第1話 白い板敷きに残るもの

雪の朝は、家の中まで音が遠い。

目を覚ましてから、しばらく布団の中で耳を澄ませていた。屋根から雪が落ちる音も、軒下の風も聞こえない。音がないというより、降り積もった白いものに、家ごと包まれているようだった。

私は枕元の腕時計を見た。六時十二分。いつもより少し早い。隣の部屋からは、父の起きる気配もまだしない。

布団を出て、毛糸の靴下を履く。畳は冷えていた。足の裏から上がってくる冷気が、眠っていた身体を内側から細く締めていく。髪を手早くまとめ、母の形見の櫛を箪笥の上へ戻した。戻したつもりだったが、櫛の先がいつもより二センチほど外へ出ている。私は手を伸ばして位置を直した。

そうしてから、襖を開けた。

廊下の先は薄暗い。仏間の灯明皿には、昨夜の油がわずかに残っていた。火は消えている。私はマッチを擦り、灯芯へ火を移した。小さな炎が一度だけ青く揺れ、それから黄色く立ち上がる。

土間へ降りると、囲炉裏の火はまだ低かった。灰の表面に埋もれた炭が、赤い目のように二つ、三つ見えている。火箸で灰をならし、薪を一本くべた。乾いた木がぱち、と鳴った。

味噌樽の蓋を少し持ち上げる。冷えた木と塩気の匂いが鼻の奥へ刺さった。いつもと同じ匂いだった。私は蓋の端を布巾で拭き、元の位置に戻した。台所の戸棚を開け、茶碗を数え、湯を沸かす。欠けた茶碗が一つ、手前にずれていたので奥へ押し込む。急須の蓋を整え、包丁の向きを揃え、流しの水滴を拭いた。

家の朝は、物の位置を確かめることから始まる。

それが崩れていなければ、今日もどうにかなる。私は戻ってきてから、いつの間にかそう考えるようになっていた。

三度目の冬だった。

東京で使っていた手帳には、戻ってきた日のことをまだ書いていない。書こうとすると、何を書いても薄くなる気がした。父が病院から戻り、祖母の足が弱り、田畑の帳面を見られる者がいなくなった。そういう事情を並べれば、帰ってきた理由は説明できる。

けれど、理由を説明できることと、戻ってきたことを納得できることは別だった。

私は仏間の灯を確かめてから、縁側へ回った。

障子を開けたとき、白さが目に入った。

庭ではなく、板敷きの上に白いものがあった。

最初は、雪囲いの隙間から吹き込んだ雪だと思った。だが、板敷きには雪の粉が散っているのではなかった。薄い雪をやわらかく押しつぶしたような跡が、ひとつだけ残っていた。

草履の跡だった。

庭から縁側へ向かって、まっすぐ伸びている。

一足ぶん。

私は障子に手をかけたまま、動けなかった。庭には、昨夜から誰も出ていない。父は長靴で歩く。私は裏口から出る。祖母は、冬になると縁側まで歩くこともほとんどない。

それに、これは長靴や靴の跡ではない。

藁を編んだ底の模様が、輪郭の曖昧な白の中に沈んでいる。右、左と二歩ではなく、片足だけが家の内側へ置かれていた。そこから先は、何もない。

戻った跡もなかった。

庭へ続く足跡を探して、私は外へ出た。雪は膝の少し下まで積もっている。軒下から庭へ向かう場所には、昨夜の雪が均されたまま残っていた。獣の足跡も、風に飛ばされた枯れ枝の跡もない。

縁側の下には、冷たい空気が溜まっていた。顔を近づけると、濡れた木と藁の匂いがした。外の雪の匂いとは違う。水を含んだ草履を、暖まらない場所に長く置いたときのような匂いだった。

私はしゃがみ込み、板敷きの跡へ指先を伸ばした。

濡れている。

水滴があるわけではない。指の腹を当てると、板の冷たさとは別の湿りが皮膚に張りついた。私はすぐに手を引いた。指先に何かが付着したわけではないのに、藁の細い繊維が残ったような感覚が消えなかった。

「何してる」

背後から父の声がした。

私は振り向いた。宗太郎は土間に立っていた。作業用の上着を着て、手には祖父から受け継いだ鍬を持っている。朝から納屋へ運ぶつもりだったのだろう。父は私の顔を見ず、縁側の外へ目をやった。

「ここに、跡がある」

「見れば分かる」

「草履の跡だと思う。庭から入ってきてる。でも、外へ戻った跡がない」

父は鍬の柄を握り直した。木を削ったばかりの匂いが、土間の灯油の匂いに混じる。

「雪のいたずらだ」

それは返事というより、戸を閉める音に近かった。

「雪で、こんな形になる?」

「雪なんて、いくらでも歪む。屋根から落ちたのが跳ねたか、何かが押したかだ」

「何かって何」

「知らん」

「知らないのに、いたずらだと言うの」

父はようやく私を見た。怒っているようには見えなかった。ただ、顔の奥に固いものがあった。冬の朝、凍った水桶を割ろうとするときのような、力を入れる前の顔だった。

「跡がある。それだけだ。朝飯の支度をしろ」

「それだけじゃないよ」

「家の中に、変なものが入ったとでも言うのか」

声が少し低くなった。

「私は、そう言ってるんじゃない。まず確認したいだけ」

「確認して何になる。村の連中に、桧原の家に何か出たとでも話すのか。寺へ走るのか。雪の中を人に来てもらって、縁側の跡を見せるのか」

「家族に黙っているよりはいい」

「黙ってない。見ている」

「見ているだけで、何も言わないのは、黙っているのと同じだよ」

父の親指が、鍬の柄を一度撫でた。いつもなら、そこで話を切り上げる合図だった。納屋の雪、薪の残り、屋根の具合。父は必ず作業の話へ逃げる。

「屋根の雪を落とす。昼までに薪も見ておけ。味噌蔵の戸が重いから、あとで油を差す」

「今、その話をするの」

「家は話で暖まらん」

「家を守るって、そういうこと?」

口から出た言葉が、冷たい板の上へ落ちたように感じた。

父は何も言わなかった。怒鳴られると思っていたわけではない。父は怒鳴らない。怒鳴らない代わりに、黙ったまま相手の言葉を家のどこかへ押し込む。押し込まれたものは消えず、納戸や天井裏に積もって、いつか別の形で軋む。

「千歳」

縁側の影から、祖母の声がした。

ふじはいつからそこにいたのか分からなかった。薄い灰色の上着を羽織り、布巾を両手で畳んでいる。火の前にいたはずなのに、その指先は白く乾いていた。

祖母は跡を見ていた。

父とは違う見方だった。父がそこにあるものを片づけようとする目なら、祖母はそこにあるものの向こうを見ていた。草履の幅、向き、片方だけの並び。私はそう感じた。

「おばあちゃん、これ、何か知ってるの」

ふじは答えなかった。

布巾を一度開き、端を合わせ、もう一度折った。いつもなら一回で揃う折り目が、今日は少しずれている。祖母はそのずれを直さなかった。

「ふじ」

父が短く呼んだ。

「余計なことを言うな」

「私が聞いてるの」

祖母は私を見た。瞳の中に、火の赤が小さく映っている。

「知らないことは、知らないままにしておいた方がいいこともあるよ」

「でも、これは家の中にある。知らないままにしたら、なくなるの?」

「なくならないものもある」

「じゃあ、どうするの」

「触らないことだ」

祖母の声は小さかったが、父の声より強かった。

私は再び跡を見た。片足だけが、こちら側に置かれている。まるで歩き出す前の足ではなく、もう帰れないと決めた足のように見えた。

「触ってないよ」

「指でなぞっただろう」

祖母の視線が私の指先へ落ちた。

「どうして分かるの」

「濡れ方が変わってる」

私は息を止めた。

確かに、跡の中央に細い筋があった。さっき私が触れたところだけ、白い粉が薄く崩れている。祖母はそれを見ていた。

「前にも、あったの」

問いかけると、祖母の指が止まった。

「何が」

「この跡。今みたいな、戻らない跡」

囲炉裏の薪が崩れ、灰の中で赤い炭が割れた。ぱち、と音がした。祖母はそちらへ顔を向けたまま、しばらく動かなかった。

父が鍬を土間へ立てかけた。

「飯にしろ」

「お父さんは知ってるの?」

「何をだ」

「おばあちゃんが知ってること。神棚のことも、味噌蔵のことも、何で誰も触らないのかも」

「家には触らない場所がある。それだけだ」

「理由もなく?」

「理由を掘れば、家が軽くなるのか」

「分からないから怖いんだよ」

父の顔が、初めてわずかに歪んだ。

「怖いなら、怖いまま家を回せ。火を起こして、飯を炊いて、戸を閉めろ。そうやって冬を越してきた」

「それで越せなかったものがあるんじゃないの」

言ったあと、祖母が私の肩へ手を伸ばした。

止めるためなのか、支えるためなのか分からない。指先は軽かった。けれど、火の前にいた人の手とは思えないほど冷たかった。

「千歳」

「何」

「今日は、縁側を拭かないでおくれ」

「汚れてるのに?」

「そのままにしておきなさい」

「どうして」

祖母は、跡ではなく庭を見ていた。降り続く雪が、屋根の端から細く落ちている。音はほとんどしない。白いものが白いものの上へ重なり、境目を消していく。

「戻るものなら、戻るから」

それだけ言って、祖母は台所へ歩いていった。

父は鍬を持ち上げ、裏口へ向かった。背中が妙に大きく見えた。外へ出る前に、父は一度だけ雪の庭を振り返った。誰かの足跡を探すように。

私はその目を見てしまった。

父も、何かを知っている。

知っていて、見なかったことにしている。

けれど、まだそれを責めることはできなかった。父が長いあいだ、家の柱や屋根と同じように、倒れないことだけを役目にしてきたのを知っていたからだ。もし今、父が「分からない」と口にすれば、私はその身体を支えなければならない。祖母の沈黙も、父の意地も、結局は私のところへ流れてくる。

私は一人で縁側に残った。

昼になるまで、跡は消えなかった。

日が少し高くなり、障子の隙間から白い光が差し込む。光に照らされると、草履の跡は薄くなった。消えたと思って近づくと、板の木目の奥に湿った影が残っている。

私は雑巾を手に取った。

拭かないでおくれ、と祖母は言った。

それでも、汚れたままにしておくことに耐えられなかった。家の中の乱れは、放っておけば必ず広がる。戸のずれも、湿気も、帳面の誤りも、最初は小さなものだ。小さいうちに直せば済む。私はずっと、そうして家を保ってきた。

雑巾を跡のそばへ置く。

だが、板へ触れる前に、私は手を止めた。

縁側の外には、足跡がない。

それなのに、跡の奥、家の内側へ向かう板の先にだけ、細い濡れ筋が伸びていた。朝にはなかったものだ。縁側から廊下へ、廊下から台所の方へ。誰かが、私の目の届かないところで、もう一歩進んだように見えた。

家の奥から、障子が揺れた。

風はなかった。

私は雑巾を握ったまま、暗い廊下を見た。仏間の灯明は消えている。灯をつけたはずなのに、いつの間にか火がなくなっていた。

そのとき、廊下の奥で、何かが止まった。

足音ではない。床板の軋みでもない。ただ、そこまで進んできたものが、私に気づいて立ち止まったような気配だった。

私は呼びかけなかった。

呼べば、返事がある気がした。

返事を聞いてしまえば、もうこれは雪のいたずらではなくなる。家の中へ入ったものに、私の声で居場所を渡すことになる。

そう思ったのに、喉の奥から、名前がこぼれた。

「……誰?」

廊下の奥で、濡れた藁を踏むような音がした。

ひとつ。

それから、もうひとつ。

戻る音は、なかった。

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