第4話 にじみの前で

階段を下りる足音は、一度完全に途切れた。
僕は刷毛を置いたまま、しばらくその沈黙を聞いていた。踊り場の照明は白く、蛍光灯の唸る音だけが耳の奥に残る。佐伯はもう戻らないだろうと思った。戸締まりの見回りをして、職員室に戻って、今日の仕事を終える。それが当たり前の順番だった。
だから、再び階段の下から足音が近づいてきたとき、僕は自分の耳を疑った。
一定の間隔で上がってくる革靴の音。さっきと同じ重さ、同じ速さ。踊り場の角を曲がって現れた佐伯は、両手に何も持っていなかった。缶コーヒーも、メモ帳も、さっき置いていったらしい。
「……戻ってきたんですか」
「四階まで見て、下りるついでだ」
佐伯はそう言って、さっきまで自分が座っていた椅子の位置を目で確かめた。僕が動かしていないことに、何か確認するような間があった。それから、何も言わずに腰を下ろす。
椅子の脚が床を擦る音が、またあの細い音を踊り場に響かせた。
僕はもう一度旗へ向き直った。にじみは変わらずそこにある。先端の線を直したところで、根本にある濁りは消えない。布目に染み込んだ青は、刷毛で何度追いかけても、布の奥から滲み返してくる。まるで、こちらが手を止めるのを待っているかのようだった。
絵の具箱の蓋を開ける。
蓋の裏に、白い飛沫がこびりついていた。さっきも見た跡だ。けれど今、佐伯が隣にいる状態でもう一度見ると、違う意味を持って目に映った。
「……先生」
「なんだ」
「この蓋の裏、前から気になってたんですけど」
僕は蓋を佐伯のほうへ傾けた。古い白い染みが、乾いた地図のように広がっている。
「誰かが、ここで同じようなことをしたんでしょうか」
「たぶん」
即答だった。
「たぶん、って。先生、知ってるんですか」
「この箱は、僕が赴任する前からあった。学年主任が代々引き継いできたものだ。誰が何を直したかまでは、記録に残っていない」
「じゃあ、分からないじゃないですか」
「分からない。けど、この染みの付き方を見れば、一度や二度の話じゃないことは分かる」
佐伯は蓋を指でなぞった。爪の先が、固まった白の盛り上がりに触れる。
「君と同じように、ここで誰かが焦っていた。乾かない絵の具を急いで扱って、蓋の内側まで飛ばした。何年前かは分からない。けれど、君の前にも、この箱を開けて、うまくいかない旗や幕と向き合った誰かがいた」
僕はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
自分だけが失敗したのだと思っていた。自分だけが、雨を読み違え、布を濡らし、炎の輪郭を崩した。だからこそ、自分だけで直さなければならないのだと。けれど、この箱の中には、僕の知らない誰かの焦りが、何年分も積もっていた。
「……それを知って、何か変わるんですか」
「変わらないかもしれない。旗はまだにじんでいるし、明日までの時間も減っていく」
「じゃあ、意味ないじゃないですか」
「意味がないとは言っていない」
佐伯は蓋を閉じ、箱ごと僕の手元へ戻した。
「君は今、自分だけがこの失敗を背負っていると思っている。背負うこと自体は、悪いことじゃない。でも、背負っている重さの大きさを、正確に測れているとは限らない。この箱の染みは、君が思っているより、この重さが昔からあったものだと教えている」
僕は箱を受け取った。木の表面は、長く使われたせいで角が丸くなっている。何度も開けられ、何度も閉められ、そのたびに誰かの手が触れてきた。
「僕は、特別に失敗したわけじゃないってことですか」
「特別かどうかは分からない。ただ、一人で抱えるほど特別でもない」
その言い方は、慰めではなかった。突き放すでもなかった。ただ、事実を事実として置くだけの声だった。
水入れの水が、濁りすぎている。僕は気づかないふりをして刷毛を浸した。毛先が濁った水を吸い上げ、青がさらに濁る。佐伯はそれを見ていたらしく、何も言わずに立ち上がった。
水入れを持ち上げ、踊り場の隅にある水道へ向かう。蛇口をひねる音。水が容器にあたる音。佐伯は水を替えて戻ってくると、僕の手の届く位置に、静かに置いた。
「ありがとうございます、とは言いません」
「言わなくていい」
「でも、何か言わないと」
「黙って受け取ることも、礼のひとつだ」
僕は新しい水に刷毛を浸した。透明な水の中で、毛先についた青が薄くほどけていく。さっきより、ずっと澄んだ色だった。
佐伯は平刷毛の先を指で整え、乾いた雑巾を一枚、僕の前に置いた。それから何も言わず、また椅子に腰を下ろす。
その一連の動きに、僕はどう応じていいか分からなかった。礼を言うのも違う気がした。断るのも、今はできなかった。ただ、差し出されたものを受け取るたびに、自分が見張られているのではなく、見逃されていないのだと感じた。
見張られているなら、失敗は咎められる。見逃されていないなら、失敗はそのまま、そこにあっていい。
その違いが、どうしてこんなに息苦しいのか、僕にはまだ分からなかった。
刷毛を布へ下ろす。
布目が毛先を引き止める。にじみの境界線は、まだくっきりと残っている。僕はその境界線をなぞるように、刷毛をゆっくり動かした。急げば、また同じ失敗をなぞることになる。分かっているのに、焦りは少しも減らなかった。
むしろ、隣に誰かがいることで、焦りは別の形に変わった。
一人のときは、失敗を誰にも見られない代わりに、失敗の輪郭がぼやけていく感覚があった。今は、佐伯の視線があるわけでもないのに、自分の手つきのひとつひとつが、くっきりと浮かび上がるように感じられる。
「……遅くなってる気がします」
「そうか」
「前より、線を引くのに時間がかかってます」
「それは悪いことか」
「分かりません」
刷毛の先が、また少しずれた。僕は雑巾を取らず、そのままにした。直そうとすれば、また別の乱れが生まれる。それを今は、分かっていた。
佐伯は何も言わず、窓の外を見ていた。夜はもう完全に下りていて、ガラスには踊り場の白い光と、二人の輪郭だけが映っている。僕はその映り込みの中で、自分の肩がさっきより少しだけ下がっていることに気づいた。
刷毛が布をなぞる音。
遠くで、誰かが戸締まりのために鍵を鳴らす音。
佐伯が座る椅子が、わずかに軋む音。
どれも小さかったが、焦りを急かす音ではなかった。僕はもう一度、刷毛を水に浸した。濁りの少ない水の中で、青がゆっくりとほどけていく。
← 横にスクロールして読み進められます
