第7話 濡れた文字

朝になっても、天井裏の音は止まらなかった。
蝉が鳴き始めるより早く、家の中で一滴が落ちた。畳には触れない。柱にも、机にも落ちない。ただ、音だけが私の胸の内側へ沈んでいく。
ぽた。
私は廊下の中央に座ったまま、祖母の部屋の襖を見ていた。
昨夜、澪の声を聞いてから、私は一度も名前を呼ばなかった。襖の向こうからは何の物音もしない。人がいる気配も、出ていく気配もない。けれど、いないと断定できるほど、家の中は静かではなかった。
静けさの底で、何かが息をしている。
私は手元の懐中電灯を点け、襖の下を照らした。細い隙間から見える畳は暗く、濡れてはいない。だが光を少し動かすと、畳の目の間に薄い艶が浮かんだ。
水ではない。
そう考えようとしたところで、襖の向こうから声がした。
「お兄ちゃん」
昨夜と同じ声だった。
私は返事をしなかった。
「もう、出ていいよ」
澪の声に聞こえる。抑揚も、息の継ぎ方も、子供のころから知っている妹のものと同じだった。
それでも、いとの言葉が耳の奥に残っていた。
――あなたの声を知っているものは、あなたの妹の声も知っています。
私は膝の上で手を握った。指先に、湿った冷えがあった。いつの間にか、懐中電灯の柄が濡れている。水滴は見えないのに、掌だけが冷たい。
「お兄ちゃん」
三度目の声がした。
今度は、襖の向こうではなかった。
私の背後、廊下の突き当たりから聞こえた。
私は振り返らなかった。
しばらくして、祖母の部屋の中で何かが床へ落ちた。紙を束ねたものが崩れたような音だった。続いて、低い呻きがする。
「透」
それは澪の声ではなかった。
祖母の声だった。
私は立ち上がりかけた。膝へ力が入った。振り返るなという忠告と、澪を確かめたいという衝動が、身体の中で別々の方向へ引き合った。
襖の向こうから、紙をめくる音がした。
一枚。
また一枚。
その音に混じって、かすかな水音がする。
ぽた。
私は懐中電灯を握り直した。
「お兄ちゃん。開けて」
今度の声は、はっきり澪のものだった。
私は返事をしなかった。襖にも触れなかった。ただ、廊下の端に置いてあった古い家鍵を手に取った。何かあったときに使えると思ったわけではない。手に持てるものが欲しかった。
すると襖の向こうで、澪が咳き込んだ。
一度。
二度。
乾いた咳ではない。湿った空気を肺から押し出すような、苦しい咳だった。
私はとうとう襖へ近づいた。
「澪」
声に出した瞬間、家の奥で水音が返った。
ぽた。
私は口を閉じた。
襖の向こうで、澪が息を呑む。
「今、呼んだ?」
声は本物に聞こえた。
私は襖の取っ手へ手を伸ばしかけた。だが、指先が触れる前に、襖の下から冷気が流れてきた。濡れた布を床へ広げたような湿気が、足首から膝へまとわりつく。
そして、襖の内側から、もう一つの声がした。
「透」
祖母でも、澪でもない。
私自身の声だった。
私は手を引いた。
その直後、玄関の方から竹箒を地面へ叩く音がした。
ぱん、と乾いた音が、家の奥まで届いた。
続いて、咳払い。
「返事をするなと言われたろうに」
榊原の婆の声だった。
私は振り返った。玄関の戸は閉じていた。いつ開いたのか分からない。土間に、榊原の婆が立っている。色の褪せた前掛けを締め、片手に竹箒、もう片方の手に古い布袋を持っていた。
八十を越えているはずなのに、背中は曲がっていない。だが、顔の皺は深く、朝の光を吸うように黒かった。
「どうやって入った」
「鍵が開いとった」
「閉めた」
「閉めたつもりじゃろ」
榊原の婆は私の足元を見た。濡れ跡はない。けれど、彼女は床板の一枚を避けるように歩き、縁側へ近づいた。
「久世の婆さんに会ったか」
「昨日、来ました」
「そうかい」
「知っていたんですか。あの人が来ることを」
「知っとったら、あんたに止めさせたかね。止められるものなら」
榊原の婆は縁側へ腰を下ろした。竹箒の柄を膝に立て、布袋から古い茶碗を取り出す。茶を持ってきたらしい。なぜここで茶を飲むのか、私には理解できなかった。
祖母の部屋の襖の向こうで、紙をめくる音が止まった。
榊原の婆はそちらを見た。
「妹は中か」
「分かりません」
「分からんのに、戸を開けんのか」
「開ければ、返事をしたことになる」
「ほう。少しは聞く耳が残っとる」
「からかわないでください。あなたたちは、知っていることを隠している。祖母も、久世いとも、あなたも。俺だけが何も知らないまま、井戸を埋めさせられた」
「埋めさせられた?」
榊原の婆は茶を注いだ。茶碗の縁から湯気は立たなかった。熱いはずなのに、茶の匂いがしない。
「自分で掘って、自分で土を入れて、自分で平らにしたんじゃろう」
「祖母の遺言があった」
「遺言があれば、何でもするのか」
「家を終わらせるために必要だった」
「家は終わらせるもんじゃない」
「終わらせなければ、誰かがずっと背負う」
「背負った者が、置いていけると思うかね」
婆は茶をすすった。喉を鳴らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
「家というのはな、建物のことじゃない。柱や畳なら、腐れば替えられる。壊せばなくなる。だが、置いていったものはなくならん。置いた場所が変わるだけじゃ」
「抽象的な話はやめてください」
「抽象にしたのは、あんたらの方じゃろ。水神さん、水場、供え、家の役目。名前をぼかして、分からんようにして、代わりに米や塩を置いた。品物だけ残して、人のことは忘れたふりをした」
「何の話です」
「井戸帳を見たんじゃろ」
私は祖母の部屋を見た。
襖の向こうで、また水音がした。
ぽた。
榊原の婆は茶碗を置き、指先で布袋の紐を弄んだ。
「品物の横に、名前があったはずじゃ」
「消されている」
「消えたんじゃない。消したんじゃ」
「誰が」
「書いた者が」
「なぜ」
「残せない名前だったから」
「死んだ人間の名前ですか」
婆はすぐに答えなかった。窓の外を見た。朝の光が庭へ広がり、埋めた井戸の跡だけが湿った色をしている。蝉が竹藪の向こうで鳴き、用水路の流れがその下を細く支えていた。
「死んだ者の名は、死んだと書けばいい」
「では、何が違う」
「死んでいない者の名は、死んだとも書けん」
私は喉の奥が固まるのを感じた。
「生きているのに、家譜から消したということですか」
「家に置けん者は、家譜から外す。そういう時代があった」
「家に置けない理由は?」
「理由を聞くほど、あんたはきれいな顔をしておらん」
「答えてください」
「声を荒げると、家の底へ届くよ」
私は口を閉じた。
榊原の婆は私の手元を見た。懐中電灯の柄から、見えない水が掌へ染み込んでいる。私は無意識にズボンの腿で手を拭った。
婆はそれを見て、鼻で小さく笑った。
「拭いても、乾かんだろう」
「濡れているわけじゃない」
「濡れていないものを、何度も拭く。あんたの祖母も、よくやった」
「祖母が?」
「夜中に梁を拭いとった。畳を剥いで、床下の土を掘って、濡れていない場所まで布で擦った。何をしているのか聞いたら、掃除だと言った。掃除をすれば、家が静かになると思っていたんじゃろ」
「実際には?」
「静かになったよ」
「なら、効果はあったんでしょう」
「静かになっただけじゃ。音がなくなったわけじゃない。聞く者の中へ沈んだ」
その言葉が、胸の奥へ重く落ちた。
祖母の家は、昔から静かだった。人がいないからではなく、音が余計に響かなかった。子供のころ、廊下を走っても足音が残らず、笑い声も座敷の奥へ入ると急に小さくなった。
私はそれを、古い木造家屋の性質だと思っていた。
「供え物は、何だったんです」
私は訊いた。
「米、塩、酒、布。帳面に書いてある通りです」
「それだけではないと、久世いとが言っていた」
「久世は、余計なことを言うようになったねえ」
「何を差し出した」
婆は茶碗を両手で包んだ。
「差し出したのは物じゃない。物に名前をつけて、名前を呼ばないようにした」
「意味が分からない」
「分からんでいい。分からんまま、守れることもある」
「俺はもう井戸を埋めた」
「だから、分からんままでは済まなくなったんじゃ」
「俺が壊したと言いたいんですか」
「壊したのは、あんただけじゃない。あんたの祖父も、その親も、ずっと少しずつ壊してきた。違うのは、あんたが最後に土を入れたことだけじゃ」
「祖母は知っていた。なのに、なぜ俺にやらせた」
「知っていたからじゃろ」
「わざと?」
「さあねえ」
婆は湯気のない茶をもう一度すすった。
「人は、誰かに背負わせるとき、知らないふりをするものじゃ。あんたの祖母は、あんたを守るために黙っていたのかもしれんし、自分の後を決めておきたかったのかもしれん。どちらも本当で、どちらも嘘じゃ」
「そんな言い方では何も分からない」
「分かる必要があるのかね」
「ある。俺は家を終わらせようとした。井戸を埋めた。水音が聞こえている。澪が中にいるかもしれない。俺の名前が帳面に浮かんだ。これで、何も分からないままにしておけると思いますか」
榊原の婆は初めて、私の顔を正面から見た。
「お前さんの名は、ずっと前から書かれとったよ」
背中に冷たいものが貼りついた。
「どこに」
「家譜に」
「そんな記録はない」
「消されとるからの」
「俺は生まれたときから、この家の者だった」
「だから消されたんじゃ」
「理由は」
婆は答えなかった。
その代わり、布袋から小さな紙片を取り出した。古い家譜の切れ端のようだった。端は湿気で波打ち、中央に薄い墨が残っている。
私は手を伸ばした。
婆は渡さなかった。
「見るだけにしな」
紙片を傾ける。墨はほとんど消えていたが、下から別の筆圧が浮かんでいた。古い文字の横に、後から書き足された細い字がある。
透。
その下に、日付。
私の生まれた年だった。
私は紙片から目を離せなかった。
「俺の名前が、どうしてこんなものに」
「家の子供は、家に戻すために書く」
「生まれた子供を、供え物にするんですか」
「そう急ぐな。言葉は一度口にすると、土より重くなる」
「あなたは、さっきから何も答えていない」
「答えを欲しがる者は、たいてい自分の聞きたい形にする。お前さんが欲しいのは、誰が悪かったかじゃろ。祖母か、家か、久世か、昔の連中か。自分以外の名前を並べて、最後に蓋をしたい」
「俺は責任を取ると言っている」
「責任と、始末は違う」
「同じです」
「違う。始末は、見えなくすること。責任は、見えたものを抱えたまま暮らすことじゃ」
婆の声が、家の中へゆっくり沈んでいった。
祖母の部屋の襖が、わずかに揺れた。
風はない。
襖の下から、濡れた空気が流れてくる。私は反射的に一歩下がった。
「澪は中にいるんですか」
「知らん」
「あなたまで、そんなことを」
「知らんものは知らん。だが、あれが妹の声で呼んでも、戸を開けるな」
「いとはそう言った」
「久世は見たことがあるから、そう言う。わしは聞いたことがあるから言う」
「何を」
婆は紙片を布袋へ戻した。
「家の中から、家の者の声がする夜をな」
私は黙って襖を見た。
「昔、誰かが返事をした」
榊原の婆は茶碗を両手で持ったまま、遠くを見るように続けた。
「声がしたから、戸を開けた。そこにいたものは、顔を持たなかった。顔がないのに、その人の声だけはした。だから、家の者はそれを家の者だと思った。思ったまま、手を引かれた」
「どこへ」
「下へ」
「井戸へ?」
「井戸に落ちたかどうかは、誰も見ていない。落ちたのは身体かもしれん。名前かもしれん。家譜から消えたのは、そういう者たちじゃ」
婆はそこで言葉を切った。
私は空白の頁を思い出した。供物の横にあった名前。削られた文字。死者ではなく、家の記録から外された者たち。
そして、最後の頁に浮かんだ自分の名。
「俺も、そこへ戻されると?」
「戻る場所がある者は、戻される」
「俺は戻らない」
「帰る場所を、自分で決められると思うかね」
「決める」
私は立ち上がった。足元の畳が冷えている。体重をかけるたび、畳の下に空洞があるように沈んだ。
「井戸を掘り返す。底を確認する。家の下に空洞があるなら、塞ぐ。記録に何が書かれていようと、現実に起きていることを処理する」
「また掘るのか」
「掘らなければ分からない」
「掘れば、もっと深くなる」
「それでも、放置はできない」
榊原の婆は、私の顔を見たまま、ゆっくり首を振った。
「お前さんは、祖母に似てきたねえ」
その言葉に、私は足を止めた。
「似ているのは、片づけ方だけです」
「そう思っとるうちは、まだ違う」
「何が違う」
「お前さんは、家を出たい。おばあさんは、家から出せないものを知っとった」
「祖母は俺に何も教えなかった」
「教えなかったんじゃない。教えれば、お前さんが聞くからじゃ」
「聞いたら何が起きる」
婆は答えなかった。
代わりに、祖母の部屋の中から、紙が一枚落ちる音がした。
ひらり、と畳へ触れる音。
その直後、はっきりと澪の声がした。
「お兄ちゃん。開けて」
今度は、悲鳴に近かった。
私は襖へ向かおうとした。
榊原の婆が、竹箒の柄で私の足元を叩いた。
ぱん。
「返事をするな」
「澪が助けを求めている」
「そう聞こえるだけかもしれん」
「中にいるかもしれない」
「いるかもしれん。いないかもしれん。どちらでも、名前を呼べば同じじゃ」
「あなたたちは、何もしないのか」
「何もしないんじゃない。何をしないかを決めとる」
「そんなものは、逃げです」
「逃げた者が、長く残ることもある」
私は婆を睨んだ。
襖の向こうから、澪の息遣いが聞こえる。苦しそうに、短く吸っている。私は歯を食いしばった。扉一枚の向こうに妹がいるのなら、開けるべきだ。確かめるべきだ。確認しなければ、何も始まらない。
だが、襖の下から流れてくる冷気は、澪のいる部屋から出ているものではなかった。
もっと下。
畳の下から、家の土台を通り、私の足元へ上がってきている。
そこにあるのは部屋ではなく、底だった。
私は手を伸ばさなかった。
「婆さん」
「何じゃ」
「消された名前は、誰のものですか」
「家に置けなかった者の名じゃ」
「それだけですか」
「それ以上を言うと、あんたの中で文字になる」
「文字になったら、何が悪い」
「読めるようになるからじゃ」
私は家譜の空白を思い出した。
紙の上から名前が消えているのに、そこだけが濡れたように浮き上がっていた。記録は消されていたのではない。読めない形に変えられていただけだ。空白は空白ではなく、声を押し込めた場所だった。
榊原の婆が立ち上がった。
「お茶はもういい」
「逃げるんですか」
「帰るんじゃ」
「何も教えずに?」
「教えたよ。お前さんが聞かなかっただけじゃ」
婆は玄関へ向かい、竹箒を肩へかけた。
「井戸へ落としたのは、米でも塩でもない。米や塩は、忘れないための目印じゃ。差し出したものは、名前だ。名前を呼ばずに、家の中から外へ移す。そうすれば、あれはしばらく静かになる」
「誰の名前を」
婆は戸口で足を止めた。
「一番、呼び戻したい名前を」
「それは誰です」
榊原の婆は振り返らなかった。
「まだ、濡れていない名前じゃろ」
戸が開いた。
外の光が土間へ流れ込む。蝉の声が一斉に押し寄せ、家の中の湿気を薄くした。
婆の背中が庭へ出る。
その瞬間、祖母の部屋から水音がした。
ぽた。
私は襖を見た。
下の隙間に、濡れた文字が浮かんでいた。
紙に書かれた文字ではない。畳の表面を濡らしながら、細い線がゆっくり形を作っていく。
最初の一画。
次の払い。
そして、私の名前。
透。
私は声を出さなかった。
文字の下に、もう一つの線が現れた。
澪。
二つの名前が、濡れた畳の上で並んだ。
その間から、暗い水が一滴だけ滲み出る。
ぽた。
私は襖へ手を伸ばしかけた。
だが、私の背後から、澪の声がした。
「お兄ちゃん、そこにいる?」
私は振り返れなかった。
襖の向こうにも、背後にも、同じ声がある。
そして天井裏で、誰かがゆっくり息を吸った。
家の中の空気が、底へ向かって沈んでいく。
私は二つの名前を見たまま、初めて、家の輪郭が歪んだのではないと知った。
歪んでいたのは、私の方だった。
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