第3話 消える仏間の灯

その夜から、家の中の湿り気が変わった。
朝、目を覚ますと、枕元の空気が冷たかった。障子は閉まっている。隙間風が入った形跡もない。それなのに、布団から出した足首へ、濡れた布を巻かれたような冷気がまとわりついていた。
私は起き上がり、腕時計を見た。五時四十八分。いつもより早い。隣の部屋から父の寝返りも聞こえなかった。
襖を開ける前に、耳を澄ませた。
家は静かだった。静かすぎて、遠くの雪の重みが柱へかかる音まで聞こえるような気がした。私は襖の取っ手に手をかけた。木は乾いているはずなのに、掌へひやりとした湿りが残った。
廊下へ出ると、仏間の灯明皿が目に入った。
昨夜、火を消した覚えはない。眠る前には、確かに小さな炎が立っていた。祖母に言われた通り、芯の長さを整え、油の量も確かめた。けれど今朝は、灯明皿の中に油が残っているだけで、芯は黒く濡れていた。
火だけが消えていた。
私はマッチを擦った。硫黄の匂いが鼻を刺す。小さな炎を芯へ近づけると、一度は火が移った。青い火が芯の先で細く揺れ、それから黄色く膨らむ。
ほっとしたのは、ほんの一瞬だった。
火は、誰も触れていないのに、ふっと横へ倒れた。消えたわけではない。見えない息に押されたように細く伸び、そのまま黒い煙になった。
障子は閉まっている。
私は手を止めたまま、仏間の前に立った。畳の表面には、薄い濡れ跡が残っていた。仏壇の前から、台所へ向かってひと筋。昨日までより、少し奥へ入り込んでいる。
濡れ跡は足跡の形をしていなかった。草履を引きずったような細い筋があり、その途中で何度か膨らんでいる。片足を置き、次に踏み出し、また止まった。その繰り返しのようにも見えた。
私はしゃがみ込み、指を伸ばしかけた。
指先が畳へ触れる前に、背後で布が擦れた。
振り返ると、ふじが廊下の端に立っていた。寝間着の上に羽織をかけ、片手で柱を支えている。顔色が悪い。祖母は私ではなく、濡れ跡の先を見ていた。
「おばあちゃん、今、灯をつけたのに」
「つけなくていい」
「でも、仏間の灯でしょう。消えたままにしたら――」
「今は、つけない方がいい」
「どうして?」
ふじは答えなかった。代わりに、私の袖をつかんだ。
細い指だった。普段なら、私が腕を動かせば簡単にほどけるほどの力しかない。けれど、そのときの指は骨のように固く、袖口へ食い込んだ。
祖母は顔を上げず、私の手首のあたりを握っていた。
「呼ばれても、返事をしてはいけないよ」
「誰に?」
「誰でも」
「おばあちゃん、今、この跡を見てるよね。前にも同じことがあったんでしょう。だったら、何をしてはいけないのかくらい教えて」
「教えたら、お前はするから」
「教えない方が、私は何も知らずに触るかもしれない」
「触らないでおくれ」
「それだけじゃ分からないよ」
ふじの指がわずかに震えた。
「分からなくていいこともある」
「それを決めるのは誰なの。おばあちゃん? お父さん? この家?」
言葉が強くなった。祖母の手が離れる。離れた袖口には、冷たい湿気が移っていた。
そのとき、仏間の襖の向こうで音がした。
木が軋んだのではない。人が立ち上がるとき、畳へ体重を移すような音だった。かすかな衣擦れのあと、何かが襖のすぐ内側へ近づいた。
ふじの顔がこわばった。
私は反射的に声を出しかけた。
「誰――」
祖母が、今度は両手で私の袖をつかんだ。
「呼ぶんじゃない」
その声は、いつものふじのものではなかった。乾いて、切迫していた。長いあいだ閉めていた戸を、内側から誰かが叩いたような声だった。
襖の向こうで、気配が止まった。
そこにいる。
そう思った。
姿は見えない。影もない。襖は白く、桟の一本一本まで見えている。それでも、向こう側に誰かが立っていると、身体が先に理解していた。皮膚が粟立ち、首筋に冷たい汗が流れた。
やがて、襖の向こうから息を吸う音がした。
長く、湿った息だった。
ふじは目を閉じた。私は目を逸らせなかった。
「千歳」
声がした。
すぐ近くで呼ばれたように聞こえた。
母の声ではない。祖母の声でも、父の声でもない。けれど、誰かの口から出た「千歳」という音を、私の記憶の中から拾い上げて、少しだけ真似たような響きだった。
私は返事をしなかった。
襖の紙が、内側からかすかに膨らんだ。紙一枚を隔てて、誰かがこちらへ顔を寄せているように見えた。輪郭はない。ただ、白い面の中央だけが、呼吸に合わせてわずかに揺れている。
ふじの指が、さらに強く袖へ食い込んだ。
そのとき、土間から父の足音が聞こえた。
「何をしてる」
宗太郎が廊下へ上がってきた。片手に灯油の缶を持ち、もう片方の手には雪囲いに使う縄を握っている。朝から外へ出ていたのだろう。肩には雪が残り、作業用の手袋の先が濡れていた。
父は私たちを見て、それから襖へ目を移した。
「灯が消えた」
「またか」
その言い方に、私は振り返った。
「また、って言った?」
「火が消えたなら、つければいい」
「今、襖の向こうに誰かいる」
「いない」
「いるよ」
「見たのか」
「見てない。でも、いる」
「見ていないものを、いると言うな」
「お父さんだって、今の言い方は知っている人の言い方だった」
父は答えなかった。灯油の缶を床へ置き、仏間の前まで歩いていく。畳へ上がった父の長靴から、雪が一粒落ちた。白い粒はすぐに溶け、濡れ跡の筋へ吸い込まれた。
父は襖の取っ手へ手を伸ばした。
ふじが立ち上がろうとした。膝が崩れ、私は咄嗟に祖母の肩を支えた。
「開けないで」
ふじの声に、父の手が止まった。
「ふじ、灯をつけるだけだ」
「開けなくていい」
「仏間だぞ。閉めたままにしておく場所じゃない」
「今は、そこではない」
「何がそこではないんだ」
父の声が低くなる。怒鳴ってはいない。だが、木枠へかけた指に力が入っていた。
「灯が消えた。油はある。火をつければ済む」
「済まないよ」
私が言った。
父がこちらを見た。
「襖の向こうから、私の名前を呼んだ。今も、濡れ跡がある。これを見て、何もないと言うの?」
「声なんて、家の中ではいくらでも聞き違える」
「聞き違いなら、どうして祖母は呼ぶなと言ったの」
「ふじは昔のことを怖がっているだけだ」
ふじが顔を上げた。
「怖がっているんじゃない」
祖母の声はかすれていたが、はっきりしていた。
「知っているんだよ。家の中に入れたものは、入れた者が帰り道を教えなければならない。戸を開けて、灯をつけて、名前を呼んで、それから外へ出す。そうしなければ、入ったものは家の中で帰る場所を探し続ける」
「何を言ってる」
「宗太郎。もう、雪のいたずらだとは言えないだろう」
父の顔から、わずかに色が引いた。
「黙れ」
「黙ってきたから、また来たんだよ」
「来たんじゃない。何も来ていない」
「なら、どうして灯が消える」
「油の具合だ」
「どうして私の名前を呼ぶ」
「千歳の気のせいだ」
「どうして濡れ跡が、仏間からこちらへ伸びているの」
私は声を抑えられなかった。
「どうして、誰もそれを拭こうとしないの。いつもなら、父さんは何でも直すでしょう。戸の歪みも、屋根の雪も、壊れた道具も。なのに、これは見ない。見ないまま、私に火をつけろ、戸を閉めろ、飯を作れと言う。家を守るって、そうやって家の中に何かを置き去りにすることなの?」
父は私を見つめた。
その目に怒りはなかった。代わりに、見つけたくなかったものを見つけた人の疲れがあった。
「お前に、家の何が分かる」
「分からないから聞いてる」
「分からないままの方が、長く保てることもある」
「保っているんじゃない。腐らせているだけだよ」
言い終えたとき、襖の向こうから再び音がした。
今度は、父の咳払いだった。
宗太郎のものと同じ、喉の奥で一度だけ鳴らす癖のある咳払い。父本人はここにいる。なのに、襖の向こうでも同じ音がした。
父の手が取っ手から離れた。
ふじは目を閉じたまま、私の肩へ額を寄せた。身体がひどく軽かった。支えているのに、どこか遠くへ沈んでいくような重さがあった。
父は灯油の缶を持ち上げた。
「戸締まりをする」
「逃げるの?」
「外へ出る」
「今?」
「雪囲いの紐が緩んでいる」
「それは今しなくてもいいでしょう」
「家のことだ」
「家の中にいるものより、縄の方が大事なの?」
父は返事をしなかった。縄を握り直し、土間へ降りる。背中が遠ざかるにつれて、家の中の暗がりが広がった。父がそこにいる間は、どれほど頼りなくても、まだ家の形が保たれている気がした。
裏口の戸が開く。
冷たい風が入った。雪の匂いが一気に流れ込み、廊下の濡れ跡を撫でていく。
父の足音が外へ消えた。
すぐに戸が閉まる。
その途端、家の中はまた静かになった。
私はふじを囲炉裏端まで連れていき、座布団へ座らせた。祖母の肩へ毛布をかけ、火箸で灰をならす。赤い炭はほとんど見えなかった。私は薪を一本くべた。火が立ち上がり、祖母の頬を赤く照らす。
「おばあちゃん」
「何も聞かないでおくれ」
「聞かないと、また同じことになる」
「今は、まだ」
「まだ何?」
ふじは両手を火へかざした。指先が震えている。
「まだ、家の外へ出てはいない」
私は廊下を見た。
仏間の襖の前から、濡れ跡が台所の方へ伸びている。先ほどより長くなっていた。父が外へ出ている間に、一歩進んだのかもしれない。
「外へ出ていないって、どういうこと?」
「ここにいるということだよ」
「ここって、仏間?」
「家の中」
「どこにいるの」
「場所を決めてはいけない」
「どうして」
「場所を決めると、そこが居場所になるから」
ふじはそう言って、火箸で灰をならした。けれど、灰の下から赤い炭が一つ転がり出た。祖母はそれを見つめ、火箸の先で押し戻した。
「名前も呼んではいけない。場所も決めてはいけない。じゃあ、どうすればいいの」
「見ないことだよ」
「それで、ずっと家に置いておくの?」
「置いているつもりはなくても、置いてしまうことがある」
「おばあちゃんは、昔そうしたの?」
ふじの手が止まった。
しばらく、囲炉裏の火だけが鳴っていた。やがて祖母は私の方を見た。目の奥には、言葉にできないものが沈んでいる。後悔なのか、恐れなのか、それとも誰かをまだ待っている気持ちなのか、私には分からなかった。
「昔のことは、昔の人間が背負うものだよ」
「家に残ったものまで、昔には戻らない」
「千歳」
「私が戻ってきたから、これが来たの?」
口にした瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。けれど、祖母の目がわずかに揺れた。
「そういう言い方をするんじゃない」
「でも、私が戻ってきてから家の空気が変わった。父さんも、味噌蔵も、神棚も。私が家へ戻ったことで、何かが起きたなら――」
「お前のせいではない」
「じゃあ、誰のせい?」
祖母は答えなかった。
その沈黙を破るように、台所の流しから水音がした。
蛇口は閉まっている。
それでも、ぽた、と一滴が落ちた。
私は立ち上がった。ふじの手が伸びたが、今度は私の袖へ届かなかった。
流しの前の板は乾いていた。けれど、流しから廊下へ向かって、細い濡れ筋が伸びている。さっきまで仏間の前にあったものが、今は台所の入口まで来ていた。
私は雑巾を取った。
「触るな」
ふじが言った。
「拭かないと、広がる」
「触れば、こちらのものになる」
「もう広がってる」
「千歳」
「おばあちゃんは、何もしないで見ていろと言うの?」
雑巾を濡らし、固く絞る。冷たい水が指の節へ染み込み、爪の間が痛んだ。私はしゃがみ、濡れ筋へ手を伸ばす。
そのとき、仏間の方から、また声がした。
「千歳」
今度は、はっきり聞こえた。
母の声だった。
忘れようとしても忘れられない、幼い頃の記憶に残る声。台所から私を呼ぶときの、少しだけ語尾を上げる呼び方。私は何年も聞いていなかった。聞けるはずのない声だった。
指先から力が抜けた。
雑巾が畳へ落ちる。
「千歳」
もう一度、声がした。
近い。
仏間からではなく、私の背後から聞こえた。
私は振り向いた。
暗い廊下には何もない。障子の桟が白く浮かび、仏間の灯は消えている。けれど、畳の上に新しい濡れ跡がひと筋、仏間から台所へ伸びていた。
その先端は、私の足元で止まっている。
濡れ跡の端が、ゆっくりと膨らんだ。
まるで、そこへ草履を脱いだばかりの足が置かれているように。
私は動けなかった。背中へ冷気が張りつき、首筋を細い指でなぞられたような感覚が走る。母の声はもう聞こえない。代わりに、私の呼吸に合わせるように、どこかで湿った息が続いていた。
ふじが低く息を吐いた。
「……触るな」
その一言は、草履の跡よりも重かった。
私は雑巾へ手を伸ばさなかった。
仏間の灯は消えたままだった。油は残っている。芯も残っている。けれど、火だけが戻らない。
暗い襖の向こうで、何かが私たちの暮らしを聞いていた。
囲炉裏の薪が崩れ、赤い炭が灰の中へ沈む。
その音のあと、家の奥から、私の名前を呼ぶ声がもう一度した。
今度は、私自身の声だった。
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