第4話 濡れ跡の順路

翌朝、濡れ跡は台所の流しの脇にあった。
目を覚ましてから、私はしばらく布団の中で動かなかった。夜のあいだ、何度か水の滴る音を聞いた気がする。けれど、眠りと目覚めの境目で聞いた音は、朝になると輪郭を失う。屋根から落ちた雪かもしれない。軒下の氷が割れたのかもしれない。そう思い直しながら、私は枕元の腕時計を見た。
五時五十一分。
仏間の灯を確かめるために襖を開ける。灯明皿の火は消えていた。油は残っている。芯の先だけが、昨日より黒く湿っていた。
畳の上には何もない。
私は息をつき、それから台所へ向かった。
流しの脇の板敷きに、細い濡れ筋があった。
水桶を持ち上げたあとに残るような、ひと足ぶんの跡だった。草履の底が板の目に沿って滑ったように、中央だけが濃い。端には細い藁の繊維が幾筋か浮いている。指を近づけると、まだ乾いていなかった。
水の冷たさとは違う冷えが、そこから上がってきた。
私はしゃがみ込み、匂いを確かめた。濡れた木。古い布。藁。それから、味噌蔵の戸を開けたときにだけ感じる、塩気を含んだ湿気。
外から入った匂いではない。
家の中のどこかで、ずっと冷やされていたものが、板の下から浮き上がってきたような匂いだった。
私は雑巾を水に浸し、固く絞った。指の関節へ水が染みて痛む。跡の上へ雑巾を置くと、布は何の抵抗もなく滑った。濡れは消えた。けれど、板の木目の奥に薄い灰色が残った。
何度拭いても、灰色は消えなかった。
最後に乾いた布で押さえると、布の端から藁の細い匂いが立った。
私は雑巾を流しで洗い、いつもの場所へ掛けた。掛けたあと、布の向きが少し斜めになっていることに気づき、直した。
そうしているうちに、父が土間へ降りてきた。
「また出た」
振り向かずに言うと、父は返事の代わりに鼻から短く息を吐いた。外套を羽織り、薪棚へ向かう。昨日から、父の仕事は増えていた。雪囲いの紐を締め直し、納屋の屋根を見回り、使わない道具まで一つずつ磨いている。手を動かしているあいだだけ、家の中のことを考えずに済むのだろう。
「台所にある」
「見た」
「いつ見たの」
「朝、降りてきたときだ」
「私より先に?」
「跡があった。それだけだ」
「それだけなら、どうして拭かなかったの」
父は薪を一本持ち上げた。乾いた木の表面を指で撫で、節の位置を確かめる。
「お前が拭くと思った」
「私が拭けば済むと思ってる?」
「家の中のことは、お前の方が細かい」
「そういう話じゃない」
「そういう話だ。濡れた板は拭く。薪が湿っていれば乾かす。戸が重ければ油を差す。やることをやればいい」
「それで、跡が毎朝出ることは?」
父は薪を囲炉裏の脇へ置いた。
「雪の湿りだ」
またその言葉だった。
昨日よりも、言い方が硬い。まるで自分へ言い聞かせているように聞こえた。
「雪は家の中を歩かないよ」
「歩いたとは言っていない」
「でも、跡は場所を変えてる」
「お前が見つける場所を変えているだけだ」
「私が移してるって言いたいの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、何を言ってるの」
父は囲炉裏へ薪を一本くべた。乾いた木が割れ、火の粉が一つだけ上がった。
「騒ぐなと言っている」
「騒いでない。確かめてる」
「同じことだ」
「違うよ。私が何も言わなければ、お父さんは全部を家の中へ押し込める。昨日の灯も、声も、濡れ跡も。そうやって、家の中に物を増やしていく」
父は火箸を取り、灰をならした。赤い炭が見えなくなる。
「家は、外へ捨てれば片づく場所じゃない」
「外へ捨てろなんて言ってない」
「では何をする」
「見て、考えて、必要なら誰かに相談する」
「誰かって誰だ」
「慶一さんでもいい」
父の手が止まった。
「寺へは行くな」
「どうして」
「雪の中で余計な話をするな」
「余計かどうかは、聞いてみなければ分からないでしょう」
「桧原の家に何か出たと、村中へ知らせたいのか」
「慶一さんは村中に話すような人じゃない」
「坊主は人の話を聞く。それで終わればいいが、聞いた話は消えん」
「消えなくていいものまで消そうとするから、家がおかしくなるんだよ」
父は私を見た。
眼差しの奥に、いつもの苛立ちとは別のものがあった。私が外へ助けを求めることを嫌がっているのではない。外へ出したら、戻せなくなるものを知っているような目だった。
「味噌蔵の戸を見てこい」
父は言った。
「話を変えないで」
「戸が重い。湿気が回っている」
「お父さん」
「千歳。家の中には、触らない方がいい場所がある。そこへ人を入れるな」
「誰を?」
父は答えなかった。
その沈黙が、返事よりもはっきりしていた。
私は台所へ戻り、朝飯の支度をした。鍋に大根と人参を入れ、味噌を溶く。湯気が立つ。ふじは囲炉裏の向こうで、ひびの入った湯飲みを布巾で拭いていた。いつもなら茶碗を置く前に一度だけ拭く祖母が、その日は同じ湯飲みを何度も撫でている。
「おばあちゃん」
声をかけると、ふじは湯飲みから目を上げた。
「流しの脇に出た」
「そうかい」
「台所まで来た」
「そうかい」
「どこへ向かっていると思う?」
ふじは湯飲みを置いた。置く位置が、いつもより少しだけ手前だった。祖母は気づいているはずなのに、直さなかった。
「向かっているんじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「探している」
「何を?」
祖母は火の中を見た。薪の皮が黒く縮み、内部の赤が薄く見えている。
「帰る場所だろうね」
「帰る場所なら、外でしょう」
「帰れないから、中で探すんだよ」
その声には、誰かを責める響きがなかった。だから余計に、私の胸へ重く落ちた。
「家の中に、帰る場所を作るの?」
「人は、帰る場所がなければ、いる場所にしがみつくものだよ」
「人なの?」
ふじは答えなかった。
代わりに、私の肩へ手を伸ばした。髪に触れようとして、途中で止まる。手はそのまま肩口へ降り、上着の布を軽くつまんだ。
「今日は、使われていない座敷へ行かない方がいい」
「どうして知ってるの」
祖母の指が離れた。
「知っているわけではないよ」
「でも、そこにあると思ってる」
「千歳」
「おばあちゃんは、跡がどこへ行くのか知ってるんでしょう」
ふじは視線を外した。
「濡れたものは、乾いたところへ行く」
「それだけ?」
「家の中で、まだ使われている場所には人の匂いがある。食べ物の匂い、火の匂い、眠った身体の匂い。そういうものに近づく」
「なら、私たちのところへ来てるじゃない」
「だから、場所を空けてはいけない」
「誰のために?」
ふじは言いかけた。けれど、唇を閉じた。言葉の代わりに、湯飲みを両手で包む。ひびの線が、祖母の指の間で黒く浮いた。
その日の昼、私は家じゅうの板を調べた。
台所の跡は消えていた。けれど、廊下の曲がり角に、同じ濡れが残っていた。板と板の継ぎ目に沿って、一歩ぶんだけ。そこから先には何もない。来た跡も、戻った跡もない。
私は廊下の端から端まで、足跡の位置を頭の中でつないだ。
縁側から入り、台所の流しへ。台所から土間を避け、廊下の曲がり角へ。そこから仏間へ向かうのではなく、建て増しされた古い座敷の方へ折れている。
家の中を知らない者の歩き方ではなかった。
使われていない場所を、迷わず選んでいる。
夕方、父は雪かきから戻ると、私の前に湯飲みを置いた。何も言わなかったが、茶は熱かった。私は両手で包み、冷えた指を温めた。
「座敷の前に出た」
私が言うと、父は作業手袋を外しながら、目を伏せた。
「近づくな」
「やっぱり、知ってるんだね」
「古い部屋だ。床が抜ける」
「床なら、見れば分かる」
「分かっていないから言っている」
「跡がそこへ向かってる。床が抜けるからじゃなくて、別の理由で行くなと言ってるでしょう」
父は手袋の雪を払い、火鉢の脇へ置いた。
「お前は、家の中を歩き回って何を見つけたい」
「何が入ったのか」
「分かってどうする」
「出す」
「出せると思うのか」
低い声だった。
私は湯飲みを置いた。茶の表面が震え、縁から一滴こぼれた。
「出す気がないなら、せめて名前を教えて」
「名前などない」
「名前がないものが、私の声で私を呼ぶの?」
「声を聞いたのか」
父の顔が変わった。
ほんのわずかだった。目の端が引きつり、呼吸が一度止まる。だが、私は見逃さなかった。
「聞いたよ。母さんの声で呼ばれた」
父は目を逸らした。
「聞き間違いだ」
「お父さん」
「昔の声を思い出しただけだ。人間は、聞きたい音を聞くことがある」
「じゃあ、誰が呼んだの」
「誰も」
「誰もいないのに、名前だけが聞こえた。濡れ跡が場所を変えて、仏間の灯が消えて、座敷へ向かっている。それでも誰もいないと言うの?」
父は答えなかった。
しばらくして、外で雪が屋根から滑り落ちた。重い塊が軒先を擦り、地面へ落ちる。家全体が一度だけ揺れた。
「家を壊すな」
父が言った。
「壊しているのは私じゃない」
「同じだ。昔のことを掘れば、家の柱まで揺れる」
「揺れるなら、どこが傷んでいるか分かる」
「分かっても、直せないものがある」
「直せないなら、支えるしかないでしょう」
「支えれば、そこに残る」
その言葉に、私は息を止めた。
父は自分が何を言ったのか気づいているのか、いないのか分からなかった。手袋を拾い、湿った指先を火へ向ける。火の熱で、濡れた革から獣のような匂いが立った。
「お父さん。あの部屋に、何があるの」
「何もない」
「なら、どうして近づくなと言うの」
「何もない部屋だからだ」
「何もないから、跡が行くんじゃないの?」
父の指が、手袋の縫い目を強くつまんだ。
ふじが囲炉裏の灰をならした。火箸の先が灰の中で何かに当たり、硬い音を立てる。
「今日は、もうやめなさい」
祖母が言った。
「でも」
「夜になる」
窓の外を見ると、雪は朝より細かくなっていた。空から落ちるのではなく、風に運ばれた粉が横へ流れている。薄暗い庭の向こうで、納屋の屋根が白く膨らんでいた。
夕食のあと、私は仏間の灯をつけた。炎は一度だけ大きく揺れたが、今夜は消えなかった。父は何も言わず、座敷へ続く廊下の戸を閉めた。閉める前に、敷居のあたりを一度見た。
私はその視線を追った。
板の上に、濡れた跡があった。
廊下の曲がり角から、使われていない座敷の前まで。そこへ向かって一歩ずつ進んだような、細い筋が続いている。最後の跡だけが濃く、まるでそこで立ち止まったように丸く膨らんでいた。
「父さん」
「見るな」
「もう見えてる」
「見えても、近づくな」
「どうして」
「そこから先は、昔の家だ」
「今の家と何が違うの」
父は戸の取っ手へ手をかけたまま、しばらく黙っていた。
「使わなくなった場所には、使わなくなった理由がある」
「理由を隠すために、使わなくしたんじゃないの」
「千歳」
「私はこの家に戻ってきた。戻ってきて、毎日掃除をして、食事を作って、壊れたものを直してる。でも、使われていない部屋だけは、誰も手を入れない。そこに何があるかも言わない。そうやって空けておくから、何かが入ってくるんじゃないの?」
父の手が戸から離れた。
「空けておく場所が必要なこともある」
「誰のために?」
父は私を見た。
その顔は疲れていた。頑固さの下に、冷え切った恐れがあった。私にはそれが見えた。見えてしまったから、これ以上責める言葉を続けられなかった。
父は無言で廊下の戸を閉めた。
戸が閉まる直前、座敷の奥で何かが擦れた。
濡れた草履を、畳の上からゆっくり引くような音だった。
父の背中がこわばる。
私は音のした方へ一歩進んだ。
閉じた戸の下から、細い濡れ筋がこちらへ伸びてくる。板の目に沿い、まっすぐに廊下へ入ってくる。だが、戸の向こうから出てきた跡はない。戸の前で途切れ、そこから先だけが新しく濡れていた。
まるで、戸の向こうにいたものが、戸を通らずにこちら側へ気配だけを置いたようだった。
「千歳、来るな」
父の声がした。
私は足を止めた。
そのとき、座敷の中から、ふじの声が聞こえた。
「千歳、こっちへおいで」
祖母は囲炉裏端にいる。私のすぐ後ろで、息を殺していた。
私は振り返らなかった。
戸の下の濡れ跡は、私の足元へ向かって少しずつ伸びている。冷たい藁の匂いが、廊下いっぱいに広がった。
誰かが、私を座敷へ呼んでいる。
それは祖母の声を借りていた。
けれど、語尾の上がり方がほんの少し違った。ふじが私を呼ぶときには、最後の音を長くしない。幼い頃から聞いてきた呼び方だから分かる。
今の声は、ふじの声に似せながら、私の記憶の中を探っている。
私は、濡れ跡の先を見つめた。
そこには何もない。
何もないのに、誰かが立ち止まっている。
父が私の前へ出た。背中で戸を隠すようにして、低く言った。
「戻れ」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
座敷の中から返事はなかった。
ただ、濡れた草履が畳を擦る音が、もう一度だけした。
今度は、こちらへ近づく音だった。
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