第5話 井戸帳の空白

止めたはずの私の呼吸が、廊下の先から返ってきた。
私はしばらく、濡れ跡の前で動けなかった。
返ってきた音は、息というより、暗い場所から押し出された空気のようだった。ひゅう、と細く鳴ったあと、家の奥へ吸い込まれていく。私は耳を澄ました。もう一度返ってくるかと思ったが、何も起きなかった。
澪は背後に立ったまま、私の肩越しに廊下を見ていた。
「今の、聞こえた?」
「聞こえた」
「何だったと思う」
「床下の空気だ」
「そう」
澪は否定しなかった。否定しないことが、かえって私を苛立たせた。
「何か言いたいなら言え」
「言っても、お兄ちゃんは床下の空気にするでしょう」
「原因が分からない以上、可能性を並べるしかない」
「可能性を並べることと、ひとつに決めてしまうことは違うよ」
澪は足元の濡れ跡へ視線を落とした。細い筋は寝間の戸口へ伸び、そこで途切れている。水滴の跡も、足跡もない。けれど、そこを通ったものが何もなかったとは思えなかった。
澪は鞄からノートを取り出した。薄い灰色の表紙に、細字のペンで日付を書き込む。
「何をしている」
「記録」
「今さら?」
「今だから。見たものを、見た順番のまま残しておくの。あとで怖くなったとき、記憶は都合よく形を変えるから」
「記憶なんて、最初から正確じゃない」
「だから紙に置くの」
澪はしゃがみ込み、濡れ跡の脇へペン先を近づけた。直接触れず、線の長さと幅を測る。私が家の中で使っていたメジャーを持ってくると、澪は黙って受け取った。
「百二十七センチ」
「水の跡なら、乾くまでの時間が短すぎる」
「水だとは言ってない」
「じゃあ何だ」
澪はメジャーを畳み、私へ返した。
「残った跡」
その言葉が、廊下の湿気より重く胸に沈んだ。
私は返事をせず、祖母の部屋へ戻った。澪もついてくる。部屋の中央には、さっき開けた箪笥の引き出しが並べられていた。私なら中身を一度箱へ移し、空になった引き出しを重ねて処分の段取りを作る。澪は逆に、出した物を元の位置へ戻していた。ただし、戻し方は祖母のやり方と少し違った。布袋の口を上へ向け、裁縫ばさみの刃を閉じ、赤い糸を切れ端のないよう巻き直している。
「そこまで戻すなら、出さなければいい」
「出さないと、見つからないものがある」
「何を探している」
澪は一番下の引き出しを見た。
「まだ分からない」
「分からないものを探しているのか」
「分からないから探すの」
澪は祖母の裁縫ばさみを手に取った。古い鋏は黒くくすみ、持ち手の内側に布の繊維が絡んでいる。澪は刃を開き、光に透かした。刃先の片方に、赤い糸ではない細い黒糸が付着していた。
「それ、昨日からあったか」
「知らない」
「祖母の部屋にあったものなら、普通だろう」
「普通なら、どうして刃先だけ濡れているの」
澪が指で示した。
鋏の刃先に、小さな雫がついていた。水滴は落ちず、丸く張りついている。澪は布袋から白い布を取り出し、刃を拭った。布には何もつかなかった。雫も消えた。
だが、刃の根元に細い水の筋が残った。
それは刃の合わせ目から、ゆっくり持ち手の方へ伸びていった。
私は鋏を取り上げた。
「貸せ」
「触らないで」
「ただの結露だ」
「お兄ちゃんは、触れば分かると思ってる」
「触らなければ、何も判断できない」
「触ってきたから、今こうなってるんでしょう」
澪の声は低かった。責める調子ではない。ただ、事実を置くように言った。
私は鋏を握ったまま、彼女を見た。
「俺が悪いと言いたいのか」
「そういう話をしていない」
「井戸を埋めたことか。祖母の部屋を片づけたことか。家を売るつもりでいることか。どれを責めている」
「全部、少しずつ違う。井戸を埋めたことだけなら、まだ作業の間違いで済むかもしれない。でも、お兄ちゃんはこの家にあるものを、理由を確かめる前に終わらせようとしている。祖母の遺言も、井戸も、記録も、家族の記憶も。見たくないものを同じ箱に入れて、蓋を閉めれば消えると思ってる」
「消えないなら、どうしろと言う」
「残すの」
「何を」
「分からないものを、分からないまま残す」
私は笑いそうになった。だが、喉が乾いて音にならなかった。
「それは責任を放棄しているだけだ」
「違う。分からないものに勝手な名前をつけないための責任だよ。怖いからって、原因を地下水にしてしまう。迷信が嫌だから、古い記録を管理不良にしてしまう。そうやって見えなくすることが、本当に片づけることなの?」
「家は、見えるものだけでできている」
「だったら、どうして今、見えないものに追われているの」
答えられなかった。
手の中の鋏が冷えていく。祖母が長年使った道具の重さが、刃先から腕へゆっくり沈み込んでくる。私はそれを机へ戻した。角度を合わせ、持ち手を右へ向ける。戻し方だけは、祖母がしていた通りにした。
澪は何も言わず、箪笥の最下段へ手を入れた。
引き出しの底板は、昨日より浮いていた。湿気で反ったのではない。板と側面の間に、黒い隙間ができている。澪は細いペン先を差し込み、ゆっくり持ち上げた。
底板の裏から、薄い手帳が出てきた。
表紙に題名はない。布で包まれていたらしく、角だけが白く擦れている。澪はすぐには開かなかった。まず匂いを嗅ぎ、表紙を指先でなぞり、紙の厚みを確かめる。
「それが井戸帳か」
「たぶん」
「昨日の手帳とは違うのか」
「昨日のは祖母の生活記録。これは、もっと古い」
澪は表紙を開いた。
最初の頁には、日付と品名が並んでいた。
米、ひとつかみ。
塩、小皿一杯。
酒、徳利半分。
白布、一尺。
古釘、三本。
油紙、二枚。
品名の横に、細い線が引かれている。その下には名前らしい文字があった。しかし、ほとんどが削られていた。墨で塗り潰したのではない。紙の表面を何度も擦り、文字の形そのものを消している。
澪はペンで頁の端を示した。
「この字、祖母のものじゃない」
「古い家の帳面なら、書いた人間が違って当然だ」
「そこじゃない。日付の書き方が違う。最初の人は月日を縦に書く。途中から横書きになる。けれど、削った跡は同じ人の手だと思う」
「どうして分かる」
「削り方が一定だから。文字の上だけじゃなく、紙の繊維まで同じ方向に潰れている。強く消したかったのに、破らないよう力を加減している」
「名前を消したかったなら、破ればいい」
「破れない理由があったんでしょう」
澪の指が、削られた頁の端で止まった。
「記録そのものは残さなければならなかった。でも、名前だけは残せなかった」
私は頁を覗き込んだ。
薄い溝の底に、文字の一部が残っている。最初の一画。次の頁には、別の文字の払い。さらにその次には、同じ位置に小さな点がある。
「同じ名前か」
「全部ではない。でも、いくつかは同じ人の名かもしれない」
「家族か」
「家譜を見ないと分からない」
澪は手帳を閉じ、部屋の隅に置かれた裁縫箱へ向かった。蓋を開けると、糸巻き、針山、折れた針、古い布袋が整然と収まっている。赤い糸だけが、他の物から少し離れていた。
澪はそれを取り出し、糸巻きの下へ指を入れた。
薄い紙が折り畳まれている。
開くと、古い家譜の写しだった。
私は後ろから覗いた。塚越家の名が、墨の濃淡を変えながら連なっている。祖父母の代、その前の代。生年、婚姻、死去。だが何人かの名前だけが、途中で消えていた。名前の欄が空白になり、その下の年月日だけが残されている。
澪は井戸帳を家譜の脇へ置いた。
「順番が同じ」
「何の」
「空白の順番」
彼女はノートへ書き込んだ。
井戸帳――削除された名前。
家譜――欠落した名前。
日付――供え物の記録。
「この人たちは、死んだんだろう」
私は言った。
「家譜から名前が抜ける理由なら、それで説明できる」
「死んだ人の名前を、どうして削るの」
「家の記録から外したかった」
「死んだことをなかったことにしたかった?」
「家族なら、そういうこともある」
「お兄ちゃん、分かってない」
澪は家譜を私へ向けた。
「死んだ人を隠すなら、日付も消す。名前だけ消して、死んだ日だけ残す理由はない。これは人が死んだ記録じゃなくて、人が家から外された記録だよ」
「外された?」
「誰かが、この家の人間ではなくなった。あるいは、最初から人として扱われなかった」
部屋の中で、紙がかすかに鳴った。
風はない。
家譜の空白の上だけ、紙が波打っている。澪が押さえても、中央から細かな皺が広がっていった。湿気を吸った紙が変形しているだけだと考えようとしたが、皺の形は一定だった。
細い線が、空白の名前から井戸帳へ伸びていた。
私は立ち上がり、窓を開けた。
外の蝉時雨が一気に入り込んでくる。熱い風が顔へ当たり、濡れたシャツが肌に張りついた。庭の竹藪が揺れ、用水路の水が光を跳ね返している。外は明るく、音に満ちている。なのに、部屋の畳だけが冷たかった。
澪は家譜を閉じなかった。
「祖母は、これを私たちに見せたくなかったんだと思う」
「なら、どうして残した」
「残さなければ、全部なくなるから」
「なくなって困るのか」
「分からない。でも、残した人がいるなら、困ると思ったんでしょう」
澪は空白を指でなぞった。
「祖母は、隠していたんじゃなくて、覚えていたんだよ。名前を消すことで、誰かが読まないようにした。でも、帳面そのものは捨てなかった。書かれていることを忘れたかったわけじゃない。忘れないために、見えなくした」
「そんなのは矛盾している」
「人を守ることは、たぶん矛盾しているよ」
その言葉のあと、家の奥で水音がした。
ぽた。
私たちは同時に顔を上げた。
音は天井裏ではなかった。手帳のすぐそば、畳の上で鳴ったように聞こえた。私は懐中電灯を向ける。紙は濡れていない。家譜にも、井戸帳にも、水滴は落ちていない。
ただ、削られた空白のひとつに、薄い文字が浮かんでいた。
読めるほど濃くはない。
それでも、私には見えた。
澪がペンを取り、文字の形を追う。
「何て書いてある」
「まだ読めない」
「見えているだろ」
「見えたから、読めるとは限らない」
「名前じゃないのか」
澪はしばらく黙り、紙を光へ傾けた。
「……透に似てる」
喉の奥が冷えた。
「似ているだけだ」
「そうかもしれない」
「俺の名前が書かれていたとしても、後から誰かが書いたんだろう」
「誰が?」
答えは出なかった。
澪は家譜を布袋へ戻し、井戸帳を閉じた。閉じる直前、最後の頁に挟まっていた小さな紙片が畳へ落ちる。
紙片には、祖母の字で一行だけ書かれていた。
――名を呼ばず、ただ戻すこと。
澪がそれを拾い上げる。
「これ、どういう意味だと思う」
「供物を戻すんだろう」
「どこへ?」
私は庭の方を見た。
窓の向こうで、埋めた井戸の土が白い日差しを吸っている。周囲の地面は乾いているのに、その円の中央だけ色が濃い。
家の中で、また水が落ちた。
ぽた。
今度は、私の手元で鳴った。
見ると、祖母の遺した短い遺言の紙に、見覚えのない水の輪がひとつ増えていた。輪の中心には、細い線が浮かんでいる。
透、と書きかけて、途中で消されたような線だった。
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