第6話 黒い日傘の訪問

夕方、門の外で砂利を踏む音がした。

蝉の声はまだ途切れていなかった。屋根瓦の上から降り注ぐように鳴き続け、竹藪の奥では用水路が細く流れている。けれど、縁側に座っていた私は、その足音だけをはっきり聞き取った。

ひとつ。

間を置いて、もうひとつ。

それから、音がなくなった。

私は顔を上げた。

門の脇に、黒い日傘が立っていた。

傘の下から、白い襟元がのぞいている。濃紺の単衣に白い足袋。七十を越えているはずなのに、背筋は曲がっていなかった。日傘の柄を細い指で握り、こちらを見ている。

久世いと。

名前だけは知っていた。集落のはずれに住む老女で、祖母とは昔から付き合いがあったらしい。葬儀のときにも姿を見かけたが、誰かと話しているところは見なかった。焼香を済ませると、黒い傘を開き、他の弔問客より先に帰っていった。

私は立ち上がり、縁側から庭へ下りた。

日が傾き、庭の土が赤く染まっている。埋め戻した井戸の跡だけは、周囲より色が濃かった。昼に測ったときより、中央がまた少し沈んでいる。

いとは門をくぐると、庭の方へ歩いた。

私の方ではない。

埋めた井戸の方でもない。

家を見た。

屋根を見上げ、軒の下を見て、最後に二階のないこの家の梁の位置を確かめるように、暗い庇の奥へ視線を止めた。

その瞬間、私は喉の奥が乾くのを感じた。

「何か用ですか」

声をかけると、いとはすぐに返事をしなかった。日傘の柄を親指でなぞりながら、屋根の下の暗がりを見ている。

「おばあさまの葬儀のことで」

「それなら、もう済みました」

「ええ。済んだことになっています」

いとは私の手元へ視線を落とした。

右手には、濡れた藁縄を包んでいた新聞紙があった。処分するつもりで持ち出したものの、用水路へ捨てることもできず、縁側の隅へ置いていた。新聞紙の端には、黒い泥の跡が広がっている。

いとはそれを見たあと、私の指先を見た。

「まだ、埋まりきっておりません」

声は低く、聞き取りにくいほど静かだった。

私は新聞紙を見下ろした。

「埋めたのは昨日です。土は何層にも分けて入れた。最後は鍬で均して、周囲と高さも揃えた。今朝、少し沈んでいたから、自然沈下を確認するために掘り返しかけたところです」

「掘り返したのですか」

「確認しただけです」

「土は、確認されるのを嫌います」

「土に意思はありません」

「そうでしょうね。土には」

いとはそこで言葉を切った。

蝉の声が、頭上から一斉に落ちてきた。音の密度が増し、屋根の上に何か重いものが乗ったように感じる。私は聞き間違いだと考えようとしたが、耳の奥では別の音が続いていた。

ぽた。

家の中からだった。

いとも聞いたはずだ。彼女の顔がわずかに動いた。だが、こちらを見ようとはしなかった。

「家の中で水漏れが起きています」

私は言った。

「屋根裏を調べましたが、濡れた箇所はない。湿気が床下から回っている可能性が高い。古い家ですから、井戸を埋めたことで水の逃げ場が変わったのかもしれない」

「逃げ場をなくしたのは、あなたでしょう」

「だから原因を調べている」

「調べることと、触ることは違います」

「触らなければ直せない」

「直す?」

いとは初めて私の顔を見た。

その目には、同情も驚きもなかった。ただ、こちらが何を言うか、どこまで言えるかを測っているような冷たさがあった。

「何を直すおつもりですか。屋根ですか。床ですか。それとも、埋めた場所の形ですか」

「全部です。必要なら床板を外す。排水の道を作る。業者も呼ぶ。家を放置するつもりはない」

「放置ではありません」

「では何です」

「順番を間違えているのです」

私は苛立ちを抑えながら、濡れた新聞紙を拾い上げた。紙がふやけて、指の腹へ貼りつく。いとはそれを見て、ほんの少し眉を動かした。

「その縄は、どこで見つけました」

「屋根裏です」

「屋根裏にあったものではありません」

「なぜ分かる」

「濡れ方が違います」

「濡れ方?」

「雨に濡れたものは、外側から乾きます。井戸の中にあったものは、乾いたふりをして、内側に水を残す。あなたの手は、その縄に触れたでしょう」

私は返事をしなかった。

「触れていないなら、そう言えばよいのです」

「軍手を使った。直接は触っていない」

「軍手は、どこへ置きました」

「洗って流しの脇に置いた。今はない」

いとは日傘の柄を握り直した。黒い傘の骨が、夕暮れの空を細く切っている。

「戻ったのですね」

「何が」

「戻すところへ戻った」

その言葉に、祖母の声が重なった。

戻すところへ戻しなさい。

私は反射的に、家の中を見た。縁側の先、廊下の暗がり、祖母の部屋の襖。どこにも軍手は見えない。けれど、あの箱の上に置かれていた泥まみれの軍手を思い出した。左右を揃え、角まできれいに並べられていた。

「祖母が何をしていたか、あなたは知っているんですか」

私は問うた。

いとはすぐには答えなかった。視線だけを庭へ移す。夕方の風が竹藪を撫で、葉が擦れ合った。乾いた音ではない。湿ったもの同士が、ゆっくり肌を合わせるような音だった。

「知っていることはあります」

「なら、教えてください」

「あなたは、聞いたことをすぐ片づけるでしょう」

「曖昧なままにしておく方が危険です」

「そう思う人は多い。だから、土を掘る。蓋を開ける。名を呼ぶ。呼んだものが返事をするまで」

「脅しているんですか」

「脅しなら、もっと分かりやすくします」

いとは縁側へ近づいた。家の中へ入る素振りはない。敷居の手前で足を止め、足元を見た。そこには湿りも、水滴もない。だが、彼女は何かを避けるように、わずかに右へ足をずらした。

「この家に入らないんですか」

「今日は入りません」

「理由は?」

「家の中に、まだあなた以外のものがいるからです」

風が止まった。

蝉の声が遠のいたわけではない。耳の周囲だけ、厚い布で覆われたように音が消えた。

私は縁側から廊下を見た。祖母の部屋の襖は閉じている。澪が置いた井戸帳は、部屋の机の上にあるはずだった。昨日から、帳面には触れていない。

「人の話ですか」

「人の話に聞こえますか」

「幽霊だとか、そういう話なら、帰ってください」

「帰るのはあなたの方です」

「ここは私の家です」

「そう言う人ほど、家に帰されます」

いとの声に怒りはなかった。そのため、かえって言葉が皮膚の下へ入り込んできた。

私は土間へ上がり、彼女と向き合った。

「祖母は、俺に井戸を埋めろと書いた。人に頼むなとも書いた。あれが禁忌を破る指示なら、祖母は俺を殺すつもりだったんですか」

いとの指が、日傘の柄の上で止まった。

「おばあさまは、あなたに家を任せたのです」

「任せたなら、理由を書けばいい」

「理由を書いた紙は、あなたが捨てたのでしょう」

「そんなものはない」

「ないと決めたのは、誰ですか」

私は言葉を失った。

祖母の部屋の机。日付だけが並んだメモ帳。削られた名前。濡れた遺言。私はそれらを一つずつ見てきた。見て、分類し、原因をつけようとしてきた。意味の分からないものは保留箱へ入れ、箱に入らないものは湿気や老朽化のせいにした。

いとは私の沈黙を見ていた。

「埋めるのが終わりだと思うのは、人の都合です」

「では、何が終わっていない」

「終わっていないのではありません。続いているのです」

「何が」

「水を閉じる役目です」

その言葉だけが、妙に明瞭に聞こえた。

水を閉じる。

私は庭の井戸跡を見た。土の中央は夕暮れの光を吸い、黒く沈んでいる。あの下に水があるのか。あるいは、古い空洞が残っているのか。土木的な説明ならできる。だが、いとの口から出た言葉は、設備の話ではなかった。

「役目なんて、祖母が勝手に背負っていただけでしょう」

「勝手に?」

「家の者が、昔からそうしてきた。それだけだ。今の時代に、そんなものを続ける必要はない」

「必要があるかどうかで、土地の記憶は動きません」

「記憶は動かない」

「では、なぜ音が場所を変えるのです」

家の奥で、また水音がした。

ぽた。

今度は天井裏ではなかった。

私たちのすぐ上、軒下の梁のあたりで鳴った。

いとは見上げなかった。見ないことで、そこに何かがあると認めているようだった。私は懐中電灯を取ろうとして、手を止めた。昼間なのに、軒下の暗がりだけが夜のように深い。

「聞こえたでしょう」

「木が鳴っただけです」

「そうやって、家を静かにしてきたのですね」

「何を言っている」

「音がしても、風だと言う。濡れていても、結露だと言う。名前が消えていても、書き損じだと言う。そうすれば家は、しばらく黙ってくれる」

「祖母もそうしていた?」

「おばあさまは、黙らせていたのではありません。聞こえないふりをして、聞き続けていたのです」

「それで何を守れた」

いとは口を閉じた。

問いを投げたあとで、私は自分の声に混じった焦りを聞いた。守る。祖母が何を守ったのか。家か、土地か、私や澪か。それとも、守っているように見せて、別の何かを養っていたのか。

いとはしばらく庭を見ていた。

「守れたものもあります」

「何です」

「あなたが、昨日まで井戸をただの穴だと思えていたことです」

胸の奥が冷えた。

祖母の沈黙は、私たちを迷信から遠ざけたのではなかった。見えないものを見ないまま生きられるように、家の中で何かを抑え続けていたのかもしれない。

それを、私は埋めた。

「なら、どうすればいい」

自分でも意外なほど、声が低くなっていた。

いとは私の顔ではなく、足元を見た。私の右足の前、土間の板に細い濡れ跡が伸びていた。水滴の形はない。けれど、板の木目がそこだけ黒く沈んでいる。

私は見覚えがなかった。

いとは一歩、後ろへ退いた。

「まず、今夜は音を追わないことです」

「音を追わなければ、家の中で何が起きても放置することになる」

「追えば、音の方へ行くことになります」

「原因を確かめる必要がある」

「原因を確かめた者は、原因の一部になります」

「そんな言い方では何も分からない」

「分かろうとする手つきが、いちばん危ないときもあります」

「では、何をしろと言うんですか。黙って座っていろと?」

いとは黒い日傘を少し傾けた。

「名前を呼ばないこと。返事をしないこと。家の中のものを、元の場所へ戻さないこと」

最後の言葉だけが、異様に耳へ残った。

「戻さない?」

「戻したものは、戻ったのではありません。戻されたのです」

いとはそれ以上、言葉を継がなかった。

私は庭へ目を向けた。井戸跡の中央に、小さな窪みがある。そこから水が湧いているようには見えない。けれど、あの土の下に何かがいるという感覚だけは、もう理屈で押し戻せなかった。

「あなたは、祖母のことを知っていた」

私は言った。

「どこまで知っている」

いとの顔から、初めてわずかに色が引いた。

「知っていることは、知らないことより少ないものです」

「逃げるな」

「逃げているのは、あなたでしょう」

「俺はここにいる」

「体は」

いとは軒下の暗がりを見た。

「体は、まだ」

その瞬間、家の中で大きな音がした。

ぽた、ではない。

梁の上を、重いものが一歩ずつ進む音だった。

ぎい。

ぎい。

古い木がたわみ、天井裏の板が沈む。音は祖母の部屋の上から廊下へ移り、こちらへ近づいてくる。私は反射的に屋内へ踏み出した。

いとの手が、私の腕をつかんだ。

細い指だった。けれど、祖母が子供の私を井戸から引き戻したときと同じ強さがあった。

「追わないで」

「澪が中にいる」

「妹さんはどこです」

「祖母の部屋だ」

「なら、名前を呼ばないで」

「何を言っている」

「返事が返ってきても、あなたの妹とは限りません」

腕を振りほどこうとした。

そのとき、祖母の部屋の方から澪の声がした。

「お兄ちゃん」

はっきりした声だった。

私は動きを止めた。

「お兄ちゃん、来て」

いとは私の腕を離さない。

声はもう一度、同じ調子で呼んだ。

「早く。濡れてる」

私は祖母の部屋を見た。襖は閉じている。澪はそこにいるはずだ。井戸帳を持っている。何かを見つけたのかもしれない。助けを求めているのかもしれない。

いとの指が、私の腕へ食い込んだ。

「返事をしてはいけません」

「澪かもしれない」

「あなたの声を知っているものは、あなたの妹の声も知っています」

「それでも確認する」

「確認して、違っていたら、あなたは何を片づけるのです」

声が三度目に響いた。

「お兄ちゃん」

今度は、私のすぐ背後から聞こえた。

息が首筋に触れた。

濡れた空気がシャツの内側へ入り込み、背中の皮膚に張りつく。耳のそばで、誰かが水の底から息を吐いたような音がした。

いとは目を閉じた。

私は振り返れなかった。

足元の土間に、濡れ跡が一本伸びている。私の背後から、祖母の部屋の襖まで。水滴も足跡もない。ただ、冷えた手のひらで撫でられたような黒い線だった。

いとは私の腕を引いた。

「外へ出ます」

「澪を置いていけない」

「今、家の中にいる澪を、あなたは見たのですか」

私は答えられなかった。

声はもうしなかった。

代わりに、天井裏で何かがゆっくり伏せる音がした。梁の重みが家全体へ伝わり、畳がわずかに沈む。軒下の暗がりから、冷たい気配が降りてくる。

いとは敷居をまたぎ、庭へ出た。

そのとき、彼女の白い足袋が、何もない場所を避けるように止まった。

そこには水たまりも、泥もない。

ただ、空気だけが濡れていた。

いとは黒い日傘を開いた。傘の布が夕暮れの光を遮り、彼女の顔が影の中へ沈む。

「今夜、戸を閉めても、二度は押さないでください」

「何だって?」

「音が止まらないからといって、確かめてはいけません。止まったときだけ、もっと近くにいます」

いとは門へ向かって歩き出した。

私はその背中を追おうとしたが、祖母の部屋から、また水音がした。

ぽた。

家の中へ戻るべきか、外へ出るべきか、一瞬だけ判断が遅れた。

その間に、いとの姿は門の向こうへ消えていた。

黒い日傘だけが、竹藪の向こうの道をゆっくり進んでいく。足音はしない。蝉の声が戻ってきたのに、彼女の歩く音だけがどこにもなかった。

私は縁側に立ち尽くし、家の中を見た。

祖母の部屋の襖は閉じている。

その下から、細い冷気が流れ出していた。

夜になってから、天井裏の水音は一段近くなった。

ぽた、ぽた、と落ちる間隔が短くなる。

やがて、それは滴りではなくなった。

梁の上を、誰かがゆっくり渡っている。

一歩。

止まる。

もう一歩。

私は廊下の中央に座り、懐中電灯を膝の上へ置いた。澪は祖母の部屋から出てこなかった。呼ぶことはできない。呼べば、返事が返ってくる。返事が澪のものかどうか、もう確かめる術がない。

梁の上で、重みが止まった。

私の頭の真上だった。

天井板が、わずかに沈む。

私は息を止めた。

頭上から、水が一滴落ちた。

畳には落ちない。

音だけが、私の胸の内側へ落ちた。

ぽた。

← 横にスクロールして読み進められます

黒い日傘の訪問 - 井戸の声 - 誰でも作家life