第10話 水底の名

霧は、白露堂の戸口に近づくほど薄くなった。まるで建物そのものが、周りの白さを吸い込んで己の輪郭だけをはっきりさせているようだった。戸板の隙間から漏れる赤い光は、昨夜よりも濃く、滲むというより脈打っていた。

私は鞄の留め具を外し、戻り板の束を取り出した。指先に触れた紙の縁が、いつもより熱を持っている気がした。澄江、という名前を、私はまだ口にしていない。トキの言葉が耳の奥に貼りついていた。名前は、写真より近い。だから呼ぶな、と。

戸の隙間から身をねじ込む。暗室の空気は、薬品と湿った木材の匂いが混ざり合い、喉の奥にまとわりついた。現像バットの底には、昨夜と同じ黒い沈殿が沈んでいる。私はその前に膝をつき、戻り板の最後の一枚を手に取った。

ガラスの表面を指でなぞる。欠けはない。ひびもない。けれどそこに、何かが満ちているのが分かった。満ちているのに、まだ何も写っていない。乾板はただの硝子板として、赤い光を鈍く反射していた。

現像液にそれを沈める。

液面が揺れ、像が滲みはじめる。

最初に浮かんだのは、障子の線だった。次に、喪服の襟。帯の結び目。そして顔。私はその顔を見た瞬間、呼吸を止めた。

澄江の顔は、もう哀しんでいなかった。

怒ってもいない。

ただ、待っていた。

私は像の奥を見た。女の背後に、以前よりも鮮明な人影がある。若い頃のトキの横顔。祖父の、写真機を構えぬまま伸ばした手。そしてその手前、最も近い位置に——私がいた。

眼鏡の縁。右肩の下がり方。胸元へ寄せた左手。

写真の中の私は、今の私と同じ姿勢をしていた。いや、違う。今の私が、写真の中の私をなぞっているのかもしれなかった。

液面の揺らぎが、私の指先にまで伝わってくる気がした。冷たいはずの現像液が、ぬるく感じられる。私はバットの縁を両手でつかんだ。

その瞬間、何かが流れ込んできた。

戸板の軋む音。濡れた布を引きずる足音。誰かが名前を呼ぼうとして、途中で飲み込む気配。暗室の奥で水が落ちる音。シャッターの乾いた音が、何度も、何度も。

これは、記憶ではなかった。

少なくとも、私の記憶ではなかった。

けれど、皮膚の内側に貼りつくように、それは確かに流れ込んでくる。私は喉の奥に苦いものを感じた。吐き気だと分かるまでに、少し時間がかかった。

「澄江」

声にならない音で、私はその名を形にした。呼んではいけないと分かっていたのに、唇が勝手に動いていた。

バットの中の像が、揺れた。

女の輪郭が、一瞬だけ濃くなり、また薄くなる。背後の人影の数が、ひとつ増えたように見えた。顔のない影。けれど、その肩の傾きに見覚えがあった。

私は液から乾板を引き上げた。水が滴り落ち、床板を叩く。

そのとき、足の裏に伝わる感触が違うことに気づいた。板が、沈む。

私はしゃがみ込み、床を手で探った。現像台のすぐ脇、普段は気に留めなかった一枚が、他よりもわずかに浮いている。指をかけ、力を込めて持ち上げると、湿った木片が軋みながら外れた。

下に、空洞があった。

暗闇の中で、四角い木箱の輪郭が見える。手を伸ばすと、表面はざらついた布に包まれていた。布を剥がすと、祖父の筆跡に似た墨の線が蓋に残っている。

――澪へ。

私は蓋を開けた。

中には、焼け残った撮影帳の断片と、小さな紙の札が一枚、横たわっていた。札には、私の名前が記されている。篠宮澪。その下に、生年月日らしき数字が並んでいた。

けれど、それは私の知っている日付ではなかった。

私が生まれるよりも、十年以上も前の日付だった。

赤い光の中で、札の文字が滲んで見えた。涙のせいではない。乾板の水が、いつの間にか手の甲から札へ伝っていた。

背後で、水が揺れる音がした。

振り返ると、現像バットの中の乾板が、まだ像を結び続けていた。女の背後に立つ私の輪郭は、もう曖昧ではなかった。

はっきりと、こちらを見返していた。

← 横にスクロールして読み進められます