第2話 残るなら、残れる分だけ

廊下の向こうから、黒木の声が聞こえた。

「体育館側、テープは余ってる。足りないなら倉庫から持ってくる。あと、明日の朝に運ぶ順番を変えるから、各クラスの旗は七時半までに昇降口へ」

誰かに指示を出しながら、黒木が近づいてくる。声は一定で、急いでいるはずなのに乱れていなかった。僕は旗から目を離さず、濃くなりすぎた青の端を細い平刷毛でなぞった。

線が少し震えた。

「そこ、重ねすぎ」

黒木が美術室の入口で足を止めた。

「わかってる」

「わかってるなら、一回乾かせ。上から塗り続けても、布が絵の具を抱えきれなくなる」

「乾かす時間がない」

「だから、全部を直すな」

黒木は進行表を脇に抱え直し、机の上へ視線を落とした。旗の中央に広がった蒼い炎。その輪郭は、昨日の雨を吸い込んだところだけ太く、ところどころ本来の線から外れている。僕にはその乱れがひとつずつ見えていた。黒木にも見えているはずなのに、彼は細部ではなく、全体を見ていた。

「残るなら、残れる分だけやれ」

「残れる分って何だよ」

「今日、ここにいられる時間。お前の体力。絵の具の乾き具合。全部含めて」

「そんなの、やってみないとわからない」

「やってみて、間に合わなかったらどうする」

黒木の声に、わずかな苛立ちが混じった。僕はそれを責められたように受け取って、刷毛を置くことができなかった。

「間に合わせる」

「方法を聞いてる」

「塗るしかないだろ」

「塗る場所を決めろって言ってるんだよ」

黒木は机の端に置かれていた鉛筆を取り、旗から少し離れた壁に立った。そこから蒼炎旗を見て、また一歩下がる。美術室の入口からでは、細かなにじみはほとんど見えない。炎の形が崩れていることも、青の濃淡が予定と違うことも、遠目にはただの陰影にしか見えなかった。

「明日、これを誰が見る?」

「クラスのみんな」

「近くで?」

「……遠くから」

「応援席から、グラウンドの反対側から、走ってる途中から。そういう場所で見られる旗だ」

黒木は鉛筆の先で、にじみの広がった部分を示した。

「ここは遠目なら炎の腹に見える。ここも残せる。逆に、先端のこの線は直したほうがいい。細いから、離れると途切れて見える。あと、下の白地に飛んだ青。そこだけ消せば、全体は崩れない」

「でも、近くで見たらわかる」

「近くで見たら、雨に濡れたこともわかる」

その言葉で、手が止まった。

黒木は続けた。

「だから何だ。明日の旗が、昨日の夜と同じ状態に戻らなきゃいけない理由はないだろ。雨に濡れた。にじんだ。直す。そのあとで使う。工程はもう変わってる」

「それは、開き直りだ」

「違う。変更だ」

「同じだろ」

「違う。開き直りは、何もしないことだ。俺は今、何を残して何を直すか決めてる」

言葉が詰まった。

黒木は、僕が一番聞きたくないことを、僕より先に手順へ変えてしまう。失敗を悔やむ時間を与えず、次にすることを机の上へ並べる。そのやり方が正しいとわかっているから、余計に腹が立った。

「お前は、きれいに戻したいんだろ」

黒木が言った。

「だったら、きれいに戻せる部分から戻せ。全部を同じ濃さで抱えるな。旗も、人間も、そんなふうにはできてない」

最後の言葉だけ、少し長く残った。

僕は黒木を見た。彼はすぐに視線を進行表へ落とし、赤いペンで何かを書き込んでいる。さっきの言葉が自分から出たものなのか、単なる工程の話なのか、僕には判断できなかった。

「俺だって、全部を予定通りにしたいわけじゃない」

黒木は紙を見たまま言った。

「予定表に線を引いて、余った時間を詰めて、遅れたら別のところから持ってきて。そうやってると、何でも動かせるように見える。でも、実際は動かせないもののほうが多い。人が疲れることも、道具が足りなくなることも、雨が降ることも、止められない」

「だったら、なおさらちゃんとやらないと」

「ちゃんと、の意味を一つにするな」

黒木が顔を上げた。

「お前にとってのちゃんとは、線が揃っていて、色が濁ってなくて、誰にも失敗を見つけられない状態だろ。俺にとっては、明日の朝に運べて、風が吹いても破れず、みんなが見たときに蒼炎旗だとわかる状態だ。どっちも間違いじゃない。でも、今はどっちを先にするか決める時間だ」

美術室の外で、誰かが台車を押していった。車輪が床の継ぎ目を越えるたび、がた、がた、と音がした。

僕は旗へ視線を戻した。

青の線は、僕の呼吸に合わせて揺れているように見えた。濃い青を置きすぎれば布目が固くなる。薄くすれば、下のにじみが透ける。どこまでなら直したことになり、どこからが隠しただけになるのか、その境目が見えなかった。

「……全部、自分でやるって言ったんだ」

「誰に」

「みんなに」

「みんなって誰だよ」

「クラスの」

「クラス全員が、お前一人でやれって言ったのか」

答えられなかった。

黒木は短く息を吐いた。ため息というより、次の作業へ移る前の呼吸だった。

「誰も言ってないなら、勝手に役割を増やすな。俺は実行委員長だから、全体の遅れは見る。でも、旗をお前一人の責任にはしない。そこまで勝手に決められると、こっちも困る」

「でも、最後に塗ったのは僕だ」

「だから、最後に塗ったところはお前が直せばいい。それ以外は?」

「……」

「それ以外まで背負うな。余計に遅くなる」

美咲が、机の端に置かれたスポーツドリンクの蓋をもう一度回した。さっきからずっとそこにいたらしい。いつ戻ってきたのか、僕は気づいていなかった。彼女の手には、養生テープの束と、紙コップが二つあった。

「黒木、教室のテープ持ってきたよ。あと、先生が体育館の鍵を探してる」

「わかった。あとで行く」

美咲は僕の横へ紙コップを置いた。中身は水だった。スポーツドリンクよりも、今の僕には飲みやすそうだった。

「これ、飲んで」

「いらない」

「またそれ言う」

「飲んだら手が止まる」

「手を止めないと、手が動かなくなるよ」

「大丈夫」

「それ、便利すぎるよ」

美咲の声が少しだけ震えた。

「大丈夫って言えば、心配されなくて済むし、手伝われなくても済むし、自分が困ってることも言わなくて済む。でも、聞いてるほうは、何もできないままそこにいるしかないんだよ。私、明るくしてれば何とかなると思ってた。飲み物持ってきて、笑って、手伝うって言えば、少しは楽になると思ってた。でも、そうじゃないなら、どうしたらいいの」

「……別に、何もしなくていい」

「それが一番困る」

美咲は笑わなかった。

「何もしないで見てるだけって、思ったより苦しいんだよ。頑張ってる人を邪魔したくない。でも、邪魔しないようにしてると、その人がどんどん一人になる。私、前にもそういうことあった。大丈夫って言われて、信じて、あとでその子が保健室で倒れたって聞いた。信じたんじゃなくて、信じたことにして逃げたんだと思う」

僕は紙コップを見た。

水面が、廊下を通る足音の振動でかすかに揺れている。

「僕は倒れない」

「倒れるかどうかの話じゃないよ」

「じゃあ、何の話だよ」

「一人でやることを、偉いことみたいにしないでって話」

胸の奥を、細い針で押されたような気がした。

美咲は言いすぎたと思ったのか、視線を落とした。それでも言葉を引っ込めなかった。

「一人でできるなら、できるところは一人でやればいい。でも、一人でやったほうがいいとは限らないでしょ。私たち、同じクラスなんだから。旗がにじんだなら、にじんだ状態から一緒に考えればいい。失敗を見せられたからって、誰もお前を責めないよ」

「責められなくても、迷惑はかかる」

「もうかかってる」

美咲が言った。

「お前が一人で残って、明日の朝までに終わらなかったら、今度はクラス全員が困る。私たちが手伝うのは、迷惑をかけられることじゃなくて、困る前に動くことなの」

黒木が進行表を閉じた。

「美咲の言う通りだ」

「黒木まで」

「ただし、今から全員を呼ぶつもりはない。呼んでも作業が増えるだけだ。旗の状態を見て、できる人間だけ呼ぶ。お前はここを塗る。美咲はテープと水の交換。俺は明日の運搬と、残す部分の確認をする」

「僕は頼んでない」

「頼まれてないから決めた」

黒木はそう言って、机の上の予備の養生テープを僕の手元へ滑らせた。

「残るなら、残れる分だけやれ。お前が残れる分と、俺たちが残れる分は別だ。別だから、合わせられる」

その言葉を聞いても、僕の中の硬いものはすぐにはほどけなかった。助けてもらえば、失敗が共有される。共有されれば、僕だけのものではなくなる。僕だけのものでなくなれば、直せなかったときに、誰かの時間まで無駄にしたことになる。

そんな考えが、順番を変えながら何度も浮かんだ。

僕は紙コップを持ち上げた。水は冷たく、喉を通ると、そこだけが自分の体から切り離されたように感じた。

「……この先端だけ、僕がやる」

言ったあとで、二人の視線が集まるのがわかった。

「それから、下の白いところは美咲にテープを貼ってもらう。青が飛んでるから、そこを囲む。黒木は……」

言葉が止まる。

黒木は待った。急かさず、けれど代わりにも言わなかった。

「黒木は、遠くから見て、残していいところを決めてほしい」

言い終えると、喉の奥がひどく乾いた。

美咲が小さく息を吐いた。

「うん。できる」

黒木は進行表を開き、余白へ線を引いた。

「了解。十五分ごとに一回、全体を見る。五分前になったら片づけに入る」

「十五分って、短すぎないか」

「短いから、余計なところを触らずに済む」

「でも、まだ――」

「全部を完成させる時間じゃない。明日に渡せる状態にする時間だ」

黒木は予備のテープを指先で整えた。端が揃っていないのが気になったらしく、一度束を持ち上げ、机の角に軽く当ててから置き直す。その仕草が、妙に僕と似ている気がした。

僕はもう一度、旗を見た。

にじみは消えていない。濃淡の境目も、雨を吸った布の膨らみも、近くで見ればそのままだ。けれど、先端の線を整えれば、炎は炎として残る。白地の飛沫を囲めば、視線はそこに引っかからない。完璧ではない。だが、明日の風を受ける形にはできる。

平刷毛を水入れへ浸した。

毛先から冷たい水が指へ伝わる。僕は余分な水を雑巾に吸わせ、今度は絵の具を少なめに含ませた。布目へ刷毛を置く。力を入れすぎない。線を押し広げず、ただ元の輪郭へ戻していく。

隣で、美咲が養生テープを切った。

ぺり、と短い音がする。

黒木は数歩下がり、旗を眺めながら進行表へ何かを書き込んでいる。三人が同じ机を囲んでいるのに、誰も僕の手元へ口を出さなかった。黙っていることが、さっきまでとは違っていた。

作業を見捨てる沈黙ではない。

それぞれが、自分の持ち場を引き受けている沈黙だった。

僕は先端の青を一度だけ塗り、刷毛を止めた。線はまだ完全には揃っていない。けれど、さっきのように何度も重ねたいとは思わなかった。これ以上触れば、直すための線が、また別の乱れになる。

「そこまででいい」

黒木が言った。

「まだ少し――」

「遠くから見ろ」

僕は立ち上がり、旗から離れた。

数歩下がっただけで、細かなにじみは消えた。蒼い炎の先端は、かすかに揺らいで見える。それは失敗の名残かもしれないし、炎の動きにも見えた。

美咲が隣に並んだ。

「ね。ちゃんと蒼炎旗だよ」

僕は返事をしなかった。

ちゃんと、という言葉にすぐ同意するのは怖かった。けれど、完全に否定することもできなかった。

机の上には、水筒と紙コップ、予備の養生テープが並んでいる。僕が一人で置いたものではない。旗の上には、僕の筆跡だけではない時間が重なり始めていた。

それでも、胸の奥の焦りは消えなかった。

黒木が次の持ち場へ向かうため、進行表を閉じた。美咲もテープの束を抱え直す。二人がいなくなれば、また僕だけになる。そう思った瞬間、さっきよりも強く、旗の重さが戻ってきた。

「じゃあ、俺は体育館に戻る。十五分後にまた見る」

「美咲も?」

「私はテープを置いてくる。すぐ戻るから」

「……うん」

二人の足音が廊下へ遠ざかる。

僕は旗の前に立ったまま、手のひらに残る水の冷たさを感じていた。さっきまで三人で囲んでいた机が、急に広くなる。スポーツドリンクの蓋が開いたまま、わずかに甘い匂いを漂わせていた。

僕は刷毛を握り直した。

さっきよりは弱く握れた。けれど、まだ一人で握っている。

廊下の先で、黒木の足音が別の音に混ざった。美咲の明るい声も、すぐに聞こえなくなった。

僕は旗の端を指で押さえ、浮きかけた養生テープを貼り直した。

今この場にあるのは、僕の失敗だ。

そう思い直すことでしか、手を動かせなかった。

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