第5話 味噌蔵の紙片

その夜、私は眠れなかった。

父が座敷の戸を閉めてから、家の中の音が変わった。囲炉裏の薪が弾ける音、屋根の雪が軒先へ滑る音、ふじの部屋から聞こえる寝返りの気配。それらはいつもと同じはずなのに、間にひとつ、別の音が混じっていた。

濡れた草履を、畳の上から引く音。

ひとつ進み、止まる。

しばらくして、またひとつ。

私は布団の中で目を開けていた。暗闇に慣れた目には、天井の梁が黒い帯になって見える。枕元の腕時計は、二時十七分を示していた。秒針が、薄い金属音を立てながら文字盤の上を進んでいる。

音は座敷の方から来ていた。

私は起き上がりかけた。だが、ふじの声が耳の奥に残っていた。

見るんじゃないよ。

場所を決めてはいけない。

布団の端を握り、私は動かなかった。動かなければ、そこにいるものも、こちらへ来る理由を失うような気がした。

やがて音は止まった。

止まったあとも、しばらく湿った匂いだけが残った。古い布と藁と、土壁の奥に溜まった水の匂い。私は息を浅くしたまま、朝まで眠らなかった。

翌朝、最初に見たのは、味噌蔵の戸だった。

戸は閉まっていた。昨夜、父が油を差したのか、蝶番の軋みは消えている。けれど、戸の下の敷居に、黒ずんだ濡れ跡があった。草履一足ぶんの幅で、蔵の内側から外へ出ている。

私はしゃがみ込んだ。

戻り道がない跡を、ずっと見てきた。

今度の跡は、戻ってきた跡だった。

ただし、蔵の中から。

指先を伸ばす前に、背後で茶碗の触れ合う音がした。ふじが土間へ降りてきていた。祖母は味噌蔵の戸を見ると、足を止めた。顔色が変わったわけではない。けれど、右手の指が、左手の指を順に数え始めた。

「おばあちゃん」

ふじは答えなかった。

「中に何があるの」

「味噌だよ」

「そういう意味で聞いてない」

「冬を越すものがある」

「日記も?」

数えていた指が止まった。

私はそれを見逃さなかった。

「どうして日記のことを知ってるの」

「知っているとは言っていない」

「今、止まったよね」

「年寄りの手が止まることくらいある」

「昨日、父さんが言った。家の中には触らない方がいい場所があるって。座敷へ近づくなとも言った。味噌蔵の戸が重いとも言った。おばあちゃんは、朝にここを通るとき、いつも戸を見ないようにしている。見ないようにしているのに、味噌樽を開ける手だけが遅くなる」

ふじは私を見なかった。味噌蔵の戸の脇に置いてある竹籠へ手を伸ばし、干した大根を一枚ずつ並べ替えた。乾いた大根の表面には白い粉が浮き、触れると薄く崩れた。

「千歳。家には、知らない方が暮らしやすいこともあるんだよ」

「それは、暮らしやすいんじゃなくて、考えなくて済むだけでしょう」

「考えたからといって、戻るものが戻るとは限らない」

「戻らないものを、戻らないままにしておく理由にはならないよ」

「戻す道がないものもある」

「だから、日記を隠してるの?」

ふじの手が、籠の上で止まった。

私は戸の取っ手へ手を伸ばした。

「開けるよ」

「開けてはいけない」

「どうして」

「中の空気が変わっている」

「もう変わってる」

「千歳」

「私の名前を呼ばないで」

言った直後、喉の奥が冷たくなった。ふじの声で呼ばれることに怯えているのか、それとも、別のものに名前を覚えられることを恐れているのか、自分でも分からなかった。

祖母はしばらく私を見た。視線はまっすぐではなく、私の肩の向こうへ向けられている。背後に何かあるのかと思い、振り返りそうになったが、ふじが低く言った。

「今は、私だけを見ておいで」

その言葉に、私は戸の取っ手から手を離した。

祖母は味噌蔵の前へ進み、腰を曲げて敷居を確かめた。濡れ跡の端へ指を近づけたが、触れずに引っ込める。代わりに、戸の脇に掛けられた古い手拭いを外した。

「父さんには言わないで」

「もう父さんも知ってるんでしょう」

「知っているのと、見ようとするのは違う」

「おばあちゃんは、見ようとしてるの?」

ふじは手拭いをきれいに畳んだ。いつもなら二つ折りにするだけの布を、今日は四つに折り、端をぴたりと揃えた。

「昔、見ようとした。見てしまった。だから、もう見ないようにしてきた」

それだけ言うと、祖母は囲炉裏の方へ戻っていった。

私は一人で味噌蔵の前に残った。

戸の向こうから、かすかな水音がした。

ぽた、と落ちる音。

私は取っ手を握った。木は冷たく、湿っていた。力を込めて引くと、戸は思ったより軽く開いた。

蔵の中の冷気が、顔へまとわりついた。

外の雪より冷たかった。土壁に囲まれた空気には、湿った木、塩、発酵した豆の匂いが重なっている。味噌の匂いは本来、濃くても温かい。ここにあるのは、長く閉じ込められた水の匂いだった。

私は小さな灯油ランプを持ち込んだ。炎が蔵の奥を照らし、味噌樽の丸い腹を浮かび上がらせる。樽は大小合わせて七つ。右手奥に三つ、左手に二つ、壁際に二つ。配置は子どもの頃から変わっていない。

ただ、一番奥の樽だけが、少し手前へずれていた。

私は樽の縁へ手を置いた。木は湿っている。ずらした跡が土間に残っていた。樽の下には、普段なら見えない棚の奥が覗いている。

そこに、布で包まれたものがあった。

取り出すと、布の端から古い紙がはみ出していた。濡れた藁の匂いがした。

私は蔵の入口を振り返った。

ふじはいない。

家の中から、鍋の蓋が触れる音が聞こえる。祖母が朝の味噌汁を見ているのだろう。私は包みを胸元へ引き寄せ、灯油ランプのそばへ戻った。

布をほどく。

中には、薄い帳面が一冊と、何枚かの紙片があった。表紙は黒ずみ、角が擦れている。紙は湿気を吸って波打ち、触れるたびに細かな繊維が指へまとわりついた。

最初の頁には、若い頃のふじの字が並んでいた。

今よりも細く、几帳面で、行の間隔が揃っている。天気、仕込み、薪の残り、村へ出た者の名前。生活の記録だった。日記というより、家を崩さないために一つずつ杭を打つような書き方だった。

私は頁をめくった。

ある冬の日付のところで、文字が急に乱れていた。

雪、夕方から強し。

味噌蔵の戸、閉まらず。

客、一人。

そこまで書かれていた。

次の行には、名前がなかった。

客、濡れている。草履片方。

私は紙面へ顔を近づけた。墨の匂いはもう残っていない。それでも、書かれた言葉の隙間から、冷たい夜の気配が立ち上がるようだった。

雪の晩、誰かがこの家へ来た。

濡れた草履を履いたまま、家の中へ通された。

私はさらに頁をめくった。

夕飯、三人分。

いや、四人分。

この一文だけ、上から何度も墨を重ねた跡があった。最初に書かれた文字を消し、別の数を書き、その上からまた直している。帳面の紙が薄く裂けていた。

次の頁には、短い言葉が一つだけあった。

帰り道、なし。

私はその五文字を、何度も目でなぞった。

帰り道がない。

迷ったのか。

出ていったのか。

出られなかったのか。

それとも、帰すつもりがなかったのか。

問いは次々に浮かんだが、日記は何も答えなかった。紙の端には、濡れた指で触れたような丸い染みがいくつも残っている。墨のにじみ方から見て、書いた直後に水をこぼしたのではない。何年もかけて、湿気が文字の中へ入り込んだようだった。

頁の隅に、小さな絵があった。

草履のようにも、灯明皿のようにも見える楕円形。その横に、細い線が一本だけ引かれている。線は紙の端まで続き、そこで途切れていた。

戻り道を描いたのかもしれない。

けれど、途中で誰かが筆を置いている。

蔵の奥で、樽の蓋がきしんだ。

私は顔を上げた。

誰もいない。灯油ランプの火が揺れている。戸は開いたままだ。外の雪明かりが細い帯になって、土間へ落ちている。

樽の間に、濡れた跡があった。

今まで見たものより小さい。草履の片方だけが、樽の奥からこちらへ向かって置かれている。足跡は一つで終わっていた。戻った跡はない。

私は帳面を抱えたまま、後ずさった。

背中が土壁に触れた。冷たい湿気が服を通り抜け、肩甲骨へ張りつく。

そのとき、蔵の外からふじの声がした。

「千歳」

私は返事をしなかった。

声は、もう一度呼んだ。

「千歳、そこにいるのかい」

今度は本物の祖母の声に聞こえた。けれど、ふじなら戸口から顔を覗かせるはずだった。私を呼びながら、蔵の中へ入ってくるはずだった。

声は戸の向こうで止まっている。

私は帳面を胸へ抱き、灯油ランプを消した。

暗闇の中で、湿った藁の匂いだけが濃くなった。

「おばあちゃん?」

呼びかけそうになり、口を閉じる。

外から、ふじの声がした。

「開けておくれ」

戸の向こうで、何かが木を擦った。

私は息を殺した。

「寒いから、開けておくれ」

言葉は祖母のものだった。だが、ふじは寒いとき、そんな言い方をしない。必ず「手が冷えた」と言う。子どもの頃から変わらない癖だった。

私は戸を見つめた。

暗闇の中で、戸の下から細い濡れ筋が伸びてくる。蔵の外から入ってきたのではない。戸の向こうに立つ何かが、敷居を越えずに、こちら側へ湿りだけを送っている。

濡れ筋は、私の足元へ近づいてきた。

「千歳」

声がまた呼んだ。

今度は、母の声だった。

私は帳面を抱きしめた。胸の奥に、古い傷を爪で押されたような痛みが走る。忘れていたわけではない。ただ、聞かないようにしていた声だった。

戸の外で、誰かが微笑んだ気配がした。

顔は見えないのに、そう感じた。

そのとき、家の奥から父の声が響いた。

「千歳!」

怒鳴る声だった。

私ははっとして、戸を開けた。

土間には父が立っていた。肩に雪を積もらせ、片手に古い鍵束を握っている。私の顔を見るなり、父は蔵の中へ目を走らせた。

「何を持っている」

「日記」

「戻せ」

「読んだ」

父の手が、鍵束を強く握った。金属同士が触れ、小さく鳴る。

「何を読んだ」

「帰り道がないって書いてあった。雪の晩に客を泊めたことも。草履が片方濡れていたことも。夕飯が、三人分だったのか四人分だったのか分からなくなっていたことも」

「戻せ」

「誰だったの」

「昔のことだ」

「名前は?」

「知らん」

「知らないはずがない。おばあちゃんの日記でしょう。父さんは何も聞かなかったの? この家で起きたことを、ずっと聞かないままにしてきたの?」

父は蔵の中へ一歩入った。長靴の底が土間の湿りを踏む。私が見つけた濡れ跡のすぐそばに、父の足跡が重なった。

「ふじが話したくないなら、それでいい」

「話したくないんじゃない。話せないんだよ」

「同じだ」

「違う。話せない人の沈黙まで、家の決まりにするから、何も終わらない」

「終わらせる必要があるのか」

父の声は低かった。

「あるよ。戻らない跡が、家の中を歩いてる。毎晩、場所を変えてる。私たちの声を借りて、家族の中へ入ろうとしてる。それでも父さんは、終わらせなくていいと言うの?」

「家は、終わらせる場所じゃない」

「じゃあ何。何でもしまっておく場所? なくなった人も、言えなかったことも、帰れなかったものも、全部抱え込んで、外から見えないようにしておく場所?」

「それで保てるなら、それが家だ」

「保ててない!」

声が蔵の壁へぶつかり、味噌樽の間で何度も反響した。

「家を守るために黙る。家を守るために、見ない。家を守るために、帰すべきものを帰さない。そうやって守ってきたつもりでも、残されたものは消えない。形を変えて、今度は私たちの暮らしの中へ入ってくる。父さんが守っているのは家じゃない。家の中にある、言えなかったことじゃないの」

父は黙っていた。

やがて鍵束を見下ろし、その中から一本を選んだ。黒ずんだ古い鍵だった。納戸の鍵か、座敷の鍵か、私には分からない。

「お前は、家の外へ出ていた時間が長い」

「それが何」

「外の家は、壊れたら捨てられる。戸が重ければ別の戸をつける。土地が痩せれば別の土地へ行く。だが、ここは違う。ここは、捨てられないものを抱えて立っている」

「だから、私にも抱えろと言うの」

「そうは言っていない」

「言ってるよ。何も知らされずに戻ってきた私に、掃除をさせて、帳面を見せて、家の乱れを直させて、最後にはこの中のものまで黙って背負わせる。私が家を整えれば、父さんは安心する。おばあちゃんが黙れば、父さんは昔へ戻らずに済む。でも、私は誰に守ってもらえばいいの」

父の顔が揺れた。

鍵束を握る手が、わずかに下がる。

「守るつもりだった」

「何を?」

「お前を」

「だったら、家の中に置いていかないで」

父は目を逸らした。

蔵の外では、雪が細かく降り続いている。音はない。白いものが戸口の向こうで積もり、庭への道を少しずつ消していた。

「その日記は戻せ」

父が言った。

「どうして」

「ふじに返せ」

「読ませてくれないなら、私が読む」

「千歳」

「私はもう、見なかったことにはしない」

父はしばらく私を見ていた。叱ることも、取り上げることもできずにいるようだった。

やがて、蔵の奥で何かが擦れた。

樽と樽の間を、濡れた草履がゆっくり進む音だった。

父の顔から血の気が引いた。

私たちは同時に奥を見た。

そこには何もない。けれど、一番奥の樽の蓋が、わずかに浮いている。蓋の隙間から、黒い湿気が細く立ち上っていた。

父が私の腕をつかんだ。

「出るぞ」

「日記を――」

「持って出ろ」

初めて、父が私の意見を止めなかった。

私は帳面を胸へ抱えたまま、蔵の外へ出た。父が戸を閉め、古い鍵を差し込む。鍵は一度では回らなかった。内側から押し返されているように、金具が固く動かない。

「父さん」

「黙っていろ」

父は両手で鍵を握り、力を込めた。

そのとき、戸の向こうから、ふじの声がした。

「宗太郎、開けておくれ」

父の手が止まった。

声は祖母のものだった。

だが、ふじは私たちと一緒に台所にいるはずだ。味噌汁の鍋を火にかけ、湯気の前で待っているはずだった。

戸の向こうで、もう一度呼ぶ声がした。

「宗太郎。中にいるんだろう」

父は鍵を回した。

金具が乾いた音を立てて噛み合う。

戸の向こうから、湿った草履が一歩、敷居へ近づいた。

私は帳面の最後の頁を開いた。

そこには、先ほど見落としていた薄い文字があった。

帰すなら、灯を消してはならない。

その下に、別の筆跡で書き足されていた。

帰すな。家を失う。

文字のどちらが先に書かれたのか、私には分からなかった。

ただ、味噌蔵の戸が閉じたあとも、濡れた藁の匂いは消えなかった。私の手の中の日記からではなく、家の奥の、まだ誰も開けていない場所から漂っていた。

← 横にスクロールして読み進められます