第7話 雨の痕

放課後の美術室には、乾きかけた絵の具と湿った布の匂いがこもっていた。

窓は少しだけ開いている。けれど風はほとんど入らず、校舎のどこかでガムテープを切る音と、体育館から響く掛け声だけが、細い隙間を通って忍び込んでくる。昼間より人の少ない校舎では、遠くの物音まで近くに聞こえた。誰かが廊下を走れば、足音が壁の中を伝ってくる。

僕は机の上に蒼炎旗を広げた。

白い布の中央には、二年四組の象徴である蒼い炎が描かれている。濃い青から淡い青へ、何色も重ねてつくった炎だった。先端は細く尖り、風を受けて揺れているように見えるはずだった。

昨日までは。

今は、輪郭がところどころ膨らんでいる。細い線の端から青が流れ、隣の色へ渡っていた。濃淡の境目はぼやけ、布目に染み込んだ絵の具が、乾いたあとも雨の跡のように残っている。

近づいて見るほど、失敗ははっきりした。

僕は布の端を指でなぞった。乾ききらない布はざらついていて、爪の先に細かな繊維が引っかかる。その感触が、昨日の夜の冷たい雨を呼び戻した。

校舎裏の物干し台に、旗を広げていた。最後の青を塗り終えたところだった。みんなが帰ったあとも残り、風のない空を見上げながら、ようやく終わったと思っていた。

そこへ雨が落ちてきた。

最初は、ほんの数滴だった。

取り込めば間に合うと思った。けれど、絵の具は思っていたより乾いていなかった。布を持ち上げたとき、蒼い線が指の動きに引かれるように伸びた。水滴が落ちるたび、炎の輪郭が崩れていった。

誰かを呼ぶこともできたはずだった。黒木に連絡してもよかったし、美咲に手伝いを頼んでもよかった。

けれど僕は、濡れた旗を抱えたまま、誰にも見られない場所へ持っていった。

失敗した、と口にするのが嫌だった。

その言葉を言ってしまえば、旗のにじみが僕のものになる気がした。いや、実際に僕のものだった。最後に塗ったのは僕で、乾き具合を確かめなかったのも僕だ。だったら、僕が直すしかない。

「……描き直せる」

誰に聞かせるでもなく言った。

声は、自分で思っていたより硬かった。

机の端に、学年主任の古い絵の具箱を置く。金具は少し錆びていて、蓋を開けると木と乾いた顔料の匂いがした。中には、何年も使われてきた絵の具が小さな仕切りに並んでいる。白の蓋には青い飛沫がこびりつき、赤のチューブは何度も絞られたせいで、腹が薄く潰れていた。

僕は中身を一度すべて出し、色の順番を揃えた。青、紺、白。使うものだけを手前に置き、平刷毛を布の上へ並べる。机の角と旗の端がずれているのが気になり、養生テープを剥がして貼り直した。

貼り直した端が、今度はわずかに斜めになった。

僕は一度剥がし、また貼った。

「そこまでしなくてもよくない?」

声がして、手が止まった。

美咲が美術室の入口に立っていた。小さな水筒と、コンビニの袋を両手に持っている。髪の先が少し乱れていて、走ってきたのか頬が赤かった。

「体育館にいたんじゃなかったの」

「いたよ。だから走ってきた。黒木が、こっちにいるかもって」

美咲はそう言いながら机に近づき、袋から小さな菓子の包みを取り出した。いつものように、誰かに何かを渡すことで場を軽くしようとしている。

けれど、旗を見た瞬間、その動きが止まった。

「……これ」

僕は返事をせず、絵の具箱から紺色のチューブを取り出した。蓋を回す。固まった絵の具がねじ山に噛んでいて、なかなか開かない。

「にじんだんだね」

「少し」

「少しっていうか、けっこう?」

「塗れば戻る」

「でも、明日だよ」

「わかってる」

「手伝うよ」

僕はチューブを置き、平刷毛を持ち上げた。

「大丈夫」

言ってから、しまったと思った。

美咲は黙った。僕の返事が早すぎたことに気づいたのだと思う。けれど彼女は、それを責める代わりに水筒の蓋を開け、僕の右手の近くへ置いた。

「大丈夫って言う前に、一回飲んで」

「いらない」

「いらないじゃなくて。ずっと何も飲んでないでしょ」

「あとで飲む」

「あとでって、いつ?」

僕は布の上に平刷毛を置き、絵の具を少しだけ含ませた。毛先に水が残っている。多すぎる。わかっているのに、そのまま旗へ下ろした。

青が布目に沿って伸びた。

伸びすぎた。

「違う」

僕はすぐに雑巾を取った。だが、拭えばさらに広がる。指先に力が入り、雑巾の角が布へ押しつけられた。

「待って、強く拭いたら――」

「わかってる」

「ごめん、そういう意味じゃなくて」

美咲の声が小さくなる。

僕は雑巾を置いた。水を吸った布の冷たさが、指先から手のひらへ染みていた。

「……昨日の雨、予報では降らないって言ってたんだ」

自分から話し始めたことに、僕自身が驚いた。美咲は何も挟まず、立ったまま聞いている。

「夕方までは晴れてた。だから大丈夫だと思った。乾いてると思ってた。でも、たぶん僕がちゃんと確認してなかった。急いで終わらせたかっただけで。みんな帰って、僕も早く片づけたくて、乾いたことにした」

「誰も、急かしてなかったよ」

「でも、明日使うものだから」

「だからって、一人で全部持たなくていいでしょ」

「僕が最後に触ったから」

「最後に触った人が、全部の責任を持つの?」

美咲の問いは、強い声ではなかった。だから余計に返しにくかった。

僕は旗の端を見た。養生テープの白が、夕日の中で浮いている。きちんと貼り直したはずなのに、角がほんの少し浮いていた。

「……そういうものだと思ってた」

「誰が決めたの、それ」

「決めた人はいない」

「じゃあ、勝手に決めたんだ」

図星だった。

美咲は困ったように笑った。いつもの明るい笑い方ではない。相手を追い込まないように、笑顔の形だけを残したような顔だった。

「私さ、手伝うって言ってるのに、毎回大丈夫って言われると、手伝っちゃいけないのかなって思う」

「そういうつもりじゃない」

「うん。わかってる。わかってるけど、わかるだけだと、こっちは何もできないんだよ」

その言葉が、絵の具より重く机の上に落ちた。

僕は顔を上げられなかった。美咲の水筒の表面に水滴が浮かんでいる。冷たい飲み物なのだろう。細い水滴がゆっくり下へ流れ、机の木目に小さな輪をつくった。

「助けてって言えばいいだけじゃん」

「簡単に言うなよ」

思ったより大きな声が出た。

美咲の肩がわずかに揺れた。すぐに後悔したが、謝るより先に水滴を雑巾で拭いた。こぼれてもいないのに、机を拭いた。

「ごめん」

「ううん。私も、簡単に言った」

「違う。僕が……」

言葉が続かなかった。

僕が悪い。僕が確認しなかった。僕が一人でやると言った。僕が手伝いを断った。そこまでは言える。けれど、その先にあるものは、まだ言葉にならなかった。

美咲はしばらく黙っていた。やがて、机の上の菓子を僕の側へ押した。

「食べなくてもいいから、置いとく。あと、飲み物も。私、教室のテープ取りに戻るね」

「美咲」

呼び止めたのに、続きが出てこなかった。

美咲は振り返った。

「なに?」

僕は「ありがとう」と言おうとした。けれど、喉の奥で言葉が引っかかった。ありがとうと言えば、受け取ったことになる。受け取ったことを認めれば、自分一人ではないと認めることになる。

だから、別の言葉を探した。

「……これ、置いといて」

「うん。置いとく」

美咲はそれだけ言って、出ていった。

扉が閉まると、美術室は急に広くなった。廊下から聞こえる声も、遠ざかったように思えた。僕はもう一度、旗に向き直った。

平刷毛を水入れに浸す。冷たい水が毛先から手へ伝わった。水面で青い絵の具がほどけ、薄い煙のように揺れる。

僕は刷毛を洗い、古い雑巾で水気を取った。絵の具箱の中から、まだ使えそうな白を探す。蓋の裏に残った飛沫を見て、誰かが以前ここで同じように失敗を直したのかもしれないと思った。

その考えは、すぐに打ち消した。

昔の人がどうしたかなんて関係ない。僕が壊したものは、僕が戻す。

窓の外で、運動部の掛け声が途切れた。校舎の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。夕日は机から消え、養生テープの白も、旗の青も、同じ薄暗さの中へ沈んでいった。

僕は新しい布を旗の下へ敷き、浮いた端をもう一度テープで留めた。

今度は、角を何度も確かめた。

刷毛を持つ。

にじんだ青の上へ、濃い色を重ねていく。布目が刷毛を引き止めるたび、手の中に小さな抵抗が返ってくる。焦れば線が崩れる。力を抜けば、絵の具が薄くなる。

僕は息を吐いた。

誰にも頼らずにやると決めたなら、せめて明日の朝までに形にする。蒼炎旗を、二年四組の前に出せるところまで戻す。

美咲が置いていった水筒は、まだ机の右手にあった。僕はそれを見ないふりをして、刷毛を動かし続けた。けれど、さっきまでより少しだけ、握る力が弱まっていた。

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