第7話 祠の床下

祠の奥へ入ると、空気が急に冷えた。

外の霧は杉の樹脂と濡れた土の匂いを含んでいたが、内側にはそれとは違う臭いがこもっている。古い布を長く湿らせたような臭い。土の底に沈んだ墨が、雨のたびに浮き上がってくるような臭い。私は息を浅くしたが、鼻の奥へ入り込んだものは消えなかった。

御堂慈恩は、黒鈴を右手に握ったまま、私の前に立っていた。

祠の入口から差し込む白い光が、彼の肩の輪郭だけを薄く縁取っている。黒い作務衣の背中は濡れていない。霧の中を歩いてきたはずなのに、布地には水滴ひとつついていなかった。

鈴は鳴っていない。

それでも、慈恩の指先だけが細かく震えている。

「ここから先は、戻る道が細くなる」

慈恩は、祠の奥を見たまま言った。

「道が細くなるというのは、比喩ですか」

「戻れなくなる者は、最初から道の幅を見ていない」

「私を脅しているんですか」

「脅しで止まるなら、ここまで来ていない」

慈恩はそれ以上を続けなかった。黒鈴を握る手に力を込め、祠の壁際へ身を寄せる。私が一歩進むと、彼は反射的に半歩だけ退いた。その動きは私を避けたというより、私の背後にあるものの位置を測っているようだった。

祠の奥には、板張りの床があった。

中央の一枚だけ、木目の向きが違っている。周囲の板は長い時間を吸って黒ずんでいるのに、その板だけは色が浅く、縁の部分に細い擦り傷が集まっていた。何度も外され、戻された跡だった。

私は手袋を直し、床へしゃがみ込んだ。

「ここですか」

慈恩は答えず、黒鈴を左手へ持ち替えた。右手を使わず、手の甲で床板の隙間を示す。

私は金属製の定規を鞄から取り出した。祖父が使っていたものだった。細い真鍮の定規は、何度も磨かれたため角が丸くなっている。私はその先を板の継ぎ目へ差し込み、わずかに持ち上げた。

木が鳴った。

音は小さかったが、祠の中では長く残った。床下へ落ちていくように響き、しばらくしてから、遠い場所で同じ音が返ってきた。

慈恩の肩が動いた。

「何ですか」

「まだ何も起きていない」

「なら、どうしてそんな顔をするんです」

「顔は見なくていい」

「あなたは、見るなと言う。聞くなとは言わない。触るなとも言わない。けれど、何をしても起きることは起きる。そういう態度に見えます」

「よく見ている」

「見ることが仕事です」

「仕事にしてはいかんものまで、仕事にする」

私は定規を抜き、板の別の継ぎ目を探った。左端に、紙の繊維が挟まっている。湿気で膨らんだ木材に押しつぶされ、白かったはずの紙は灰色に変わっていた。

紙の端には、薄い墨の線がある。

封印紙だった。

宗一の筆跡に似ている。文字の払いが長く、終わりの部分だけがわずかに薄くなる。私は祖父の撮影帳を何冊も見てきたから、その癖を知っていた。

「これ、祖父の字です」

「似ているだけだ」

「筆圧が同じです。『篠』の最初の払いと、『封』の右側の止め方が一致している」

「筆跡で人を追うな」

「追うためにあるんです」

「筆跡は手の癖しか残さん。手を動かした理由までは書かない」

「だから、理由を探しているんです」

私は紙片の端をピンセットでつまんだ。

慈恩の手が伸びた。私の手首を掴むほどではない。けれど、黒鈴を握ったままの指が、私のすぐ脇で止まった。

「剥がすな」

「封じているなら、何かがある」

「あるから剥がすのか」

「あるから確認するんです」

「確認したものを、どうする」

「記録します」

「記録して、持ち帰るのか」

「必要なら」

「必要なら、という言葉で外へ出たものは、戻せなくなる」

慈恩はようやく私を見た。

その目は怒っていなかった。むしろ、怒りを使い果たした人の目に近かった。何度も同じ失敗を見て、そのたびに声を荒らげることをやめた者の目だった。

「おまえは、記録を正しい場所へ置けば、ものごとは元に戻ると思っている」

「元に戻るとは言っていません。少なくとも、何があったか分かるようにはできる」

「分かるようにしたあとで、誰がその記録を使うかまでは見ない」

「使う人間の責任です」

「違う。記録を作った人間の責任だ」

「なら、作らない方がいいと?」

「作らない方がいいものもある」

「それを誰が決めるんですか」

慈恩の指が黒鈴の表面を撫でた。煤けた鈴は光を返さず、濡れた石のように鈍く沈んでいる。

「決めた者は、もういない」

「それでは、残された人間が勝手に隠しているだけです」

「勝手ではない。順番がある」

「順番?」

「見る順番。触る順番。名を呼ぶ順番。閉じる順番。おまえは、全部を飛ばしてここへ来た」

「誰も教えてくれなかった」

「教えられても、従わなかっただろう」

否定できなかった。

私は紙片へ視線を戻した。和紙の端には、黒ずんだ指の跡がいくつも残っている。指紋の形までは見えない。ただ、誰かが濡れた手で急いで貼りつけたことだけは分かった。

それは封印のための手つきというより、何かを閉じ込めておくことに耐えられなくなった者の手つきに見えた。

私はピンセットを差し込んだ。

紙は、音もなく裂けた。

裂け目から、湿った木の匂いが一気に立ち上がる。土の下で水が動くような、低い気配が足元から上がってきた。

慈恩が鈴を鳴らした。

一度だけ。

黒鈴の音は高くなかった。耳で聞くより先に、胸骨の内側へ落ちてくる。私の呼吸が一瞬止まり、指先から力が抜けた。

床板が、わずかに持ち上がった。

私は定規を差し込み、板を外した。下には浅い空間がある。祠の床下は土で埋まっていると思っていたが、中央だけが四角く掘られていた。木枠で囲まれた穴の底に、黒い布が見える。

布の端に、白い粉が付着している。

薬品が乾いた跡のようだった。

「これは、いつから」

「古い」

「答えになっていません」

「古いものに、今の時間を当てはめるな」

「祖父がここへ来たのは、いつですか」

慈恩は穴の中を見たまま、しばらく黙っていた。

「宗一は、若い頃に一度来た。それから、死ぬ前にもう一度来た」

「二度?」

「三度目は、おまえが来た」

「私が来たことを、祖父の訪問と同じに数えるんですか」

「同じ場所へ、同じ手つきで触れた」

私は床下へ手を伸ばした。

黒い布をつまむ。布は湿っていて、指先に冷たいぬめりが残った。引き上げると、包みの中から木箱が現れた。箱は手のひら二つ分ほどの大きさで、表面に煤と土がこびりついている。蓋の中央には、私の家のものと同じ紋が刻まれていた。

正確には、紋の半分だけだった。

残りは刃物で削られている。

私は親指で刻み目をなぞった。木の溝に、細かな土が入り込んでいる。指を離すと、爪の脇に黒い粉が残った。

「篠宮の紋だ」

「知っているんですか」

「知っている」

「なぜ、ここにあるんです」

「知らない」

「それは通りません」

「知っていることと、話せることは違う」

「またそれですか」

私の声が祠の中で乾いた。

「見たものを話さない。知っていることを記録しない。そうやって、あなたたちは百年近く村を空白にした。誰かが死んだことも、誰かが生きていたことも、誰かが別の顔にされたことも、全部、守るという言葉の下へ押し込めた。そこから出てきたのが、あの女です」

慈恩は私の言葉を遮らなかった。

ただ、黒鈴を握る手を下ろした。

「おまえは、あれを女一人だと思っているのか」

「少なくとも、最初はそう見えました」

「見えたものを、すぐ一人にするな」

「写真に写っているのは一人です」

「顔が一つなら、一人なのか」

私は返事をしなかった。

暗室で見た女の顔が浮かぶ。細い頬。濡れた髪。整えられた喪服の襟。毎回少しずつ変わる帯の結び。背後に増えていく人影。

同じ顔なのに、見るたび別人の気配があった。

「その女は、何人分の記憶を背負っているんですか」

「数えられると思うか」

「数えなければ、調査になりません」

「おまえは数えることで、死んだ者を片づけようとする」

「違います」

「違わん。顔を一つずつ分け、名前を一つずつ置き、順番をつけて、ようやく安心する。だが、あの場所で一つの顔に重ねられたものは、もう分けられない」

「分けられないから、残すんです」

「残すことが救いになるとは限らん」

「消すよりはましです」

「消したのではない」

慈恩の声が初めて強くなった。

「消したつもりになっただけだ。だから戻ってきた。写真の中へ押し込めたものが、写真の中からこちらを見るようになった。おまえが現像しているのは、死者の顔ではない。村の人間が自分たちの都合で重ねた記憶だ」

「では、なぜ祖父はそれを私に残したんです」

慈恩は答えなかった。

箱の蓋へ視線を落とす。

私はその沈黙を待てなかった。木箱の留め具は錆びていたが、鍵はかかっていない。蓋の縁に定規を差し込み、少しずつこじ開ける。

慈恩が私の腕を掴んだ。

指は驚くほど強かった。

「開けるな」

「手を離してください」

「これは、持ち帰るためのものではない」

「中身を見てから判断します」

「見たあとに判断できるなら、誰も苦労せん」

「祖父の名前と家紋がある。私に関係のないものではありません」

「関係があるからこそ、開けるな」

「私の家のことを、あなたが決めないでください」

私は腕を引いた。

慈恩の手が離れる。彼は一歩退き、黒鈴を胸元へ寄せた。人差し指ではなく手の甲を向ける、いつもの仕草で箱を示す。

「おまえは、知りたいのではない」

「何が違うんです」

「自分が見たものを、自分のものだと確かめたいだけだ」

言葉が、皮膚の下へ入った。

私は箱の蓋を見た。

そこに刻まれた半分の家紋は、私の家のものだった。だが、削られた部分があるため、完全な形にはならない。残されたものだけを見れば、確かに私の家の紋に似ている。似ているだけだと否定することもできた。

けれど、私はもう、似ているだけという言葉を信じられなかった。

蓋を開けた。

蝶番が乾いた音を立てた。

箱の中には、布に包まれたガラス乾板が一枚と、細長い紙片が入っていた。乾板は戻り板より厚く、縁が手で削られている。紙片には祖父の筆跡があった。

日付はない。

ただ、短い言葉だけが残っている。

――撮影者を残すな。

私はその一行を読み、紙の端をなぞった。

「これは、誰に向けた言葉ですか」

「宗一自身だろう」

「祖父が、自分を写すなと書いた?」

「撮影する者は、自分を記録から外す。外側にいるつもりでいるために」

「でも、戻り板の四枚目には、私が写っていた」

慈恩の目が、私の顔へ向いた。

「見たのか」

「まだ現像していません。けれど、乾板の表面に私の姿が浮かんでいた。眼鏡の縁、肩の傾き、手袋まで」

「それを持っているのか」

「白露堂に置いてきました」

「本当に?」

私は答えられなかった。

四枚目の乾板は、暗室の床に置いたままだった。取り上げた記憶はない。けれど、私の鞄の中には乾板ケースがある。いつ入れたのか、覚えていなかった。

慈恩の顔が、ゆっくり硬くなった。

「おまえは、何枚持っている」

「……」

私は鞄を開けた。

撮影帳。紙片。手帳。赤鉛筆。白手袋。祖父の金属製ケース。

蓋を開ける。

布に包まれた乾板が四枚ある。

私は数えた。

一枚。

二枚。

三枚。

四枚。

その中に、見覚えのない布包みが混じっていた。

薄い灰色の布。端に、青みがかった紐が結ばれている。

髪を束ねるための紐に似ていた。

「これは……」

慈恩が黒鈴を鳴らした。

今度の音は、祠の外から返ってきた。

一度。

二度。

三度。

私は布包みへ手を伸ばした。紐に触れた瞬間、指先の皮膚が冷えた。濡れた髪を撫でたような感触があり、布の内側から、かすかに薬品臭が漏れてくる。

布を解く。

中にあったのは、一枚の乾板だった。

ガラスの表面に、まだ何も写っていない。

そう思った。

けれど斜めから光を当てると、白い障子の前に、若い女の姿が浮かんだ。女はいつものように正面を向いている。喪服の帯は、これまで見たどの結び方とも違っていた。

その背後に、私が立っている。

顔は見えない。

私の肩越しに、祖父の姿がある。

祖父は写真機を構えていなかった。両手を下ろし、私の背中へ触れようとしている。

そして女の右手が、私の肩に置かれていた。

冷たいものが首筋へ触れた。

私は乾板を落としかけた。

「見るな」

慈恩の声が響いた。

けれど、もう見ていた。

女の目が、私の目を捉えている。その視線は写真の中からこちらへ伸びているのではなかった。私の内側にある、名前のない空白からこちらへ向かっていた。

「この子は、誰ですか」

私は乾板から目を離せずに訊いた。

慈恩は答えなかった。

「祖父は、何を撮ったんですか。私の家は、何を隠したんですか。あの女は、誰の顔を使っているんですか」

祠の外で、鈴が鳴った。

慈恩の手の中の黒鈴は、固く握られたままだった。

乾板の中で、女の顔がわずかに傾く。

その角度は、私が子どもの頃に祖母の写真を見たとき、写真の中の誰かがこちらを見返したと感じたときと同じだった。

私はその記憶を、ずっと勘違いだと思っていた。

けれど今、思い出せないはずの声が、耳の奥で形を持った。

――澪には、見せない。

祖父の声だった。

私は乾板を伏せようとした。

指が動かなかった。

「ここから先は、戻る道が細くなる」

慈恩の言葉が、背後から聞こえた。

その背後に、濡れた髪が触れた。

私は振り返らなかった。振り返れば、写真の中と同じ顔が、そこに立っている気がした。

床下の木箱は、私の膝の上で静かに開いている。

中には、まだ何かが残っていた。布に包まれた乾板の下から、白い紙の端が覗いている。

私はそれを見つけた。

見つけてしまった。

紙の端には、祖父の筆跡で、私の名前の最初の一画が書かれていた。続きは焼けている。だが、紙の繊維の奥から、黒い湿りがゆっくり広がっていた。

一画。

二画。

文字が、こちらへ書き足されていく。

慈恩が私の肩を掴んだ。

「もう閉じろ」

「まだ読めます」

「読めるうちに閉じろ」

「これが、私の記録なら」

「おまえの記録ではない」

「なら、誰の記録ですか」

慈恩は答えなかった。

黒鈴を握る手が震えている。

私は紙片へ指を伸ばした。乾いたはずの紙が濡れている。指腹にぬめりが貼りつき、薬品の苦い匂いが皮膚から立ち上った。

そのとき、床下の暗がりで、ガラスを爪で叩く音がした。

一度。

二度。

三度。

私は箱の中を見た。

布に包まれた乾板は、一枚しかない。

それなのに、音は二つの場所から聞こえていた。

私の手の中から。

そして、祠の床下のさらに深いところから。

慈恩が黒鈴を鳴らした。

音が、今度は止まらなかった。

余韻が重なり、祠の壁を満たし、杉林の向こうへ広がっていく。私は乾板を握ったまま、耳を塞ぐことができなかった。

写真の中で、久良瀬の女が少しだけ位置を変えた。

私の背後へ回るように。

そして、空白だった彼女の口元に、言葉の形が浮かんだ。

声はなかった。

それでも私は、その言葉を読んだ。

――次の記録。

手の中の乾板が、体温を持ち始めていた。

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