第3話 西階段の踊り場

僕は、もう一度だけ刷毛を洗った。

洗い水の中で、青い絵の具が薄くほどけていく。水面に広がった色は、旗の上ではあれほど厄介だったのに、ここでは何の形も持たない。ただ濁った青として揺れ、容器の底へ沈んでいった。

美術室の机では、蒼炎旗の端まで手が届かなくなっていた。布を引き寄せるたび、乾きかけた部分が机の角に擦れる。養生テープで留めたはずの端も、何度も剥がして貼り直したせいで粘着が弱くなっていた。触らないようにしているのに、気づけば布がずれている。

このままでは、直すために別のところを壊す。

そう思って、僕は刷毛と水入れと絵の具箱をまとめた。旗はまだ畳めない。にじんだ部分が互いに触れれば、乾いていない青がまた移る。仕方なく、布の両端を腕で抱え、胸の前に広げたまま美術室を出た。

廊下には、さっきまでいた人の気配が薄く残っていた。

体育館のほうから、誰かが大きな声で数を数えている。階段の下では台車の車輪が床の継ぎ目を越え、がたん、と鈍い音を立てた。教室のいくつかにはまだ明かりがついていたが、窓の向こうに見える人影は少ない。準備の熱が、場所ごとに少しずつ冷めていく時間だった。

旗を抱えて歩くと、布の重みが腕に食い込んだ。

蒼炎旗は、紙に描いた絵とは違う。濡れた布は水を含み、思ったより重い。腕を下げれば床を引きずるし、持ち上げすぎれば肩がつる。僕は何度も持ち方を変えた。変更するたびに、青く汚れた布の端が制服の袖へ触れそうになった。

触れたら落ちるだろうか。

落ちなかったら、母に何と言われるだろう。帰宅してから洗えばいい。そんなことを考えた自分が、急に遠く感じられた。今は制服のことも、夕食のことも、母が何度も時計を見ることも、考えている場合ではない。

明日の朝までに、これを形にしなければならない。

西階段は、美術室から少し離れた場所にある。普段から人通りが少なく、部活動の帰りに通る生徒もほとんどいない。窓が西側を向いているせいか、夕方になると階段全体がほかの場所より早く暗くなる。

踊り場へ着いたとき、窓の外の空は、赤い色をほとんど失っていた。

残った光が、遠くの住宅の屋根を薄く照らしている。雲の底だけが紫色に沈み、校舎の白い壁には青い影が広がっていた。美術室で見ていた青よりも、ずっと冷たい色だった。

僕は旗を壁に立てかけた。

布が壁に触れると、湿った音がした。端を持ち上げ、壁の手すりと窓枠を使って、蒼炎旗を縦に広げる。足りないところは養生テープで留めた。テープを切る音が、誰もいない階段に大きく響いた。

ぺり、と白いテープが伸びる。

貼りつけた角が少し浮いた。

僕は指で押さえた。浮いた。もう一度押さえた。今度は貼りついたように見えたが、端からわずかに空気が入っている。

剥がして貼り直すべきか迷った。

その間にも、旗の湿り気は布目の奥へ沈んでいく。時間は、絵の具を乾かすためにも、僕を追い詰めるためにも、同じ速度で過ぎていた。

「……ここでいい」

誰に言うでもなく呟いて、僕は古い折りたたみ椅子を引き寄せた。

脚が床を擦った。

きい、と金属の音が階段の壁に跳ね返り、上の階へ細く伸びていく。椅子の座面には、何人分かわからない擦り傷がついていた。片方の脚だけ少し短く、座るとわずかに揺れる。

構わず腰を下ろした。

絵の具箱を足元へ置き、水入れを右側に置く。平刷毛は三本。細いものを二本、乾ききらない平刷毛を一本。紺、青、白の順に絵の具を並べ、雑巾を膝の上へ置いた。

そこで、机の上に置いたままの水筒を思い出した。

美咲の水筒。紙袋。スポーツドリンク。戻るべきかと思ったが、戻れば、また何か言われる。飲めと言われる。手伝うと言われる。僕はそのどちらにも答えられない。

階段の踊り場に、養生テープの端が落ちていた。

拾おうと手を伸ばしかけたが、やめた。今は旗のほうが先だ。テープの端はあとで拾えばいい。あとで、という言葉を使うたび、物事が少しずつ僕の手から離れていくような気がした。

刷毛を水へ浸す。

毛先を指で整え、余分な水を雑巾へ吸わせる。絵の具を含ませ、蒼い炎の先端へ置いた。布目が刷毛を引き止める。ざらついた抵抗が手のひらへ返ってきた。

一度、引く。

線が伸びる。

もう一度、同じ場所をなぞる。

最初の線からわずかにずれた。

僕は息を止めた。

「……違う」

誰かに聞かれたわけでもないのに、声が漏れた。

刷毛を持ち上げる。線の端が太くなった。直そうとして触れた場所が、直す前より目立っている。僕は絵の具を足しかけ、やめた。足せば隠せる。隠せるが、隠した場所は別の濃さになる。

どこまでが修復で、どこからが上塗りなのか。

考え始めると、手が動かなくなった。

そのとき、階段の下から足音がした。

一定の間隔で、ゆっくり上がってくる。革靴の音だった。僕は顔を上げず、旗に視線を置いたまま、次の一歩を待った。

足音が踊り場で止まる。

「……まだ、やってたか」

佐伯だった。

手には小さなメモ帳と、蓋の閉まった缶コーヒーを持っている。帰り支度を終えたのか、シャツの袖が少しだけまくられていた。僕のほうを見たあと、旗へ視線を移す。その目は、にじみの場所を探しているようにも見えたし、僕の手元を確認しているようにも見えた。

僕は先に言った。

「美術室だと、広げきれなくて」

「そうか」

佐伯はそれ以上聞かなかった。

謝ったのか。何があったのか。誰の責任なのか。明日までに間に合うのか。どれも尋ねなかった。

代わりに、踊り場の隅へ目を向けた。

そこに、もう一脚、折りたたみ椅子が立てかけてあった。佐伯はそれを持ち上げ、僕の隣へ運んできた。

「先生、帰るんじゃなかったんですか」

「そのつもりだった」

「じゃあ、帰ってください」

言ってから、胸の奥が固くなった。追い払いたいわけではない。ただ、見られていると、手元が乱れる。ひとりなら失敗しても自分だけで済む。誰かが隣にいれば、失敗した瞬間を見られる。

佐伯は椅子を床へ置いた。

「そうする」

そう答えたのに、すぐには立ち去らなかった。

椅子の座面を手で押し、脚の揺れを確かめる。片方の脚に小さな紙片が挟まっていたらしく、それを抜いて、踊り場の壁際へ寄せた。僕の椅子と少し離れすぎていると見ると、十センチほど近づける。

その音が、妙に大きく聞こえた。

「近いです」

「そうか」

佐伯は椅子を五センチ戻した。

「……別に、いいです」

「そうか」

また椅子が近づいた。

僕は返す言葉を失い、旗へ向き直った。佐伯は隣へ座った。立ったまま見下ろすのではなく、僕と同じ高さに視線を置いた。

それだけのことなのに、作業の空気が変わった。

佐伯はメモ帳を膝に置き、缶コーヒーの蓋を少しだけ開けた。ぷし、と小さな音がする。湯気は立たない。冷めかけているのかもしれない。彼は一口飲み、蓋を閉じた。

僕は刷毛を持ったまま、動けずにいた。

「見ないでください」

「見てない」

「見てるじゃないですか」

「旗を見てる」

「同じです」

「同じではない」

佐伯の声は低く、急いでいなかった。

「君を見ているなら、君が今どうしているかを見ている。旗を見ているなら、旗がどうなっているかを見ている。似ているようで、少し違う」

「何が違うんですか」

「旗は、こちらを責めない」

思わず佐伯を見た。

彼は缶コーヒーの表面を指でなぞっていた。ラベルの端が少し剥がれている。そこを押さえ、また旗へ視線を戻す。

「君は、旗に責められているように見える」

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「責められてないです」

「そうか」

「僕が勝手にやってるだけで」

「そうか」

「最後に塗ったのも僕で、乾いてるか確認しなかったのも僕です。だから、僕が直さないといけないんです」

言葉が出始めると、止めにくかった。

「黒木は、遠くから見て形が残ればいいって言いました。でも、それじゃ、にじんだところをなかったことにするだけです。美咲は手伝うって言うけど、手伝ってもらったら、もし間に合わなかったときに、その時間まで無駄にする。僕だけでやって間に合わなかったなら、僕の失敗で済む。でも、誰かに頼んで、それでも駄目だったら、僕がその人たちまで巻き込んだことになる」

佐伯は何も言わなかった。

僕は刷毛の先を見た。乾きかけた青が、毛の間に固まっている。

「だから、一人でやったほうがいいんです。少なくとも、何が悪かったかはわかる。僕が遅い。僕が雑だった。僕が確認しなかった。そこがわかっていれば、次は直せる。誰かのせいにしなくて済む」

「誰かのせいにしたくないから、自分のせいにしているのか」

「……そういうことじゃ」

「違うか」

僕は答えられなかった。

佐伯は、すぐに言葉を重ねなかった。沈黙の中で、階段の下から遠い話し声が上がってきた。笑い声がひとつ混じり、すぐに壁の向こうへ消えていく。

「僕は、助けてもらうのが苦手です」

口に出すと、その言葉は想像していたより小さかった。

「助けてもらうと、返さないといけない気がする。時間を使わせたら、その分だけちゃんとしないといけない。手伝ってもらったのに完成しなかったら、手伝ってくれた人の時間まで無駄にしたことになる。だから、最初から頼まないほうがいい。頼まなければ、誰にも迷惑をかけない」

「それで、君は」

佐伯は一度、言葉を切った。

「迷惑をかけない代わりに、ひとりで壊れる」

刷毛の先から、水が一滴落ちた。

床に小さな染みができる。僕は反射的に雑巾を取ろうとしたが、佐伯の手が先に伸びた。彼は自分のポケットから古いハンカチを出し、水滴を押さえた。

「すみません」

「今のは私物だ」

「洗って返します」

「洗わなくていい」

「でも」

「濡れたものを拭いただけだ。借りたことにしなくていい」

ハンカチは薄く、何度も洗われた布の匂いがした。佐伯はそれを折りたたみ、椅子の脇へ置いた。

「借りたことにすると、返さなければならない。返さなければならないと思うと、受け取れない。そういうこともある」

「……先生も、そうだったんですか」

「何が」

「誰かに頼れなかったこと」

佐伯は缶コーヒーを見た。缶の縁に指をかけたまま、しばらく動かなかった。

「頼れなかったというより、頼る前に動く癖があった」

「同じじゃないですか」

「似ている。けれど、少し違う」

またその言い方をした。

「動けば解決することもある。道具を運ぶ。水を替える。机を寄せる。そういうことは、先にやったほうが早い。でも、人の疲れや失敗まで先回りして片づけることはできない。そこまでやろうとすると、相手の手から、その人のものを奪う」

「失敗を自分のものにするのは、奪われるよりましです」

「そう思うか」

「思います」

「では、今はそれでいい」

思いがけない返事だった。

佐伯は僕を否定しなかった。頼れと言わなかった。自分で抱えるなとも、もっと素直になれとも言わなかった。

ただ、少し間を置いて続けた。

「ただし、自分のものにしたからといって、ひとりで持たなければならないわけではない」

僕は旗を見た。

にじんだ青の一部が、階段の白い壁に影を落としている。近くで見ると、炎の輪郭はまだ崩れていた。濃い青の下から、雨に広がった薄い青が透けている。失敗を隠そうとすればするほど、下にあるものが浮き上がる。

「僕が一人で持つものだと思ってました」

「そうか」

「ずっと、そうしてきたので」

「そうか」

「小さい頃から、何かをこぼしたら自分で拭いて、忘れ物をしたら自分で取りに戻って、誰かの手を煩わせないようにしてきた。別に、誰かにそうしろと言われたわけじゃないです。でも、先に片づけておけば、怒られないし、困らせない。失敗を見せなければ、失敗した人間にならなくて済む」

言ってから、僕は自分の声がひどく幼く聞こえるのに気づいた。

佐伯は、僕を見なかった。

「失敗した人間になるわけではない」

「でも、失敗は残ります」

「残る」

「旗にも、布にも、手にも」

「残るな」

「じゃあ、どうしたらいいんですか」

初めて、声が揺れた。

僕は刷毛を置き、両手を膝の上で握った。手のひらには乾いた絵の具が薄く張りついている。指を曲げると、皮膚が引かれた。

「消せないなら、直すしかないでしょう。直して、見えなくして、何もなかったみたいにするしかない。みんなの前に出すものだから。蒼炎旗は、僕の失敗を見せるためのものじゃない」

「そうだな」

「だったら」

「でも、直した跡は残る」

佐伯は旗の端に貼られた養生テープを見た。

「テープの跡も、絵の具の重なりも、布の伸びたところも、たぶん完全には消えない。明日の朝、遠くから見ればわからないかもしれない。でも、近くで見れば、誰かが触った跡は残る」

「それが嫌なんです」

「君は、跡があることが嫌なのか。それとも、跡を見た人に、誰が失敗したか知られるのが嫌なのか」

言葉が詰まった。

踊り場の窓に、僕と佐伯の姿が薄く映っていた。僕の肩は上がっている。首が前へ出て、旗へ逃げるように傾いている。佐伯は椅子に深くもたれず、背筋をゆるく保ったまま、僕の隣にいた。

「……両方です」

やっと言えた。

「そうか」

佐伯は缶コーヒーの蓋を開け、今度は少し長く飲んだ。喉が動く音が、静かな踊り場ではっきり聞こえた。

「なら、今日は両方嫌なままでいい」

「いいんですか」

「嫌なものを、すぐに好きになる必要はない」

「でも、作業は進めないと」

「そうだな。嫌なままでも、手は動かせる」

佐伯はそう言って、僕の足元に置かれた平刷毛へ手を伸ばした。勝手に取るのかと思ったが、指先で柄を確かめただけだった。

「これ、少し乾いている」

「まだ使えます」

「使えるかどうかではなく、今の君に合うかだ」

「同じじゃないですか」

「違う。使える道具でも、扱う人の手を固くするなら、替えたほうがいい」

佐伯は絵の具箱の隅から、少し幅の狭い平刷毛を取り出した。毛先を指で整え、僕の前へ置く。

「こっちのほうが、端を追いすぎない」

僕は刷毛を見た。毛は短く、先端が少し開いている。きれいな状態ではない。新品のように揃ってもいない。

「先生が使うんですか」

「使っていた」

「いつ」

「ずいぶん前に」

「何を描いたんですか」

佐伯はすぐには答えなかった。

「旗だ。似たようなものを、何枚か」

「先生も、にじませたことが?」

「ある」

「直したんですか」

「直せなかったものもある」

その言葉は、思ったより静かだった。

「そのとき、どうしたんですか」

「次の布を出した」

「それだけですか」

「それだけではない。にじんだ布を乾かして、どこが崩れたかを見て、次は同じことをしないようにした。けれど、にじんだものは、にじんだまま残った」

「捨てた?」

「捨てなかった」

「使えないのに」

「使えないから、捨てるとは限らない」

僕は佐伯の横顔を見た。

彼は旗ではなく、窓の外を見ていた。空はもう暗くなり、校舎の窓がひとつずつ四角く浮かんでいる。そこに、まだ人のいる教室と、もう消えた教室があった。

「失敗したものを残すと、あとでまた見ることになる。見るたびに、嫌だったことを思い出す。けれど、見ないまま捨てると、自分が何を直せなかったのかもわからなくなる。どちらが正しいかは、今でもよくわからない」

「先生でも、わからないんですか」

「わからないことはある」

佐伯はそう言ったあと、少しだけ僕のほうへ顔を向けた。

「わからないままでも、隣に座ることはできる」

胸の内側で、何かがわずかに動いた。

励ましではなかった。答えでもない。僕の失敗を小さくする言葉でもなかった。ただ、わからないものをわからないまま置いて、その隣にいることを選ぶ言葉だった。

僕は新しい平刷毛を取った。

柄は少しざらついていた。長く使われた木の表面に、細かな傷がいくつもある。握ると、指の間にその傷が触れた。

「……使ってもいいですか」

「そのために出した」

「返します」

「返さなくていい」

「でも、先生のものなら」

「学校のものだ」

「先生が使っていたものです」

「使ったものは、使った人だけのものではない」

僕は返事をせず、刷毛を水入れへ浸した。

毛先が水を吸う。冷たい水が、指の近くまで上がってくる。余分な水を雑巾へ押し当てると、濡れた布が小さく鳴った。

佐伯も、隣の椅子に座ったまま、何かを始める気配を見せた。メモ帳を開き、明日の予定でも確認するのかと思ったが、鉛筆を握ったまま、すぐには書かなかった。

僕は旗へ刷毛を置いた。

一度、引く。

さっきより線が細い。布目に引っかかるが、青は前ほど伸びなかった。

もう一度、引く。

今度は、先端の形が少しだけ戻った。

「……」

「うん」

佐伯が短く言った。

何が「うん」なのかはわからなかった。うまくいったという意味かもしれないし、ただ見ているという意味かもしれない。僕は聞き返さず、次の線へ移った。

刷毛が布を擦る音。

階段の下から届く、遠い水道の音。

佐伯が缶を机代わりの窓枠へ置く音。

どれも小さかった。けれど、ひとりで聞いていたときより、音の間隔がはっきりしていた。刷毛を動かす速度が、いつの間にか一定になっていく。先を急ぐと佐伯の椅子が小さく軋み、僕が手を止めると、その音も止まった。

「先生」

「なんだ」

「帰らなくていいんですか」

「もう少ししたら帰る」

「僕が終わるまで?」

「君が終わるまでとは言っていない」

「じゃあ、何を待ってるんですか」

佐伯は窓の外を見た。

「刷毛が乾くまで」

僕は一瞬、意味がわからなかった。

「刷毛?」

「君の手も含めて」

「手は乾かないです」

「そうか」

佐伯はそれだけ言った。

僕は少しだけ笑いそうになった。笑えるようなことではないのに、喉の奥で息が揺れた。笑いにならず、短い息として抜ける。

その息のあと、肩の位置がわずかに下がった。

佐伯はそれを見ても、何も言わなかった。

やがて、階段の照明が自動で点いた。白い光が踊り場を照らし、窓に映る二人の姿が薄くなる。旗の青は、夕暮れの青から、蛍光灯の下の青へ変わっていた。にじみはまだ消えていない。近くで見れば、雨の跡も、僕が重ねた絵の具の厚みも、はっきり残っている。

けれど、先端の線は少しだけ立ち上がっていた。

僕は刷毛を水入れへ戻した。水面が揺れ、青い絵の具がまた薄く広がる。

「今日は、ここまでにしたほうがいい」

佐伯が言った。

「まだ、できます」

「できる」

「だったら」

「できることと、続けることは別だ」

僕は旗を見た。

「明日までに終わらなかったら」

「明日の朝に続きをする」

「朝までに乾かないかもしれない」

「乾かない部分を避けて運ぶ」

「形が崩れたら」

「そのときは、崩れた形を見て考える」

「簡単に言わないでください」

「簡単だとは言っていない」

佐伯の声は、少しだけ低くなった。

「難しいことを、難しいまま扱う。無理に簡単な答えにしない。君が今しているのは、失敗を消すことではなく、明日に渡せる形をつくることだ。違うものを、同じだと思わなくていい」

僕は何も言えなかった。

佐伯は立ち上がり、折りたたみ椅子の脚を確認した。帰る準備を始めたのだと思ったが、すぐには椅子を畳まなかった。僕の隣に置いたまま、旗の端に手を伸ばす。

「ここ、テープが浮いている」

僕が先に手を伸ばした。

「僕がやります」

「そうか」

佐伯は手を引いた。

僕は養生テープを切り、浮いた端を押さえた。今度は一度で貼れた。端は少し曲がっていたが、剥がさなかった。

曲がったままの白が、青い炎の脇に残った。

佐伯はそれを見て、何も直さなかった。

「……先生」

「なんだ」

「さっきの、椅子」

「うん」

「ここに置いたままにしてもいいですか」

佐伯は僕を見た。

「明日、使うのか」

「いえ。明日まで、というか……」

言葉が止まる。

隣に誰かがいる状態を、もう少しだけ残しておきたかった。佐伯が帰ったあとも、椅子がそこにあれば、さっきの時間が消えずに済む気がした。

けれど、それを言うのは難しかった。

僕は旗のほうを見たまま、言い直した。

「作業、続けるので」

「そうか」

佐伯は椅子へ手を置いた。

「では、ここに置いておく」

「……はい」

佐伯は絵の具箱の蓋を閉めやすい向きに整え、水入れを僕の手の届く位置へ寄せた。雑巾を畳み、使い終わった平刷毛を、ほかの刷毛と毛先が触れないように並べる。最後に、踊り場の床に落ちていた養生テープの端を拾った。

僕の代わりに片づけたわけではない。

ただ、足元から拾い上げ、壁際へ置いただけだった。

「帰る」

佐伯が言った。

「はい」

「戸締まりの前に、見回る」

「僕がいるって、誰かに言いますか」

問いが口から出たあと、僕は自分でも驚いた。

佐伯はすぐには答えなかった。

「言ってほしいか」

「……わかりません」

「では、今は言わない」

「それでいいんですか」

「君がここにいることを、隠す必要もない。けれど、知らせる必要がないことまで知らせる必要もない」

佐伯は、そこで一度だけ僕の手元を見た。

「ただ、帰るときは職員室へ声をかけてくれ」

「わかりました」

「水分も取る」

「……はい」

「食べられるなら、菓子も食べる」

美咲の置いていった包みが、頭に浮かんだ。

「はい」

佐伯は頷いた。

「では」

階段を下りかけたところで、僕は呼び止めた。

「佐伯先生」

佐伯が振り返る。

「さっきの……隣に座るのって」

言葉を探した。うまく説明できない。椅子を置かれたとき、見られていると思った。けれど、見られているのに、手を奪われなかった。逃げ場を塞がれたのに、息ができた。

「何ですか」

佐伯は急かさず待った。

「……どうして、座ったんですか」

「椅子が空いていたから」

「それだけですか」

「それだけで十分なこともある」

佐伯はそう言って、階段を下りていった。

足音が一段ずつ遠ざかる。

僕はその音が聞こえなくなるまで、刷毛を持ったまま動かなかった。西階段の踊り場には、僕と蒼炎旗と、もう一脚の古い椅子が残った。

椅子の座面には、佐伯が座っていた跡など残っていない。けれど、そこに誰かがいた時間だけが、空気の中に薄く残っているようだった。

僕は旗へ向き直った。

にじみは消えていない。

濃淡の境目も、雨の跡も、まだ布の奥にある。描き直した青は元の青と完全には重ならず、ところどころわずかに色が浮いている。

それでも、さっきまでとは違って見えた。

失敗が小さくなったわけではない。僕の責任がなくなったわけでもない。ただ、その重さのすぐ隣に、もうひとつ別の重さが置かれている。折りたたみ椅子一脚ぶんの、静かな重さだった。

僕は水筒を持ってこなかったことを思い出した。

美術室へ戻るか迷い、立ち上がった。すぐに戻るのではなく、まず旗の端を確認する。貼ったばかりの養生テープは浮いていない。僕はそのまま、落ちていたテープの端を拾い上げた。

丸めて、絵の具箱の脇へ置く。

それから、隣の椅子を見た。

座るためではなく、そこに置かれているものとして。

僕は新しい平刷毛を手に取り、洗い水へ浸した。冷たさが指先から腕へ伝わる。布目に沿って刷毛を引くと、擦れる音がした。

今度は、ひとりで聞いている音ではなかった。

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西階段の踊り場 - 並ぶ沈黙 - 誰でも作家life