第8話 庭を掘る音

榊原の婆が帰ったあとも、私はしばらく庭へ出られなかった。
祖母の部屋の襖の下には、濡れた文字が残っていた。透。澪。畳に浮かんだ二つの名は、水が乾けば消えるはずなのに、時間が経つほど濃くなっていった。指で触れたわけでもないのに、線の周囲だけが黒ずみ、畳の目の奥へ沈んでいる。
その文字を見ていると、家の中にいること自体が、誰かの名前を一つ預かっているように思えた。
私は襖から離れ、廊下の端に置いたスコップを見た。
庭を掘る。
そう決めたのは、逃げるためではなかった。井戸帳に何が書かれていようと、家譜にどれだけ空白があろうと、土の下に空洞があるなら、まずそれを確認しなければならない。構造が分かれば、対処できる。家の基礎に食い込んでいるなら、補強する。地下水が回っているなら排水する。古い井戸の側壁が崩れているなら、危険箇所を取り除く。
まだ、作業として扱える。
そう思わなければ、スコップを持つこともできなかった。
澪は祖母の部屋の前に座り、井戸帳を膝の上で閉じていた。榊原の婆が帰ってから、一度もページを開いていない。
「掘るの?」
澪が訊いた。
「確認するだけだ」
「確認したら、埋め戻すの?」
「必要なら」
「今度は、何を入れるの」
私は返事をしなかった。
澪は私の手元を見た。庭仕事用の軍手、懐中電灯、メジャー、古い家鍵。私はそれらを廊下に並べ、使う順番に揃えていた。軍手は左右の縫い目を合わせ、懐中電灯は電池を入れ直し、メジャーの先端を二度伸ばして戻す。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「掘るなら、私も行く」
「家にいろ」
「嫌」
「危険だから言っている」
「危険な場所へ一人で行く人が、私に危険だと言っても説得力がないよ」
「足手まといになる」
「記録を取る。土の層も、出てきた物も、位置も書く。お兄ちゃんが見つけたものを、また湿気や老朽化で片づけないように」
私は顎の内側へ指を触れた。
澪は立ち上がり、井戸帳を布袋へ入れた。袋の口を赤い糸で縛る。糸を結ぶ指は落ち着いていたが、結び目を締めるときだけ、わずかに力が入った。
「家を守ると言っていたな」
「言った?」
「前に」
「覚えているんだ」
「忘れていない」
「なら、一人で終わらせないで」
澪の声は静かだった。責めるよりも、頼むことを選んでいる声だった。
私は窓の外を見た。
庭は、夏の朝が始まる前の色をしていた。山の稜線はまだ薄暗く、竹藪は黒い塊になっている。蝉の声は止んでいた。あれほど昼間に騒がしかったものが、夜明け前には一匹も鳴かない。
用水路の水だけが流れていた。
けれど、その音も途中で途切れている。
水は流れている。音だけが、庭の手前で消えていた。
私はスコップを取り上げた。
庭へ出ると、湿った空気が背中へ張りついた。夜の間に冷えたはずなのに、肌へ触れる空気はぬるく、シャツの布地を重くする。埋めた井戸の跡へ近づくにつれ、足の裏から冷えが上がってきた。
土は、昨夜より沈んでいた。
円形に均した表面の中央が、浅い皿のように窪んでいる。誰かが踏み込んだ跡はない。風に吹かれた形でもない。周囲の土は固く乾いているのに、中央だけが指で押せば崩れそうに柔らかかった。
澪が隣に立ち、ノートを開いた。
「沈下、中央部。昨日の記録から四センチ」
「圧密だ」
「前に三センチって言ってなかった?」
「測る位置が違った」
「位置を揃えて測ったの?」
「今から揃える」
「そういうところだよ」
澪はノートへ書き込み、ペン先を止めた。
「何が」
「答えを先に用意して、数字を合わせようとするところ」
私はスコップの刃を土へ当てた。
「土は嘘をつかない」
「人が嘘をつかせることはある」
刃を押し込む。
柔らかい。
昨日、鍬で何度も叩き、足で踏み固めたはずの土が、抵抗なく裂けた。乾いた表面の下から黒い湿りが現れ、泥の臭いが立ち上がる。腐った木と、長く閉じた井戸の底に溜まった空気を混ぜたような匂いだった。
私はスコップを抜き、掘り出した土を脇へ寄せた。
一度。
二度。
三度。
土を崩すたび、穴は深くなった。表面から十センチほど下に、埋め戻しに使った砂利の層がある。その下には粘土質の土。さらにその下に、黒い泥が続いていた。
澪は層ごとに記録していく。
「砂利。粘土。黒土。水分多め」
「水脈が近い」
「この庭の下に水脈があるなら、昔から水が抜けなかった説明はつく」
「だから井戸を掘ったんだろう」
「それだけなら、どうして祖母は『水神さん』と呼んだのかな」
「昔の人は、地下水に名前をつけただけだ」
「名前をつけるだけなら、あんな顔はしないよ」
祖母が井戸を見たときの顔を思い出した。
子供のころ、私の手首をつかんだ指。濡れ布巾で何度も拭かれた手。理由を問うた私に、祖母は答えなかった。あの沈黙は、単なる迷信深さから来たものではなかったのかもしれない。
私はスコップを強く押し込んだ。
刃先が何かに当たった。
硬い音ではない。金属でも石でもない。薄い板を撫でるような、湿った擦れ方だった。
私は手を止めた。
穴の中から、かすかな空気が吹き上がっている。
頬に触れる風ではなかった。冷気だけが、皮膚の表面を這っていく。首筋から背中へ流れ込み、シャツの内側に溜まった汗を一度に冷やした。
澪がノートから顔を上げる。
「今、風が出た?」
「土の中の空気だ」
「風向きが下から上だね」
「空洞がある」
私は周囲の土を慎重に崩した。スコップを深く入れると、刃の先から土が滑り落ちていく。落ちた土の音が、すぐには返ってこない。
私は懐中電灯を取り出し、穴の中へ向けた。
光は黒い泥の表面で途切れた。底があるように見える。だが、光を少し右へ振ると、泥の向こうに細い隙間があった。
土の壁の内部へ、横向きに伸びている。
私は手で周囲を掘った。軍手越しに、湿った土が指へまとわりつく。柔らかいのに、妙に重い。掴んだ土が崩れず、ひとかたまりのまま指先へ張りついた。
「お兄ちゃん、無理に広げないで」
「中を見ないと分からない」
「崩れたら埋まる」
「だから支える」
私は物置から古い板を運び、穴の縁へ渡した。板の角度を調整し、周囲の土が落ちないよう木片を差し込む。作業をしているあいだだけは、頭の中が静かだった。板を置く。木片を打つ。位置を測る。手順がある限り、恐怖は名前を持たない。
澪は穴の脇で私の手元を見ていた。
「それ、祖母が使っていた板だよ」
「物置にあった」
「昔、同じように掘ったことがあるのかもしれない」
「誰が」
「祖母が」
「何のために」
「分からない。でも、板の端に印がある」
澪は泥のついた板の側面を指した。鉛筆でつけたような線が、等間隔に並んでいる。高さを測った印か、土の沈みを記録した印か。線の横に小さな数字が書かれていた。
私はそれを見つめた。
三十六。
四十。
四十二。
数字は途中で途切れている。最後の線だけ、深く削られていた。
「祖母は、この場所を知っていた」
澪が言った。
「家の修繕で使っただけかもしれない」
「だったら、どうして印が内側へ向いているの」
私は板を裏返した。
印は、庭へ向けてつけられていなかった。穴の内部を測るため、土の壁へ向けて刻まれている。まるで、地面の下にある何かの深さを測っていたようだった。
穴の奥から、音がした。
ぽた。
私たちは同時に顔を上げた。
水滴は落ちていない。
それでも、音は穴の中から上がってきた。
私は懐中電灯を隙間へ近づけた。光が、土の壁の奥を少しだけ照らす。そこに石組みはなかった。井戸の円形を支える石も、古い木枠もない。
代わりに、黒い木が横へ伸びていた。
柱のような木組みだった。
土の中へ埋まった梁。表面は腐っているはずなのに、濡れた艶を帯びている。木の目は家の柱と同じ方向を向いていた。
澪が息を呑んだ。
「木組み……?」
「古い支えだろう」
「庭の地下に?」
「井戸の側壁を支えていたのかもしれない」
「横に伸びているよ」
私は光を動かした。
木組みは穴の奥へ続いていた。直線ではない。土に押されてわずかに曲がりながら、それでも明らかに庭の下を横断している。
その先に、黒い空間があった。
私は懐中電灯を持ったまま、穴の口を広げた。
土が崩れ、黒い木の周囲から細かな泥が落ちる。落ちた土は、下へ消えた。音がない。受け止める場所がないように、ただ暗がりへ吸われていく。
「透」
澪が私の名を呼んだ。
私は手を止めた。
名を呼ばれただけなのに、穴の奥で何かが返事をしたように聞こえた。遠くから、息を吸う音。低く、湿った音だった。
私は澪を見る。
彼女は口を閉じている。
「今、呼んだ?」
「呼んだよ」
「もう一度」
澪は首を振った。
「一度しか呼んでない」
穴の奥から、また水音がした。
ぽた。
私は懐中電灯をさらに差し入れた。
黒い木組みの奥に、細長い空洞が伸びている。人が這えば進めるほどの幅ではない。だが、空洞の形は自然にできたものではなかった。土壁の両側に木が組まれ、上部にも梁が渡されている。古い通路のようだった。
通路の天井は、家の床下へ向かって傾斜している。
私は家の位置を頭の中で思い浮かべた。庭の井戸は、母屋から離れている。けれど、この空洞は母屋の基礎の下へ向かって伸びていた。方向を確認するため、私はメジャーを取り出し、穴の縁から木組みの角度を測った。
北西へ四十度。
母屋の中心とほぼ一致する。
「家の下へ続いてる」
澪が言った。
「そう見えるだけだ」
「測ったでしょう」
「地盤の傾きかもしれない」
「木組みが?」
私は返事をしなかった。
穴の中へ冷気が吸い込まれていく。庭の空気が地面へ落ちているようだった。懐中電灯の光が揺れ、木組みの奥で細い水滴が光った。
一滴。
落ちない。
木の上に留まったまま、丸く膨らんでいる。
私は棒を差し込み、水滴を払おうとした。
棒の先が木へ触れる。
その瞬間、家の中から大きな音がした。
どん、と床板を踏む音。
澪が振り返る。
庭から見える廊下の奥、祖母の部屋の襖が閉まっている。誰かが中から歩いたようだった。
「澪、家の中を見てこい」
「嫌」
「澪」
「一人で戻すつもりでしょう」
「何を言っている」
「私を家の中へ戻して、井戸の奥へ一人で入るつもりだった」
私は棒を握ったまま、彼女を見た。
「中へ入れるほど広くない」
「それでも、見に行くでしょう」
「原因を確認する必要がある」
「その言葉、もう聞き飽きた」
澪は穴の中を覗き込み、湿った土の匂いに顔をしかめた。それでも視線を逸らさない。
「お兄ちゃんは、確認すれば戻れると思ってる。でも、ここは戻るための場所じゃないかもしれない」
「井戸の下に空洞がある。それを調べるだけだ」
「だったら、どうして私の名前が畳に出たの」
「湿気でそう見えた」
「どうして、私がここへ来る前から井戸帳にお兄ちゃんの名前が浮かんだの」
「紙の染みだ」
「どうして、今、私が名前を呼んだあとに、穴の中から返事があったの」
私は黙った。
澪の声は荒れていなかった。だからこそ、逃げ道がなかった。事実を一つずつ並べられると、私の説明はどれも薄い膜のように破れていく。
「ねえ、お兄ちゃん」
澪は私の手元を見た。
「家を守るって、壊れないようにすることだけじゃないよ。何かを壊したあとで、壊した場所から目を逸らさないことも、たぶん守るっていうんだと思う」
「俺が壊したと言いたいのか」
「そう言ってる」
私は棒を穴から抜いた。
先端に、黒い泥が絡んでいた。その泥の中に、白い欠片がひとつ混じっている。小さく、薄い。石のようにも見えたが、表面にわずかな湾曲があった。
私は指でつまもうとした。
澪の手が、私の手首をつかんだ。
「触らないで」
「骨かもしれない」
「だから」
「確認する」
「それが確認できても、どうするの」
「記録する。写真を撮る。必要なら警察か、専門家に連絡する」
「人の骨なら?」
「同じだ」
「違うよ」
澪は手を離さなかった。
「ここに誰かの骨があるなら、これはもう修繕の問題じゃない。家の昔話でもない。人が消された場所を、私たちが今、掘り返している」
「だから見つける必要がある」
「見つけたあと、誰がその人の名前を引き受けるの」
「家の記録に戻す」
「戻せば、終わるの?」
私は答えられなかった。
穴の奥から、冷たい空気が吹き上がった。白い欠片が泥の上でわずかに動く。風ではない。何かが下から押したように、ひどくゆっくりと傾いた。
ぽた。
水滴が落ちた。
木組みの上ではなく、私の手の甲へ。
私は手を引いた。
皮膚に水は残っていない。けれど、そこだけが急速に冷えた。水滴が染み込んだように、冷えが手首から腕へ上がってくる。
澪が私の手を見た。
「濡れてる?」
「見えない」
「でも、冷たい?」
私は返事をしなかった。
庭の向こうで、最初の蝉が鳴いた。
一匹だけだった。
その声に呼ばれるように、山の斜面から別の蝉が鳴き返す。けれど、家の中からは何も聞こえない。祖母の部屋も、廊下も、天井裏も、すべてが息を潜めている。
私は穴の奥へ懐中電灯を向けた。
空洞は、家の基礎の下へ続いていた。
木組みの一部に、見覚えのある傷がある。子供のころ、祖母の部屋の柱で見たものと同じ、斜めに三本入った傷だった。家の内側にある柱と、庭の下の通路が、同じ一つの構造としてつながっている。
私はようやく理解した。
井戸は、庭に開いた穴ではなかった。
家の下へ続く入口だった。
埋めたことで閉じたのではない。外から塞いだ土が、行き場を失った空洞を家の内側へ押し上げている。
私は穴の前から一歩退いた。
足元の土が、かすかに鳴った。
ず、と湿った音がした。
退いたはずの足の下に、地面がないような感触があった。
私は反射的に澪の腕をつかんだ。澪も私の袖をつかみ返す。子供のころ、祖母が私たちを井戸から遠ざけたときのように、二人の手が互いを引き止めていた。
穴の奥で、誰かが息をした。
遠い。
それなのに、耳のすぐそばだった。
「帰ろう」
澪が言った。
その声は、家へ戻るという意味にも、ここから離れるという意味にも聞こえた。
私はスコップを置かなかった。置けば、もう一度取りに来ることになる。道具を決まった場所へ戻すことは、作業を終えた合図だ。だが、まだ終わっていない。終わらせてはいけないものを、私はまた終わったことにしようとしている。
そう思った。
「先に行け」
「お兄ちゃんは?」
「穴を塞ぐ」
「今?」
「崩れたら危険だ」
「また一人で?」
私は穴の中を見た。
黒い木組みの奥で、水滴がもう一つ膨らんでいる。落ちる気配はない。ただ、何かを待つように、静かに重くなっていく。
「澪」
「何」
「この通路は、家の下へ続いている」
「分かってる」
「俺が中を確認する」
「駄目」
「必要だ」
「必要じゃない。必要だと思わせられているだけ」
私は澪の顔を見た。
彼女の頬にも、首筋にも汗は浮かんでいない。恐怖を押し隠しているのではなく、恐怖を抱えたまま考えることを選んでいる顔だった。
「それでも、確認する」
私がそう言うと、穴の奥から水音が返ってきた。
ぽた。
今度は、私の声で。
「それでも、確認する」
私は一歩、穴へ近づいた。
澪が腕をつかむ。
その手のひらが、ひどく冷たかった。
庭の向こうで蝉が鳴き続けている。朝の光が竹藪の葉先を白く照らし、用水路の水が何事もなかったように流れている。
その明るさの中で、私は自分の家の下に開いた暗がりを見ていた。
土を掘り返したのは、井戸ではなかった。
私が掘り返したのは、家が隠していた底だった。
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