第4話 裁縫箱の底

背後で誰かが息をした。

私は振り返らなかった。

暗室の入口に目を向けたまま、乾板を水の中へ沈めている。赤い灯りが液面に揺れ、ガラスの向こうで女の顔だけが明るくなった。濡れた髪の束が頬に張りついている。喪服の襟は整っているのに、帯の結び目だけが最初に見たときと違っていた。

誰かが、もう一度息をした。

今度は近かった。

私は乾板を現像液から引き上げ、定着液の残っている小皿へ移した。白く濁った液が指の間で揺れる。女の姿は薄くなったが、視線だけは消えなかった。

暗室の入口には、誰もいない。

椅子がひとつ、こちらを向いている。

さっきまで廊下側を向いていたはずの椅子だった。脚の一本が床板の裂け目に引っかかり、動かすには音がする。私はそう考えた。音がしなかった理由を考えようとして、やめた。

考えれば、ここに長くいることになる。

私は乾板を布で包み、祖父の金属製ケースへ戻した。白手袋の指先には黒いぬめりが残っている。水で洗っても薄く伸びるだけで、完全には落ちなかった。

暗室を出ると、廊下の空気が少しだけ暖かかった。

外へ通じる隙間は、入ってきたときより狭く見えた。板が動いたのか、それとも私の肩幅が変わったのか、確かめるために腕を伸ばす気にはなれなかった。身体を横にして、湿った木材へ背中を擦りつけながら外へ出る。

霧は濃くなっていた。

白露堂の輪郭が、背後でゆっくり薄れていく。戸板の釘も、屋根の沈みも、霧の中へ順番に沈んだ。私は看板札の破片を内ポケットから取り出し、指で確かめた。焦げた縁の硬さが返ってくる。

それだけが、私をここへ連れてきたものだった。

山道を戻るあいだ、何度も足を止めた。

背後から足音が聞こえる気がしたからだ。けれど振り返ると、濡れた石と杉の幹しかない。足音は私が止まると消え、歩き出すと少し遅れてついてきた。

トキの家へ戻ったとき、戸は閉まっていた。

叩くと、すぐに開いた。

「……見たのかい」

挨拶の代わりに、トキが言った。

私は答えず、靴底の泥を落とした。土間には、朝に来たときと同じ薬草の束が吊るされていた。けれど匂いが違う。苦い草の香りの奥に、現像液の金属臭が混じっている。

トキは私の手元を見た。

「それを、持って出てきたんだね」

「祖父の乾板ケースです」

「中身の話をしているんじゃないよ」

私は手袋を外した。黒い汚れが、指の腹に細い筋を残している。

「白露堂で、女を見ました」

トキは返事をしなかった。

「若い女です。障子の前に立っていた。乾板を現像するたびに、位置が変わる。最初は斜めを向いていたのに、最後には正面から私を見ていた。背後に人影も増えました」

「……そうかい」

「驚かないんですね」

「驚いても、戻ってこないものは戻らないからね」

「戻る、というのは何がですか」

「それを聞きに来たんだろう?」

トキは戸を閉め、掛け金を二つ下ろした。ひとつ目を下ろしたあと、手を離さず、金具が本当に噛み合っているか指先で確かめる。二つ目も同じように確認した。

「座りなさい。顔が冷えている」

「先に答えてください」

「答えを急ぐ人は、答えの形を自分で決めてしまう。そうすると、見たものまで都合よく並べ替えることになる」

「私は、見たものを並べ替えたいわけではありません」

「本当に?」

その問い方は静かだった。責める声ではない。だからこそ、私は反論を失った。

囲炉裏跡の脇に座る。トキは火のない薬缶へ湯を注ぎ、急須を温めた。家の中には、濡れた木と干し薬草の匂いがこもっている。白露堂にいたときの薬品臭が、鼻の奥から離れない。

私は撮影帳を開いた。

「祖父の帳面です。四十七頁と四十八頁の間が焼けています。向かい側には、白露堂、葬送記録、第一撮影とある。あなたは、祖父が何を撮っていたか知っている」

トキは湯呑みを二つ並べた。左右の間隔が揃っている。私が無意識にそのずれを見ていると、トキはそれに気づいたように、片方をほんの少し動かした。

「宗一さんは、若い頃から手がきれいだったよ。写真機を持つ手じゃない。人の髪を撫でつけるときの手だ」

「死者の髪を整えたんですか」

「髪だけじゃない。襟を合わせて、口元を拭いて、乱れた指を重ねた。亡くなった人を、その人らしく見せるためにね」

「写真を撮る前に?」

「写真を撮るために」

私は赤鉛筆を持った。

「葬送の記録係というのは、死者の顔を記録する役目ですか」

「最初は、そうだったんだろうさ。誰が死んだのか、どの家の者なのか、後で確かめられるように。名前と顔を残す。外へ出せない村で、記憶をつなぐには、それしかなかった」

「では、なぜ白露堂の記録は欠けているんですか」

「疫病が広がったからだよ」

トキは茶を淹れ直した。まだ湯呑みには半分ほど残っている。茶葉を替える必要はない。それでも彼女は急須の蓋を開け、古い茶を捨て、新しい湯を注いだ。

「死ぬ人が増えると、名前を書くのが追いつかなくなる。顔を写すのが追いつかなくなる。家族が家族の顔を見分けられなくなる。そういうとき、人は順番を作る。先に運ぶ者、後に運ぶ者。表に出す者、出さない者。墓へ送る者、別の場所へ置く者」

「それは記録ではなく、処理でしょう」

「そうだね」

トキはあっさり認めた。

「でも、処理する人間は、自分のしていることを処理とは呼ばない。守ると言う。秩序を保つと言う。誰かを傷つけないためだと言う。言葉を替えれば、手の汚れまで替わった気になるからね」

「祖父は、その言葉を信じたんですか」

「宗一さんは、信じたふりが上手だった」

その一言に、祖父の姿が浮かんだ。

書庫で写真帳をめくる手。帳面の端を揃える指。私が何を尋ねても、すぐには答えず、いつも一拍置いてから言葉を選ぶ癖。

祖父は嘘をつく人ではなかった。

ただ、真実の周りに几帳面な柵を作る人だった。

「祖父は、女を知っていたんですか」

トキの指が湯呑みの縁で止まった。

「どの女のことだい」

「白露堂の乾板に写っていた女です。二十代前半くらい。濡れた髪で、喪服を着ていた。あなたが知っている女と同じかどうかを聞いています」

「顔だけで、人は同じにならないよ」

「写真では同じでした」

「写真に写る顔は、本人のものとは限らない」

「それはどういう意味ですか」

「整えられた顔だということさ」

私は赤鉛筆の先を机へ押しつけた。

「顔を整えることで、別人にしたということですか」

「別人にするんじゃない。誰が見ても同じにするんだよ。死んだ者の顔は、家族の記憶と違う。苦しんだ顔、怯えた顔、口を開けた顔。そんなものを残せば、あとで誰かが耐えられなくなる。だから、目を閉じさせる。髪を直す。襟を合わせる。口元を拭く。何度も撮り直す。きれいな顔に戻す。そうすれば、死んだ人ではなく、生きていた人のように残せると思った」

「でも、同じ顔にしてしまった」

「そうだね。誰の顔か分からなくなるほどに」

トキの声が、少しだけ擦れた。

「白露堂には、名前のない写真がたくさんあった。裏に日付だけある。家の名だけある。あるいは何もない。顔を残すことだけが目的になって、顔の持ち主が後から切り離された。写された人間より、写された形の方が長く残ったんだろうね」

私は乾板ケースへ手を伸ばしかけた。

あの女の顔が、赤い灯りの下に浮かぶ。こちらを見ていた。視線を逸らせば、写真の外へ出てくるような気がした。けれど、見続けても、私の側へ戻る道は細くなっていた。

「この女は、名前を失ったんですか」

トキはすぐには答えなかった。

外で、杉の枝から水滴が落ちた。土間の軒先で、ひとつ、またひとつ。トキは窓の外を見た。空はまだ明るいのに、杉林の奥だけが夕方のように暗い。

「名前は、あったよ」

「教えてください」

「聞いたことがない」

「知っているんですか」

「知っている人がいた、と聞いた」

「誰から?」

トキの手が、膝の上の裁縫箱へ伸びた。

箱は古い桐製で、蓋の角が丸く磨耗している。表面に細い擦り傷があり、何度も濡れた手で触られた跡があった。トキは留め金に指をかけたが、開けずにそのまま押さえている。

「澪さん。あんたは、祖父さんが残したものを正したいんだろう」

「はい」

「焼けた頁を戻して、抜けた名前を拾って、誰が何をしたかを並べ直したい。そうすれば、記録は正しくなると思っている」

「正しくする必要があります」

「正しさは、残された人間のためにある。死んだ者にとっては、正しいかどうかより、まだ見られているかどうかの方が重いこともある」

「見ることが、救いになるとは限りません」

「そうだよ。だから怖いんだ」

トキは顔を上げた。私の目ではなく、眼鏡の縁を見ている。

「見ているつもりで、見られている。残しているつもりで、残される。あの場所では、そういうことが起きる。写真を撮る人は、自分が外側にいると思っているからね。ガラス板のこちら側にいて、向こう側の人間を閉じ込める。けれど、閉じ込めたものは消えない。見返す場所を覚えている」

「私が見た女は、誰かを見返しているんですか」

「たぶんね」

「誰を?」

「まず、撮った人を。それから、見なかった人を。最後には、見ようとする人を」

その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んだ。

私は白露堂で、女の顔を見続けた。見なかったことにしないために。祖父の記録を確かめるために。けれど同時に、女の輪郭が変わるたび、次を知りたいと思っていた。

「あなたは、見たことがあるんですね」

トキは裁縫箱の留め金を開いた。

中には、糸巻き、針山、鋏、古い喪服の端切れが入っていた。黒い布は何度も洗われ、繊維が細くなっている。襟元の布だけが、他の部分より白く擦れていた。

トキはその端切れを取り出し、膝の上へ置いた。

「祖母が繕っていたものだよ。あの頃、喪服はいくらあっても足りなかった。死者の家へ持っていく服、写真を撮るときに着せる服、戻ってきた服。どれも汚れて、裂けて、洗っても薬品の匂いが取れなかった」

「写真を撮るための喪服があった?」

「死者に着せるためのものだよ。けれど、着せる相手がいなくても、服だけが戻ってくることがあった」

私は端切れを見た。

黒い布の一部に、白い糸が一本だけ残っている。縫い目ではない。誰かの髪の毛のようにも見えた。

「その女が着ていたものですか」

「分からない」

「分からないことばかりですね」

自分でも声が硬くなっているのが分かった。

トキは反論しなかった。ただ、端切れを指先で撫でた。布に触れる手つきが、誰かの傷を確かめるように慎重だった。

「分からないままにしてきたから、ここまで残ったんだよ。はっきりさせたものは、焼かれた。焼けないものは、名前を呼ばれなくなった。呼ばれなくなったものは、写真の中で別の顔と重なった」

「誰が焼いたんですか」

トキの手が止まる。

「あなたの祖父さんは、火を使うのが上手だった」

「祖父が焼いた」

「そうは言っていないよ」

「では、誰が?」

「村の人間は、誰か一人に責任を渡すのが好きだった。長が決めた、医者が言った、写真屋が処理した、御堂が封じた。そうすれば、自分の手には何も残らないからね」

「祖父も、その一人だった」

「そうだろうね」

「あなたも?」

トキは初めて、私を正面から見た。

目は濁っていなかった。古い水の底に沈んでいたものが、急に浮かび上がったような眼差しだった。

「私は、見なかったよ」

「見なかったことを、見たと言うんですか」

「見なかったから、今も覚えている」

意味が分からず、私は黙った。

「見たものは、いつか形が変わる。見なかったものは、形が変わらないまま残る。戸板の隙間。布の端。写真の裏側。誰かの肩越しに見えた顔。私は、見ないふりをして、ずっと覚えていた。だから忘れられない。見なかったことにしたものほど、夜になると近くへ来る」

トキの声は、吐き出すというより、縫い目をほどくように続いた。

「白露堂へ運ばれた人の中に、村の記録から外された人がいた。病気の名簿にも、墓の帳面にも、家の記録にも残らない。そういう人たちは、死んだことにするにも、最初からいなかったことにするにも都合が悪かった。だから写真だけが残った。顔だけを写して、名前を消した。あの女が何度も撮り直されたのは、誰かがその顔を使って、別の死者を記録したからだよ」

私は息を呑んだ。

「同じ顔を?」

「同じ顔なら、誰が誰でもよかった。見送る側には、顔があれば済む。村の中では、死者の数と家の数が合っていれば、それで秩序が保てる。顔の中身まで確かめる人はいなかった」

「でも、その女は生きていたんでしょう」

トキは答えなかった。

裁縫箱の中から、小さな包みを取り出した。薬包紙を何度も折ったものだった。開くと、焼け焦げた写真の切れ端が一枚出てきた。

写真には、女の頬から下だけが残っている。

濡れた髪。

喪服の襟。

わずかに傾いた口元。

私は椅子から立ち上がりそうになった。

白露堂の乾板に浮かんだ顔と同じだった。

「これを、どこで?」

「祖母の裁縫箱の底にあった。私が若い頃、偶然見つけた。見たことを誰にも言わなかった。言えば、取り上げられると思ったからね」

「祖父はこの写真を知っていた?」

「宗一さんが、私に返せと言ったことがある」

「返したんですか」

「返したふりをした」

トキは写真の切れ端を裏返した。裏面には墨の跡がある。文字のほとんどは焼けていたが、一画だけが残っていた。

私は手帳を取り出し、赤鉛筆で写し取った。

「名前の一部ですか」

「たぶんね」

「読めます」

「読まない方がいい」

「これは、証拠です」

「証拠にした瞬間、また誰かの都合に使われる」

「それでも記録しなければ、消えます」

「消えないよ」

トキの指が、写真の切れ端を押さえた。

「残ったものは、消えない。消すために焼いた紙も、焼いた人の手も、見なかった人の沈黙も、全部どこかへ移るだけだ。だから怖いんだよ。記録は死者を救うものじゃない。死者をこちらへつなぎ止めるものだ。つなぎ止められた方が、いつまでも苦しむことだってある」

私は返す言葉を失った。

写真の女は、頬から下しか残っていない。それでも、口元が何かを言おうとしているように見えた。顔のない部分に、私の記憶が勝手に入り込んでくる。

祖母の声。

濡れた髪。

赤い灯り。

私はその女を知らない。

なのに、知らないと言い切ることができなかった。

「祖母の名前を教えてください」

「……」

「私の祖母です。あなたが知っている人なら、名前があるはずです」

トキは写真を畳み、薬包紙へ戻した。包みを裁縫箱の中へしまう。さらに底板へ手を入れ、そこに隠れていた薄い木片を外した。

底の下に、もう一枚、紙があった。

古い家族写真の焼け残りだった。

中央に立つ若い女の顔は、焼けて消えている。けれど、その隣に立つ少女の顔が残っていた。少女はトキに似ていた。背後には白露堂の撮影台と同じ襖がある。

その端に、祖父の姿が写っていた。

私は写真を受け取ろうと手を伸ばした。

トキは渡さなかった。

「まだ、あんたが持つものじゃない」

「なぜですか」

「持ったら、次は返せなくなるからだよ」

「私が調べるのを止めたいんですか」

「止めたい。けれど、止められないことも分かっている」

「なら、教えてください。祖父は何を焼いたんですか。女は誰で、なぜ何度も撮られたんですか。私の家族は、何を隠したんですか」

トキは写真を膝に置いたまま、長く黙った。

外の霧が窓へ寄せてくる。薄いガラスの向こうで、杉の幹が一本ずつ消えていく。家の中の音が減った。薬缶の金属音も、時計の針も聞こえない。

やがてトキは、写真を裏返した。

「名前を呼べば、戻ってくる」

「もう戻っているんでしょう」

私がそう言うと、トキの指が止まった。

「何を見たんだい」

「現像した乾板の中で、女が私を見ていた。目を逸らしても、次の像ではもっと近くなっていた。あなたはそれを知っている」

「知っているんじゃない。見送っただけだよ」

「誰を?」

トキは答えなかった。

ただ、写真の焼けた縁を、親指でゆっくり撫でた。

「澪さん」

名前を呼ぶ前に、彼女は一度、息を飲み込んだ。

「白露堂の前では、誰もが見ないふりを覚えた。死んだ人を見ないふり。残された人を見ないふり。写真の中で、こちらを見ているものを見ないふり。そうしないと、村で暮らせなかったからね」

「あなたも、その一人だった」

「そうだよ」

「祖父も?」

「そうだよ」

「私も、見ないふりをしろと?」

トキは顔を上げなかった。

「遅すぎるよ。あんたはもう、見たんだから」

その言葉が落ちたとき、戸の外で何かが擦れた。

木の表面を、爪でなぞるような音だった。

一度。

二度。

トキは裁縫箱の蓋を閉め、留め金を掛けた。普段より強く押しつけたため、古い金具が小さく鳴った。

「帰りなさい」

「外は霧です」

「霧が薄くなる前に」

「白露堂へ戻る道を教えてください」

「戻るのかい」

「確認したいことがあります」

「何を確認するんだい」

「乾板の女が、写真の中だけにいるのか」

トキの手が、裁縫箱の上で固まった。

私は立ち上がった。鞄の中で、乾板ケースがわずかに触れ合う。ガラスの音はしなかった。音が吸われている。白露堂と同じ静けさが、いつの間にかこの家の中へ入り込んでいた。

「澪さん」

背中に、トキの声が届く。

「その人の顔を、祖母さんと重ねないことだよ」

私は振り返った。

トキは私を見ていなかった。裁縫箱の蓋に手を置き、そこに残る傷を眺めている。

「似ているんですか」

「似ている顔は、いくらでもある」

「答えになっていません」

「答えは、顔ではなくて、見た人の方に残るからね」

私は戸口へ進んだ。

土間に下りる前、トキが背後から続けた。

「それから、白露堂の前で名前を呼ばないこと。あの女の名も、祖母さんの名も、宗一さんの名も」

「なぜですか」

「名前は、写真より近いからだよ」

戸を開けると、霧が土間まで入り込んでいた。

外の空気は冷たく、湿っていた。杉林の向こうに道がある。来たときと同じ道のはずなのに、石の並びが少し違って見える。トキの家を出たあと、背中で戸が閉まった。

一度。

それから、もう一度。

私は振り返らなかった。

鞄の中の乾板ケースが重い。黒い汚れの残った指先を、私は親指で擦った。ぬめりはもう消えていた。

代わりに、指紋の溝へ細い白い粉が入り込んでいる。

私は歩きながら、トキの裁縫箱の底にあった写真を思い出した。顔のない女。焼けた頬。喪服の襟。祖父の立つ撮影台。

そして、写真の端に残っていた、もう一人分の空白。

誰がそこにいたのか。

なぜ祖父は、祖母に見せないようにしたのか。

問いは、乾板の中の女と同じように、少しずつ位置を変えながら、私の内側へ近づいてくる。

霧の向こうで、どこかの戸が軋んだ。

私は足を止めた。

音は一度で終わった。

そのあと、白露堂の方角から、かすかな薬品臭が流れてきた。

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