第9話 梁の向こうの空洞

穴を塞ぐと言った私に、澪は何も答えなかった。

ただ、腕をつかんだ手を離さなかった。庭の土はまだ湿り、朝の光が竹藪の葉先を白く照らしているのに、私たちの立つ場所だけが、夜の続きのように冷えている。穴の奥で水滴がひとつ膨らんだまま、落ちずにいる。

私はスコップを板の脇に立てかけ、物置から古いベニヤ板を何枚か運んだ。穴を完全に塞ぐことはできない。だが、崩れないように支え、夜まで猶予を作ることはできる。板を並べ、木片を打ち込み、土を軽く被せる。手を動かしているあいだだけは、何も考えずに済んだ。

「これで、今夜までは持つ」

「今夜までって、何が起きるの」

澪の問いに、私は答えられなかった。

家の中へ戻ると、昼の光にもかかわらず廊下は暗かった。祖母の部屋の襖は閉じたままで、下の隙間に浮いた二つの名は、乾くどころかさらに黒く沈んでいる。透、澪。並んだ文字の間から、まだ水気が滲み出ているように見えた。

私は懐中電灯を持ち、脚立を運んだ。

屋根裏へ上がるのは、これで何度目か分からない。だが、これまでとは違う。井戸の下に空洞を見つけた今、天井裏の音がどこから来て、どこへ向かっているのか、もう推測ではなく確信として分かりかけていた。

蓋を開けると、昼間の熱がこもった空気が顔に落ちてきた。埃と古い木の匂い。その奥に、庭で嗅いだのと同じ、湿った泥の臭いが混じっている。

私は脚立を上り、梁の間へ身を入れた。

光を向ける。乾いた木肌。積もった埃。だが、昨日までと違う場所があった。梁の継ぎ目のひとつ、家の中心に近い柱の付け根が、妙に黒く艶を帯びている。

指先で触れた。

冷たい。

畳に膝をついたときの感触と同じだった。表面は乾いているように見えるのに、触れた瞬間だけ、皮膚の下へ冷えが流れ込んでくる。水が染み込んでいるのではない。水そのものがそこにあるのでもない。まるで、冷たさだけが木の形を借りて、そこに居座っているようだった。

私は懐中電灯を消さずに、梁に沿って指を滑らせた。

乾いている。

冷たい。

乾いている。

また冷たい。

乾いた部分と艶を帯びた部分が、規則正しく交互に現れる。それは木材の劣化のムラではなかった。何かが、この梁の上を一定の間隔で通った跡のように思えた。

「床下の換気が悪いだけだ」

声に出して、私は自分へ言い聞かせようとした。

「夏場の結露だ。木造家屋なら、どこかに必ず湿気が溜まる場所がある。井戸を埋めたことで、地中の水分の逃げ道が変わった。それが梁まで上がってきている。説明はつく」

説明はついた。

だが、説明がついたところで、冷えは消えなかった。

私は梁をたどって奥へ進んだ。身をかがめ、埃を吸い込まないよう息を浅くする。天井裏の端、家の北西の角に近づくにつれ、空気の重さが増していく。庭で掘った空洞の方角だ。メジャーで測った角度が、頭の中で線を描く。井戸の跡から、北西へ四十度。その延長線上に、今、私がいる場所があった。

懐中電灯の光が、梁の継ぎ目の奥で止まった。

そこに、隙間があった。

屋根裏の床板と、家の構造材のあいだに、人の腕が一本入るほどの隙間がある。普段は気づかない場所だった。埃に覆われ、古い断熱材の切れ端が垂れ下がり、奥は完全な暗闇になっている。

私はその隙間に光を向けた。

光は、奥で吸い込まれるように消えた。

反射するものが何もない。壁もない。ただ、どこまでも暗い空間が続いているようだった。

冷たい風が、隙間から吹き出してきた。

頬に当たる空気は、夏の屋根裏の熱気とは異質だった。湿り気を帯び、土と水の混じった臭いがする。井戸の底から上がってくる匂いと同じだった。

私は隙間に顔を近づけた。

ぽた。

音が、すぐ近くで鳴った。

反射的に体を引く。だが、好奇心か、それとも確かめずにはいられない衝動か、私はもう一度顔を寄せた。

奥から、かすかな光が見えた。

懐中電灯の光ではない。もっと弱く、青白い、水面に映る月明かりのような光だった。それは揺れている。小さく、ゆっくりと、何かの呼吸に合わせるように。

「透」

名を呼ぶ声が、隙間の奥から聞こえた。

祖母の声でも、澪の声でもなかった。

低く、くぐもった、水の底から響くような声だった。

私は懐中電灯を握る手に力を込めた。返事をしてはいけないという、いとの忠告が耳の奥で反響する。だが、返事をしなくても、名を呼ばれたという事実だけが、私の中に重く沈んでいった。

隙間の奥で、何かが動いた。

重さが伝わってくる。梁が軋み、天井板がわずかに沈む。私は身を引き、脚立の方へ後退した。板の上を這うように進むあいだも、背後から視線のようなものを感じ続けた。

階下へ降りると、澪が脚立の下で待っていた。

「どうだった」

「隙間がある。天井裏の奥、家の北西の角に」

「庭の空洞と、つながってる?」

「方角は一致する」

澪は私の顔を見た。

「お兄ちゃんの顔、真っ青だよ」

「気のせいだ」

「気のせいって言葉、もう何回使った?」

私は答えなかった。

澪は祖母の部屋の方を見た。襖はまだ閉じている。濡れた文字は乾かないまま、畳の奥へ沈み続けている。

「お兄ちゃん、私、さっき考えてたことがあるの」

澪が言った。

「梁の上で音がする。畳が冷える。柱が濡れる。でも、それって本当に“何かが移動している音”なのかな」

「違うのか」

「違うと思う」

澪は机の端を指さした。そこには、昨日拭いても取れなかった薄い水の跡がまだ残っていた。乾いた布で何度擦っても、同じ輪郭のまま浮かび上がる跡。

「これ、ただの湿気の跡じゃない。同じ場所に、同じ形で残り続けてる。普通の水滴なら、乾けば消えるか、少なくとも輪郭がぼやける。でも、これは違う。まるで――」

澪は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

「まるで、そこに“水のあった場所”が記憶されているみたいに見える」

「記憶」

「音も同じなんじゃないかな。梁の上を何かが歩いているんじゃなくて、梁そのものが、昔ここを何かが通った記憶を、今になって再生している。だとしたら――」

澪はそこで言葉を止めた。

私は彼女の視線の先を追った。祖母の部屋の襖。その向こうにある、井戸帳と家譜。削られた名前。空白の行。

「だとしたら、何だ」

「音は、近づいてきているんじゃなくて」

澪の声が、わずかに震えた。

「思い出されようとしている、ってこと」

その言葉が、家の中の空気をさらに重くしたように感じた。

私は机の脇に落ちていた祖母の裁縫ばさみを手に取った。澪が昨日、箱へ戻そうとしていたものだった。刃を開くと、まだ刃先に細い黒糸が絡んでいる。赤い糸ではない。艶のない、沈んだ色の糸だった。

「これ、何の糸だ」

「分からない。裁縫箱の中の糸とは違う色」

私は刃先の糸を指でつまもうとした。触れた瞬間、指先に強い冷えが走った。畳や柱に触れたときと同じ感触だった。だが今度は、冷えだけではなかった。

微かに、何かの重みを感じた。

糸一本のはずなのに、指先に伝わってくるのは、もっと長く、もっと重いものの端だった。まるで、この糸の先に、見えない何かがまだ繋がっているような感覚だった。

私は手を離した。

鋏が机の上へ落ち、乾いた音を立てる。

その音に呼応するように、天井裏で梁が軋んだ。

ぎい。

ぎい。

音は北西の隙間の方角から、こちらへ向かって近づいてくる。一歩ずつ、確かめるような足取りで。

澪が私の袖をつかんだ。

「逃げよう」

「どこへ」

「分からない。でも、ここにいたら――」

言葉の途中で、天井板がわずかに沈んだ。私たちの頭の真上だった。

私は天井を見上げた。

当然、何も見えない。古い木目と、電灯の弱い光が作る影があるだけだ。だが、その影の向こうに、何かが潜んでいるという確信だけは、もう拭えなかった。

「澪」

「何」

「お前が見つけた井戸帳の最後の頁、もう一度見せてくれ」

澪は一瞬ためらってから、布袋から手帳を取り出した。最後の頁を開く。そこには、祖母の筆跡で書かれた短い一行があった。

――まだ、足りない。

その下に、書き足そうとして止まった跡。

そして、濡れた文字で浮かんだ、私の名前。

「足りないのは、何だと思う」

私は訊いた。

澪は頁を見つめたまま、しばらく黙っていた。

「供え物」

「物は、帳面に全部書いてある」

「物じゃない」

澪は顔を上げた。

「榊原の婆さんが言ってたでしょう。差し出したのは物じゃない、物に名前をつけて、名前を呼ばないようにしたって。供え物は目印で、本当に差し出していたのは――」

「名前」

「うん」

私は天井を見た。梁の軋みは止まっていた。だが、止まったことが、かえって不気味だった。いとの言葉を思い出す。音が止まったときだけ、もっと近くにいる。

「井戸は、名前を受け取る場所だった」

私は自分の考えを声にした。

「供え物を落とすのは、形式だ。本当の約束は、誰かの名前を家の記録から消して、井戸に――いや、井戸の向こうにある何かに、渡すことだった」

「渡して、どうするの」

「分からない。だが、渡し続ける限り、家は何かと引き換えに守られてきた。祖母の代まで、それは続いていた」

「お祖母ちゃんが死んで、途切れた」

「俺が、埋めた」

言葉にした瞬間、喉の奥が痛んだ。

供物を落とす場所を、私は土で塞いだ。約束を交わす窓口を、理屈と合理性で閉じてしまった。約束が途切れたのではない。約束を破ったのだ。

澪は手帳を閉じた。

「お兄ちゃんのせいじゃないよ」

「慰めなくていい」

「慰めてない。本当にそう思ってる。お兄ちゃんが悪いんじゃなくて、こんな約束を何代も続けてきたこと自体が、おかしかったんだよ。でも――」

澪は一度言葉を切り、私をまっすぐに見た。

「終わらせ方を間違えた。それは事実」

その静かな物言いが、かえって私の中の何かを揺さぶった。

「じゃあ、どう終わらせればよかった」

「分からない。でも、少なくとも、何も知らないまま、確認もせずに埋めるべきじゃなかった」

「祖母は俺に何も教えなかった」

「教えなかったんじゃなくて、お兄ちゃんが聞かなかったんだと思う」

その言葉は、榊原の婆の言葉と同じだった。

教えなかったんじゃない。教えれば、お前さんが聞くからじゃ。

私は目を閉じた。瞼の裏に、幼いころの光景が浮かぶ。井戸の縁に腰をかけようとした私の手首を、強い力で引き戻した祖母。理由を尋ねた私に、答えなかった祖母。あれは、拒絶ではなかったのかもしれない。

教えれば、私がその意味を背負うことになる。教えなければ、私はただの迷信として忘れていける。祖母は、どちらを選んでも私を危うくすることを知っていて、それでも黙ることを選んだ。

それが正しかったのかどうか、今となっては分からない。

天井裏で、再び音がした。

ぽた。

今度は、ひとつだけだった。

長い沈黙のあと、二つ目が落ちる。

ぽた。

間隔が、昨夜よりもさらに短い。

「お兄ちゃん」

澪の声が、わずかに掠れていた。

「もし、あの空洞の先に、本当に何かがいるなら。それは、井戸に落とされた誰かの――名前そのものなのかな」

私はすぐには答えなかった。

空白の家譜。削られた井戸帳。濡れて浮かんだ、私と澪の名前。供物の目印の下に隠された、本当の差し出しもの。それらすべてが示す先に、ひとつの輪郭が見えかけていた。

「名前だけが、井戸に落とされた」

私は言った。

「身体がどうなったのかは分からない。でも、家の記録から消された名前は、どこにも行き場がないまま、井戸の底に――いや、家の底に、溜まり続けていたんだと思う」

「溜まり続けて」

「埋めたことで、外へ出る場所を失った」

「だから、家の中へ」

澪が、私の言葉を継いだ。

「家の中へ、上がってきた」

天井裏の音が、また近づいてくる。

ぎい。

ぎい。

梁の上を渡る重みが、祖母の部屋の真上を通り過ぎ、廊下の方角へ移動していく。私たちのいる場所から、少しずつ離れていくようにも、少しずつ囲い込むようにも感じられた。

私は懐中電灯を握り直した。

「澪、もう一度訊く。名前を消された人たちは、誰だったと思う」

澪は少し考えてから、井戸帳を開いた。削られた行の端、わずかに残った墨の溝を指でなぞる。

「分からない。でも、きっと――」

澪は言葉を止め、頁をめくった。最後から二枚目の頁に、これまで気づかなかった小さな記述があった。かすれた字で、日付と一緒に、こう書かれていた。

――生まれてすぐ、戻す。

その下に、消された名前の跡がある。

私は息を止めた。

「生まれてすぐ、戻す」

声に出すと、言葉の意味が重さを増した。

「生まれた子供を、そのまま井戸へ――名前ごと消して、渡していたのか」

「全部の代でじゃないと思う。でも、家の繁栄のために、何かを差し出す必要があったとき――たぶん、一番差し出しやすかったのが」

澪の声が、初めてはっきりと震えた。

「生まれたばかりの子の、名前だった」

その瞬間、祖母の部屋から大きな音がした。

どん。

何かが畳に倒れ込むような音。

続いて、はっきりと、幼い子供の泣き声が聞こえた。

私と澪は同時に襖を見た。

泣き声は、生まれて間もない赤子のものだった。か細く、途切れがちで、けれど確かに、人の子の泣き声だった。

「これは」

「お兄ちゃん、開けないで」

澪が私の腕を強くつかんだ。

「でも、子供が――」

「子供なんていない。この家に、赤ん坊はいない。今、ここにいるのは私たちだけ」

澪の声は震えていたが、同時に強かった。

「これは、戻ってきた名前が、生まれたときの声を真似てるだけ。開けたら――」

言葉の途中で、泣き声が止まった。

代わりに、祖母の声がした。

「透。澪。戻してちょうだい」

優しい声だった。

生前の祖母がよく使っていた、穏やかな口調だった。だが、その優しさが、かえって肌を粟立たせた。

「何を戻すんだ」

私は、襖に向かって問いかけてしまった。

答えるなといういとの忠告を、頭では覚えていた。だが、身体が先に動いた。

襖の向こうで、しばらく沈黙があった。

それから、祖母の声が、ゆっくりと答えた。

「あなたたちの、名前」

背筋が凍った。

澪が私の手を強く握った。

「お兄ちゃん、今、分かった」

「何が」

「井戸帳に、お兄ちゃんの名前が浮かんだ理由。家譜に、消されたはずの名前の下に、お兄ちゃんの生まれた年が書かれていた理由」

澪は手帳を抱きしめた。

「お兄ちゃんも、本当は、差し出されるはずだったんだよ。生まれてすぐ。でも――」

「でも、何だ」

「お祖母ちゃんが、止めたんだと思う」

その言葉が、すべての歯車を噛み合わせた。

祖母が井戸のことを語らなかった理由。井戸の縁から私を引き戻した強い力。私に何も教えず、ただ沈黙によって守ろうとした、あの頑なな態度。

祖母は、私を井戸から守るために、代わりの何かを差し出し続けていたのかもしれない。だから家の慣習は、祖母の代で終わらなかった。終わらせられなかった。終わらせれば、守っていたものが解けてしまうからだ。

そして、祖母が死に、私が合理性という名の刃で井戸を塞いだとき、その守りも同時に断たれた。

天井裏で、重みが祖母の部屋の真上に戻ってきた。

梁が軋み、天井板がたわむ。埃がぱらぱらと畳へ降る。

ぽた、ぽた、ぽた。

間隔はもう、ほとんどなくなっていた。

「澪、逃げろ」

「お兄ちゃんは」

「俺も行く。だが、先に外へ」

澪は一瞬ためらったが、井戸帳を胸に抱えたまま廊下を走り出した。私はその背中を見送り、最後にもう一度、祖母の部屋の襖を見た。

濡れた二つの名前は、まだそこにあった。

透。澪。

その文字の上に、新しい一滴が落ちた。

ぽた。

輪が広がり、名前の輪郭をわずかに滲ませる。消えるのではない。むしろ、濃くなっていく。

私は踵を返し、廊下を走った。玄関へ向かう途中、背後で襖が開く音がした。

振り返らなかった。

振り返れば、そこに何があるのか、確かめることになる。確かめれば、それを受け入れることになる。

庭へ出ると、朝の光が目を刺した。蝉が鳴いている。竹藪が揺れ、用水路の水が何事もなく流れている。その明るさと、家の中の暗さの落差に、私は一瞬めまいを覚えた。

澪が縁側の先で、私を待っていた。

「お兄ちゃん」

「無事か」

「うん。お兄ちゃんは」

私は答える代わりに、家を振り返った。

屋根の下、軒先の暗がりに、何かが動いた気がした。目を凝らしても、そこには古い梁と、夏の影があるだけだった。だが、その影の濃さが、昨日までとは違って見えた。

家全体が、ひとつの大きな井戸になったようだった。

庭に空いていた穴は、入口にすぎなかった。家そのものが、底へ向かって開いている。屋根も、柱も、畳も、梁も、すべてが水を湛えた暗がりへ続く通路になっていた。

「もう、埋め直しても意味がないかもしれない」

私は呟いた。

「埋めても、家そのものが底になっているなら」

澪は何も言わず、私の隣に立った。

蝉の声が、いつもより遠く聞こえた。

家の奥、天井裏のどこかで、水音がまだ続いていた。

ぽた。

ぽた。

音は、もう近づいてこなかった。

近づく必要が、なくなったからだった。

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