第6話 戻り板の三枚目

祠を出てから、白露堂へ戻る道は、来たときより短かった。

短いというより、道の方から近づいてきたように感じた。杉林の間に沈んでいた石段は、足を置く前に靴底の下へ現れた。霧の向こうに見えていたはずの崩れた家々も、気づけば左右に迫っている。

私は何度か腕時計を見た。

針は十一時五十八分で止まっていた。

祠を出たときから、ずっと同じ時刻だった。けれど、空の明るさは変わっている。白い霧が少しずつ灰色に濁り、杉の幹の根元から夜が滲み上がっていた。

撮影帳の焼けた頁に挟んだ紙片が、鞄の中で硬く当たっている。

――残すべきでない者を、残した。

その下に、黒い水で浮かんだ文字。

――次は、見る者。

私は歩きながら、その二行を思い返していた。記憶しているつもりだったが、思い出すたびに文字の太さが違った。最初は同じ濃さだったはずの一行が、今は二行目だけ妙に深く、紙の内側へ沈んでいる。

見間違いかもしれない。

慈恩の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

見えなかったのではない。見なかった。

私は戻り板の女の手を見ていなかった。顔と帯と髪ばかりを追い、袖口から出ていた右手を記録しなかった。見たものをすべて残しているつもりで、私は最初から、自分に必要なものだけを拾っていた。

それでも、見なかったものが写真の中へ戻ってくるという考えは、受け入れられなかった。

受け入れられないから、確かめる。

それ以外に、私が自分の側へ戻る方法はなかった。

白露堂の戸板は、霧の中で濡れた皮膚のように黒く光っていた。脇の隙間へ身体を滑り込ませる。木材が肩に当たり、服の繊維を引っかいた。中へ入った瞬間、外の水音が途切れた。

音が消える。

白露堂の中では、いつもそうだった。杉の枝から落ちる雫も、私の靴底が床を擦る音も、途中で吸い取られてしまう。代わりに、薬品臭だけがはっきりしていた。

湿った木の匂い。

古い金属の苦味。

濡れた紙が腐りかけたような甘さ。

私は暗室へ向かった。廊下の壁に並ぶ額縁の跡を、ひとつずつ目で追う。空になった四角形のうち、いちばん奥のものだけが濡れていた。壁紙の表面に水滴が並び、写真を掛けていた場所を縁取っている。

その中央に、白い指跡があった。

一本。

二本。

三本。

誰かが濡れた手をついたように見えた。

私は立ち止まり、手袋をはめ直した。指先を親指で押さえる。布越しに、自分の手が自分のものではないような感覚があった。

暗室の戸を開ける。

赤い灯りは、祠へ行く前より明るかった。電源のない電球が、湿った空気の中で薄く脈打っている。現像バットには、前に使った液体が残っていた。表面は黒ずみ、中央に膜が張っている。

私はその膜を捨てなかった。

新しい現像液を用意することもできなかった。代わりに、白露堂の棚から見つけた瓶を一本だけ使った。瓶のラベルは剥がれていたが、底に黒い沈殿が残っている。振ると、液体の中で何かがゆっくり擦れた。

通常なら、使用期限も濃度も分からない薬液を乾板に使うべきではない。

しかし、ここには通常という言葉が届かなかった。

私は手帳を開き、ページの上部に日付を書こうとした。

数字が思い出せない。

今日が何日なのか、一瞬、分からなくなった。

私は携帯を取り出した。画面は点かなかった。電源ボタンを押しても、黒い表面に私の顔が映るだけだった。

その顔の頬に、濡れた髪がかかっているように見えた。

眼鏡を外し、レンズを拭く。

もう一度見る。

そこには私の顔しかない。

ただ、左の頬に、細い黒い線が残っていた。指で擦っても消えない。皮膚の下に入り込んだような線だった。私は爪を立てかけ、やめた。

現像を始める。

最初の乾板は、すでに処理したものだった。障子の前に若い女が立っている。右寄りの位置。帯は低く、髪は左肩へ垂れている。背後には、顔のない人影がひとつ。

私はその乾板を机の上に置き、記録用の紙へ写した。

次の板を取り出す。

布には「第二」と薄く書かれていた。

ガラスの表面に、細い擦過痕がある。前の板にはなかった傷だ。私は懐中電灯を斜めから当て、傷の位置を赤鉛筆で図にした。

右上から中央へ、斜めに一本。

その下に、短い線が二本。

誰かが爪で引いたような跡だった。

私は乾板を現像液へ沈めた。

液面に触れた瞬間、赤い灯りが一度だけ暗くなった。暗室の壁が内側へ寄ったように見える。私は板を水平に保ち、薬液をゆっくり揺らした。

障子が現れた。

最初の乾板と同じ障子だった。

同じ桟の太さ、同じ右端の黒い染み、同じ中央の白い汚れ。背景は複製されたように一致している。

けれど、女の位置が違った。

今度は中央寄りに立っていた。

喪服の襟は同じなのに、帯の結び目が高い。髪は右肩へ流れ、顔の角度も少しだけ変わっている。

私は手帳に書いた。

第二板。女、中央。帯、高い。髪、右。影、一。

書き終えたとき、女の右手が袖口から出ていることに気づいた。

細い手だった。

指先が、胸の前で何かを握っている。

私は乾板を近づけた。赤い光を通すと、手の中に白い紐のようなものが見える。髪を束ねる紐か、細い帯締めか、判別できない。

その紐の端が、画面の外へ伸びていた。

私は反射的に乾板を裏返した。

裏面には何もない。

ガラスの冷たさが、手袋越しにも伝わった。

板を戻すと、女は少し近くなっていた。

現像の進行による像の変化だと、私は考えた。薬液の濃度が不安定なのだ。乳剤が傷んでいる。湿気によって画像が滲み、輪郭が移動して見える。理由はいくつも挙げられた。

ただし、どの理由も、手の中の白い紐が画面の外まで伸びていることを説明しなかった。

私は定着液へ移し、水で洗った。

水は冷たかった。指先が痺れ、ガラスの縁を持つ力が弱くなる。乾板を落とさないよう、両手で支える。水面に薬液が薄く広がり、銀色の膜が揺れた。

女の目は、私を見ていた。

第一板では、視線はわずかに左へ逸れていた。第二板では、私の肩の辺りを見ていた。

私は乾板を机に置き、立ち位置を変えた。

女の目は、私の移動に合わせて変わった。

右へ動く。

視線も右へ寄る。

左へ戻る。

目の焦点が、こちらへ戻る。

写真の中の女が私を追っているのか、私の方が女の目を追っているのか、分からなくなった。

私は椅子に座った。

見えているものを数えた。

障子の桟、黒い染み、女の髪、襟、帯、手、白い紐、人影。

七つ。

八つ。

もう一度、数える。

女の左肩の後ろに、薄い影が増えている。

九つ。

私は赤鉛筆で数字を書いた。

その瞬間、暗室の奥で音がした。

水滴ではない。

爪が、ガラスを叩く音だった。

一度。

二度。

私は振り返らなかった。乾板から目を離せば、女の位置が変わる。そう思った。実際には、すでに変わっていた。

女の足元が、最初の位置より左へ寄っている。

障子の中央に立つはずだった彼女は、今、左の桟に近づいていた。肩が白い紙へ重なり、髪の先が桟の影に溶けている。

私は第三の乾板を手に取った。

布には何も書かれていなかった。

板の端に、爪で引いたような傷がある。第二板と同じ方向だが、傷の始点が少し違う。私はそれを確認してから、現像液へ沈めた。

この時点で、やめるべきだった。

私はそれを知っていた。

第三板を現像すれば、女の位置がさらに変わる。背後の人影が増える。視線が深くなる。慈恩は、見るたびにこちらへ来ると言った。トキは、写真に残すことが死者をつなぎ止めることだと言った。

それでも、手は止まらなかった。

私の指先だけが、いつもの手順を守っている。

水平に沈める。

液を揺らす。

時間を測る。

像が浮くまで待つ。

それは仕事の形をしていた。仕事の形をしている限り、私は自分が調査員でいられると思った。

第三板に、女の顔が現れた。

同じ顔だった。

けれど、これまでとは違っていた。

目が、深い。

眼球の白い部分がほとんど見えず、黒い瞳だけが沈んでいる。怒っているようには見えない。悲しんでいるようにも見えない。ただ、こちらが何を考えているかを知っている目だった。

私は息を整えようとした。

吐く。

吸う。

吐く。

肺の奥に、薬品の苦味が残る。

女の帯は、胸の少し下で結ばれている。結び目は乱れているのに、ほどけてはいない。髪の右側には、細い紐が巻かれていた。生前の髪を束ねていた紐なのかもしれない。

その紐の色を、私は知っている気がした。

赤ではない。

白でもない。

濡れた紙の上でだけ見える、灰色に近い青。

幼い頃、祖母の部屋で見たことがある。

そう思った。

祖母の部屋。雨の日。窓際の椅子。誰かの髪を結ぶ手。

けれど、誰の髪だったのかが思い出せない。

私は写真を見つめたまま、記憶を探した。

祖母は写真を嫌がっていた。あとから人を連れてくるから、と言っていた。あの言葉の前に、何か会話があったはずだ。私は誰かの名前を口にした。祖母は驚き、私の口を手で塞いだ。

その人物の名前が、思い出せない。

思い出せないのに、喉の奥にその音だけが残っている。

「……違う」

私は呟いた。

写真の女は祖母ではない。

顔立ちも、年齢も、着ているものも違う。私はそう確認した。けれど、確認するたび、女の顔が祖母の顔から遠ざかるのではなく、別の誰かの顔へ重なっていく。

既知の顔が、知らない顔になる。

知らない顔が、知っている気配を帯びる。

私は眼鏡を外した。レンズを拭く。指が震えて、布が小さく擦れた。

乾板の中で、女の右手が上がった。

胸元にあった手が、少しだけ離れる。

袖の先から、指が五本、はっきり現れた。

その手は何かを差していた。

写真の右端。

私は視線を移した。

障子の桟の影に、もうひとつ人影がある。これまでの影より濃い。頭の形があり、肩の幅があり、片方の腕が垂れている。

顔は見えない。

けれど、その立ち方を私は知っていた。

祖父だった。

黒い上着。少し前へ傾いた肩。写真機を構えるときの、左足だけを半歩引く姿勢。

私は椅子から立ち上がりかけた。

乾板の中の祖父は、私の方を向いていなかった。女の背後に立ち、こちらではなく、女の手元を見ている。

その距離が、ひどく親密だった。

「おじいちゃん」

声にした瞬間、祠で聞いたトキの言葉が蘇った。

名前は、写真より近い。

私は口を閉じた。

だが遅かった。

乾板の中で、祖父の影がゆっくり顔を上げた。

女も同時に、こちらを見た。

二人分の視線が、赤い灯りの中で重なる。

皮膚の表面に、冷たい指が何本も触れたようだった。額、頬、首筋。見られているというより、触れられた場所を写真の中へ写し取られている。

私は第三板を水へ移した。

水面が大きく揺れた。

女の顔が一瞬、崩れる。輪郭が水の底へ沈み、頬と髪と襟元が黒い液の中で混ざり合う。

そのとき、背後の棚から乾いた音がした。

四枚目の乾板が、布の包みから滑り落ちた。

床へ落ちる前に、私は手を伸ばして受け止めた。

ガラスの端が手袋を裂いた。

指先に冷たいものが触れる。血が出たのかと思ったが、皮膚には透明なぬめりだけが残った。現像液のような匂いが、傷口から入ってくる。

四枚目の板には、何も書かれていなかった。

けれど、乳剤面に薄い像が浮いている。

まだ現像していないのに、障子が見えた。

女の顔もあった。

そして、女の前に、誰かが立っている。

肩幅。

濡れた髪。

眼鏡の縁。

私は手を離しかけた。

そこに写っていたのは、私だった。

顔はまだ浮いていない。けれど、立っている姿勢は私のものだった。右肩が少し下がり、左手が胸元に寄っている。白い手袋。濡れた袖。現像液に触れた指。

私はその乾板を伏せた。

伏せたはずなのに、裏面にも障子の影があった。

私は床へ置き、何歩か後ずさった。背中が壁に触れる。湿った壁紙が服へ貼りつき、冷たさが肩甲骨まで伝わる。

暗室の中に、音が戻ってきた。

水滴。

木の軋み。

私の荒い呼吸。

そのすべての下に、女の息遣いがある。

乾板の中から聞こえているのか、私の背後から聞こえているのか分からない。

私は第三板を見た。

水の中で、女の顔がさらに近づいている。障子はもう背景ではない。女の背後に押しやられ、白い紙面の端で細く残っている。

女は正面を向いていた。

その目は、私ではなく、私の後ろを見ている。

私は振り返らなかった。

振り返れば、そこに誰かがいる。

そう思った。

同時に、振り返らなければ、写真の中の女がこちらへ来る。

どちらを選んでも、見ることになる。

私は机の上の四枚目へ手を伸ばした。

指先が乾板の縁に触れる。

ガラスは、私の体温より冷たかった。

赤い灯りの下で、四枚目の像が、ゆっくりと濃くなり始める。

その奥で、私の顔が浮かび上がろうとしていた。

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