第9話 沈黙の帳尻

トキの家へ戻る道は、祠へ向かったときより短かった。

短いというより、道の方からこちらへ寄ってきたように感じた。杉木立の間にあったはずの石段が、足を置く前に靴底の下へ現れる。霧の向こうで消えていた家々も、気づけば両側に迫っている。濡れた軒先から落ちる雫が、私の肩を避けるように地面へ落ちた。

腕時計は、十一時五十八分で止まっていた。

祠を出てから、何度見ても同じ時刻だった。

撮影帳の焼けた頁に挟んだ紙片が、鞄の中で硬く当たっている。

――残すべきでない者を、残した。

その下に浮かんだ、黒い文字。

――次は、見る者。

私は何度もその二行を思い返した。だが、思い出すたびに文字の形がわずかに変わる。最初は同じ濃さだったはずなのに、二行目だけが深く沈み、紙の内側からこちらを見返しているようだった。

祠の床下で見た原板には、若い頃のトキと祖父が写っていた。中央の女の顔には、私の知らない誰かの記憶が重ねられていた。女の背後には人影が増え、写真の手前には私の姿が立っていた。

あれは現像前の像だった。

それとも、すでに記録された私だったのか。

考え始めると、足元の石の数さえ信用できなくなった。私は何段下りたのか。どこから歩いてきたのか。トキの家へ戻ろうとしているのか、白露堂へ向かっているのか。

ただ、戸口に吊るされた薬草の束が見えた。

私は土間の前で足を止め、戸を叩いた。

返事はなかった。

もう一度叩く。

内側で、何かが布を擦る音がした。ややあって、戸が指一本分だけ開く。トキの片目が隙間から覗いた。

「……帰ったのかい」

「入れてください」

トキは私の顔を見たあと、鞄へ視線を落とした。

「何を持ってきた」

「原板です」

「祠のものかい」

私は答えず、戸の前に立った。

トキはしばらく動かなかった。やがて掛け金を外し、私を中へ入れる。土間には朝と同じ薬草の匂いがあった。けれど、その奥に薬品臭が混じっている。白露堂で嗅いだものと同じ、喉の奥に残る苦い匂いだった。

「戸を閉めてください」

「閉めるよ」

トキは内側から掛け金を二つ下ろした。ひとつ目を留め、金具の噛み合わせを指で確かめる。二つ目も同じように確認した。普段の癖なのだろう。だが今夜は、その手つきが戸の外にいるものを締め出すというより、こちら側にある何かを逃がさないためのものに見えた。

囲炉裏跡の脇には、朝の裁縫箱が置かれていた。

トキは火のない薬缶へ湯を注ぎ、急須を温めた。

「座りなさい。顔色が悪い」

「顔色の話は後にしてください」

「後にできる話なら、そうしているよ」

「あなたは原板を知っていました」

トキの手が止まった。

「どの原板だい」

「祠の床下にあったものです。若い頃のあなたと、祖父と、あの女が写っていた。写真の端に、顔を削られた人がいた。肩だけ残された人も、子どもの手だけ残された人もいた」

トキは湯呑みを二つ並べた。私の側の湯呑みが少しだけ傾いている。彼女はそれを直そうとしたが、途中で手を止めた。

「見たんだね」

「見ました。見てしまいました。あなたは、あの写真を持っているんですか」

トキは答えず、裁縫箱を膝へ載せた。

「御堂さんは、写真に残されたものは見るほどに近づくと言いました。あなたは、残ったものを見ないふりすることで、近づけないようにしてきた」

「慈恩が、そんな話をしたのかい」

「あなたも同じだったんでしょう」

「何が?」

「知っているのに話さない。見たのに、見なかったと言う。誰かを守るためだったと自分へ言い聞かせる。けれど実際には、自分が責任を負わずに済むよう、名前を避けていただけです」

言葉は、自分の口から出たあとで重さを増した。

トキは怒らなかった。顔を伏せ、裁縫箱の留め金を指で撫でている。しばらくしてから、乾いた声で言った。

「そうかもしれないね」

その認め方に、私はかえって戸惑った。

「そうかもしれない、では困ります」

「困るのは、あんたの方だろう。私がはっきり悪いと言えば、あんたはその言葉を記録にできる。私が黙っていた。私が知っていて隠した。私が誰かを見捨てた。そう書けば、空白は埋まる。けれど、人間は帳面の一行に収まるほど簡単じゃない」

「簡単にするつもりはありません」

「そのつもりがなくても、記録にすると簡単になるんだよ。誰が何をした。いつ、どこで、どうなった。名前を並べて、日付を揃えて、最後に責任の所在を決める。そうやって村は、死んだ者を片づけた」

「だから、写真に同じ顔を使った?」

トキの指が、留め金の上で止まった。

私は鞄から原板の複写を取り出した。紙を机へ置く。トキは見ようとしない。けれど、視線は紙の端へ落ちていた。

「白露堂では、死者の顔を整えた。髪を直して、襟を合わせて、口元を拭いた。死者をその人らしく残すために。けれど、実際には違った。村の都合に合わせて、同じ顔を別の人間へ重ねた。名簿から外された人間を、別の家の死者として記録した」

「……慈恩が、そこまで話したのかい」

「あなたが話さなかったことを、別の人が言いました」

「そう」

トキは急須を持ち上げ、空の湯呑みに湯を注いだ。茶葉は入っていない。湯気だけが、二人の間に立ち上がる。

「私の祖母は、喪服を繕っていた。あの頃は、喪服が足りなかった。死者の家へ持っていく服、写真を撮るときに着せる服、戻ってきた服。どれも薬品の匂いが染みて、洗っても取れなかった。祖母は、服を繕いながら、誰の服かを言わなかった。聞いても、別の話をした」

「あなたは、何を見たんですか」

「見たくなかったものを、見た」

「何を」

トキはようやく私を見た。目は私の顔ではなく、原板の複写の上にある。

「白露堂の戸口へ、布をかけられた人が運ばれてきた。ひとりではなかった。何人も続いていた。生きている人間が運んでいるのに、誰もその人の名前を呼ばなかった。呼べば、その人がそこにいることになるからね」

「死者だったんですか」

「分からない」

「分からないはずがないでしょう」

「分からないようにされたんだよ」

トキの声は低かった。

「死んだ人もいた。まだ息をしていた人もいた。熱で意識を失っているだけの人もいた。けれど、あの家へ入った者は、出てくると別の扱いになった。死んだことにされる者。別の家の者として記録される者。最初からいなかったことにされる者。顔を整えられて、写真を撮られて、それで終わりになる者」

「女は?」

「女?」

「乾板に写る女です。何度も撮り直された。あなたは、彼女を知っている」

トキは長く息を吐いた。

その吐息が、薬品臭を含んで私の方へ流れてくる。

「知っている、という言葉は便利だね。顔を見たことがある。声を聞いたことがある。名前を呼んだことがある。そういう全部を、知っているの一言で隠せる」

「名前を呼んだことがあるんですね」

トキは目を閉じた。

「呼んだよ」

「何という名前ですか」

「……」

「答えてください」

「名前を呼べば、戻る」

「もう戻っています。私の乾板に、何度も写っている」

「写っているだけじゃない」

「なら、何ですか」

トキは裁縫箱の蓋を開いた。糸巻きや針山をひとつずつ確かめる。箱の底には、黒い喪服の端切れが畳まれていた。襟元だけが白く擦れている。

「その人は、最初からひとりではなかった」

「どういう意味ですか」

「村には、名前を持てない人がいた。親が誰か分からない子ども。どの家から来たのか記録されていない女。病気の名簿に入れれば、村の外から来たことが分かる人。そういう人たちを、村は嫌った。嫌ったというより、恐れたんだろうね。誰の血が混じっているか分からない。誰の土地を継ぐか分からない。誰の側に立つか分からない。分からないものを、村はそのまま置いておけなかった」

「だから、顔を固定した」

「顔を一つにした」

「同じことです」

「違うよ。固定されたのは顔だけで、その人自身はどこにも残らなかった。顔があれば、死者として使える。名前がなくても、写真があれば、誰かを送ったことになる。あの女の顔は、何人もの死者に使われた。何人もの生きた者を、別の家へ入れるためにも使われた」

私は原板の複写へ目を落とした。

中央に立つ女の顔は、焼けた部分が多く、輪郭が不自然に曖昧だった。目だけが、はっきりしている。私を見ていた目。

「本人は、抵抗しなかったんですか」

「抵抗したよ」

「どうやって」

「髪を切らなかった。帯を同じに結ばせなかった。写真を撮るたび、少しだけ立つ場所を変えた。右を向けと言われれば左を向いた。目を伏せろと言われれば、レンズの奥を見た」

私は息を止めた。

乾板の女の髪型。帯の結び。少しずつ変わる立ち位置。深くなる視線。

それは怪異の癖ではなく、残された抵抗の形だった。

「あなたは、見たんですね」

「見た」

「その人が撮られるところを」

「見たよ」

「それなのに、助けなかった」

トキの手が止まった。

「助けられなかった、と言えば許されると思うかい」

「私は許すと言っていません」

「そうだね。あんたは、許すために来たんじゃない。正すために来た。けれど、正すというのは、間違えた人間の上に立って、正しい場所へ戻すことだろう。あの時の私は、正しい場所がどこか分からなかった。女を逃がせば、家族が消される。口を開けば、祖母が連れていかれる。黙っていれば、少なくともその日の夜は、戸が叩かれない。そういう選び方しかなかった」

「それでも、見なかったことにした」

「そうだよ」

トキはあっさり言った。

「私は見なかった。見ていないことにした。写真を撮られる音も、戸の中から聞こえた声も、翌朝、白露堂の裏から運び出された布も。全部、見なかった。そうして生き延びた。生き延びたから、後から何度でも思い出せた。死んだ者は黙っている。生き残った者だけが、黙った責任を抱える」

その言葉が、胸の奥へ沈んだ。

祖父も同じだったのだろうか。

記録を残しながら、最も重大な頁だけを焼いた。何でも写そうとしながら、肝心な顔だけを消した。私に遺品を託しながら、真実を語らなかった。

守りたかった。

けれど、守るために消した。

消したからこそ、消されたものが戻ってきた。

私は祖母の名を口にした。

トキの針が、布を刺したまま止まった。

「祖母は、あの女と関係があるんですか」

返事はなかった。

「祖父の写真の裏には、『この人を、澪には見せない』と書いてあった。祖母は、写真に写ることを嫌がった。私が子どもの頃、誰かの名前を口にしたとき、祖母は私の口を塞いだ。その名前が思い出せない。思い出せないのに、恐れていたことだけは覚えている」

トキの唇がわずかに震えた。

私は続けた。

「祠の原板には、若い頃のあなたと祖父が写っていた。女の隣に、顔を削られた人がいた。あなたは、その人を知っている。祖父も知っていた。祖母も知っていた。だったら、教えてください。私の祖母は、あの記録のどこにいたんですか」

トキは針を抜き、糸を切った。

糸の端が、膝の上へ落ちる。

「……戻らないよ」

「誰がですか」

「名前を呼ばれた人も、呼ばれなかった人も。あの夜に白露堂へ入った者は、もう戻らなかった」

「祖母の話をしています」

「分かっているよ」

「なら、答えてください」

「答えたら、あんたはどうするんだい」

「記録します」

「記録して、何をする」

「外へ持ち出します。行政記録と照合して、家系の改竄を明らかにする。消された名前を戻す。祖父が焼いた頁も、原板も、全部」

「その写真を世間へ見せるのかい」

「必要なら」

「見せた人間は、写真の中の者を救えると思うかい」

「少なくとも、なかったことにはしない」

「なかったことにしないために、また人の顔を見世物にするのかい」

その問いは、予想していなかった場所から来た。

私は答えられなかった。

トキは顔を上げ、初めて真正面から私を見た。

「澪さん。あんたは、見なかったことにする人間を嫌っている。私も嫌いだよ。けれど、見ることがいつも正しいわけじゃない。写真は、残された人間の手から離れたあと、誰のものになる? 研究者のものか。役所のものか。新聞のものか。珍しい怪異として語る人間のものか。死んだ人の顔を、また別の都合で並べ替えることにならないかい」

「だから、隠せというんですか」

「隠せとは言っていない。自分が正しい側にいると思うなと言っている」

「私は、正しい側にいたいわけではありません」

「では、何のために来たんだい」

私は手帳を見た。

赤鉛筆で何度も書き直した文字。日付。湿度。像の位置。影の数。自分が見たものを、見たまま残すための記録。

けれど、私は女の右手を見なかった。

祖父の影を見なかった。

写真の手前に立つ自分の姿を、見ないふりをした。

「分かりません」

言葉にした瞬間、喉が痛んだ。

「最初は、祖父の空白を埋めるためでした。焼けた頁を復元して、家族が隠したものを確かめるためだった。でも今は、違う。私はあの女の顔が変わるたび、次を見たいと思っている。何が増えるのか、どこまで近づくのか、私の記憶とどこで重なるのか。怖いのに、現像をやめられない」

トキは何も言わなかった。

私は続けた。

「私は、記録を正すと言いながら、あの女を自分のために見ている。祖母に似ているか確かめたい。祖父が私に何を隠したのか知りたい。私の家が、誰を消して、誰の顔を借りたのか見つけたい。死者のためではなく、自分の空白を埋めるために」

声が、少しずつ低くなる。

「それでも、見なかったことにはできません。見てしまったものを、なかったことにして帰ることはできない。あなたたちがそうしてきたから、女は今も写真の中にいる。見られるたびに、別の顔へ重ねられた人たちを戻している。私が見続ければ、また同じことをするのかもしれない。それでも、見ない方がいいとは思えない」

トキは針を裁縫箱へ戻した。

「それが、あんたの答えかい」

「答えではありません。まだ、問いです」

「問いを持ったままでは、村の外へ帰れないよ」

「帰れなくても、確かめます」

トキは目を伏せた。

しばらくして、裁縫箱の底板へ指をかけた。底板を押すと、古い木がわずかに浮いた。中から、薬包紙に包まれた小さなものを取り出す。

焼けた写真の切れ端だった。

トキはそれを私へ渡さなかった。机の中央へ置く。

写真には、女の頬から下だけが残っていた。濡れた髪。喪服の襟。喉元に、細い青灰色の紐。

私は指先を伸ばしかけ、止めた。

「これは、あの女です」

「そうだね」

「あなたは、名前を知っている」

トキは長く息を吐いた。

「名前は、あったよ」

「何という名前ですか」

「……澄江」

その音が、家の中に落ちた。

どこかで、戸が軋んだ。

トキは写真を見たまま続けた。

「澄江は、村の外から来た女だった。けれど、誰の家から来たのか、誰の血を引いているのか、最後まで分からなかった。分からないままでも、澄江は村で暮らしていた。髪を青い紐で結び、雨の日には白露堂の軒先で祖父さんの写真機を眺めていた。宗一さんは、澄江の顔を何度も撮った。最初は、本人が望んだからだよ。自分の顔が残ることを、澄江は喜んでいた」

「喜んでいた?」

「忘れられないためにね。村では、名前を呼ばれなくなると、家の中から少しずつ消えていく。座っていた場所が空き、使っていた茶碗が片づけられ、最後には誰もその人がいたことを話さなくなる。澄江は、それが嫌だった。だから写真を撮らせた。歪んでもいい、死んだあとでもいい、残りたいと言った」

「それが、葬送記録に使われた」

「疫病が始まってから、澄江の顔は別の者に重ねられた。最初は一人。次に二人。誰かが死ぬたび、澄江の顔を整えて写した。顔だけを残し、名前を別のものにした。澄江が抵抗するたび、撮影者は立つ場所を変え、帯を結び直し、髪を押さえた。けれど、目だけは変えられなかった」

私は写真の目を見た。

切れ端には目が残っていない。

それでも、その視線を知っている気がした。

「澄江は、どうなったんですか」

トキは答えなかった。

その沈黙で、十分だった。

「死んだんですね」

「そういう記録になっている」

「実際は?」

「分からない」

「あなたは見たでしょう」

トキの手が、写真の焼けた縁へ伸びる。

「白露堂の奥から、澄江の声を聞いた。助けて、と言ったのか、名前を呼んだのか、今でも分からない。私は戸口にいた。入れなかった。入らなかった。祖母が私の腕を掴んで、ここにいなさいと言った。戸の向こうで、何度もシャッターの音がした。乾板を替える音。水を流す音。誰かが泣いている音。その中に、澄江の声があった」

「なぜ、助けなかったんですか」

「怖かったからだよ」

トキは正面を見た。

「澄江が怖かったんじゃない。助けたあとに、村の全員が私を見ることが怖かった。誰かを助けた者は、次に誰かを差し出さなければならない。そういう村だった。私は、澄江を見捨てた。祖母も見捨てた。宗一さんも、最後まで助けられなかった」

「祖父は、何をしたんですか」

「澄江の顔を焼いた」

「焼いた?」

「帳面の頁から。原板から。写真の裏の名前から。けれど、全部は消せなかった。消そうとすればするほど、別の写真に戻った。だから宗一さんは、最後に焼け跡だけを残した。澄江がそこにいたことを、誰かが見つけるように」

私は祖父の声を思い出した。

――写っているものを捨てると、写っていないものまで消える。

あれは、記録を信じろという教えではなかった。

消したものほど、別の場所に残るという告白だった。

「祖母は、澄江を知っていた」

「知っていた。澄江の髪を結んだこともある。青い紐を渡したのも、あの人だよ」

「では、祖父が写真の裏に書いた『この人を、澪には見せない』というのは、祖母のことではなく、澄江のことだった」

「そうかもしれないね」

「また、そうかもしれないですか」

「写真の中で顔が重なった人間を、ひとつに戻すことはできない。祖母さんの顔の隣に澄江がいたのか、澄江の顔の中に祖母さんの記憶が残ったのか、私にはもう分からない」

トキの声が細くなる。

「ただ、あんたの祖母さんは、死ぬ前に一度だけ言ったよ。澄江を見た、と」

「どこで?」

「鏡の中で」

家の中の空気が、急に冷えた。

障子は閉じている。外の霧も見えない。けれど、背後の板壁から湿った冷気が流れてきた。

「鏡の中?」

「白露堂の暗室にあった鏡だよ。写真を撮る前に、髪や襟を確かめるためのものだった。祖母さんは、鏡の中で澄江が自分の背後に立っていたと言った。振り返ると、誰もいない。鏡を見ると、またいる。そういうことが続いた」

「それで、祖母は写真を嫌がった」

「写真を嫌がったんじゃない。見られることを嫌がった。自分の顔を見ているつもりが、別の顔に見られている。あの恐ろしさは、言葉にしにくい」

私は手を膝の上へ置いた。

指紋の溝に残っていた白い粉が、いつの間にか青灰色に変わっている。

「私も、見ました」

トキの顔が上がる。

「暗室で、鏡はなかった。でも、携帯の黒い画面に、私の背後の白いものが映った。振り返ると、何もない。乾板を見ると、女は私の後ろを見ていた。祠の原板では、写真の手前に私が立っていた」

「それなら、もう……」

トキはそこで言葉を切った。

「何ですか」

「いや」

「最後まで言ってください」

「言葉にすると、形になる」

「形になったものを、私は記録します」

トキは、かすかに首を振った。

「そうやって、あんたは澄江に近づく」

「近づくのは、私ですか。それとも、澄江がこちらへ来ているんですか」

「同じことだよ」

その答えに、私は息を止めた。

トキは焼けた写真の切れ端を、薬包紙へ戻した。

「澪さん。帰りなさい。今ならまだ、戸を開けて外へ出られる。霧が濃くても、道が変わっても、名前を呼ばなければ、戻れる可能性はある」

「可能性?」

「確かなことなんて、ここにはもうないよ」

「あなたは、私に忘れろと言うんですか」

「忘れられるなら、そう言いたい」

「でも、忘れられない」

「そうだね」

「私が帰れば、澄江はどうなるんですか」

「また、見られない場所へ戻るだけだろうね」

「それでいいんですか」

トキは答えなかった。

私は立ち上がった。机の上の複写を回収し、撮影帳へ挟む。紙の角を揃えようとしたが、指がうまく動かなかった。何度揃えても、複写の端がわずかにずれる。

トキがそれを見ていた。

「あなたは、最後まできれいに揃えようとするんだね」

「揃わないものを、揃うと言いたくないだけです」

「その言い方は、宗一さんに似ている」

「祖父は、澄江を消しました」

「消そうとして、消せなかった」

「私をここへ寄越した」

「寄越したのか、帰すつもりだったのかは分からない」

「どちらでも同じです。私は来た。見た。もう、見なかったことにはできない」

戸口へ向かう。

背中に、トキの声が落ちた。

「澪さん」

私は振り返った。

トキは裁縫箱を胸に抱えていた。古い箱を抱く腕は細く、けれど、手放すつもりのない力がこもっている。

「澄江の名前を、白露堂で呼ばないで」

「なぜですか」

「名前は、写真より近いからだよ」

「それでも、名前がなければ、また誰かの顔にされます」

トキの表情が崩れた。

泣いているようには見えなかった。ただ、長く閉じていた戸が内側から少しだけ軋んだようだった。

「そうだね」

彼女は言った。

「だから私は、今まで呼ばなかったことを後悔している」

家の奥で、何かが水へ落ちた。

小さな音だった。

けれど、音のあと、家中の気配が沈黙した。薬缶も、柱も、霧も、すべてが一度だけ息を止めたように感じた。

トキが戸の方を見る。

私はその視線を追わなかった。

追えば、そこに誰かが立っている気がした。

「帰りなさい」

「あなたは?」

「私はここにいるよ」

「ひとりで?」

トキは、少しだけ笑った。

「ひとりでいられるなら、今まで生きてこられた」

私は戸を開けた。

霧が土間へ流れ込み、干した薬草の匂いを押し戻す。外は白く、道の形が見えない。けれど、その白さの中に、濡れた髪の黒い線が一本だけ浮かんでいた。

私は見ないふりをしなかった。

ただ、名前は呼ばなかった。

鞄の中で、撮影帳がわずかに膨らんでいる。挟んだ紙片が、内側から押し上げているのだろう。私は表紙を押さえた。

その瞬間、閉じた帳面の中から、紙をめくる音がした。

一枚。

間を置いて、もう一枚。

祖父が、どこかで頁を繰っているような音だった。

私は霧の中へ出た。

戸が背後で閉まる。

一度。

それから、もう一度。

歩き出すと、白い道の先に、赤い光が滲んだ。

白露堂の暗室の灯りに見えた。

私は足を止めた。

戻るべきではない。そう分かっている。

けれど、赤い光の中で、誰かがこちらを待っている。顔は見えない。濡れた髪だけが、障子の前で静かに揺れている。

私の手は、鞄の留め具へ伸びていた。

見なかったことにはできない。

そう思った。

同時に、見届けることが救いになるとは限らないという慈恩の声も、トキの「戻らないよ」という言葉も、祖父の沈黙も、すべてが同じ場所から聞こえた。

写真の中でだけ、時間が進んでいる。

私は赤い光へ向かって歩き出した。

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