第5話 祠の黒鈴

白露堂の方角から流れてきた薬品臭は、霧の中で途切れなかった。

私は足を止めたまま、杉の枝が重なった空を見上げていた。枝葉の隙間は白く、朝なのか夕方なのか判然としない。腕時計は十一時五十八分を指していたが、秒針は動いていなかった。

鞄の中で、乾板ケースが重かった。

戻り板を現像してから、私は何度もケースを開けている。中身を確かめるためではない。開けていないことを確かめるためだった。蓋の留め具、布の折り目、ガラスの端に残った白い粉。その順番を、毎回同じように見た。

それでも、見るたびに何かが違った。

女の顔が近づいたように思える。背後の人影が増えたように思える。帯の結び目が、現像したときとは別の形になっているように思える。

思えるだけだ。

私はそう書き留めていた。

事実ではない。認識の揺れ。照明、疲労、湿度、現像液の変質による錯視の可能性。

可能性を並べている間だけ、私は自分の側にいられた。

その夜、トキの家へ戻ることはできなかった。道がどこで分かれたのか分からなくなり、私は白露堂から離れるために歩き続けた。気づいたときには、崩れた石垣の前に座り込んでいた。手袋を外すと、指先に白い粉が付着していた。

粉は、何度洗っても落ちなかった。

翌朝、私は祠の前に立っていた。

自分で向かったのか、誰かに呼ばれたのか、はっきり覚えていない。杉木立の間を抜ける道は昨夜より濡れていた。靴底が泥に沈むたび、足を持ち上げるのが遅くなる。進むほど身体が重くなるというより、道の方が私を下へ引いているようだった。

祠は、斜面の途中にあった。

石段は苔で覆われ、段差のひとつひとつが浅い水を溜めている。屋根の端から落ちた雫が、石の上で潰れていた。祠の脇には、背の低い境界石が三つ並んでいる。その向こうは急な斜面になり、霧が白い布のように垂れ下がっていた。

御堂慈恩は、祠の前に立っていた。

黒い作務衣の袖から出た手が、掌の中の鈴を押さえている。鈴は煤けた黒色をしていた。磨かれているはずなのに光を返さず、濡れた石のような鈍さだけを帯びている。

私が石段を上がると、慈恩は一歩、境界石の方へ身をずらした。

「呼んだのは、あなたですか」

「来たか」

それだけ言って、慈恩は私の肩越しに霧を見た。

私は一段上がり、彼との距離を詰めた。

「昨夜、白露堂から戻ったあと、祠の方角から薬品臭がしました。あなたが何かしたんですか」

慈恩は黒鈴を握ったまま、目を伏せた。

「匂いは、するものだ」

「質問に答えてください」

「匂いを止めることはできん。戸を閉めても、土に染みたものは上がってくる」

「では、私をここへ呼んだ理由は何ですか」

「乾板を持っているからだ」

私は鞄の留め具に触れた。

「これは祖父の遺品です」

「遺品は、死んだ者のものだ。持つ者が誰かは関係ない」

「関係あります。私は記録を調べています。祖父が白露堂で何をしたのか、戻り板に写っている女が何者なのかを確かめる必要がある」

「必要、か」

慈恩はその言葉を低く繰り返した。笑ったわけではない。ただ、口の中で硬いものを確かめるような響きだった。

「必要という言葉は、よく人を境界の内側へ連れていく。必要だから見る。必要だから触る。必要だから開ける。開けたあとで、閉め方を尋ねる」

「閉め方を知っているなら、先に教えてください」

「教えれば、閉められると思うか」

「少なくとも、判断できます」

「おまえは、判断する前に見てしまう」

慈恩は黒鈴から左手を離し、祠の戸を開けた。

内側には、古い木札がいくつも掛けられていた。どれも墨が薄く、名前らしき文字は途中で途切れている。麻縄の護符は黒ずみ、結び目の周囲だけが不自然に白く擦れていた。床の隅には、ひび割れた石灯籠の欠片が置かれている。

私は写真を撮ろうとして、携帯を取り出した。

「撮るな」

声は大きくなかった。

それでも指が止まった。

「なぜですか」

「角度が悪い」

「祠の写真に、角度の良し悪しがあるんですか」

「ある。写してはいけないものは、正面にいるとは限らん。端にいる。影の重なりにいる。写した者が見落とした余白にいる」

「それは迷信でしょう」

「そう思うなら、撮ればいい」

慈恩は祠の内側から一歩退いた。

「ただし、写ったものを持って帰るな。捨てるな。焼くな。おまえが何を選んでも、選んだ手つきは残る」

私は携帯を下ろした。

「あなたは、記録そのものを嫌っているんですか」

「嫌ってはいない。嫌って済むなら、もっと楽だった」

「なら、なぜ祖父がここへ来ていたことを知っているんです」

慈恩の視線が、私の鞄へ移った。

「宗一は、記録する側だった。だが、最後まで外側にはいられなかった」

「祖父は何を記録したんですか」

「死んだ者だ」

「トキさんから聞きました。白露堂では、死者の髪や襟を整え、顔を写していた。けれど、それだけではない。誰を残すか、誰を外すかを決めていた」

「トキは、そこまで話したか」

「話したというより、話さないことで分からせようとしたんです。あなたも同じです」

慈恩は黒鈴の表面を親指で撫でた。

「話さないことと、隠すことは違う」

「私には同じに見えます」

「見えるだけで、同じではない。隠す者は、自分の都合のために戸を閉める。黙る者は、戸の向こうにいるものが出てこないよう、身体で押さえている」

「では、あなたは私を守っているつもりですか」

「そう思いたい者は、守る側に立てばいい」

「あなたは、守れていない」

私の声が、祠の湿った空気に吸われた。

「白露堂はまだ残っている。戻り板もある。女は現像するたびに位置を変え、私を見ていた。あなたたちが何十年も黙って封じたつもりのものは、もう私の中へ入っている」

慈恩はすぐには答えなかった。

祠の軒から、雫が一滴落ちた。

「どこまで見た」

「女の顔。障子。背後の人影。それだけです」

「本当に、それだけか」

「あなたまで曖昧な言い方をするんですか」

「曖昧にしているのは、おまえの方だ」

黒鈴が、慈恩の掌の中で小さく揺れた。

「見たものを正確に言え。顔の向き。立っていた場所。帯の結び。影の数」

私は答えようとして、記憶を探った。

最初の乾板では、女は障子の右寄りに立っていた。髪は左肩へ垂れ、帯は低く結ばれていた。二枚目では、少し中央へ寄っていた。三枚目の背後に影がひとつ。最後に見たとき、女は正面を向いていた。

私はそこまで話した。

慈恩は首を横に振った。

「違う」

「何がですか」

「最初から、ひとつ多い」

「人影が?」

「人影ではない。女の手だ」

私は言葉を失った。

女の手。

乾板の中で、喪服の袖に隠れていた。私は手の位置を確かめようとして、顔ばかり見ていた。写真を見返すたび、目と帯と髪の変化を記録した。手については、何も書いていない。

「右手が、袖の外へ出ていたはずだ」

「見えませんでした」

「見えなかったのではない。見なかった」

「同じことです」

「違う」

慈恩は祠の床を、手の甲で示した。

「記録する者は、目に入ったものを全部見ていると思っている。だが実際には、残したいものだけを拾う。顔、名前、日付、順番。そこからこぼれた手や足や、立っていた角度は、最初からなかったことになる」

「それが戻り板と何の関係があるんですか」

「写真の中に、残されなかったものが戻っている」

その言葉を聞いたとき、鞄の中でガラスが触れ合った。

音はしなかった。

それでも私は、乾板ケースの中身がこちらへ身体を寄せたように感じた。

慈恩は祠の脇に置かれた木箱を開けた。中から薄い布に包まれた紙片を取り出し、私へ差し出す。右手ではなく、左手だった。

私は受け取った。

紙は湿っており、端が黒く変色している。宗一の撮影帳から焼け落ちた頁の一部に見えた。文字はほとんど消えていたが、光にかざすと、インクの沈みが浮かび上がる。

私は眼鏡を外し、レンズを拭いた。

「これを、どこで?」

「祠の床下だ」

「祖父が隠したんですか」

「隠した者の名は書いていない」

「でも、祖父の筆跡です」

「筆跡は、手の持ち主を示すだけだ。命じた者までは示さない」

紙を斜めに傾ける。

黒い繊維の隙間に、文字が浮いた。

――残すべきでない者を、残した。

私は息を止めた。

その一行の下には、別の文章があったらしい。焼けた範囲は広く、残っているのは墨の濃淡だけだった。私は手帳を開き、見えた文字を写そうとした。

「書くな」

「なぜですか」

「読むだけにしろ」

「記録しなければ、また消えます」

「それが、消えるべきものならどうする」

私は赤鉛筆を紙の上に置いた。

「消えるべきかどうかを決めるのは、誰ですか」

「決めた者は、もういない」

「だから残された者が決めるんですか」

「残された者は、決めたことを忘れる」

「私は忘れません」

「忘れない者ほど、別の形で同じことをする」

慈恩の声には、怒りより疲労があった。何度も同じ場所を押さえ、同じものが浮き上がるたび、また沈めてきた人間の疲れだった。

私は紙片を持ったまま、彼を見た。

「祖父は、残すべきでない者を残した。そう書いてあります。これは、祖父が誰かを救った記録ではありません。誰かを記録に組み込んだ記録です」

「そうだ」

「なぜですか」

慈恩は目を合わせなかった。祠の中の木札へ視線を送り、結び目のほつれを指先で押さえた。

「村を守るためだ」

「それで人を消した」

「消したのではない。消せなかった」

「同じです」

「同じではない。消そうとしたものは、戻る。戻れないようにするため、写真へ入れた」

「写真へ?」

「名簿にも墓にも載らない者を、顔だけで残した。誰のものか分からない顔にして、別の者の死に重ねた。そうすれば、誰もその者を探さない。誰も、いない者を数えない」

「それが記録ですか」

「記録だ。だから怖い」

慈恩は黒鈴を持ち上げた。

「記録は、消すためにも使える。残すためにも使える。呼び戻すためにも使える。おまえが信じているのは、事実を器に入れれば事実が変わらないということだろう。だが器を作る手が、形を決める。誰を入れ、誰を外し、どこまで見せるかを決める。その手が清いと思うな」

「祖父の手が汚れていたと?」

「汚れていない手などない」

「それでも、私は確かめます。祖父が何をしたのか、誰が命じたのか、あの女が何者なのか。見なかったことにはしない」

「見れば、守れなくなる」

「何をですか」

「おまえ自身を」

私は笑いそうになった。乾いた、音にならない笑いだった。

「私は、守られるために来たんじゃありません」

「そう言う者は多い。死んだ者を救うために来たと言う。村の記録を正すために来たと言う。家族の秘密を知るために来たと言う。だが最後に残るのは、自分が何を見たかだけだ。見たものは、持ち帰られる。写真を持ち帰らなくても、目の奥に残る」

「だから、鈴を鳴らすんですか」

慈恩の指が止まった。

「この鈴は、何を封じているんです」

「封じるだけのものではない」

「呼び戻すものでもある?」

「音は境界を作る。境界を作るということは、こちらと向こうを分けることだ。だが分けるには、向こうがどこにあるかを知らせなければならない」

慈恩は黒鈴を見下ろした。

「鳴らせば、近くなる。鳴らさなければ、境界が薄くなる。どちらを選んでも、何かは動く」

「あなたは、今まで何を選んできたんですか」

「鳴らし続けた」

「それで、封じられたんですか」

「見ての通りだ」

祠の奥から、湿った風が流れてきた。

木札が一枚だけ揺れた。そこには文字がなかった。削られたのか、最初から書かれていなかったのか判別できない。けれど、その空白の中央に、黒い染みがひとつ浮いていた。

私は無意識に手帳を開いた。

「残すべきでない者を、残した」

文字を写す。

赤鉛筆の芯が、紙の上で嫌な音を立てた。

一行目を書き終えたところで、祠の外から鈴の音がした。

慈恩の手の中の黒鈴は鳴っていない。

それでも、音は確かに聞こえた。

低く、湿った音だった。

一度。

余韻が杉林へ沈む。

私は顔を上げた。

祠の戸口に、白いものが立っていた。

濡れた髪のように見えた。喪服の襟元にも見えた。霧が木の間に溜まっているだけかもしれない。目を凝らすと、白いものは祠の外側へ少しずれた。

慈恩が私の前へ出た。

「見るな」

「見えています」

「見るな」

「あなたにも見えているんでしょう」

慈恩は答えなかった。

黒鈴を握る指が震えている。

私は紙片へ視線を戻した。書きかけの一行の下に、見覚えのない文字が浮かんでいた。

――次は、見る者。

私は鉛筆を落とした。

紙片の繊維が、濡れた皮膚のように盛り上がっている。文字は墨で書かれたものではない。紙の内側から、黒い水が滲み出て形を取っていた。

慈恩が鈴を鳴らした。

今度は、音がした。

祠の中で響いた音は、外へ逃げず、私の胸の奥へ落ちた。耳で聞く音ではなく、骨の内側で鳴る音だった。

白い影が消えた。

代わりに、鞄の中で乾板ケースがひとつ、かすかに鳴った。

私は開けなかった。

開けてはいけないと、分かっていた。

けれど、ケースの蓋の内側で、ガラスを指で叩くような音が続いた。

一度。

二度。

三度。

慈恩は鈴を掌で押さえ、音を止めた。

「もう戻れ」

「戻る場所がありません」

「ある」

「どこに」

慈恩は、ようやく私の方を見た。

その目には、怒りも憐れみもなかった。長く沈黙してきた者だけが持つ、諦めに近い責任があった。

「おまえが、まだ自分の記録を自分で読める場所へ」

私は手帳を閉じた。

紙片は返さなかった。返せば、ここに置いてきたことになる。持ち帰れば、記録になる。どちらを選んでも、慈恩の言う通り、手つきが残る。

私は紙片を撮影帳の焼けた頁の間へ挟んだ。

「何をする」

「照合します」

「やめろ」

「焼損の形、筆跡、現像した乾板の構図。全部を照合すれば、誰が何を残したのか分かる」

「分かったあとで、戻れなくなる」

「戻る必要があるとは思っていません」

慈恩の顔から、わずかに血の気が引いた。

「おまえは、まだ何も分かっていない」

「分かっていないから、調べるんです」

私は石段へ向かった。

背中に慈恩の声が落ちた。

「白露堂へ戻るな」

私は足を止めた。

「戻り板は、見るたびにおまえを写している」

「まだ私の姿は写っていません」

「写っていないものほど、先に近くへ来る」

私は振り返らなかった。

「それなら、次に現像したとき確かめます」

杉木立の間へ入ると、祠の黒鈴が背後で一度だけ鳴った。

私は歩きながら、撮影帳の頁を指で押さえた。紙片の角が、布越しにも分かるほど硬く当たっている。

残すべきでない者を、残した。

その言葉の下に、黒い水で浮かんだ一行がある。

次は、見る者。

霧の奥で、何かが私と同じ速度で歩いていた。足音は聞こえない。けれど、杉の幹を通り過ぎるたび、視界の端に白いものが現れては消えた。

私は一度だけ、鞄の中の乾板ケースを見た。

蓋の隙間から、薄い湿気が立ち上がっている。

薬品臭がした。

そしてその匂いの奥に、見覚えのない、古い家紋のような印が浮かんでいた。

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祠の黒鈴 - 朱濡れの廊下 - 誰でも作家life