第6話 進行表の端

廊下の向こうから、黒木の声が聞こえた。

「体育館側、テープは余ってる。足りないなら倉庫から持ってくる。あと、明日の朝に運ぶ順番を変える。各クラスの旗は七時半までに昇降口へ」

誰かに指示を出しながら、黒木が近づいてくる。声は一定だった。急いでいるはずなのに、語尾が乱れない。僕は旗から目を離さず、濃くなりすぎた青の端を、細い平刷毛でなぞった。

線が震えた。

「そこ、重ねすぎ」

黒木が美術室の入口で足を止めた。

「わかってる」

「わかってるなら、一回乾かせ。上から塗り続けても、布が絵の具を抱えきれなくなる」

「乾かす時間がない」

「だから、全部を直すな」

黒木は進行表を脇に抱え直し、机の上へ視線を落とした。旗の中央に広がった蒼い炎。その輪郭は、雨を吸ったところだけ太くなり、本来の線からところどころ外れている。

僕には、その乱れがひとつずつ見えていた。

黒木にも見えているはずなのに、彼は細部ではなく、全体を見ていた。

「残るなら、残れる分だけやれ」

「残れる分って何だよ」

「今日ここにいられる時間。お前の体力。絵の具の乾き具合。明日の運搬までに必要な状態。全部含めてだ」

「そんなの、やってみないとわからない」

「やってみて、間に合わなかったらどうする」

「間に合わせる」

「方法を聞いてる」

「塗るしかないだろ」

「塗る場所を決めろって言ってるんだよ」

黒木は机の端にあった鉛筆を取り、旗から数歩離れた。美術室の入口からでは、細かなにじみはほとんど見えない。炎の形が崩れていることも、濃淡の境目が予定と違うことも、遠目にはただの陰影にしか見えなかった。

「明日、これを誰が見る?」

「クラスのみんな」

「近くで?」

僕は答えず、旗を見た。

「応援席から見る。グラウンドの反対側から見る。走ってる途中で見る。そういう旗だろ」

黒木は鉛筆の先で、にじみの広がった部分を示した。

「ここは遠目なら炎の腹に見える。ここも残せる。逆に、先端の線は直したほうがいい。細いから、離れると途切れて見える。下の白地に飛んだ青は、テープで囲めばいい」

「でも、近くで見たらわかる」

「近くで見たら、雨に濡れたこともわかる」

その言葉で、手が止まった。

黒木は、鉛筆を持ったまま続けた。

「だから何だ。明日の旗が、昨日の夜と同じ状態に戻らなきゃいけない理由はないだろ。雨に濡れた。にじんだ。直す。そのあとで使う。工程はもう変わってる」

「それは、開き直りだ」

「違う。変更だ」

「同じだろ」

「違う。開き直りは、何もしないことだ。俺は今、何を残して何を直すか決めてる」

美咲が、机の端に置かれたスポーツドリンクの蓋を回した。いつ戻ってきたのか、僕は気づいていなかった。彼女の手には、新しい養生テープの束と、紙コップが二つあった。

「黒木、教室のテープ持ってきた。あと、体育館の鍵、先生が探してる」

「職員室に置いてきた。あとで取りに行く」

黒木はすぐに返した。

「水、ここに置くね」

美咲が紙コップを僕の手元へ寄せる。

「いらない」

「はいはい。置くだけ」

彼女はそれ以上すすめなかった。スポーツドリンクのキャップも開けない。紙袋から取り出した小さなチョコレートを、絵の具箱の蓋の上に置く。それから黒木の進行表を覗き込んだ。

「どれくらい残ってるの?」

「旗だけなら、四十分。乾かす時間を含めて五十分」

「四十分で終わるの?」

「終わらせるんじゃない。朝、運べる状態にする」

黒木は進行表を開いた。端には、赤い線と青い線が何本も重なっている。予定の変更、追加された作業、削られた作業。その一つひとつが、紙の端を白く擦り減らしていた。

「ここ、空いてる」

美咲が進行表の端を指した。

「何が」

「八時から八時十五分。旗を設置したあと、応援席の確認までの間。ここなら、乾き具合を見る時間にできるんじゃない?」

黒木は紙を見たまま黙った。

「設置を早める」

「ほかにしわ寄せは?」

「朝の用具確認を五分短くする。五分は俺がやる。残りの五分は、旗を運んだ人間が見る」

「僕が見る」

口から出た言葉に、自分で驚いた。

黒木が顔を上げた。美咲も僕を見る。

「僕が、朝に確認する。乾いてなかったら、その場で触らない。浮いてるところがあれば、テープだけ直す」

言いながら、言葉が少しずつ手順になっていくのが分かった。今までなら、失敗を消す方法だけを考えていた。けれど、消えないものがあるなら、残った状態でどう扱うかを決めればいい。

黒木は進行表の端へ、青いペンで書き込んだ。

「七時半、昇降口。八時、設置。八時十五分、状態確認。雨が降ったら?」

「僕が布を外す」

「一人で?」

問い返され、僕は答えに詰まった。

黒木はペン先を紙の上で止めた。

「そこだよ。お前はすぐ、自分の名前だけを書こうとする」

「でも、僕が一番わかる」

「旗の状態はな。運ぶのは別だ。濡れた布は一人で持つものじゃない」

「持てる」

「持てるかどうかじゃない。落としたら、また直す時間が必要になる」

黒木は進行表を僕のほうへ向けた。余白に、役割が三つ書かれていた。

旗の確認。主人公。

運搬。黒木、美咲。

設置と固定。体育祭実行委員二名。

「俺は、旗をお前一人の責任にはしない」

黒木の声は低く、ぶっきらぼうだった。

「最後に塗ったのがお前でも、明日それを使うのはクラス全員だ。俺が進行を見るのは、責任を取り上げるためじゃない。責任の場所を分けるためだ。全部を一人の欄に書いたら、ほかの欄は空白になる。空白のままなら、何かあったとき誰も動けない」

僕は進行表を見た。

紙の端は折れ、何度も消しゴムをかけた跡が灰色に残っている。黒木は予定を崩さない人間だと思っていた。けれど、彼が守ろうとしているのは、予定そのものではなかった。予定が崩れたとき、誰かひとりに崩れたものが落ちないよう、紙の上で何度も組み替えているのだ。

「全部を直すのは無理だろ」

黒木がもう一度言った。

「でも、全部を一人で持つ必要もない」

その言葉は、さっきまでの短い指示よりも長く残った。

美咲がテープの端を探しながら、こちらを見ずに言った。

「黒木、これ、どこから剥がすの?」

「角を折れ」

「折っても見つからない」

「反対側」

「先に言ってよ」

「聞かれなかった」

「今聞いてる」

テープが、ぺり、と剥がれる。

その音に合わせるように、僕は水入れへ平刷毛を浸した。透明だった水が、少しずつ青に染まっていく。毛先を雑巾へ押し当て、余分な水を吸わせる。乾ききらない布のざらつきが、指先の奥まで伝わってきた。

「黒木」

「何だ」

「ここは、僕が塗る。下の白いところは美咲に囲んでもらう。先端が乾くまで、黒木は遠くから見ていてほしい」

「了解」

「ただ、僕がやりすぎていたら止めてくれ」

黒木の目が、旗から僕へ移った。

「止めていいのか」

「……うん」

「本当に?」

「何度も聞くな」

「お前が言うのが珍しいから確認した」

黒木は進行表に、また一行を書き足した。

「五分ごとに止める。遠くから見る。近くで直したい場所があっても、遠くから意味があるかを先に判断する」

「細かいな」

美咲が笑った。

「お前が言うか」

黒木は彼女を見ずに返した。

「長さの揃ってないテープを並べてる奴に言われたくない」

「これは長さを揃える作業じゃないもん」

「旗も同じだ。線を全部揃える作業じゃない」

黒木が言った。

美咲は一瞬、黙った。それから、切ったテープを一枚、白地の青い斑点の周りへ貼る。

「ここでいい?」

僕は旗から少し離れて見た。

「もう少し右」

「右って、こっち?」

「そう。青が飛び出してる」

「細かいなあ」

「ごめん」

「謝らなくていい。細かいのは知ってる」

美咲の声に、いつもの明るさが少し戻った。

僕は刷毛を旗へ置いた。

一度、引く。

青が布目へ沈み、にじみの端をゆっくり覆っていく。二度目は、最初の線を追いすぎないようにした。境目を完全に消そうとせず、炎の形が崩れない範囲で色を重ねる。

「そこまで」

黒木の声がした。

手が止まる。

「まだ塗れる」

「塗れるけど、塗らない。今はそれが正解だ」

僕は刷毛を持ち上げた。先端には、濃い青が薄く残っている。もう一筆入れれば、線は揃うかもしれない。けれど、その一筆で別の場所が膨らむ可能性もある。

僕は刷毛を洗った。

水面に青がほどける。旗の上では形を持っていた色が、ここでは輪郭を失っていく。けれど消えたわけではない。水の中へ移っただけだ。

「これで、いいのか」

僕は聞いた。

黒木は数歩下がり、旗を見た。美咲も並んで見る。三人の影が、白い壁の上で少し重なった。

「いい」

「本当に?」

「遠くからは」

「近くでは」

「近くでは、直した跡がわかる」

黒木は進行表の端を折り、ポケットへしまった。

「でも、明日見る人間の多くは遠くにいる。近くで見る奴がいたとしても、雨に濡れる前の旗を知らない。知らない人間には、これが最初からこういう炎に見えるかもしれない」

「それは、隠してるだけじゃないのか」

「そう思うなら、隠したままにするな」

黒木は僕を見た。

「お前が知っていればいい。雨でにじんだことも、直したことも。美咲がテープを貼ったことも、俺が運ぶ順番を変えたことも。旗の見た目に全部書かれていなくても、作った時間まで消えるわけじゃない」

美咲は、紙袋からチョコレートをもう一つ取り出した。

「それ、食べながら聞く話?」

「食べるのか」

「私が食べるの。誰も食べないから」

包み紙を破る音がした。小さなチョコレートを口へ放り込み、彼女は少しだけ眉を上げる。

「苦い」

「甘いものを食べて苦いって言うなよ」

「絵の具の匂いがするからだよ」

僕は初めて、旗から目を離して笑った。ほんの短い息が漏れただけだったが、美咲は見逃さなかった。

「今、笑った」

「笑ってない」

「笑ったって」

「作業に戻れ」

黒木が進行表を開いた。

「あと十二分」

「もう?」

「もうだ。残りは下の白地と、端の固定。中央は触るな」

僕は旗の端へ移った。養生テープを一枚切る。角を押さえ、布を引っ張りすぎないように貼る。テープは真っ直ぐではなかった。貼り直そうとして指をかけたが、やめた。

曲がった白い線が、青い炎の脇に残った。

以前なら、剥がしていた。角度が気になり、何度も貼り直し、粘着が弱くなるまで整えようとしていた。

今は、指を離した。

「ここ、少し浮いてる」

黒木が言った。

「わかってる」

「直さないのか」

「これ以上剥がすと、布を傷める」

「判断は?」

「残す」

黒木は一度だけ頷き、進行表の端へ何かを書いた。

美咲が僕の横で、別のテープを切っている。長さはやはり揃っていない。それでも、貼られた白い線は青い飛沫を囲み、視線が中央へ戻る道をつくっていた。

作業台の上には、古い絵の具箱、冷たい洗い水、乾いた雑巾、開けられたスポーツドリンク、短く切られた養生テープが並んでいる。

僕が一人で用意したものではない。

旗には、僕の筆跡だけではない時間が重なっていた。

「そろそろ片づける」

黒木が言った。

「まだ、端が」

「明日に渡すには十分だ」

「でも」

「その“でも”を、明日の朝に残せ」

僕は旗を見た。

蒼炎は、完全には元に戻っていない。雨の痕は薄く残り、濃淡の境目も場所によって揺れている。けれど、遠くから見れば、炎は炎として立ち上がっていた。

きれいではない。

ただ、崩れてもいない。

「黒木」

「何だ」

「明日の朝、最初に僕が見ていいか」

「いい。見るだけなら」

「必要なら、直してもいい?」

「必要なら。必要でないなら、直すな」

「難しいな」

「難しいまま覚えろ」

黒木は進行表を閉じた。

「一人で判断できなければ、呼べ」

その言葉に、喉がわずかに詰まった。

以前なら、すぐに「大丈夫」と言っていた。けれど、その言葉はもう口の手前で止まった。僕は旗の端を見て、それから黒木と美咲を見た。

「……呼ぶ」

美咲が、切ったテープを机の端へ揃えた。

「誰を?」

「黒木か、美咲か。佐伯先生でもいい」

「先生は、たぶん椅子を持ってくるよ」

「それでもいい」

言ってから、自分の声が思ったより自然に響いたことに気づいた。

美咲は笑った。今度の笑顔は、場を明るくするためのものではなかった。僕の言葉を、そのまま受け取った顔だった。

黒木は進行表の端へ、最後の線を引いた。

「じゃあ、明日の七時半。昇降口」

「うん」

「旗は二人で運ぶ」

「僕も持つ」

「三人で運ぶ」

黒木は訂正した。

「二人で持つ必要があるほど重いなら、三人で持つ。人数を減らす理由はない」

美咲がすぐに手を挙げた。

「私、入る」

「決まり」

黒木はそう言って、旗の下へ手を差し入れた。

僕も反対側を持つ。布はまだ湿っていて、指先にざらつきが残った。ひとりで抱えたときより、重さの位置がはっきりしている。端が床へ落ちそうになると、美咲がすぐに持ち上げた。

「そこ、青ついてる」

「触らないで」

「持ち上げただけ」

「ごめん」

「だから謝らなくていいって」

三人で歩き出す。

廊下は、もうほとんど空になっていた。教室の明かりがいくつか消え、窓の外には夜の校庭が広がっている。体育館から聞こえていた掛け声も途切れ、代わりに台車の車輪と、遠くで鍵を回す音が残っていた。

蒼炎旗の布が、僕たちの歩みに合わせて小さく揺れる。

昨日の雨で崩れた線は、もう消せない。

けれど、消せないものを残したまま、運ぶことはできる。

美術室を出る前、僕は一度だけ振り返った。机の上に、古い絵の具箱と、使い終えた平刷毛が残っている。西階段の踊り場に置かれた、もう一脚の椅子も思い浮かんだ。

「佐伯先生に、何か言っておく?」

美咲が聞いた。

僕は少し考えた。

「明日、旗を運ぶって」

「それだけ?」

「それ以上は、まだわからない」

「そっか」

美咲はそれ以上、聞かなかった。

体育館へ続く廊下の角で、黒木が立ち止まった。旗を壁へ寄せ、乾きかけた部分が触れないように布の端を持ち上げる。

「今日はここまで」

「本当に?」

「本当に。これ以上やると、お前はまた直し始める」

僕は反論しかけたが、やめた。

手のひらには、青い絵の具が薄く残っている。洗えば落ちるかもしれない。落ちないかもしれない。けれど今は、それを確かめる気になれなかった。

僕たちは旗を仮の台へ載せた。

養生テープの白い端が、蛍光灯の下で少し曲がって見える。曲がっている。けれど、布は固定されている。炎は、明日の朝へ渡せる形になっていた。

僕はその端を指で押さえた。

今度は、剥がさなかった。

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