第2話 地図から消えた村

久良瀬へ向かう前に、私は三日かけて行政記録を調べた。

祖父の撮影帳に残された地名は、白露堂と久良瀬の二つだけだった。白露堂については、古い看板札の破片以外に手がかりがない。だから先に、地名の方から追うことにした。

都内の資料室は、空調の音ばかりが大きかった。利用者の少ない平日の午後、私は廃村関係の綴りを順番に開いていった。旧村誌、道路台帳、山林の境界図、明治末の災害報告。どの紙にも、湿気を吸った古い匂いがあった。指先に紙の粉がつき、ページをめくるたび、乾いた音が小さく重なった。

久良瀬の名が最初に出てきたのは、明治四十三年の水害記録だった。

土砂崩れ。

橋梁流失。

伝染病発生。

その三つの記載が、ほとんど同じ欄に並んでいる。死者数の欄は黒く塗りつぶされ、村外への避難者数には数字がなかった。記録としては不自然だった。被害の大きさを記す書類なのに、肝心な人数だけが抜け落ちている。

私は赤鉛筆で印をつけ、別の綴りを開いた。

大正二年の道路台帳では、久良瀬へ通じる道が「維持困難につき廃止」とされていた。地図の上では、山の途中まで続いていた線が、集落の手前で途切れている。廃止の理由は、土砂と疫病の再発防止。けれど、村そのものを移転したという記録はない。

人がいなくなったのか。

いなくなったことにされたのか。

私はその二つを手帳に書き分けた。

古い地図を複写するため、窓際の台へ持っていく。印刷のにじみで山の輪郭は崩れていた。久良瀬の文字も、何度も消しゴムをかけられたように薄い。それでも、そこにあったことだけは分かる。

私は地図を光にかざした。

薄い紙の下に、別の線が残っていた。現在の道路図にはない、細い道の跡だった。山の斜面を斜めに上がり、村の中心らしい場所で丸く途切れている。

その丸の脇に、小さな四角形が印刷されていた。

建物記号。

私は拡大鏡を近づけた。記号の横に、消されかけた文字がある。

白……堂。

白露堂。

喉の奥が乾いた。

資料室の窓の外では、都心のビルが午後の光を跳ね返していた。ガラス壁、信号、人の流れ。どれも輪郭がはっきりしていて、触れれば硬い現実として返ってくる。けれど手の下にある地図は、その現実からこぼれた場所を指していた。

私は複写申請を書き、地図の隅に記された旧道の番号を控えた。

帰宅してから、携帯で経路を調べた。現在の地図では、山の手前までしか道が表示されない。バス停の名前も、久良瀬ではなく、廃校になった小学校の名前だった。そこから先は徒歩になる。

出発の前夜、祖父の撮影帳を鞄に入れた。

看板札の破片は布に包み、金属製の乾板ケースと一緒にしまう。仕事用の手帳、赤鉛筆、白手袋。必要なものを並べてから、私は左右の位置を揃えた。

それでも、鞄の中に空白がある気がした。

何かを忘れている。

確認しようとして、やめた。確認を重ねるほど、忘れたものの輪郭だけが濃くなることがある。祖母の写真を手帳から抜き取り、机の引き出しに入れた。持っていく理由はない。けれど置いていく理由も、うまく言葉にできなかった。

翌朝、最初のバスに乗った。

市街地を抜けるまでは、窓の外に看板やコンビニが続いていた。乗客は少なく、前方の席に高校生が二人、後ろに買い物袋を抱えた男が一人いるだけだった。山へ近づくにつれて、携帯の画面に表示される時刻と、車窓の明るさが合わなくなっていった。

午前十時十七分。

そう表示されているのに、窓の外は夕方のように白く霞んでいる。

終点のひとつ手前で、私は降りた。

バスが去ったあと、音が急に減った。エンジンの振動が山道の向こうへ消えていく。残ったのは、湿った路面から立ち上がる泥の匂いと、杉の葉に溜まった水が落ちる音だけだった。

私は携帯を確認した。

電波は一本。

画面の地図には、今いる場所を示す青い点が表示されていた。けれど、その点は道路の上ではなく、斜面の中に浮いていた。位置情報がずれているのだろうと思い、端末を再起動した。

一本だった電波が、消えた。

山道は思っていたより狭かった。舗装は途中で途切れ、湿った土に古い轍が二本残っている。靴底が沈むたび、泥が薄くまとわりついた。杉の幹はどれも似ていて、先へ進んでいるのか、同じ場所を歩いているのか分からなくなる。

私は十五分ごとに時計を見た。

三度目に確認したとき、針は十時四十七分を指していた。前に見た時刻から、まだ三分しか経っていない。

足を止めた。

腕時計の故障かもしれない。携帯は電波がない。私は秒針を見つめた。動いている。細い針が一周し、また一周する。それでも、霧の中では時間が進んでいる感じがしなかった。

背後を振り返る。

道は白く閉じていた。

来た方向も、これから向かう方向も、同じ杉の列と同じ濡れた地面だった。風がない。枝も揺れない。自分の呼吸だけが、耳の近くで妙に大きい。

私は左手を伸ばし、最も近い杉の幹に触れた。

樹皮はざらつき、冷たかった。爪の間に樹脂の匂いが残る。その感触だけが、地図の線ではなく、自分の足でここへ来たことを教えていた。

先へ進むと、霧の向こうに石垣が現れた。

石垣は崩れかけていたが、その上に生えた草だけが不自然に短い。誰かが刈っているのかと思い、近づいた。石の隙間には、古い布切れが挟まっていた。白ではなく、薬品に晒されたような薄い灰色だった。

私は手を伸ばしかけて、指を止めた。

布から、かすかに現像液の匂いがした。

その先に、家が一軒あった。

杉林に押し込まれるように建った古い家で、軒の下に薬草が束ねて干されている。戸は閉まっていたが、土間の奥から人の気配がした。

私は二度、戸を叩いた。

返事はなかった。

三度目に手を上げたとき、内側で何かが擦れた。錆びた金具を動かす音。それから、戸が指一本分だけ開いた。

「……どなた」

低い女の声だった。

「篠宮澪と申します。東京から来ました。少し、お尋ねしたいことがあって」

戸の隙間から、片目だけがこちらを見た。

目はすぐに伏せられた。老女は戸をさらに開け、私の鞄と靴を順番に見た。

「篠宮、さん」

名前を呼ばれるまでに、わずかな間があった。

「はい」

「宗一さんの、お孫さんかい」

胸の奥で、何かが小さく沈んだ。

「祖父をご存じなんですね」

老女は答えず、戸口の脇へ身を引いた。

「入るなら、土を落として。そこ、布があるから」

土間には、乾いた前掛けと薬草の束が置かれていた。薬草の苦い匂いに、古い木材の湿り気が混ざっている。私は靴底を布で拭き、鞄を抱えたまま家へ上がった。

老女は牧野トキと名乗った。

囲炉裏の跡が残る部屋に通されると、彼女は何も尋ねず、急須に湯を注いだ。茶葉が開く匂いが、家の中にゆっくり広がった。

私は机の上に撮影帳を置いた。

「祖父の遺品から、久良瀬と白露堂という名前が出てきました。これは、どこにありますか」

トキの手が止まった。

急須から湯気が上がり、その向こうで彼女の顔がぼやける。トキは私を見ず、湯呑みの縁を布で拭いた。

「名前は、どこで見たの」

「祖父の撮影帳です。焼けた頁に、白露堂、葬送記録、第一撮影と書かれていました」

「焼けた頁を、持ってきたのかい」

「はい。必要なら見せます」

「見せなくていいよ」

「なぜですか」

トキは茶を注ぎ直した。まだ湯呑みには茶が残っているのに、今度は急須の蓋を開け、茶葉を替えた。

「古いものは、見たからといって分かるわけじゃない。むしろ、見た人の中に入り込んで、分からないまま残ることがある」

「それは説明になっていません」

「説明で済むなら、村はなくならなかった」

言葉の後ろに、長い沈黙が落ちた。

私は撮影帳の焼損箇所を開いた。紙縁に残る煤を見せるため、白手袋をはめる。

「祖父は、ここで何をしていたんですか」

「写真を撮っていたんだろうね」

「何の写真を」

「人の写真だよ」

「生きている人間ですか。それとも死者ですか」

トキは初めて、私の手元を見た。

「両方だった、と聞いている」

「聞いている?」

「私が見たわけじゃないからね。私が小さい頃には、もう大人たちは何も話さなかった。話さないというより、話し始めると途中でやめた。名前を呼びかけて、別のものを呼んだふりをする。写真館の前を通ると、急に天気の話をする。雨が降るかもしれない、風が出てきた、薬草を取り込まなければならない。そういう話ばかりだった」

「白露堂のことを、誰も口にしなかった」

「口にすると、そこにあるものが近くなると思っていたんだろうね」

「そこにあるものというのは?」

トキは湯呑みを両手で包んだ。指先が細かく震えている。

「死んだ人のことさ。死んだ人は、忘れられると遠くなる。けれど、写真に残せば近くなる。近くなりすぎることもある」

「写真は記録です。記録がなければ、死者は最初からいなかったことになる」

「そう思う人もいたよ。だから撮った。顔を整えて、髪を直して、襟を合わせて、ちゃんとした人のように写した。見送るために必要だと言われてね」

「“整えた”というのは、具体的に何をしたんですか」

「澪さん」

名前を呼ぶ前に、トキは一度、視線を落とした。

「あなたは、見たものを正しく並べれば、間違いが減ると思っているんだろう。紙の角を揃えて、日付を合わせて、欠けたところを別の記録で埋める。そうすれば、そこに何があったか近づける。仕事としては、たぶん正しいよ。でも人間は、並べ替えられるほどきれいじゃない。死んだ顔を見て、これはこの家の者だ、これは外から来た者だ、これは残す、これは残さないと決めた人間の手は、写真に写らない。写らないから、あとで誰も責任を取れない」

「祖父も、その決定に関わったんですか」

トキは答えなかった。

私は撮影帳を閉じた。

「祖父が何をしたのか、知りたいんです。私の家族が、何を隠していたのかも。祖母の写真の裏に、祖父は『この人を、澪には見せない』と書いていました。あの写真に写っていない人がいる。あなたは何か知っているはずです」

湯気が薄くなっていく。

トキは裁縫箱を膝に載せた。古い木の蓋を開け、糸や針を確かめる。中身を確認する必要などないはずなのに、ひとつずつ位置を直していく。

「祖母さんの名前を、ここで呼ばない方がいい」

「なぜですか」

「名前は、写真より近いからだよ」

「それでは何も分かりません。私が知りたいのは、祖父が記録を焼いた理由です。何かを守るためだったのか、それとも、誰かを消すためだったのか」

「守るのと消すのは、同じ手つきになることがある」

「そんな言い方で納得できると思いますか」

「納得しなくていい。納得して帰れるようなことなら、こんなところまで来る必要はないからね」

トキの声に、初めて疲れとは違うものが混じった。怒りなのか、哀れみなのか、判別できない。私はその曖昧さを嫌った。曖昧な説明は、欠落した記録と同じだ。誰かが意図して残した空白であり、こちらが埋めなければ、空白の形だけが事実になる。

「白露堂はどこですか」

トキはしばらく裁縫箱の底を見ていた。

やがて、底板を指で押した。

板がわずかに浮き、下から折り畳まれた紙が出てきた。古い村地図だった。紙は柔らかく、何度も濡れて乾いた跡がある。トキはそれを畳の上に広げた。

地図の中央には、山と集落の線が残っていた。

その端に、白露堂の文字がある。

けれど、トキは名前を口にしなかった。

指だけが、地図の上をゆっくり動いた。集落の外れから、細い道を下り、石垣の脇を通り、中央の四角形で止まる。

私は自分の地図を重ねた。

線が一致した。

「ここですね」

「……そこへは行かない方がいい」

「理由を聞かせてください」

「理由を言えば、行かないで済むと思うかい」

「少なくとも判断はできます」

「判断するのは、いつも見た後だよ。見てしまってから、見なければよかったと言う。けれど、見る前には誰も、自分が戻れなくなるとは思わない」

「私は戻れます」

「そう言う人ほど、戻る道を見失う」

トキは地図の上から指を離した。指先に紙の黒ずみが移っている。

「昔、あそこへ死者が運ばれた。布をかぶせて、顔だけを出して。中で髪を整え、襟を合わせ、名前を書いた。名前を書いた者もいたし、書かなかった者もいた。写した者もいたし、写さなかった者もいた。けれど、写さなかったから消えたわけじゃない。見なかったことにしたものは、別のところへ残る」

「写真の中に?」

トキの視線が、初めて私の顔の近くまで上がった。

正面からは見ない。目の少し下を見ている。

「写真の中かもしれない。人の記憶の中かもしれない。家の中に置かれたままの空の椅子かもしれない。私には分からない。分からないから、名前を呼ばないようにしてきた」

その言葉のあと、家の奥で何かが落ちた。

小さな金属音だった。

トキの手が止まる。

私は音のした方を見た。廊下の先に、閉じた襖がある。その隙間から、湿った空気が流れてきた。薬草の匂いに混じって、あの匂いがした。

現像液。

「今の音は」

「古い家だからね」

「見に行っても?」

「だめだよ」

短い言葉だった。けれど、今度は逃げ道のない声だった。

私は立ち上がらなかった。トキも動かなかった。互いの間に置かれた地図だけが、畳の上で湿気を吸っている。

やがてトキは、地図を折り始めた。折り目は古く、決められた場所にしか戻らない。私はそれを見ながら、祖父の帳面を思い出した。ページの端を折ってから、何かを隠す。残すために、見えなくする。

「白露堂へ行くなら、昼のうちにしなさい」

トキは地図を私へ渡さず、裁縫箱の底へ戻した。

「夕方になると、あそこは道の形が変わる」

「建物が動くんですか」

「建物は動かない。歩く人の方が、戻る場所を間違えるのさ」

「あなたは、私に行くなと言っているんですか。それとも、行くなら昼にしろと言っているんですか」

トキはしばらく黙り、手ぬぐいの端を折り畳んだ。

「どちらもだよ。若い人は、止められると確かめたくなる。私もそうだった。だから、止める言葉だけでは足りない」

それは警告というより、諦めに近かった。

私は撮影帳を鞄へ戻した。白手袋を外し、指先を親指で擦る。薬品に触れていないはずなのに、皮膚にぬめりが残っている気がした。

戸口まで行くと、トキが背後から呼んだ。

「澪さん」

振り返る。

トキは私を見ず、土間の端に置かれた古い写真を裏返していた。写真の縁は焼け焦げ、中央だけが残っている。顔は見えない。

「白露堂の前では、誰もが見ないふりを覚えた」

「何を、ですか」

トキの指が写真の焼けた縁を撫でた。

「自分が見たものを」

その先は続かなかった。

私は外へ出た。霧は来たときより濃くなっていた。杉林の奥に、道がある。トキが地図の上でなぞった線と同じ方向に、濡れた石が並んでいる。

背中に、戸を閉める音が聞こえた。

一度。

それから、もう一度。

私は振り返らずに歩き出した。

霧の中では、足元の石だけが白く浮かんでいた。道の先に何があるのかは、まだ見えない。けれど、見えないからこそ、私は進めた。

空白は、そこに何かがあったという証拠だ。

だから私は、白露堂へ向かった。

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地図から消えた村 - 朱濡れの廊下 - 誰でも作家life