第8話 整えられた欠落

手の中の乾板が、体温を持ち始めていた。
私はそれを落とさないように、両手で挟んだ。ガラスの向こうでは、久良瀬の女が私の背後へ回り込むように立っている。顔は正面を向いているのに、身体だけがわずかに斜めを向いていた。喪服の襟元は整い、帯はこれまで見たどの結び方とも違っている。結び目から伸びた白い紐が、写真の外へではなく、私の肩のあたりへ続いていた。
御堂慈恩が、私の手から乾板を奪おうとした。
私は反射的に身を引いた。
「触らないでください」
「それは、おまえが持つものではない」
「私の姿が写っています」
「だからだ」
「だから、確かめなければならない」
「確かめるという言葉で、どれだけのものを近づければ気が済む」
慈恩の声は低く、祠の床下へ沈んだ。黒鈴を握る手が、骨ばって白くなっている。けれど彼は、私の顔ではなく、乾板の端だけを見ていた。真正面から見れば、何かを呼ぶとでもいうように。
私は乾板を斜めに傾けた。
女の背後に立つ私の顔が、少しだけ濃くなった。輪郭はまだ曖昧だったが、眼鏡の縁、右肩の下がり方、左手を胸元へ寄せる癖まで分かる。写真の中の私は、こちらを見ていない。女の方を見ていた。
いや、女ではない。
女の右手を見ている。
彼女の指先には、何かが握られていた。白い紐の先に、細長い札のようなものがある。文字はまだ読めない。けれど、その形を見た瞬間、祖父の撮影帳の焼けた頁が頭に浮かんだ。
四十七頁と四十八頁の間。
中央から縁へ伸びた焦げ跡。
私は撮影帳を開いた。手が震えていた。紙片を挟んだ頁の間から、焼け落ちた紙繊維がこぼれる。慈恩が何か言いかけたが、私は聞かなかった。
乾板と焼けた頁を並べる。
ガラスの端にある欠け。
頁の焼損した横幅。
紐の先に見える札の幅。
三つの形が、ほとんど同じだった。
「見てください」
「見ない」
「ここです。乾板の欠けは、頁の焼け跡と一致している。写真の中で削られた部分と、祖父が焼いた場所が同じです」
「一致したから、同じものだとは限らん」
「筆跡も、家紋も、写真の構図も一致している。これを偶然で片づけるなら、記録を照合する意味がありません」
「意味はある。だが、意味があるものほど、使い方を誤る」
「私は誤りません」
「そう言い切る者が、いちばん危うい」
慈恩は床下から木箱を引き上げた。蓋の中央には、半分だけ削られた家紋がある。私はそれを乾板の端へ近づけた。紋の残された線と、写真の隅に薄く浮かんだ印が重なる。
篠宮の家紋だった。
ただし、写真に浮かんでいるものは、私が知っている紋と少し違う。右側の一画が欠け、中心の線が反対向きに伸びている。削られたのではない。最初から、そういう形で写されたように見えた。
「祖父の家紋です」
「篠宮の紋だ」
「なぜ半分しか残っていないんですか」
「残したくない部分があったからだ」
「誰が?」
慈恩は答えなかった。
私は乾板を箱の蓋へ重ねた。家紋の線がぴたりと合う。背筋に冷たいものが走った。写真の中の女が、こちらを見ていた。彼女の視線は、私の手元へ下りた乾板と、木箱の紋を同時に見ているようだった。
「この紋は、私の家が久良瀬に関わっていた証拠です」
「関わっていたのは、家だけではない」
「私も、ですか」
「血は記録より長く残る」
「なら、なぜ祖父は焼いたんです」
慈恩は黒鈴を指で押さえた。鈴は鳴らなかったが、金属の中で何かが擦れるような感触があった。
「焼く理由は、ひとつではない。見せたくなかった。残したくなかった。残してしまったことを、なかったことにしたかった。あるいは、いつか誰かが見つけるために、焼け跡だけを残したかった」
「祖父が、私に見つけさせたと?」
「おまえは、見つけるまでやめない。宗一は、それを知っていた」
祖父の声が、耳の奥に蘇った。
――澪は、見つけるまでやめないからな。
私は幼い頃、その言葉を褒め言葉だと思っていた。祖父は、私の几帳面さを喜んでいるのだと。欠けたものを見つけ、壊れたものを直し、誰も読まない帳面を最後まで読む。その姿勢を、祖父は誇りにしているのだと。
けれど今、その声には別の響きが混じっていた。
諦め。
自分では終わらせられなかったものを、私なら見つけてしまうと知っていた人の諦めだった。
私は撮影帳の焼けた頁を光にかざした。
祠の入口から差す白い光が、紙の繊維を透かしている。黒く焦げた部分の下に、薄いインクの影が見えた。私は定規で紙を押さえ、乾板の欠けた形と照合する。
欠けは三か所あった。
最初は、単なる焼損だと思っていた。だが乾板の像に重ねると、三つの欠けは人の位置と一致した。ひとつは女の頬。ひとつは若い男の肩。もうひとつは、写真の端に立つ幼い子どもの胸元。
欠けた部分だけが、焼かれている。
私は息を詰めた。
「人の形に合わせて、焼いた」
「見えるのか」
「ここです。頁の焼損範囲は乾板の欠けと同じ形をしている。女の顔、男の肩、子どもの胸。記録から外した者の位置だけが、焼かれている」
「外したのではない」
「では何ですか」
「入れた」
慈恩はそう言った。
短い言葉だったが、私はすぐには意味を理解できなかった。
「何を?」
「別の記録へ」
「別の記録?」
「同じ顔を使った。死んだ者の顔を整え、名前のない顔にして、別の家の死者として写した。ひとりを消すために、ひとりを別の誰かへ重ねた。写真の中では、顔があれば記録になる。名前が違っても、家の数と死者の数が合えば、村は平静を保てた」
「そんなことを、村全体で決めたんですか」
「村全体という言葉は便利だ。誰か一人の決定を、みんなの必要に変えられる」
「誰が命じたんです」
慈恩は口を閉じた。
私は乾板を胸元へ引き寄せた。
「御堂さん。あなたは、記録を止めるために鈴を鳴らしている。でも本当は、誰が命じたか知っている。祖父も知っていた。トキさんも、知っている。私だけが知らされていない。家族の秘密だからですか。それとも、私自身がその記録の中にいるからですか」
「どちらもだ」
答えが返るまで、長い時間があった。
「私は写された側なんですか」
「おまえの母親は、久良瀬の外で生まれたことになっている」
その言葉は、頭の中で一度、形を失った。
母の出生地を私は知らない。家族の戸籍を調べたこともなかった。母は、祖父や祖母の話をほとんどしなかった。祖母の死について尋ねても、「古い話だから」としか言わず、写真を裏返してしまう人だった。
私は母の顔を思い出した。
写真を嫌がるところ。誰かの名前が話題になると、湯呑みを置く音が少し強くなるところ。祖父と二人きりになると、低い声で何かを言い合っていたこと。私は子どもの頃、その会話を聞こうとして、襖の向こうで息を殺していた。
だが、言葉は一つも思い出せなかった。
「母は、久良瀬の人間ではない」
「記録の上ではな」
「実際には?」
慈恩は乾板を見なかった。
「実際のことは、記録の外に置かれた」
「また同じ言い方をする」
「外に置かれたものは、なくなったのではない。誰かの中へ残る。家の記憶、身体の癖、名前を呼ばれたときの沈黙。そういうものになって残る」
私は乾板の中の自分を見た。
写真の中の私は、女の右手を見ている。その姿勢には、見覚えがあった。祖父の書庫で帳面を読むとき、私はいつも少しだけ右肩を下げていた。古い紙を傷つけないように、左手を胸元へ寄せる癖がある。
写真の中の私は、現像する者ではなかった。
写されるために、立っていた。
「この集合写真は、いつ撮られたものですか」
「疫病が広がる前だ」
「では、死者の葬送記録ではない」
「最初の記録は、生きている者を撮る。誰がどの家に属しているか、誰が誰の血を引いているか、誰が村の中心にいるか。それを確認するために」
「家系図の代わりに、写真を使った?」
「写真は、家系図より嘘がつきやすい」
慈恩は祠の床へ目を落とした。
「並んで立たせる位置を変えれば、親子にも他人にも見せられる。前に立つ者、後ろに立つ者。顔を残す者、肩だけを残す者。写真は、その場にいたという証拠であると同時に、その場でどう見せられたかという命令でもある」
私は原板を光にかざした。
そこには、十人ほどの姿があった。
中央に若い女。
その右に、若い頃のトキ。今より髪が濃く、頬が張っている。目は正面を向いていない。写真館の外、白露堂の戸口の方を見ていた。
左端に宗一。
まだ若く、髪は黒い。写真機を持っているが、構えてはいない。片手を女の肩へ伸ばしかけている。触れているのか、触れる寸前なのか、原板の欠けのせいで判別できない。
女の隣には、顔の半分が焼け落ちた人物がいた。
もう一人、肩だけが残っている。
そのさらに手前に、幼い子どもが立っている。顔は削られているが、右手の指だけがはっきり写っている。指先に、細い青い紐が結ばれていた。
私は自分の手首を見た。
そこには何もない。
けれど、左手の親指の付け根に、青灰色の線が浮かんでいた。現像液の汚れだと思って擦ったが、皮膚の下に沈んでいて消えない。
「この子は誰ですか」
「名前を呼ぶな」
「写真に写っています」
「顔がない」
「顔がなくても、いたことは分かる」
「それを分からなくするために削った」
「だから戻すんです」
私の声が、祠の奥で反響した。
「焼けた頁も、欠けた原板も、名前のない顔も、全部戻す。誰かが都合よく消したものを、なかったことにしない。私の仕事は、そのためにあるんです」
慈恩は、初めて疲れたように笑った。
「そうやって、宗一も始めた」
胸の奥が冷えた。
「祖父も、記録を正そうとした?」
「最初はな。写真に残された順番と、村の帳面に書かれた順番が合わないことに気づいた。死者の数が、家ごとに違っていた。名簿から消えた者が、別の家の写真に同じ顔で現れる。宗一はそれを照合した。おまえと同じように、頁の端を測り、乾板の傷を写し、別の記録と並べた」
「それで、何を見つけたんですか」
「村の中心にある家が、誰を残し、誰を残さないかを決めていた。疫病の混乱に乗じて、土地や家を継ぐ者を入れ替えた。血筋を消し、別の血を記録へ入れた。死んだ者の顔を借りて、生きている者の出自まで書き替えた」
「私の家が、その中心にいた?」
慈恩は黙った。
それが答えだった。
私は原板の端へ目を移した。そこに写る篠宮の家紋は、中央の女の帯に刺繍されたものと同じだった。女の喪服の襟元には、細い糸で家紋が縫い込まれている。だが、紋の一部は黒く塗り潰されていた。
祖父の焼けた頁。
削られた原板。
欠けた家紋。
すべてが、同じ場所を指している。
私は原板を下ろした。
「女は、私の家の人間ですか」
「それを決めるために、何度も撮った」
「決める?」
「女が誰の娘なのか、誰の家へ入るのか、誰の死者として残すのか。顔は同じでも、記録の中で所属を変えれば、村では別の人間になった」
「本人は?」
「本人の意思は、記録されなかった」
「生きていたのに?」
「生きている者の意思より、村の秩序が優先された」
私は女の顔を見た。
これまで、彼女には哀しみがあるように思えた。あるいは怒りかもしれない。だが今見ると、感情の位置が分からない。整えられ、撮り直され、別の死者に重ねられた顔。何度も名前を外され、誰かの家へ組み込まれた顔。
その顔が、私を見ている。
「祖父は、最後に何をしたんですか」
「焼いた」
「それだけですか」
「焼いて、残した」
「矛盾しています」
「宗一は、矛盾したまま死んだ」
慈恩は黒鈴を握り直した。
「全部を焼けば、女は消える。全部を残せば、女は近づく。宗一は、焼け跡だけを残した。欠落の形を残し、誰かがいつか気づくようにした。だが、気づく者が出れば、記録はまた動く」
「それが私ですか」
「おまえが、見つけた」
「祖父は私を選んだんですか」
「家族だから、ではない。おまえが見なかったことにできない人間だったからだ」
その言葉は、祖父からの愛情のようにも、呪いのようにも聞こえた。
私は原板の表面へ指を近づけた。触れることはしなかった。ガラスの向こうにいる人々が、私の指先を待っている気がしたからだ。
写真の中で、若い頃のトキがわずかに顔を上げた。
もちろん、原板の像が動いたわけではない。
そう思った。
けれど、女の肩越しに見えるトキの視線が、さっきよりこちらへ近づいている。
私は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
再び見る。
トキの顔は変わっていない。
変わっていないのに、目だけが私を見ていた。
「この写真を、トキさんは知っています」
「知っている」
「慈恩さんも」
「知っている」
「祖父も」
「撮った」
「では、なぜ誰も私に教えなかったんですか」
慈恩は長く黙った。
祠の外では、杉の枝から落ちた水が、一定の間隔で石を叩いていた。音は小さいのに、ひとつずつ胸へ届く。私はその間隔を数えた。十まで数えたところで、数えていたことを忘れた。
「教えれば、おまえは自分を写真の中に探す」
慈恩が言った。
「探せば、見つかる。見つかれば、次の記録になる。宗一は、おまえを守ろうとした」
「守るために、祖母の写真を隠した?」
「守るために、家の記録を焼いた」
「その結果、私はここへ来た」
「だから、守れなかった」
慈恩の声は、初めて弱くなった。
私は彼を見た。村を守るために沈黙してきた男。黒鈴を鳴らし続け、祠の床下を閉じ、名前を呼ばずに生きてきた男。その沈黙が、私をここへ導いた。守るために隠したものが、隠されたまま腐り、薬品臭をまとって戻ってきた。
「記録を隠すことが、守ることになると思いますか」
「思っていた」
「今は?」
慈恩は黒鈴を見下ろした。
「分からん」
その答えは、これまでのどんな説明より正直だった。
私は原板をもう一度、光へかざした。
焼け落ちた顔の周りに、細い銀の粒が浮いている。欠けたはずの頬に、濡れた髪の影が戻りつつあった。女の輪郭は、写真の中で少しずつ濃くなっている。
私は撮影帳を開いた。
焼けた頁の向かい側に残された一行。
――白露堂、葬送記録、第一撮影。
その下に、薄い文字があった。
これまで何度見ても気づかなかった。紙の繊維に沿って、文字の一部だけが残っている。
――顔を整えた者、顔を借りた者、顔を消した者。
私は指でなぞった。
文字の下から、黒い湿りが滲んだ。
原板の中で、久良瀬の女が顔を傾ける。
今度は、はっきりとこちらを見た。
私は息を止めた。
「見られたのではない」
慈恩が背後で言った。
「見ていたことを、返されたのだ」
私は答えなかった。
写真を見ているつもりだった。欠落を調べ、焼け跡を照合し、消された順番を復元しているつもりだった。
けれど、私が光を当てるたび、写真の中からも何かが私へ向けられていた。
見られるために、見ていた。
原板の端で、焼け落ちたはずの人物の輪郭が、ほんの少しだけ戻った。頬のない顔。肩のない身体。そこに空白があるのではない。空白の形に沿って、誰かが立っている。
私はその人物の顔を見ようとした。
見えなかった。
見えないまま、なぜか知っている気がした。
子どもの頃、祖母の口を塞いだ手。
雨の日の窓際。
青灰色の紐。
写真の中で、私を見返した誰か。
記憶の底から、名前のない声が浮かび上がった。
その声は、私のものだった。
「……私も、ここにいたんですか」
慈恩は答えなかった。
原板の中の女が、わずかに笑ったように見えた。哀しみでも、喜びでもない。長い間待ち続けた者だけが浮かべる、静かな表情だった。
私は乾板を下ろした。
指先に、紙焼きのざらつきが残っている。触れていないはずの原板から、細かな銀の粉が皮膚へ移ったようだった。親指で擦ると、粉は消えず、指紋の溝へ沈んだ。
祠の外で、黒鈴が鳴った。
慈恩の手の中ではない。
霧の向こうから、低い音が返ってくる。
一度。
二度。
三度。
原板の中の人影が、ひとつ増えた。
女の背後ではなく、写真の手前。
私が立っているはずの場所に。
その影はまだ顔を持っていなかった。けれど、肩の傾きと眼鏡の縁だけは、私のものだった。
私は目を逸らせなかった。
欠落していたのは、写真の中の誰かではない。
写真を見ている私の方だった。
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