第8話 手伝うと言ったのに

濁った洗い水の底に、青い絵の具が沈んでいる。
僕はその水を見ながら、刷毛の毛先を指でつまんだ。透明だったはずの水は、もう何度も青を受け入れて、底のほうから薄暗く濁っている。刷毛をすすぐたび、色はほどける。けれど、なくなるわけではない。水の中へ移り、別の形で残る。
佐伯先生は、隣の椅子に座っていた。
何かを話すわけでもなく、僕の手元を覗き込むわけでもない。時々、窓の外へ視線を向け、時々、古い缶コーヒーの蓋を指で押さえる。そのわずかな動きが、僕の呼吸の間隔と重なっていた。
僕は新しい水を汲みに行く気になれず、濁ったままの水へ刷毛を浸した。
毛先に残った青が、さらに濃い青を吸い込む。
「それ、替えたほうがいい」
佐伯先生が言った。
「まだ使えます」
「使えるかどうかではなくて」
先生は一度、言葉を止めた。
「今の君に合う水かどうかだ」
僕は返事をしなかった。水入れを持ち上げれば、階段の隅にある水道まで行かなければならない。数歩の距離なのに、いまはそれすら面倒だった。手を止めれば、焦りが戻ってくる。焦りが戻れば、また余計なところまで塗る。
佐伯先生は僕の返事を待たなかった。
立ち上がり、水入れを持っていく。蛇口をひねる音がして、冷たい水の落ちる音が踊り場に広がった。僕はその音を聞きながら、壁に掛けた蒼炎旗を見た。
水を吸った青は、乾いた場所と湿った場所で色が違う。昨日の雨でにじんだ輪郭の上に、僕が重ねた線がある。その線もまだ乾いていない。触れればまた崩れるし、触れなければ明日の朝までに形にならない。
佐伯先生が戻ってきた。
水入れを僕の右手側へ置き、乾いた雑巾をその隣に置く。刷毛も一本ずつ毛先が触れないように並べ直した。
「ありがとうございます」
言ってから、喉の奥が詰まった。
礼を言ったことより、自然に口から出たことが嫌だった。受け取ったことを認めたような気がした。
「どういたしまして」
佐伯先生は短く答えた。
僕は透明な水に刷毛を浸した。毛先についた青が、ゆっくりほどける。水の底へ落ちていく色を見ていると、胸の内側に張りついたものまで、少しずつ溶けていくようだった。
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。
一段飛ばしで駆け上がってくる、軽い靴音だった。足音は踊り場の手前で止まり、すぐに美咲の顔が窓の脇から現れた。
「いた……」
美咲は息を切らしていた。片手にコンビニの紙袋、もう片方にスポーツドリンクを二本抱えている。肩から小さなトートバッグを下げ、袋の口からチョコレートやパンの包みが覗いていた。
「先生もいたんですね」
「少しだけ」
佐伯先生は答えた。
美咲は僕を見た。それから壁の蒼炎旗、濁った洗い水、床に並べられた刷毛を順番に見た。いつものように笑おうとしたが、口元だけがわずかに動いて、笑顔にはならなかった。
「これ、飲んで。あと、甘いのもいるでしょ。黒木が、また何も食べてないんじゃないかって」
「大丈夫」
言葉が先に出た。
自分でも、その声が硬いとわかった。乾いた布を引き裂くような声だった。
美咲の表情が少し遅れた。
「……そっか」
紙袋を椅子の背にかけ、スポーツドリンクを一本取り出す。キャップを開けようとして、僕の手元を見た。僕が見ていることに気づいたのか、美咲はその手を止めた。
「開けとこうか」
「いらない」
「じゃあ、置いとく」
美咲は僕の右側へボトルを置いた。もう一本は佐伯先生の足元へ置く。
「先生もどうぞ。ぬるくなる前に」
「ありがとう」
「先生はちゃんと言うんですね」
「何を」
「ありがとうって」
佐伯先生は一拍置いた。
「受け取ったから」
美咲は僕を見た。僕は視線を旗へ戻した。
濃い青を少しだけ含ませ、にじんだ線の内側へ刷毛を置く。毛先が布目に引っかかり、青が思ったよりゆっくり沈んでいく。息を止めないようにした。けれど、指先には力が入った。
「手伝うよ」
美咲が言った。
「大丈夫」
また同じ言葉が出た。
今度は、言った瞬間に自分で分かった。僕は美咲を拒んだのではない。拒むための言葉を、反射的に選んだだけだった。
美咲は黙った。
僕は刷毛を動かした。線の端が膨らみ、青が予定した輪郭を越えた。
「……違う」
僕は雑巾を取った。
「待って」
美咲の声がした。
「拭くと広がるよ」
「わかってる」
「わかってるなら、なんで――」
「わかってるって言ってるだろ」
声が階段の壁に跳ね返った。
美咲の肩が揺れた。
僕はすぐに後悔した。けれど謝るより先に、床へ落ちた絵の具の滴を探した。何も落ちていないのに、雑巾で床を拭いた。手を動かしていれば、言葉を続けずに済む。
美咲が、低い声で言った。
「大丈夫って言われると、私は一回信じるよ」
僕の手が止まった。
「信じたいから。忙しいときに大丈夫じゃない人がいたら、何かしなきゃって思う。でも、本人が大丈夫って言うなら、そこを無理に開けるのは違うかなって思う。だから、一回帰る。でも、戻ってきたら、まだ同じところにいる。もっと手が震えてる。もっと顔色が悪い。それでまた大丈夫って言われる」
美咲は、紙袋の持ち手を握り直した。
「それを何回やればいいの?」
僕は刷毛を見た。毛先に青い絵の具が固まり、一本だけ外側へ跳ねている。
「僕は倒れない」
「倒れるかどうかの話じゃないよ」
「じゃあ、何の話だよ」
「何もしないで帰るのが嫌なの」
「何もしなくていいって言ってる」
「それが嫌だって言ってるの」
美咲の声は大きくなかった。大きくないのに、逃げ道がなかった。
「私、手伝うのが上手じゃないのは分かってる。飲み物を持ってきて、食べてって言って、明るくしてれば何とかなると思ってる。でも、それで届かないときもある。届いてないのに、同じことばっかりしてると、こっちも自分が役に立ってるふりをしてるだけに思えてくる」
「役に立つ必要はない」
「それを決めるのも、また君なの?」
言葉が詰まった。
美咲は一歩だけ旗へ近づいた。
「君が一人でできることを、私が横取りしたいわけじゃない。絵を塗るのが君のほうが上手いのも知ってる。色の違いを見つけるのも、布の乾き具合を見るのも、私より君のほうがずっと細かい。でも、それなら私は、細かくなくていいところをやれる」
「細かくなくていいところなんてない」
「あるよ」
「ない」
「あるって」
美咲は壁の下端を指した。白地に青い飛沫がいくつも残っている。小さな点や、線の外へ跳ねた跡。僕なら一つずつ白で塗り潰し、乾くまで待ち、また色を重ねる場所だった。
「ここ、テープで囲める。水も替えられる。使い終わった刷毛も洗える。君が触らないほうがいい場所を、私が触らないで見張ることもできる」
「見張るって」
「君がやりすぎないように」
僕は美咲を見た。
「僕を信用してないのか」
「してるよ」
返事は早かった。
「信用してるから、君が自分で自分を追い込むのを知ってる。信用してるから、手先が器用で、最後まで投げないのも知ってる。でも、投げない人は、投げないまま壊れることがある。そこまで一人でやるのが責任感なら、私はそんな責任感、少し嫌い」
最後の言葉だけ、かすかに震えた。
僕は顔を伏せた。
嫌いと言われたことが痛いのか、そこまで言わせたことが痛いのか分からなかった。胸の奥で、乾いた絵の具の塊がひび割れるような感覚がした。
「手伝ってもらったら、返さないといけない」
「何を?」
「時間とか、労力とか。僕のせいで残ってもらったなら、その分、ちゃんと完成させないといけない。手伝ってもらったのに失敗したら、その人の時間まで無駄になる」
「時間って、完成品になるの?」
僕は答えられなかった。
美咲は、紙袋から小さなチョコレートを取り出した。包み紙の角を何度か指で折りながら、言葉を選んでいるようだった。
「一緒にいた時間が、旗の出来で全部決まるなら、私たち、体育祭が終わったら何も残らないじゃん。優勝したら楽しかった、負けたら無駄だった。きれいにできたら頑張った、にじんだら失敗した。そんなふうにしか測れないなら、準備なんて全部、結果のための我慢になる」
「でも、旗は完成しないと使えない」
「そうだね。だから塗る。完成させるために、できることをする。でも、完成させることと、一人でやることは同じじゃないよ」
美咲はチョコレートを絵の具箱の蓋へ置いた。
「私は、君の失敗を引き受けたいわけじゃない。君から責任を奪いたいわけでもない。ただ、同じクラスで明日この旗を見るから、にじんだところから一緒に考えたい。君が最後に塗ったからって、雨まで君一人のものになるわけじゃないでしょ」
雨、という言葉を聞いた瞬間、昨日の校舎裏が胸の奥に戻ってきた。
濡れた布。指に引かれる青。誰もいない物干し台。雨音に紛れて、絵の具が崩れていく音。
僕はその場から逃げるように、刷毛を水入れへ戻した。
「そこ、濁ってる」
佐伯先生が言った。
美咲も僕も、先生を見た。
「水が濁っていると、どれだけ丁寧に洗っても、次の色へ濁りが移る。だから替える」
「今、それを言うんですか」
僕が言うと、先生は少し間を置いた。
「今だから言う」
それ以上の説明はしなかった。
先生は立ち上がり、水入れを持って階段の隅の水道へ向かった。美咲はその背中を目で追い、僕は旗へ目を戻す。
佐伯先生は、僕の代わりに作業を始めない。
僕の手から刷毛を取らない。
ただ、次に使える水を用意する。
それだけのことが、以前より大きく見えた。
「美咲」
「なに?」
「そのテープ」
「うん」
「細く切って、下の白いところを囲んでくれる?」
美咲はすぐには動かなかった。
「囲むだけ?」
「今は。絵の具には触らないで」
「分かった」
彼女はトートバッグから小さなはさみを取り出し、養生テープの端を探し始めた。端が見つからず、爪で表面を引っかく。二度失敗し、三度目でようやくテープが剥がれた。
ぺり、と短い音がした。
僕は新しい水を受け取り、刷毛をすすいだ。透明な水の中で、毛先の青がほどけていく。
「どこから剥がすの、これ」
「角を押さえて、横に折る」
「それ、先に言ってよ」
「聞かれなかったから」
「今聞いた」
美咲がテープを切る。長さは揃っていない。僕ならすぐに並べ直して、端を合わせるだろうと思った。
けれど、何も言わなかった。
僕は新しい平刷毛を持ち上げた。水気を雑巾へ吸わせ、絵の具を少なめに含ませる。布目のざらつきが、毛先を引き止める。今度は、線を追いすぎないようにした。
「これでいい?」
美咲が聞いた。
僕は手を止めずに答えた。
「もう少し右。そこから青が飛び出してる」
「右って、こっち?」
「そう」
「細かいなあ」
「ごめん」
「謝らなくていい。細かいのは知ってる」
その言い方に、少しだけいつもの美咲が戻っていた。
僕は線を引いた。
一度。
二度。
三度目を引きたくなったところで、手を止めた。まだ完全には揃っていない。けれど、ここから先は直すためではなく、揃っていないことに耐えられなくて触ることになる。
「そこまででいい」
佐伯先生が言った。
「まだ直せます」
「そうだな」
「だったら」
「できることと、続けることは別だ」
先生の声は、さっきより近くにあった。戻ってきていたらしい。水入れを置き、僕の刷毛の先を見ている。
「君が今、線を直したいのか、乱れを見たくないのか。それを一度分けたほうがいい」
僕は答えられなかった。
美咲が貼ったテープを見た。白い線は少し曲がっている。けれど、青い飛沫を囲むことで、視線が中央の炎へ戻るようになっていた。完全に消してはいない。消せないものを、消せないまま扱っている。
僕は旗から数歩離れた。
近くで見れば、にじみは残っている。雨の跡も、重ねた青の厚みも、曲がった養生テープも見える。
けれど、遠くから見れば、蒼い炎は立ち上がっていた。
「ね」
美咲が隣に立った。
「ちゃんと蒼炎旗だよ」
「ちゃんと、って言うなよ」
「じゃあ、何て言えばいいの」
「……分からない」
「私も分からない」
美咲はそう言って、少し笑った。
「でも、分からなくても、一緒に見られるならいいんじゃない?」
佐伯先生が、古い椅子に腰を下ろした。椅子の脚が床を擦り、低く軋む。僕はその音を聞きながら、刷毛を洗った。
誰も、「大丈夫」と言わなかった。
僕も、言わなかった。
代わりに、美咲がテープを切り、佐伯先生が水を替え、僕が線を引いた。三人の手が同じ旗に触れている。触れる場所も、触れない場所も、それぞれ違っていた。
美咲が、切ったテープを机の角へ並べた。長さはばらばらだったが、今度は僕も直そうとは思わなかった。
「水、もう一本あります」
「そこに置いて」
「開ける?」
「自分で開ける」
「分かった」
僕はペットボトルへ手を伸ばし、キャップを回した。小さな音がした。喉へ流れた水は冷たく、絵の具の匂いを少しだけ押し流した。
美咲は何も言わず、次のテープを切っている。
佐伯先生は、僕の作業速度に合わせるように、椅子の脚をほとんど動かさなかった。
刷毛が布目をなぞる。
ぺり、とテープが剥がれる。
水面が小さく揺れる。
その三つの音が、狭い踊り場に並んでいた。
僕は次の線へ刷毛を置いた。
今度は、ひとりで聞いている音ではなかった。
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