第3話 戸板の隙間

白露堂は、村の中心にぽつりと残っていた。

トキの家を出てから、道はゆるやかに下っていた。濡れた石を踏むたび、靴底の泥が薄く剥がれる。霧は杉の幹のあいだに溜まり、枝から落ちた雫が、見えない場所で土を叩いていた。

私は何度か振り返った。

トキの家は、もう見えなかった。けれど、戸を閉める音だけが背中に残っている。一度。それから、もう一度。念を押すような音だった。

道の両側には、崩れた石垣と、屋根だけを残した家が並んでいた。柱の間から伸びた蔓が、濡れた縄のように軒を垂れている。窓はどれも割れていたが、ガラスの破片は少なかった。誰かが割ったのではなく、長い時間をかけて、内側から曇り、薄く剥がれ落ちたように見えた。

集落の中央へ進むほど、物音が減っていった。

杉林では水の音がした。トキの家では、茶碗の触れ合う音があった。ここには、風さえ入り込まない。自分の歩く音だけが、足元から少し遅れて返ってくる。

私は腕時計を見た。

十一時十二分。

トキの家を出たのは、十一時を少し過ぎた頃だったはずだ。道のりは長くても十分ほど。時計の針が正しいなら、ここまで二十分近く歩いたことになる。

携帯を取り出した。画面は暗いままだった。電源ボタンを押しても、現在地は表示されない。電波だけでなく、時刻も消えている。黒い画面に、私の顔がぼんやり映った。

その顔の背後に、白いものが見えた。

振り返る。

何もない。

濡れた道と、崩れた家の壁。霧の向こうに、杉の枝が重なっているだけだった。

私は再び画面を見た。

自分の背後には、やはり何も映っていない。

「疲れているだけ」

声に出してから、妙にその言葉が薄く感じられた。疲労なら、休めばいい。幻なら、確かめればいい。これまで私は、そうやってものごとの輪郭を戻してきた。

けれど、確かめるために振り返った場所には、いつも何もない。

何もないことだけが、残る。

道の先に、黒い建物が見えた。

屋根は中央から沈み、瓦の隙間に草が生えている。正面の戸は板で塞がれていた。板は縦横に打ち付けられ、釘頭には赤錆が浮いている。白い塗料の残った柱の上に、看板の跡だけが四角く残っていた。

私は鞄から看板札の破片を取り出した。

焼けた縁を、建物の柱に当てる。

大きさは合わなかった。けれど、札の白い塗料と、柱に残る塗膜の色は同じだった。破片の裏側には、細い釘穴が二つある。柱に残った穴の位置と、わずかに重なる。

白露堂。

私は声に出さず、その名を読んだ。

正面の戸板には隙間がなかった。左右を見回すと、建物の脇に土蔵へ続く細い通路があり、その奥に、板が一枚だけ外れている箇所があった。人ひとりが横向きになれば、どうにか通れそうな幅だった。

私は鞄を肩から下ろし、撮影帳を布で包み直した。金属製の乾板ケース、白手袋、懐中電灯。ひとつずつ位置を確認する。赤鉛筆を手帳の脇に差し、看板札の破片を内ポケットへ戻した。

帰るなら、今だった。

白露堂は目の前にある。場所も確認した。建物の外観も、写真に撮れる。撮影帳の空白と地図の線を照合するには、ここまでで十分だと考えることはできた。

だが、十分だと考えた瞬間、空白の内側に何かが増えた気がした。

戸の向こうに、まだ見ていないものがある。

見ていないから、ないことにはできない。

私は白手袋をはめ、板の外れた隙間へ身を滑らせた。

肩が木に擦れた。湿った木材の冷たさが、服を通して鎖骨に伝わる。内側へ入ると、外の白い霧が一枚の障子のように背後で閉じた。

建物の中は、外より冷えていた。

湿った木の匂いに、古い薬品臭が重なっている。酢に似た刺激が鼻の奥を刺し、遅れて、金属のような苦味が舌に残った。

私は懐中電灯を点けた。

光は弱く、空気の中で白く滲んだ。土間には泥の跡がいくつもある。新しいものではない。乾いた跡の上に、さらに別の跡が重なり、誰がいつ歩いたのか判別できない。奥へ続く廊下の床板は、ところどころ沈んでいた。

一歩進む。

床が低く鳴った。

音はすぐに消えた。壁や天井に反響することもなく、柔らかな布に包まれたように吸い込まれた。

私は立ち止まった。

自分の呼吸が聞こえる。けれど、衣擦れは聞こえない。鞄の金具を押さえても、指先の動きしか感じられなかった。

建物が音を拒んでいる。

そう思ったとき、奥から水の滴る音がした。

一滴。

間を置いて、もう一滴。

私は廊下を進んだ。壁には額縁の跡が残っている。写真を掛けていたのだろう。四角く色の違う部分がいくつもあり、そのどれにも中身はなかった。釘だけが、黒い壁から細く突き出している。

最初の部屋には、壊れた椅子があった。

背もたれが外れ、座面に白い布が被せられている。布をめくると、木の表面に黒い染みが広がっていた。何の染みか考える前に、薬品臭が強くなった。

私は布を戻した。

壁際に、古い撮影台が置かれていた。木製の台座と、背後に張られた襖。襖紙は黄ばんでいるが、中央だけが不自然に白い。誰かが何度も同じ場所を拭いたような跡だった。

撮影台の前に立つ。

足元の床板に、細い傷が残っていた。台を何度も動かした跡だ。傷は部屋の中央から少し左へずれ、そこからさらに奥へ伸びている。

私は手帳を開いた。

撮影台の幅。

背後の襖までの距離。

床板の傷の方向。

数字を書こうとしたが、赤鉛筆の芯が紙の上で止まった。

部屋の隅に、人が立っていたような気がした。

白い布の前。濡れた髪。喪服の襟元。

瞬きをする。

隅には、崩れた箪笥しかない。

私は眼鏡を外してレンズを拭いた。見間違いを記録する必要はない。そう思いながら、手帳の余白に小さく書いた。

――十一時二十四分。撮影台脇に人影のような明暗。

書いてから、その一文を二重線で消した。

事実ではない。

けれど、消した線の下に、紙の凹みが残った。

廊下の突き当たりに、暗室の表示があった。

文字は半分剥がれていたが、赤い塗料が残っている。戸は閉じていない。押すと、内側へゆっくり開いた。

薬品臭が濃くなった。

喉の奥に膜が張る。私は袖で口元を覆ったが、匂いは布を抜けて入ってきた。湿った紙、腐った金属、乾ききらない水。祖父の遺品から嗅いだ匂いと同じだった。

暗室の壁には、赤い電球がひとつ残っていた。

電源は通じていないはずなのに、薄暗い赤が天井近くに滲んでいる。懐中電灯を消しても、部屋の輪郭はぼんやり見えた。

中央に、現像バットが三つ並んでいる。

どれも木製の台に置かれ、底には黒い沈殿がこびりついていた。乾いているように見えるのに、光を当てると表面が濡れている。私は白手袋を確かめ、指先で端を触れた。

冷たい。

固形物のはずなのに、指腹がわずかに沈んだ。

すぐに手を引いた。手袋の先には、黒い光沢が残っている。水で洗える汚れではないように見えたが、布で拭うと薄く伸びた。黒いものが、紙のインクのように布目へ入り込む。

「現像液が残っている……」

私は独り言のように呟いた。

百年近く前の現像液が、なぜ乾ききらずに残っているのか。成分が変質しているのか、別の物質なのか。分析しなければ分からない。採取して持ち帰るべきだと思った。

そのとき、奥の棚で何かが擦れた。

私は光を向けた。

木棚の最上段に、布で包まれたものが置かれている。白い布は湿気を吸って灰色になり、端に細かな黒い斑点が浮いていた。

私は脚立を探し、棚の前へ置いた。

脚立の脚が床に触れた音はしなかった。

乗る。

一段目。

二段目。

棚へ手を伸ばすと、布の下から硬い感触が返った。ガラスだと分かる。私は両手で包みを下ろした。

重かった。

布を解くと、金属製の乾板ケースが現れた。見覚えがある。祖父の遺品の中にあったものと、同じ型だった。蓋には黒ずんだ傷があり、中央に細い白線が走っている。

私は鞄から自分のケースを取り出し、並べた。

幅も高さも同じだった。

ただ、白露堂で見つけたケースの方には、蓋の裏に小さな文字が刻まれていた。

宗一。

祖父の名前だった。

息を吸うと、薬品臭が肺の奥へ沈んだ。

「どうして、これがここにあるの」

答えは返らなかった。

当然だった。私はそう思った。廃屋の暗室で、百年前の現像道具と祖父のケースを見つけただけだ。祖父がここへ来た証拠であり、撮影帳の記述を裏づける物証だ。私はそう整理しようとした。

けれど、蓋を開ける手が震えていた。

中には、布に包まれたガラス乾板が四枚入っていた。

一枚目の布には、薄い墨で数字がある。

第一。

二枚目には、第二。

三枚目と四枚目には、何も書かれていなかった。

私は乾板を取り出した。ガラスの端に、白い粉がこびりついている。斜めから光を当てると、表面に細い擦過痕が浮かんだ。

誰かが、爪で引いたような傷だった。

このまま持ち帰ることもできる。乾板を保存袋へ入れ、撮影台の位置を記録し、暗室を出る。現像は設備の整った場所で行うべきだ。私は専門家として、その判断を知っている。

しかし、現像しなければ分からない。

白く曇った板の奥に何があるのか。

祖父が何を写し、なぜケースだけをここへ残したのか。

私は現像バットのひとつを水で洗った。黒い沈殿は落ちなかったが、底に溜まっていた液体は薄くなった。蛇口をひねると、管の奥で水が唸った。しばらくして、錆びた水が細く流れ出す。

冷たい水でバットをすすぐ。

水は指の間を滑り、手袋の内側まで冷やした。黒いぬめりが、何度洗っても落ちない。私は布で底を拭き、乾板を一枚、両手で支えた。

そのとき、暗室の外で戸が動いた。

軋む音だった。

ゆっくり、重いものが木を押している。

私は顔を上げた。

暗室の入口は開いている。廊下の先は赤い明かりに沈み、外から差す霧の白さは見えない。

誰かが入ってきた様子はない。

それでも、入口の脇に置かれていたはずの椅子が、少しだけこちらへ向きを変えていた。

私は乾板を落とさないよう、指に力を込めた。

「誰か、いるんですか」

声は暗室の中で小さく崩れた。

返事の代わりに、どこかで水が滴った。

一滴。

二滴。

私は戸口まで行くことができなかった。目を離した瞬間、暗室の中の何かが変わる気がした。現像バットも、棚も、赤い光も、私が見ている間だけ同じ形を保っているようだった。

乾板を現像液へ沈める。

ガラスの角が液面に触れた。

冷たさが手袋を通して伝わる。私は板を水平に保ち、ゆっくりと奥まで押し入れた。液体が表面を覆い、白く曇った乳剤面が赤い光を返す。

何も起きない。

私は時計を見た。

十一時三十一分。

秒針が進まない。

乾板を揺らす。液が波打ち、白い膜の下に薄い灰色が浮かんだ。

最初に現れたのは、障子だった。

白く汚れた紙。縦の桟。右端に、黒い染み。

私は呼吸を整えた。像の出方は、通常の現像と変わらない。背景が浮かび、輪郭が集まり、暗い部分から順に形を持つ。

障子の前に、何かが立っていた。

肩。

濡れた髪。

喪服の襟元。

私は乾板を持つ手を止めた。

顔が浮かび上がってくる。

若い女だった。

二十代の前半に見える。頬は細く、唇はわずかに開いている。髪は濡れているのか、耳の脇から黒い束が垂れていた。喪服の襟はきちんと重ねられているが、帯の結び目だけが少し崩れている。

死者の顔かもしれない。

そう考えた瞬間、私はその考えを退けた。

写真の中の女は、こちらを見ていた。

現像中の乾板だから、実際には反転した像だ。左右も明暗も逆で、肉眼で見ている顔とは違う。私はそう知っている。知っているはずなのに、視線だけは反転していなかった。

目が、こちらを追っている。

私は乾板を少し左へ傾けた。

女の目も、わずかにこちらへ寄ったように見えた。

錯覚だ。

右へ傾ける。

変わらない。

私は一度、乾板をバットから上げようとした。途中で、指が止まった。現像を途中で止めれば、像は定着しない。持ち帰るなら、今のうちに処理すべきだ。けれど、顔の輪郭がまだ薄い。もう少し待てば、何かが分かるかもしれない。

女の背後には、障子しかない。

いや、左端に黒い縦線がある。人の肩に見えなくもない。右の暗がりにも、細い白い形が浮かんでいる。

私は乾板を数センチ、水の中でずらした。

女の位置が変わった。

最初は中央より右にいたはずなのに、今は障子の中央へ寄っている。背景の桟との距離も違う。写真を動かしただけでは、像の位置は変わらない。

私は乾板を持つ手を見た。

白手袋の指先が、黒い液で濡れている。

女は動いていない。

動いているのは、私の方だ。

そう考え直そうとした。

だが、女の帯の結び目が、さっきより左へずれている。

私は息を止めた。

顔立ちは同じなのに、初めて見たときより近い。頬の陰影が濃くなり、目の奥にあった白い光が、黒く深く沈んでいる。

視線が皮膚に触れた。

額から頬へ、冷たい指がゆっくり滑っていくようだった。私は反射的に顔を背けかけたが、できなかった。目を逸らせば、その瞬間に女が乾板の外へ出てくる気がした。

だから見続けた。

見続けることで、まだ自分が見る側にいると確かめたかった。

「あなたは、誰」

問いかけても、女は答えない。

けれど、唇の形が変わった。

笑ったようにも、何かを言いかけたようにも見える。

私は乾板を現像液から上げ、水へ移した。冷たい水が表面を流れ、薬液の匂いが一層強くなる。黒い像が洗われ、女の顔がはっきりした。

その背後に、ひとつだけ人影が増えていた。

私は水の流れを止めた。

影は、障子の桟の向こうに立っている。顔はない。肩から下だけが、薄く写っていた。

女の立つ位置は、最初より左へずれている。

そして今度は、正面から私を見ていた。

暗室の外で、戸板がゆっくり軋んだ。

私は乾板を水の中に置いたまま、動けなかった。

赤い灯りの下で、写真の中だけが時間を持っている。

女の目が、私の目から離れない。

背後の暗がりで、誰かが息をした。

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戸板の隙間 - 朱濡れの廊下 - 誰でも作家life