第5話 大丈夫の硬さ

濁りの少ない水の中で、青がゆっくりとほどけていく。
水面の青は、旗の上にあるときのような形を持っていなかった。炎にも、線にも、失敗にもならず、ただ薄い色として揺れている。僕はそれをしばらく見ていた。刷毛を洗うための水なのに、そこへ沈んだ色まで見届けなければならない気がした。
佐伯は隣に座っている。
何かを言うわけでもなく、僕の手元を覗き込むわけでもない。ただ、古い折りたたみ椅子に腰を置き、時々、窓の外へ視線を向けていた。椅子の脚が床に触れるわずかな音が、僕の呼吸の間隔と重なっている。
僕は新しい水で刷毛をすすぎ、雑巾に毛先を押しつけた。湿った布が、ぺたりと音を立てる。
「少し、休んだらどうですか」
佐伯が言った。
「休んでます」
「刷毛を洗うのは、休むことではない」
「手を止めてるので」
「手だけは」
僕は返事をせず、刷毛を絵の具箱の脇へ置いた。毛先がほかの道具に触れないよう、柄の向きをそろえる。一本だけわずかに斜めになっていたので、指で押して直した。
そのとき、階段の下から、急ぐ足音が聞こえた。
一段飛ばしで上がってくる音だった。革靴ではない。底の柔らかい運動靴が、階段の角を軽く叩いている。足音は踊り場の手前で一度止まり、それから、顔だけが窓の横へ現れた。
美咲だった。
片手にコンビニの紙袋、もう片方にスポーツドリンクを二本抱えている。肩から小さなトートバッグを下げ、袋の口から菓子の包みがいくつか覗いていた。
「いた……」
彼女は僕を見つけ、次に佐伯を見た。
「先生もいたんですね」
「少しだけ」
佐伯はそう答えた。
美咲は踊り場へ上がってきた。息を切らしているのに、いつものように笑おうとした。けれど、その笑顔はうまく形にならなかった。僕の前に置かれた絵の具箱と、濁った洗い水と、壁に広げた蒼炎旗を順番に見たからだと思う。
「これ、飲んで。あと、甘いのもいるでしょ。黒木が、また何も食べてないんじゃないかって」
「大丈夫」
言葉が先に出た。
乾いた布のように、喉の奥でひっかかる声だった。
美咲の笑顔が、ほんの少し遅れた。
「……そっか」
彼女はそう言いながら、紙袋を椅子の背へかけた。袋の底が重たそうに沈む。スポーツドリンクを一本取り出し、僕の手の届く場所へ置く。キャップを開けようとしたが、僕が見ているのに気づくと、その手を止めた。
「開けとこうか」
「いらない」
「じゃあ、置いとく」
「うん」
美咲はもう一本を佐伯の足元へ置いた。
「先生もどうぞ。ぬるくなる前に飲んでください」
「ありがとう」
「先生は言ってくれるんですね」
「何を」
「ありがとうって」
佐伯は少し間を置いた。
「受け取ったから」
その言葉が、階段の踊り場に静かに残った。
美咲は僕を見た。僕は旗へ視線を戻した。濃い青を含ませた刷毛を持ち、にじみの境目へ置く。毛先が布目に引っかかり、青が線の内側へゆっくり沈んでいく。
「手伝うよ」
美咲が言った。
「大丈夫」
また同じ言葉が出た。
今度は、自分でもわかった。声が硬い。硬すぎて、誰かを押し返すための板のようだった。
美咲は黙った。
僕は首を振ったわけではない。けれど、刷毛を持つ手に力を込めたことで、返事の代わりになっていた。これ以上近づくな。手元を見ないでくれ。失敗したところを数えないでくれ。そう言っているのと同じだった。
美咲は旗の前まで来て、僕の隣にしゃがんだ。近づいたことで、彼女の髪から、外の冷えた空気と甘い菓子の匂いがした。
「ねえ」
「なに」
「今の大丈夫って、どういう大丈夫?」
「どういうって」
「そのまま。できるってこと? 間に合うってこと? 手伝わなくていいってこと? それとも、聞かないでってこと?」
僕は刷毛を動かした。線の端が少し膨らんだ。
「全部」
「全部は無理でしょ」
「無理じゃない」
「じゃあ、どれか一個にして」
「……」
「大丈夫って言われると、私は一回信じるよ。信じたいから。でも、信じたまま帰ったら、あとで本当に大丈夫だったのか分からなくなる。戻ってきたら、もっとひどくなってるかもしれない。だからまた来る。来たらまた大丈夫って言われる。これ、何回やればいいの?」
美咲の声は大きくなかった。けれど、明るさで隠そうとしていないぶん、いつもよりまっすぐだった。
僕は刷毛を水入れへ戻した。毛先から青が流れ、透明だった水に薄い影が落ちる。
「美咲は、僕が手伝ってほしいって言えば満足するのか」
「満足とかじゃない」
「じゃあ何だよ」
「何もしないで帰るのが嫌なの」
「何もしなくていいって言ってる」
「それが嫌だって言ってるの」
美咲は紙袋の口を閉じた。中で菓子の包みが擦れ、乾いた音がした。
「私、手伝うのが上手じゃないのは分かってる。いつも飲み物を持ってきて、食べてって言って、明るくしてれば何とかなると思ってる。でも、そういうのが届かないときもある。届かないのに同じことを繰り返すから、余計に邪魔になる。今もそうかもしれない」
「邪魔じゃない」
「でも、受け取ってくれない」
「受け取ってる」
「じゃあ、何でそんな顔をするの」
答えられなかった。
自分がどんな顔をしているのか、見なくても分かった。眉間に力が入り、口元は固く、刷毛の柄を握る指が白くなっている。誰かに見られたい顔ではない。けれど、見られたくないと思うほど、隠すための力が必要になった。
佐伯は何も言わなかった。
ただ、足元のスポーツドリンクを拾い、キャップを開けた。ねじの外れる音が、妙に大きく響く。
「美咲」
佐伯が呼んだ。
「はい」
「手伝うという言葉を、作業を代わることだけにしないほうがいい」
「でも、手を動かさないと、手伝ったことにならないじゃないですか」
「そうとも限らない。道具を持ってくる。水を替える。戻ってくる。相手の返事を待つ。それも作業の一部だ」
「でも、この人は大丈夫って言うんです」
「そうだな」
「本当じゃないのに」
僕は顔を上げた。
美咲も佐伯を見ている。
佐伯はスポーツドリンクを一口飲み、ゆっくり蓋を閉めた。
「本当ではない大丈夫もある」
「じゃあ、何て返せばいいんですか」
「すぐに答えを出さなくていい」
「でも、何か言わないと、またひとりになる」
「隣にいればいい」
美咲は困ったように眉を寄せた。
「先生みたいにはできません」
「同じでなくていい」
「私が黙って座ったら、たぶんこの人、気まずくなってもっと固まります」
「そうかもしれない」
「それじゃ駄目じゃないですか」
「駄目かどうかは、座ってみないと分からない」
美咲は僕を見た。
僕は旗を見たまま、刷毛の柄を指で転がしていた。佐伯が言ったことは正しいのかもしれない。けれど、美咲が隣に座れば、僕は余計に手元を気にする。彼女の沈黙を受け止めなければならないと思い、線を引くたびに失敗を見せている気がする。
「……美咲は、戻らなくていい」
言うと、美咲の目がわずかに揺れた。
「帰れってこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何」
「ここにいても、何もできないから」
「何もできないって、誰が決めたの」
「僕」
「またそれ」
美咲は立ち上がった。明るく振る舞おうとしていたときより、今のほうが小さく見えた。紙袋を椅子から外し、持ち手を握り直す。
「私、役に立ちたいって思って来た。でも、役に立つって、相手がありがとうって言ってくれることじゃないんだよね。分かってる。分かってるけど、何をしても大丈夫って返されると、自分が透明になったみたいで嫌になる」
「そんなつもりはない」
「つもりがなくても、そうなることはあるよ」
僕は返せなかった。
美咲は一度、紙袋の中を覗いた。そこには小さなチョコレートと、塩味のクラッカー、それから個包装のパンが入っているらしい。どれも、誰かが少し休めるように選ばれたものだった。
「これ、食べなくていいから。置いておく。水も、飲めるときに飲んで。私、教室に戻るね」
「美咲」
呼び止めた。
彼女はすぐに振り返ったが、今度は「なに?」とは言わなかった。
僕は「ありがとう」と言おうとした。その言葉を口にすれば、今度こそ何かを受け取ることになる。けれど、言わないままなら、彼女が置いていったものは、ただの物として残る。
「……手伝うって言われると、どうしていいか分からない」
やっと、それだけ言った。
美咲は黙っている。
「手を出してもらったら、僕も何か返さないといけない気がする。時間を使わせたら、同じだけちゃんとしないといけない。だから、失敗したまま受け取るのが怖い。手伝ってもらったのに、まだ直らなかったら、僕だけじゃなくて、その人の時間まで無駄にしたことになるから」
言葉が途切れ、階段の下で何かが落ちる音がした。誰かが倉庫の鍵を探しているのかもしれない。けれど、こちらへ上がってくる気配はなかった。
美咲は紙袋を抱えたまま、僕を見ていた。
「無駄にならないよ」
「どうして」
「一緒にいた時間が、完成したかどうかだけで決まるわけじゃないから」
「でも、旗は完成しないと使えない」
「そうだね。だから塗る。でも、塗った時間まで完成品みたいにきれいじゃなくていいでしょ」
僕は目を伏せた。
「私だって、いつも正しいこと言えるわけじゃない。さっきも、手伝ってって言えばいいだけじゃんって言った。簡単じゃないのに。でも、簡単じゃないからって、何も言わないまま一人にされるのも違うと思う。私は、手伝わせてほしい。役に立ってるって思いたいからじゃなくて、同じクラスで、同じ旗を明日持つから。にじんだのが誰のせいでも、明日見るのはみんなだから」
美咲はそこで一度、息を吸った。
「だから、全部任せてとは言わない。どこを触っていいか、言って。触ってほしくないなら、それも言って。大丈夫じゃなくて、今できることだけ言って。水を置くとか、テープを切るとか、ここにいるとか。私は、それならできる」
その言葉は、佐伯のように静かではなかった。少し震え、途中で何度も息を継いでいた。けれど、揺れているからこそ、僕のところまで届いた。
僕は旗の下端を見た。白地に飛んだ青が、乾いた斑点になっている。そこだけなら、養生テープで囲める。美咲が持ってきたテープの束が、紙袋の脇から覗いていた。
「……そのテープ」
「うん」
「細く切って、白いところを囲める?」
「囲むだけでいいの?」
「今は。それ以上は触らないで」
「分かった」
美咲はすぐにしゃがみ込んだ。トートバッグから小さなはさみを取り出し、養生テープの端を探す。けれど、端が見つからない。爪で表面を引っかき、何度か失敗して、少し苛立ったように息を吐いた。
「どこから剥がすの、これ」
「角を押さえて、横に折ると見つかる」
「そういうの、早く言ってよ」
「聞かれなかったから」
「今聞いた」
テープの端が見つかり、ぺり、と音がする。
その音を聞いたとき、胸の奥に張りついていたものが、ほんの少しだけ剥がれた気がした。全部ではない。剥がれた端がまた戻るかもしれない。それでも、指先をかける場所はできた。
僕は新しい平刷毛を持ち上げた。
「美咲」
「なに?」
「水、もう一本ある?」
「あるよ」
「……そこに置いて」
「分かった」
美咲はスポーツドリンクを僕の右側へ置いた。今度は、キャップを開けずに。
僕は自分で手を伸ばし、蓋を回した。
甘い匂いが上がってくる。少し飲むと、喉の奥に残っていた絵の具のような苦さが薄くなった。
美咲は僕の手元を見ないようにしながら、テープを細く切っている。切ったものを一枚ずつ机の端へ並べていた。長さが揃っていない。僕なら揃え直したくなる長さだった。
けれど、今は何も言わなかった。
僕は旗へ刷毛を置いた。
布目のざらつきが、毛先を引き止める。青は少しだけ濃く、線の内側へ沈んでいった。呼吸を止めずに済んだ。隣では、美咲がテープを一枚、白地の飛沫の周りへ貼っている。
「これでいい?」
「もう少し右」
「右って、こっち?」
「そう。そこから飛び出してる」
「細かいなあ」
「ごめん」
「謝らなくていい。細かいのは知ってる」
美咲の声に、わずかにいつもの明るさが戻った。
僕は次の線へ移った。刷毛を引く速度を、意識して落とした。美咲のテープを切る音が、一定の間隔で続いている。ぺり、ぺり、と短い音がする。佐伯は少し離れた椅子で、それを見守っていた。
誰も、僕に「大丈夫」と言わなかった。
僕も、言わなかった。
代わりに、刷毛を洗う。水を替える。テープを受け取る。飲み物を飲む。そういう小さな動作が、言葉の代わりに机と旗の上へ置かれていった。
美咲が、白地の飛沫を囲み終えた。
「ここ、こんな感じ」
僕は少し離れて旗を見た。青い斑点は消えていない。テープの白い線が、その周囲に不揃いな輪をつくっている。きれいではない。けれど、視線が旗の中心へ戻る道筋はできていた。
「うん」
「いい?」
「今は、それでいい」
「今は、ね」
「乾いたら、また考える」
美咲は頷いた。
「それなら、分かる」
彼女は紙袋から小さなチョコレートを取り出し、僕の絵の具箱の蓋へ置いた。
「これも、今は置いとく」
「食べるって言ってない」
「食べろとも言ってない。置いとくって言っただけ」
僕はチョコレートを見た。包み紙の角が、蛍光灯の光を小さく返している。
「……ありがとう」
口に出すと、思ったより普通の声になった。
美咲はすぐに返事をしなかった。代わりに、テープの束を机の角へ揃えた。僕のように何度も直すのではなく、一度だけ軽く叩いて、端を合わせる。
「うん」
それだけだった。
階段の踊り場には、まだ絵の具の匂いが残っている。冷たい洗い水の気配と、スポーツドリンクの甘い匂いが混じり、どちらも完全には消えずに漂っていた。
僕は新しい線を引いた。
今度は、ひとりで聞いている刷毛の音ではなかった。隣でテープを切る音と、少し離れたところで椅子が軋む音が、同じ時間の中にあった。
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