第2話 言葉にしない二人

夕方になっても、縁側の跡は消えなかった。
昼過ぎに一度、薄日が差した。板敷きの白はその光を受けてぼやけ、私はとうとう消えるのだと思った。雑巾を手にしたまま近づいたが、跡の中央には湿った筋が残っていた。乾いていない。濡れているのに、水気はどこにも浮いていない。板の内側から、冷えが滲み出しているようだった。
私は雑巾を流しで洗い、固く絞った。縁側へ戻る途中、台所の戸棚に目がいった。上段の茶碗が一つ、手前へずれている。
朝、私が押し込んだはずだった。
指先で茶碗の縁をなぞる。冷たい陶器の感触に、細かなざらつきがあった。誰かが使った形跡はない。茶渋も、飯粒もついていない。それでも私は茶碗を元の位置へ戻した。戻してから、しばらくそこに手を置いた。
家の中の物が、少しずつ私の知らない並び方を始めている。
その考えを振り払うように、私は雑巾を持って縁側へ出た。
父は納屋の前にいた。鍬の柄を削っている。木屑が雪の上に散り、白い地面に薄茶色の斑点をつくっていた。父は道具の手入れをするとき、いつも同じ場所に腰を下ろす。背後に納屋の壁があり、家の中からも外からも顔を見られにくい場所だった。
「お父さん」
声をかけると、父は顔を上げなかった。
「縁側の跡、まだ消えない」
「そうか」
「見に来て」
「見た」
「朝に一度見ただけでしょう」
「一度見れば分かる」
削った木の粉が、父の手袋の上で小さく震えた。私は雑巾を握ったまま、納屋の前まで歩いた。雪を踏むたび、足元が沈む。家の外へ出ると、空気が薄くなる。屋根の雪が重く垂れ、遠くの山は白い幕の向こうに消えていた。
「何が分かるの」
「雪が押されているだけだ」
「草履の形に?」
「そう見えるだけだ」
「戻った跡がないのに?」
「戻る必要がなかったんだろう」
父の手が止まった。
私はその言葉を聞き逃さなかった。父はすぐに鍬の柄を裏返し、別の箇所を削り始めた。けれど、刃先は木に触れているだけで、さっきまでのようには進まなかった。
「戻る必要がなかったって、どういう意味?」
「言葉尻を拾うな」
「拾ってるんじゃない。聞いてるの。あの跡を見て、何も思わない人の言い方じゃなかったから」
「お前は、何でも意味をつけたがる」
「何でもじゃない。家の中で起きたことを、家の中のこととして見てるだけ」
「家の中で起きたことなら、家の中で片づける」
「片づけるって、拭いて消すこと?」
「そうだ」
「消えないものまで?」
父は鍬を置いた。木の柄が雪囲いの板に当たり、乾いた音を立てた。
「千歳。家というのはな、見つけたものを全部、表へ並べる場所じゃない。雨漏りがあれば桶を置く。柱が傷めば添え木をする。人に見せるのは、直してからだ。直せもしないものを見せたところで、家が弱るだけだ」
「弱っているから見せるんでしょう」
「誰に」
「慶一さんでも、村の人でもいい。少なくとも、家族には言うべきだよ。お父さんもおばあちゃんも、何か知ってる」
父の頬がわずかに動いた。
「ふじは年寄りだ。昔のことを覚えているだけだ」
「昔のことなら、どうしてあの跡を見たとき、あんな顔をしたの」
「どんな顔だ」
「見たくないものを見る顔」
「お前に何が分かる」
「分からないから聞いてるの」
「聞けば分かると思うな」
声は大きくなかった。けれど、雪の上ではその低さがよく響いた。吸い込まれるはずの音が、納屋の壁にぶつかって戻ってくる。
「私は戻ってきた。家のことをやるために戻った。帳面も、田畑のことも、祖母のことも、できる範囲で引き受けるつもりでいる。でも、何も知らされないまま、ただ戸を閉めて火を焚いていろと言われても無理だよ。家を守るって、お父さんが全部抱えて黙ることじゃないでしょう。誰かが見つけたものを、なかったことにすることでもないでしょう」
父は黙って私を見た。
雪が、父の肩に落ちた。白い粒は上着に触れるとすぐ消えたが、濡れた跡だけが黒く残った。
「お前を戻したのは、家を背負わせるためじゃない」
「だったら、何のため?」
「……戻ってきてほしかったからだ」
その言葉はあまりに小さく、風に混じれば聞き取れないほどだった。
「何、それ」
「聞こえただろう」
「聞こえたけど、意味が分からない。私は家のことをするために戻ったんじゃないの? お父さんが病院から戻って、祖母の足も悪くなって、田畑の帳面を見られる人がいなくなったから、私が必要だったんじゃないの?」
「必要だから呼んだと思うのか」
「違うの?」
父は答えず、納屋の屋根を見上げた。雪の重みで軒先がわずかに歪んでいる。父はその歪みを見つけると、すぐに脚立を取りに行こうとした。
「話をそらさないで」
「屋根が落ちる」
「今は屋根の話じゃない」
「落ちてからでは遅い」
「跡だって同じでしょう!」
自分の声が、家の壁に当たって跳ね返った。
父は脚立へ伸ばしかけた手を止めた。しばらく背を向けたまま立ち、それから低い声で言った。
「お前が戻ってきてくれた。それで十分だった。余計なものまで背負わせるつもりはなかった」
「でも、もう背負ってる」
「誰が背負わせた」
「お父さんと、おばあちゃんと、私自身」
言葉にした途端、胸の奥に溜まっていたものが動いた。東京にいた頃、私は家から遠く離れていることを、自由と呼んでいた。電話に出られない夜があっても、帳面の数字が合わなくても、誰かが病院へ行っていても、私は自分の机の前に座っていればよかった。
戻ってきてから、家の音を聞き分けるようになった。父が疲れているときの戸の閉め方。祖母が痛みを我慢しているときの湯飲みの置き方。味噌蔵の湿気が強い朝の匂い。見つけたものを見つけないふりにすることが、誰かの負担を増やすと知った。
「私が見なかったことにしたら、誰が見るの」
父は答えなかった。
代わりに、家の中からふじの咳が聞こえた。小さな咳が一つ。それから、囲炉裏の薪が崩れる音。
私たちは家へ戻った。
土間には灯油と濡れた木の匂いがこもっていた。父は入口で長靴を脱ぎ、向きを揃えた。私の長靴が少し斜めになっているのを見て、無言で直す。その手つきがいつもと変わらなかったので、かえって腹が立った。
囲炉裏端で、ふじは味噌を小さな鍋に溶いていた。湯気が顔の前に立ち上がり、祖母の表情を隠している。
「おばあちゃん」
ふじは鍋から目を上げなかった。
「父さんと、何を隠してるの」
火箸が灰に触れた。赤い炭が崩れ、細い煙が上がる。
「隠していることはないよ」
「じゃあ、縁側の跡を見たことがある?」
ふじは返事をしなかった。
「前にもあったんでしょう」
「千歳」
父が止めた。
「お父さんは黙ってて。おばあちゃんに聞いてる」
ふじは火箸を置き、膝の上で手を重ねた。節くれだった指先が、ゆっくりと一本ずつ揃えられていく。
「同じものかどうかは、分からない」
「跡の幅を見ていた」
「見たからといって、同じとは限らない」
「でも、何かを思い出した」
「人は、似たものを見れば昔を思い出すことがあるよ」
「それだけ?」
ふじはようやく私を見た。目の奥に疲れがあった。眠れない夜を何年も重ねた人の、暗く乾いた疲れだった。
「千歳。家には、戻れないものがあるんだよ」
父が立ち上がった。
「ふじ」
「戻れないもの?」
「言うな」
「言わなければ、また同じになる」
「何が同じだ」
「宗太郎」
祖母が父の名を呼んだ。父が他人からそう呼ばれるのを、私は初めて聞いた気がした。家の中で父はいつも父であり、当主であり、作業を止めない背中だった。その名前だけが、かつて父にも別の時間があったことを思わせた。
「この子は、もう見てしまった。見てしまったものを、知らないふりさせるのはやめなさい」
「話してどうなる」
「少なくとも、また置き去りにはならない」
父の顔から血の気が引いた。
「ふじ、余計なことを言うな」
「余計なことではないよ」
「家の中で済ませる」
「済ませていないから、戻ってきたんだろう」
囲炉裏の火が大きく揺れた。障子は閉まっている。風が入った様子はない。
私は二人の間に立つ言葉を探した。けれど、どれも足りなかった。父は家を守ろうとしている。祖母は過去を抱えたまま、同じ形で繰り返すことを恐れている。どちらも私を傷つけたいわけではない。ただ、守り方が違っていた。
「おばあちゃん、昔、誰かがこの家に入ったの?」
ふじの視線が、私の肩越しに廊下へ向いた。
暗い廊下の先で、障子がわずかにふくらんだ。
「入ったものは、帰り道を失うことがある」
祖母の声は、ひどく静かだった。
「それは、どういう意味?」
「家の中へ通されたものは、外へ出すときにも、同じように道を示してやらなければならない」
「誰かが、道を示さなかったの?」
「……そういうこともある」
「誰が?」
「名前を呼んではいけない」
「どうして」
「呼ばれたと思うから」
その瞬間、台所の戸口の向こうで、誰かが息を呑んだ。
私は振り向いた。
廊下には誰もいない。だが、障子の桟に沿って、細い水滴が一つ、下へ流れていた。家の中は乾いている。雪を踏んだ父の長靴も、私の毛糸の靴下も濡れてはいない。
それなのに、戸口の板敷きには、見覚えのある藁の匂いがあった。
ふじが私の手首をつかんだ。骨ばった指が食い込む。
「見るんじゃないよ」
「でも、そこにいる」
「いるから、見ないんだ」
「見ないままにはできない」
祖母の手が震えた。
「千歳、お前まで家のやり方を捨てないでおくれ」
「家のやり方って、黙って閉じ込めること?」
「違う」
「じゃあ何?」
ふじは答えなかった。代わりに私の髪へ手を伸ばし、いつものように一度だけ撫でた。乾いた手のひらには、囲炉裏の熱が残っていた。
「今夜は、戸を開けないで」
その言い方が、戸の向こうに何かいることを認めているように聞こえた。
父は立ち上がり、仏間へ続く襖を閉めに行った。襖を引く音が、家の奥へ長く響く。閉まりきる直前、暗がりの中から、湿った草履が板を擦るような音がした。
父の手が止まった。
私も、ふじも動かなかった。
音は一度だけだった。
そのあと、誰かが小さく息を吸った。父のものではない。ふじのものでもない。私の喉から出た音でもなかった。
父は襖を閉め、木枠へ手を置いたまま言った。
「明日の朝には、消えている」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
ふじは火箸を取り、灰をならした。赤い炭は見えなくなったが、火が消えたわけではない。灰の下で、細い赤がまだ息をしている。
私は台所へ戻り、洗い物を始めた。
茶碗を一つずつ洗い、布巾で拭き、棚へ戻す。手を動かしている間だけ、家はいつもの形を保っているように思えた。けれど、最後の茶碗を棚へ置いたとき、奥から水の滴る音がした。
一滴。
間を置いて、もう一滴。
私は流しを見た。蛇口は閉まっている。床も乾いている。
それでも音は、仏間の方から台所へ近づいてきた。
濡れた木を踏む音が、ひとつずつ、ゆっくりと。
私は振り向かなかった。
振り向けば、そこに誰かの顔がある気がした。顔が見えなくても、声だけは聞こえる気がした。家族の誰かの声を借りて、私を呼ぶ気がした。
廊下の奥で、障子がまた揺れた。
父の部屋から、咳払いが聞こえた。
ふじの部屋から、布団の擦れる音がした。
家族はそれぞれ、そこにいる。
そう思おうとした。
けれど、台所の戸口に立つ気配は、家族の誰でもなかった。
私が息を止めると、向こうも息を止めた。
家の中には、私たちの沈黙だけがあるはずだった。
その沈黙の隙間に、濡れたものが一つ、居場所を得ていた。
← 横にスクロールして読み進められます
