第1話 焼けた頁の手触り

祖父の遺品は、都内の貸家の六畳間に集められていた。
窓を閉めていると、外の音はほとんど届かない。隣家の給湯器が一度だけ唸り、遠くを走る車のタイヤが濡れた路面を擦った。それ以外は、古い畳が湿気を吸う音さえ聞こえそうな静けさだった。
私は机の上に新聞紙を敷き、段ボールから品物をひとつずつ取り出していた。祖父、篠宮宗一の遺品整理を始めて三日目になる。
本、写真機、乾板用の木箱、書きかけの葉書。どれも祖父らしく、使い終えたものまで捨てずに残されていた。箱の蓋を開ける前には必ず手を洗う。物を置くときは、左右の端を揃える。祖父の家で覚えた習慣が、今では私の仕事の手順にもなっている。
ただし、祖父自身は、肝心なものを残さなかった。
そのことが、ずっと引っかかっていた。
机の右端に金属製の定規を置き、左側に手帳と赤鉛筆を揃える。中央に木箱を置いた。蓋は湿気でわずかに膨らみ、蝶番の片方が浮いている。指をかけると、乾いた木の音がした。
箱の中から、紙と埃の匂いが立ち上った。
その下に、黒ずんだフィルムケースがあった。蓋の縁に白い粉がこびりつき、表面には爪で引っかいたような細い傷が何本も走っている。さらにその奥から、焦げた紙片が現れた。
看板札の破片だった。
白い塗料の下に、墨で書かれた文字が残っている。
白露堂。
私はその四文字を、声に出さず読んだ。
祖父の生前、家の中でその名を聞いたことは一度もなかった。久良瀬という地名も、祖父が村の写真を撮っていたという話も、誰からも聞かされていない。それなのに、破片はまるで最初から私の手に渡ることを決められていたように、木箱の底に沈んでいた。
私は白手袋をはめてから、札の縁を指でなぞった。
焦げた部分は硬く、けれど脆かった。爪を少し立てれば剥がれそうなのに、指の腹で触れると湿り気が返ってくる。火に焼かれた紙は乾いているはずなのに、その破片には、生き物の皮膚に似た温度があった。
文字の途切れたところを何度もなぞる。
白露堂。
指先の下で、失われたはずの文字がまだ呼吸している気がした。
「捨てないで」
不意に、祖父の声を思い出した。
幼い頃、書庫で古い写真帳をめくっていた私に、祖父はそう言ったことがある。何を捨ててはいけないのかと尋ねると、祖父は写真帳から目を上げずに答えた。
「写っているものを捨てると、写っていないものまで消える」
意味は分からなかった。祖父はいつも、分からないことを分からないまま渡してくる人だった。説明の代わりに道具を手渡し、答えの代わりに空白を残す。私が追及すると、しばらく黙ってから、困ったように笑った。
「澪は、見つけるまでやめないからな」
その言い方には、誇らしさと諦めが混じっていた。
私は看板札を机の隅に置き、撮影帳を開いた。
黒い革表紙は乾いてひび割れている。表紙の裏には、祖父の筆跡で日付と湿度が記されていた。紙の状態、綴じ糸の種類、補修に使った糊の配合まで書かれている。中身を読む前から、祖父がこの帳面をどれほど几帳面に扱っていたかが分かった。
日付。
天候。
気温。
湿度。
撮影場所。
使用したレンズ。
露光時間。
現像液の濃度。
欄外には、乾板を洗った水の温度まで記されていた。
私はページの角を揃え、赤鉛筆で番号を振った。すでに番号がある頁にも、念のため自分の記録を重ねる。仕事で資料を扱うとき、私は同じメモを三度取る。一度目は見た事実、二度目は推測、三度目は推測を事実と混同していないかの確認だ。
祖父の帳面にも、その癖が残っていた。
だが、四十七頁と四十八頁の間だけが不自然だった。
紙の一部が薄く焼け落ちている。
破り取ったのではない。頁の中央から縁へ向かって、火が舐めたように変色していた。焦げ跡は円形ではなく、細長く歪んでいる。火を近づけて消したのではない。誰かが頁を開いたまま、特定の箇所だけに熱を当てたように見えた。
私は定規を当て、焼損した範囲を測った。
縦六・二センチ。
横三・八センチ。
紙の厚みは他の頁と変わらない。裏側には黒い煤が残っているが、文字の影はほとんど読めなかった。
ほとんど。
私は机のライトを消し、窓際へ帳面を持っていった。午後の光は薄く、曇った空を通って白く散っている。頁を斜めに傾けると、焼け跡の奥に、墨の滲みがいくつか浮いた。
「撮影……」
そこまでは読めた。
続く文字は潰れていた。焦げた紙繊維の間に、黒い線が一本だけ残っている。私は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。見間違いではないか確かめるため、もう一度同じ角度から頁を見た。
線は、文字ではなかった。
誰かが書いたものではなく、文字の一部だけが残ったものだった。
私は赤鉛筆で頁の端に印を付けた。写真を撮り、拡大し、紙の裏表を確認する。焦げた部分の形を手帳に写し、焼損の中心がどこにあったかを推定する。
確かめるほど、空白が広がっていくように感じた。
頁から文字が失われたのではない。
文字のあった場所だけが、こちら側から切り離されている。
私は手を止めた。
白紙を見ることには慣れている。欠落した公文書、綴じ順を誤った帳簿、破損した古写真。そこに何があったかを推定するのが私の仕事だ。失われたものは、痕跡からある程度まで戻せる。紙縁の形、インクの沈み、前後の文章、同じ筆跡の癖。記録は完全ではなくても、周囲に残ったものがある限り、近づくことはできる。
けれど、この空白は違った。
見ているうちに、空白の方から見返されている気がした。
私は頁を閉じた。
そのとき、廊下で木が鳴った。
家のどこかが湿気で軋んだだけだろう。そう思いながら、私は顔を上げた。貸家には私しかいない。玄関の鍵も、窓の留め金も確認してある。
音は続かなかった。
しばらく待ってから、私はまた帳面を開いた。
焼けた頁の向かい側には、祖父の文字で一行だけ記されていた。
――白露堂、葬送記録、第一撮影。
日付はなかった。
その一行の下には、何も書かれていない。祖父がよく使った、文章の終わりに残す微妙な余白でもない。書こうとしてやめたのではなく、そこから先を記すこと自体を避けたような空き方だった。
私は看板札の破片を見た。
白露堂。
さっきまで読めていた文字が、少し違って見えた。
「白露」という言葉を、私は知っている。草木に降りた露。朝の光を受けて消えるもの。けれど札に残された文字は、露というより、乾板を洗う水の冷たさを思わせた。指先に残る薬品のぬめり。暗室の赤い灯り。湿った紙が皮膚に貼りつく感覚。
記憶にはないはずの匂いが、喉の奥に蘇った。
現像液の匂い。
私は手袋を外し、親指の腹を人差し指で擦った。何かに触れた覚えはないのに、指が汚れている気がした。
夕方になっても、作業を終える気にはなれなかった。
木箱の底から、薄い手帳を見つけた。表紙は布張りで、角が擦り切れている。頁の間には祖母の写真が一枚だけ挟まっていた。
祖母は若い頃の姿で写っていた。
写真の裏には日付がある。私が生まれるよりずっと前の日付だった。祖母は白いブラウスを着て、庭先の椅子に座っている。隣には祖父が立っていたが、顔の半分が光で飛んでいる。二人の間には、不自然な空白があった。
私はその写真を机の上に置き、撮影帳の焼損した頁と並べた。
空白の幅が似ていると思った。
もちろん、根拠はない。写真の空白と頁の焼け跡を比べること自体に意味はない。にもかかわらず、私は定規を取り出して測った。
祖母の肩と祖父の腕の間。
三・七センチ。
焼け落ちた頁の横幅。
三・八センチ。
数字が一致したところで、何の証明にもならない。私はそう考えた。そう考えながら、手帳の写真を裏返した。
裏面には、祖父の筆跡で短く書かれていた。
――この人を、澪には見せない。
息が止まった。
意味が分からなかった。
私は写真の表を見た。若い祖母の顔は、穏やかに微笑んでいる。記憶の中の祖母は、もっと年老いていた。手の甲に薄い染みがあり、冬になると関節を痛がった。私が小学生の頃、祖母は写真を撮られるのを嫌がった。
「写真は、あとから勝手に人を連れてくるからね」
そう言って、顔を背けた。
当時は冗談だと思っていた。
けれど、今になってその声を思い出そうとすると、途中で途切れる。祖母が何を着ていたのか、どこに座っていたのか、最後に何を話したのか。記憶の中にあるはずの場面が、焼けた頁のように欠けている。
私は目を閉じた。
暗い部屋の中に、赤い光が浮かんだ。
誰かが立っている。
喪服の襟元。濡れた髪。白く曇った顔。
顔だけが、思い出せない。
目を開けると、写真の中の祖母がこちらを見ていた。
当然、写真の中の視線は動かない。そう理解しているのに、私は写真を伏せることができなかった。祖母の隣の空白に、誰かがいたような気がする。その人物を消したのは祖父なのか、それとも私の記憶なのか、判断がつかなかった。
撮影帳を閉じ、手帳も閉じる。
それでも、空白は机の上に残っていた。
私は看板札の破片を手のひらに載せた。焦げた縁が皮膚に触れ、細かな粉が指紋の溝へ入り込む。捨てるべきだと思った。祖父の遺品として保存するなら、袋に入れて番号を振り、保管場所を決めればいい。仕事としてはそれで終わる。
だが、捨てることも、箱に戻すこともできなかった。
祖父は私に、何かを見せたかったのだろうか。
それとも、見せないために残したのだろうか。
私は撮影帳をもう一度開いた。焼けた頁の縁を指でなぞる。紙はざらついていた。乾いているのに、そこだけが冷たい。指先を離したあとも、その感触が皮膚に貼りついている。
夜が深くなった。
窓の外で、雨が降り始めた。細い雨音が屋根を均していく。私は机の上の品物を片づけず、そのまま明かりを消した。
暗闇の中で、現像液の匂いがした。
家には、そんなものはない。
それでも確かに、薬品の苦い匂いが喉へ入り込んできた。湿った紙の匂いと混ざり、どこか遠い場所の暗室を思わせた。
私は眠れず、何度も祖父のメモを読み返した。
白露堂、葬送記録、第一撮影。
記録の空白を埋めるために、私はこれまで何度も資料の欠損を追ってきた。失われた頁があるなら、前後を照合し、別の帳簿を探し、残された人の証言を集める。見なかったことにすれば、欠落はそのまま事実になる。
祖父が何を焼いたのか。
なぜ祖母の写真に、あの言葉を書いたのか。
そして、白露堂とは何なのか。
問いは増えていった。
答えがないことより、答えへ近づく手がかりだけが残されていることの方が、私には耐え難かった。空白は、そこに何かがあったという証拠だ。ならば、見つけなければならない。
翌朝、私は仕事用の手帳に三行だけ書いた。
久良瀬。
白露堂。
宗一の空白を確認する。
書き終えてから、赤鉛筆の先を紙の上で止めた。
最後の一行を消し、書き直した。
久良瀬へ行く。
その文字の下に、祖父の看板札の破片を置いた。焦げた紙の匂いが、雨上がりの部屋に細く漂っていた。
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