。
「これ、おばあちゃんが拭いたの」
ふじは答えなかった。
「毎朝、仏間と神棚の前を通ってるよね。通るたび、ここだけ歩幅が小さくなる。拭いてるのに、使ってないと言う。手入れをしているのに、祈ってはいない。何を残してるの?」
「残しているんじゃない」
「じゃあ、何」
「置いてあるだけだよ」
「誰のために?」
ふじは神棚を見上げた。
その顔を見て、私は問いを続けられなくなった。祖母は、神棚の向こうにある何かではなく、その前に立てなかった自分を見ているようだった。
「昔は、ここで灯をつけていた」
「いつまで?」
「ある年まで」
「何があったの」
「不幸があった」
「誰の?」
ふじは答えなかった。神棚の扉に手を伸ばしかけ、途中で止める。その指先が、宙に浮いたまま小さく震えていた。
「開けてみよう」
「だめだよ」
「どうして?」
「中のものを、外へ出すことになる」
「閉じ込めておく方がいいの?」
「閉じ込めているつもりはない。あれは、もう外へ出るものではないんだ」
「それなら、どうして濡れ跡がここへ来るの」
私は畳を指した。
神棚の前から、細い濡れ筋が伸びている。丸く膨らんだ跡が一つ、その先にもう一つ。草履の底を引きずるように、部屋の隅から廊下へ向かっていた。
来た跡はない。
神棚の下に現れた濡れが、そのままこちら側へ流れ出している。
ふじは目を閉じた。
「触らないでおくれ」
「私は、触るつもりはない」
「見ることも同じだよ」
「同じじゃない。見ないままにすることが、今まで何をしたのか、私はもう知ってる」
声が震えた。怒鳴ったわけではないのに、部屋の壁へ強く当たったように響いた。
「日記に、帰り道がないと書いてあった。客が一人来た。草履が片方濡れていた。夕飯が三人分なのか四人分なのか分からなくなった。誰かがいたのに、誰もその名前を書いていない。そういうものを、ずっと味噌蔵の奥へしまっていたんでしょう」
「日記を読んだのかい」
「読んだ」
「宗太郎は知っているのかい」
「知ってる。返せと言われた。でも、理由は言わなかった」
ふじはゆっくりと神棚の前へ座った。膝が痛むのか、片手を畳へついている。私は手を貸そうとしたが、祖母は首を振った。
「この家は、昔から人を泊める家だった。雪が深くなれば、道で困った人を中へ入れた。入れることは、悪いことじゃない。囲炉裏の火を分けて、飯を出して、朝まで休ませる。それが家の役目だった」
「その客も?」
「そうだよ」
「何が違ったの」
「帰す順番を、家の都合で変えた」
ふじの声は、火の消えた灯明皿よりも小さかった。
「その晩は、父さんが村の役目で外へ出ていた。雪が強くて、戻るのが遅れた。客は濡れていた。草履が片方しかなく、足を痛めていた。私は囲炉裏のそばへ座らせた。味噌汁を出して、着物を乾かして、朝になったら寺へ送るつもりだった」
「それなのに、送らなかった」
「朝、雪が止まなかった。屋根の雪も、道の雪も、家の周りまで塞いでいた。客は何度も外を見た。帰らなければならないと言っていた。けれど、家の者は、もう一晩置けばいいと言った」
「どうして」
ふじの指が畳の目をなぞった。
「田の境をめぐって、家の中で揉めていた。外へ出れば、客が見たものを話すかもしれなかった。家の者は、それを嫌がった」
「見たものって?」
「家の中のことだよ」
「何を?」
「言えないことだ」
私は神棚を見た。
扉は閉じている。けれど、その奥から、古い布が擦れるような音がした。
「客は、神棚の前で待っていた」
ふじが言った。
「何を?」
「帰る道を」
「神棚の前で?」
「あの人は、ここへ通された。ここで待てと言われた。灯をつけておくから、朝になれば送ると言われた。でも、灯は消された」
私は息を吸い込んだ。薄い空気が喉を通る。胸の中まで届かない。
「誰が消したの」
ふじは答えなかった。
「おばあちゃん?」
祖母の顔が歪んだ。
「私が、灯を消した」
初めて、はっきりとした言葉だった。
「どうして」
「家の者に言われたからだよ。客を寝かせろ、明日まで待たせろ、今夜は誰も起こすな、と。私は言われた通りにした。灯を消して、神棚の扉を閉めた。客には、朝になれば道を案内すると言った」
「朝になったら?」
「客はいなかった」
「外へ出た跡は?」
「なかった」
「家の中には?」
「草履が片方だけ、神棚の前にあった」
ふじは自分の足元へ目を落とした。
「それを見て、私は探した。味噌蔵も、納戸も、屋根裏も、縁の下も。家中を探した。でも、見つからなかった。雪の上に出た跡もなかった。宗太郎の祖父は、事故だと言った。山へ迷い込んだのだろう、雪崩に巻かれたのだろう、と。村の者も、それで口を閉じた」
「でも、本当は違う」
「違うかどうか、私には分からないよ」
「分からないはずがないでしょう」
声を荒げた私を、ふじは静かに見た。
「千歳。人は、分かっていることでも、分からないと言うことで生き延びることがある」
その言葉が、胸の奥へ刺さった。
私は、東京で家から離れていた頃の自分を思い出した。電話に出なかった夜。父の声がいつもより短かった日。祖母の足が悪くなったと聞いても、仕事の締め切りを理由に帰らなかった冬。私は知らなかったのではなく、知らないふりを選んでいたのかもしれない。
「おばあちゃんは、ずっとここを拭いていたの?」
「灯を消した場所だから」
「祈っていたの?」
「祈る資格がないと思っていた」
「資格なんて、誰が決めるの」
「置き去りにした側が、祈って許されると思うのかい」
祖母の声に、初めて怒りが混じった。自分自身へ向けた怒りだった。
そのとき、廊下の方から薪を割る音が聞こえた。
宗太郎が外で薪を割っているのだと思った。だが、桧原家の薪割り場は納屋の裏で、古い座敷からは遠い。音はすぐ外ではなく、壁の向こう、家の中から響いていた。
ひとつ。
木が裂ける音。
もうひとつ。
続いて、宗太郎の声がした。
「千歳」
私は反射的に立ち上がりかけた。
ふじが私の手首をつかむ。
「返事をするな」
「父さんが呼んでる」
「父さんなら、そんな声では呼ばない」
声はもう一度響いた。
「千歳、戸を開けろ」
宗太郎の声に似ていた。けれど、語尾がわずかに浮いている。父は私に命令するとき、最後の音を落とす。今の声は、私が覚えている父の声を真似て、形だけを並べていた。
神棚の障子が揺れた。
風はない。
戸の前の濡れ跡が、一つ増えていた。
ふじは私の肩へ手を伸ばした。いつものように髪を撫でるのではなく、首の付け根を押さえる。指先が冷たい。
「見ないで」
「でも、父さんが」
「父さんは外だよ」
その直後、家の外から、本物の宗太郎の声が聞こえた。
「ふじ、千歳。どこにいる」
神棚の前にいる私たちは、二人とも動かなかった。
外の父が、もう一度呼んだ。
「返事をしろ」
部屋の中の偽の声が、それに重なった。
「返事をしろ」
同じ声が、同じ言葉を、半拍遅れて繰り返す。
私は喉の奥で息を止めた。耳の中で、二つの宗太郎が同時に鳴っている。外から届く声と、家の奥から返る声。どちらも父の声なのに、片方には雪の匂いがあり、もう片方には濡れた藁の匂いがあった。
ふじの爪が、私の皮膚へ食い込む。
「神棚の前で、誰の声にも返事をしてはいけない」
「おばあちゃん、ここから出よう」
「まだだよ」
「何がまだなの」
「灯を消したままだから」
祖母は神棚を見上げた。
「ずっと、消したままだった。だから帰る道がなくなった。帰る道をなくしたものは、家の中で道を探す。私たちの声を借りて、戸を探して、誰かの席を借りて、家の中に自分の場所を作る」
「じゃあ、灯をつければいい」
「つければ、帰る道ができる」
「だったら、早く」
「帰す道を開けたら、家の中のものも一緒に出ていくかもしれない」
「何が出ていくの」
ふじは私を見た。
「家そのものだよ」
その言葉の意味を考えるより先に、神棚の扉が内側から一度だけ叩かれた。
乾いた音だった。
次に、湿った音がした。
草履の底を、木の板へ置くような音。
私は無意識に神棚へ手を伸ばした。
「触らないで!」
ふじが叫んだ。
その声に反応したように、廊下の奥で何かが走った。濡れた足が畳を叩き、使われていない座敷から仏間へ、仏間から台所へ、家の中を一気に巡る音だった。
障子が次々に揺れた。
灯明皿の芯から、黒い煙が細く立ち上る。火はない。油も動いていない。それなのに、煙だけが神棚の前から廊下へ流れていく。
ふじは私の腕を引いた。
「出るよ」
「神棚は?」
「今は、まだ触れない」
「でも、これを放っておいたら」
「放っておくんじゃない。順番を間違えないんだよ」
祖母は私を連れて、廊下へ出た。背後で、神棚の扉がわずかに開いた。
隙間の向こうは暗かった。
中に何があるのかは見えない。ただ、冷たい空気がそこから流れ出して、私の頬を撫でた。湿った藁の匂いが濃くなる。
廊下の板には、神棚から外へ出た跡が続いていた。
神棚の前には、入ってきた跡がない。
それなのに、そこから家の中へ向かう跡だけが増えている。
ふじは私の手を握ったまま、台所へ急いだ。足元がおぼつかない祖母を支えながら、私は何度も後ろを振り返りそうになった。けれど、振り返るたびに、何かが一歩近づく気がした。
台所の入口で、父が立っていた。
肩に雪を積もらせ、手には薪割り用の鉈を持っている。外から戻ったばかりらしい。父は私たちの顔を見て、それから廊下へ目を向けた。
「何をした」
声が掠れていた。
「何もしてない」
「神棚を開けたのか」
「開いてない。勝手に――」
「触ったのか」
「触ってない!」
私が叫ぶと、父は鉈を下ろした。普段なら何を言われても背筋を伸ばしている父の肩が、そのときだけ重く沈んだ。
「神棚の前へ行くなと言っただろう」
「何があるのか言わないからでしょう」
「言えば、どうにかなるのか」
「少なくとも、何も知らずに近づくことはなかった」
「知らない方がいいこともある」
「もう聞き飽きたよ、それ」
私は父の前へ進んだ。
「家を守るために黙る。家を守るために閉じる。家を守るために、誰かを待たせたままにする。そうしてきた結果がこれでしょう。神棚の灯を消して、帰る道をなくして、それでも何もなかったことにしている。父さんは、まだこの家を守れているつもりなの?」
父の手が鉈の柄を握り直した。
「俺は、家を守ってきた」
「誰から?」
「外からだ」
「外から何を守ったの」
「土地を。家を。お前たちを」
「そのために、家の中へ入れたものを置いていったの?」
父は黙った。
背後の廊下から、ふじの声がした。
「宗太郎」
本物の祖母は私の隣にいる。
偽の声が、もう一度呼んだ。
「宗太郎。灯をつけておくれ」
父の顔から血の気が引いた。
私は、父の手から鉈がわずかに滑るのを見た。落ちはしなかった。父はすぐに握り直した。けれど、今まで何度も見てきた道具を持つ手が、初めて誰かの手のように震えていた。
ふじが私の肩へ手を置いた。
「千歳、今夜は神棚の前の障子を閉めるよ」
「閉めたら、また中へ置いていくことになる」
「そうだね」
「それでいいの?」
「よくはない。でも、今すぐ灯をつけるには、まだ足りないものがある」
「何が足りないの」
ふじは、廊下の暗がりを見た。
「帰す相手の名だよ」
その言葉を聞いた瞬間、家の奥で、草履を引きずる音がした。
ひとつ。
ふたつ。
こちらへ近づいてくる。
父は鉈を構えた。私はふじの腕を支えた。誰も廊下へ出なかった。出られなかったのではなく、そこへ足を置けば、家の中の何かに、自分の場所を教えることになると分かっていた。
やがて音は、台所の手前で止まった。
私たちの前には、何もない。
ただ、板の上に濡れた跡が一つ、ゆっくりと浮かび上がった。
その跡は、私たちの方を向いていた。
戻り道は、なかった。
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