第1話 雨のあとに残る青

放課後の美術室には、乾きかけた絵の具と湿った布の匂いがこもっていた。
窓は少しだけ開いている。けれど風はほとんど入らず、外から聞こえてくる運動部の掛け声と、校舎のどこかでガムテープを切る音だけが、細い隙間を通って忍び込んでくる。夕方の学校は、昼間よりも物の音がよく響く。誰かが廊下を走れば、足音が壁の中まで伝わってきた。
机の上に、蒼炎旗を広げた。
白い布の中央で、蒼い炎が燃えているはずだった。二年四組の応援旗として、何日もかけて描いたものだ。炎の先端は細く尖り、濃い青から淡い青へ、いくつもの色を重ねて形をつくっている。遠くから見れば、風を受けて揺れる炎に見えるはずだった。
昨日までは。
今は、炎の輪郭がところどころ膨らんでいた。細い線の端から青が滲み、隣の色へ水が渡っている。濃淡の境目はぼやけ、布目に染み込んだ絵の具が、乾いたあとも雨の跡のように残っていた。
近づいて見るほど、失敗ははっきりする。
僕は指先で布の端をなぞった。乾ききらない布はざらついていて、爪の先に細かな繊維が引っかかった。その感触だけで、昨日の夜の冷たい雨がよみがえった。
校舎裏の物干し台に、旗を広げていた。最後の青を塗り終えたところだった。みんなが帰ったあとも残って、風のない空を見上げながら、ようやく終わったと思っていた。そこへ雨が落ちてきた。
最初は、ほんの数滴だった。
取り込めば間に合うと思った。けれど絵の具は思ったより乾いていなかった。布を持ち上げたとき、蒼い線が指の動きに引かれるように伸びた。水滴が落ちるたび、炎の輪郭が崩れていった。
誰かを呼ぶこともできたはずだった。実行委員の黒木に連絡することも、美咲に手伝いを頼むこともできた。けれど僕は、濡れた旗を抱えたまま、誰にも見られない場所へ持っていった。
失敗した、と口にするのが嫌だった。
その言葉を言ってしまえば、旗のにじみが僕のものになる気がした。いや、実際に僕のものだった。最後に塗ったのは僕で、乾き具合を確かめなかったのも僕だ。だったら、僕が直すしかない。
「……描き直せる」
声にしてみると、思っていたより硬かった。
机の端に、学年主任の古い絵の具箱を置いた。金具は少し錆びていて、蓋を開けると木と乾いた顔料の匂いがした。中には、何年も使われてきた絵の具が小さな仕切りに並んでいる。白の蓋には青い飛沫がつき、赤のチューブは何度も絞られたせいで、腹が薄く潰れていた。
絵の具箱の中身を一度全部出し、色の順番をそろえた。青、紺、白。使うものだけを手前に置き、平刷毛を布の上に並べる。机の角と旗の端が少しずれているのが気になり、養生テープを剥がして貼り直した。
貼り直した端が、今度はわずかに斜めになった。
僕は一度剥がし、また貼った。
「そこまでしなくてもよくない?」
声がして、手が止まった。
美咲が美術室の入口に立っていた。小さな水筒と、コンビニの袋を両手に持っている。髪の先が少し乱れていて、走ってきたのか頬が赤かった。
「体育館にいたんじゃなかったの」
「いたよ。だから走ってきた。黒木が、こっちにいるかもって」
美咲はそう言いながら机に近づき、袋から小さな菓子の包みを取り出した。いつものように、誰かに何かを渡すことで場を軽くしようとしている。けれど旗を見た瞬間、その動きが止まった。
「……これ」
僕は返事をせず、絵の具箱から紺色のチューブを取り出した。蓋を回す。固まった絵の具がねじ山に噛んでいて、なかなか開かない。
「にじんだんだね」
「少し」
「少しっていうか、けっこう?」
「塗れば戻る」
「でも、明日だよ」
「わかってる」
「手伝うよ」
僕はチューブを置き、平刷毛を持ち上げた。
「大丈夫」
言ってから、しまったと思った。
美咲は黙った。僕の返事が早すぎたことに気づいたのだと思う。けれど彼女は、それを責める代わりに水筒の蓋を開け、僕の右手の近くへ置いた。
「大丈夫って言う前に、一回飲んで」
「いらない」
「いらないじゃなくて。ずっと何も飲んでないでしょ」
「あとで飲む」
「あとでって、いつ?」
僕は布の上に平刷毛を置き、絵の具を少しだけ含ませた。毛先に水が残っている。多すぎる。わかっているのに、そのまま旗へ下ろした。
青が布目に沿って伸びた。
伸びすぎた。
「違う」
僕はすぐに雑巾を取った。だが拭えばさらに広がる。指先に力が入り、雑巾の角が布へ押しつけられた。
「待って、強く拭いたら――」
「わかってる」
「ごめん、そういう意味じゃなくて」
美咲の声が少し小さくなる。
僕は雑巾を置いた。水を吸った布の冷たさが、指先から手のひらへ染みていた。

「……昨日の雨、予報では降らないって言ってたんだ」
自分から話し始めたことに、僕自身が驚いた。美咲は何も挟まずに、立ったまま聞いている。
「夕方までは晴れてた。だから大丈夫だと思った。乾いてると思ってた。でも、たぶん僕がちゃんと確認してなかった。急いで終わらせたかっただけで。みんな帰って、僕も早く片づけたくて、乾いたことにした」
「誰も、急かしてなかったよ」
「でも、明日使うものだから」
「だからって、一人で全部持たなくていいでしょ」
「僕が最後に触ったから」
「最後に触った人が、全部の責任を持つの?」
美咲の問いは、強い声ではなかった。だから余計に返しにくかった。
僕は旗の端を見た。養生テープの白が、夕日の中で浮いている。きちんと貼り直したはずなのに、角がほんの少し浮いていた。
「……そういうものだと思ってた」
「誰が決めたの、それ」
「決めた人はいない」
「じゃあ、勝手に決めたんだ」
図星だった。
美咲は困ったように笑った。いつもの明るい笑い方ではない。相手を追い込まないように、笑顔の形だけを残したような顔だった。
「私さ、手伝うって言ってるのに、毎回大丈夫って言われると、手伝っちゃいけないのかなって思う」
「そういうつもりじゃない」
「うん。わかってる。わかってるけど、わかるだけだと、こっちは何もできないんだよ」
その言葉が、絵の具よりも重く机の上に落ちた。
僕は顔を上げられなかった。美咲の水筒の表面に水滴が浮かんでいる。冷たい飲み物なのだろう。細い水滴がゆっくり下へ流れ、机の木目に小さな輪をつくった。
「助けてって言えばいいだけじゃん」
「簡単に言うなよ」
思ったより大きな声が出た。
美咲の肩がわずかに揺れた。すぐに後悔したが、謝るより先に水滴を雑巾で拭いた。こぼれてもいないのに、机を拭いた。
「ごめん」
「ううん。私も、簡単に言った」
「違う。僕が……」
言葉が続かない。
僕が悪い。僕が確認しなかった。僕が一人でやると言った。僕が手伝いを断った。そこまでは言える。けれど、その先にあるものは、まだ言葉にならなかった。
美咲はしばらく黙っていた。やがて、机の上の菓子を僕の側へ押した。
「食べなくてもいいから、置いとく。あと、飲み物も。私、教室のテープ取りに戻るね」
「美咲」
呼び止めたのに、続きが出てこなかった。
美咲は振り返った。
「なに?」
僕は「ありがとう」と言おうとした。けれど、喉の奥で言葉が引っかかった。ありがとうと言えば、受け取ったことになる。受け取ったことを認めれば、自分一人ではないと認めることになる。
だから、別の言葉を探した。
「……これ、置いといて」
「うん。置いとく」
美咲はそれだけ言って、出ていった。
扉が閉まると、美術室は急に広くなった。廊下から聞こえる声も、遠ざかったように思えた。僕はもう一度、旗に向き直った。
平刷毛を水入れに浸す。冷たい水が毛先から手へ伝わった。水面で青い絵の具がほどけ、薄い煙のように揺れる。
僕は刷毛を洗い、古い雑巾で水気を取った。絵の具箱の中から、まだ使えそうな白を探す。蓋の裏に残った飛沫を見て、誰かが以前ここで同じように失敗を直したのかもしれないと思った。
その考えは、すぐに打ち消した。
昔の人がどうしたかなんて関係ない。僕が壊したものは、僕が戻す。
窓の外で、運動部の掛け声が途切れた。校舎の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。夕日は机から消え、養生テープの白も、旗の青も、同じ薄暗さの中へ沈んでいった。
僕は新しい布を旗の下へ敷き、浮いた端をもう一度テープで留めた。
今度は、角を何度も確かめた。
刷毛を持つ。
にじんだ青の上へ、濃い色を重ねていく。布目が刷毛を引き止めるたび、手の中に小さな抵抗が返ってくる。焦れば線が崩れる。力を抜けば、絵の具が薄くなる。
僕は息を吐いた。
誰にも頼らずにやると決めたなら、せめて明日の朝までに形にする。蒼炎旗を、二年四組の前に出せるところまで戻す。
美咲が置いていった水筒は、まだ机の右手にあった。僕はそれを見ないふりをして、刷毛を動かし続けた。けれど、さっきまでより少しだけ、握る力が弱まっていた。
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