第4話 梁の下の湿り

夜が明ける前に、私は目を覚ました。

眠っていたのかどうか、はっきりしない。寝間へ戻ってからも、天井裏の音は途切れなかった。ぽた、ぽた、と一定の間隔で落ちていたわけではない。二度続いたあと、長く沈黙し、忘れたころに一度だけ鳴る。そのたびに音の場所が変わった。

梁の上。

廊下の天井。

祖母の部屋の押し入れの奥。

最後には、枕元のすぐそばで鳴った。

私は布団の中で目を開けたまま、音の数を数えていた。十二。十三。十四。二十を数える前に、音は消えた。外ではまだ蝉が鳴いていない。盆地全体が眠っている時間で、家の中だけが、誰かに起こされているようだった。

天井を見上げる。

暗闇の中で、梁の位置は分かる。昼間に何度も見たものだ。あの上に水があるはずはない。屋根瓦は乾いている。昨夜の空に雨雲はなかった。天井裏へ上がっても、濡れた場所は見つからなかった。

なのに音だけがある。

私は布団を出た。畳へ足を置いた瞬間、右足の裏に冷えが貼りついた。

冷たいというより、薄い水膜を踏んだ感触だった。

反射的に足を上げる。畳の表面は乾いている。懐中電灯を点け、足を置いた場所を照らす。畳の目は乱れていない。色も変わっていない。指で触れてみても、湿り気はなかった。

それでも、足の裏だけが濡れているように冷たかった。

私は洗面所へ行き、足を拭いた。布は乾いたままだった。冷えは消えなかった。

「床下の空気だ」

蛇口をひねりながら、私は言った。

声が洗面所の壁に跳ね返った。

「湿気が上がっているだけだ。井戸を埋めたから、地下の水分が抜ける場所を失った。床下へ回って、畳を冷やしている」

説明はできた。少なくとも、言葉の形にはなった。

私は水を止めた。蛇口から最後の一滴が落ちる。ぽた、と鳴った。

その音が、家のどこかから返ってきた。

私は蛇口を見つめた。

返事のように聞こえただけだ。水道管の中に残った水が、遅れて落ちた。そう考え、蛇口をもう一度閉め直した。取っ手を左右に動かし、完全に止まっていることを確かめる。音が消えた。

家の奥からも、音は消えていた。

私は雑巾とバケツを持って廊下へ出た。濡れていない畳を拭くのは馬鹿らしかったが、原因が湿気なら、表面の水分を取り除くことで変化が分かる。畳の目に沿って拭き、雑巾を裏返し、同じ場所をもう一度拭いた。

雑巾は乾いていた。

冷えだけが残った。

私は柱へ手を当てた。木肌は乾いている。年輪の凹凸も、節の硬さも、指先へ正しく伝わってくる。その数秒後、掌の中央だけが急に冷えた。

まるで柱の内部から、誰かが手のひらを押し返してきたようだった。

私は手を離した。

「木の節だ」

今度の声は小さかった。

家の中で、自分へ向かって説明することが増えている。昨夜から、そればかりしていた。言葉にしなければ、説明のないものがこちらへ近づいてくる気がした。

私は脚立を運び、階段脇の天井板を外した。

蓋の裏から埃が落ち、肩にかかる。私はそれを払い、懐中電灯を口にくわえて脚立を上った。屋根裏の空気は、夜のあいだに少し変わっていた。熱はこもっているのに、梁の間を冷たいものが流れている。風ではない。風なら、蜘蛛の巣が揺れるはずだった。巣は垂れたまま、細い糸の先まで動かなかった。

私は板の上へ膝をついた。

懐中電灯の円が梁を照らす。乾いた木肌。積もった埃。古い瓦。祖母が触らなくていいと言った木箱。見えるものは、昨日と変わっていない。

音がした。

ぽた。

頭上ではない。

右手の奥だった。

私は身を低くし、梁を避けながら進んだ。板が足の下で軋む。音は止まった。次にどこで鳴るかを待つ。耳を澄ますほど、家の中の無音が厚くなる。自分の呼吸と心臓の鼓動だけが、屋根裏の低い天井へ押しつけられていた。

ぽた。

今度は左手だった。

私は振り向いた。光が梁の影をなぞる。影の奥に何かがいるように思えたが、照らせば木箱と古い柱しかない。私は目を細め、光の円をゆっくり動かした。

その根元に、縄が落ちていた。

昨日見つけたものと同じだった。

新聞紙に包んで、天井板の脇へ置いたはずだ。私は一度、階下へ運ぼうとした。だが手が泥臭くなったため、明るくなってから処分するつもりで、そこに残した。

縄は、置いた場所から半間ほど離れていた。

私は動かした記憶を探した。屋根裏から降りるとき、足で蹴ったのかもしれない。板が傾いて、転がった可能性もある。細い縄なら、それで十分だ。

私は軍手をはめた。

縄をつまみ上げる。

冷たかった。

昨夜よりも、はっきりと湿っている。表面に水滴はないのに、指先へぬるい泥の感触が伝わってくる。縄を持ち上げた瞬間、屋根裏の奥から土の匂いが広がった。

井戸の中で嗅いだ匂いだった。

私は縄の両端を照らした。切断された形ではない。繊維がほどけた先に、細い黒いものが絡んでいる。泥か、根か、それとも髪の毛のようなものか、光を当てても判別できなかった。

長さを測ろうと、メジャーを取り出す。

縄を板の上へ置き、片端へメジャーの先を合わせる。数字を読む。

八十六センチ。

念のため、もう一度測る。

今度は八十七センチだった。

私はメジャーを止めた。

縄は伸び縮みする。濡れた繊維なら当然だ。測り方が違っただけだ。私はそう判断し、数字をメモ帳へ書き込んだ。

八十六から八十七。

その下に、濡れ、泥臭、移動、と記す。

書き終えたところで、紙の上に黒い点が落ちた。

インクではなかった。

メモ帳の中央へ、水滴がひとつ染み込んでいた。

私は顔を上げた。

梁は乾いている。

懐中電灯を持つ手が、わずかに震えた。光の円が梁を外れ、屋根裏の闇へ滑る。闇の中で、何かが息をした。

ひどく遠い息だった。

しかし、その息は私の耳のすぐそばにあった。

私は縄を新聞紙で包み、急いで階下へ降りた。天井板を閉める。蓋の縁を押さえ、隙間がないことを確かめる。閉じたあとも、手を離せなかった。指の腹へ、板の向こうから冷えが伝わってくる。

私は手を引いた。

台所へ行き、新聞紙を流し台の脇へ置いた。用水路へ捨てるのは気が引けた。だが家の中に置いておく方が悪い。私は勝手口を開け、縄を包んだ新聞紙を庭へ持ち出した。

朝の光が盆地の山際から差しはじめていた。蝉が一匹、遠くで鳴いた。続いて別の場所から声が返る。夜の無音が、少しずつ破れていく。

庭の隅にある用水路へ向かう。

水は浅く、底の石が見えていた。流れは速くない。新聞紙から縄を取り出し、落とそうとする。指が縄に触れた途端、軍手越しに冷たさが入ってきた。

その冷えが、手首まで上がった。

私は縄を放した。

水面へ落ちた縄は、浮かなかった。石の間へ沈み、見えなくなった。流れに押されて下流へ動くはずなのに、同じ場所で黒く揺れている。

私はしゃがみ込み、棒を探した。

棒で突けば動く。水路の底に引っかかっているだけだ。私は庭の端にあった竹の枝を拾い、水へ差し入れた。

先端が縄に触れる。

その瞬間、用水路の水音が止まった。

流れている水が止まったわけではない。水は動いている。石の間を通り、下流へ向かっている。だが、音だけがなくなった。

私は竹の枝を引き上げた。

縄はついていなかった。

水路の底にも、黒いものは見えない。

背後の家から、ぽた、と音がした。

私は振り返った。

音は縁側の下から聞こえたようだった。そこには土砂の袋と、使い終えた道具が並んでいる。私は昨日、道具の種類ごとに分け、鍬とスコップを壁へ立てかけた。置き場所は変わっていない。

ただ、縁側の下の土だけが濃かった。

私は家へ戻り、雑巾を持ってきた。縁側の下へ身をかがめる。手を伸ばすと、土は乾いていた。表面だけは。

指で少し掘る。

黒い湿りが、爪の間へ入り込んだ。

土をつまみ、匂いを嗅ぐ。泥の臭い。屋根裏の縄と同じだった。

そのとき、背後で水音がした。

ぽた。

私は振り返った。

庭の中央、埋めた井戸の跡に立っていた。土の表面は昨日より沈んでいる。円形に均したはずの縁が崩れ、中央へ向かってわずかに窪んでいた。

掘り返された形跡はない。

誰かが踏んだ跡もない。

それでも、土は沈んでいる。

私は家へ戻り、メジャーを取った。埋め戻した円の直径を測る。昨日の記録と照合する。三センチ、内側へ縮んでいた。

土が締まっただけだ。

私はそう考え、メモ帳に書いた。

圧密。自然沈下。地下水。

三つの言葉を並べたところで、庭の土の中から音がした。

ぽた。

水が落ちる音だった。

音は地面の下から上がってきた。

私はスコップを取りに物置へ走った。扉を開ける。中の工具は昨日のまま、壁に沿って並んでいる。鍬、スコップ、剪定ばさみ、金槌。私はスコップをつかみ、刃に付いた土を布で拭いた。

その布が濡れた。

水をかけた覚えはない。布の中央だけが、黒く湿っている。

私は布を床へ落とした。

物置の奥で、ぽた、と音がした。

振り返る。

誰もいない。屋根の隙間から差す朝の光が、埃を白く照らしている。だが、光の届かない奥だけが、井戸の底のように暗かった。

私はスコップを握り、庭へ出た。

掘れば分かる。土の中に水があるのか、石組みが崩れているのか、空洞があるのか。形が見えれば対処できる。家の下へ水が回っているなら、排水の道を作ればいい。井戸の構造が残っているなら、業者に連絡する。

まだ、作業として扱える。

そう思いながら、埋め戻した場所の前に立った。

スコップの刃を土へ入れる。

柔らかい。

昨日、鍬で何度も押し固めた表面が、抵抗なく裂けた。刃先が沈み、湿った匂いが立ち上る。土の下から冷気が吹き、シャツの背中へ張りついた。

私は一度、息を止めた。

もう一度、スコップを入れる。

その刃の下で、何かが擦れた。

石ではなかった。

木でもない。

薄いものが、土の中でゆっくり身を返したような音だった。

私はスコップを抜いた。

庭は静かだった。蝉の声が始まりかけている。竹藪の葉が朝の風に揺れ、用水路の水が戻ったように流れている。

家の中だけが、無音だった。

私は掘りかけの土を見下ろした。

そして、背後の廊下から水音がした。

ぽた。

振り返る。

庭から家へ続く板の上に、濡れ跡が伸びていた。

足跡ではない。

誰かが冷えた手で、床を撫でながら進んだような、細い筋だった。玄関から廊下へ、廊下から寝間の戸口へ向かっている。

私はスコップを置き、家の中へ入った。

濡れ跡は、私の足元で途切れていた。

しゃがみ込み、指先で触れる。

水ではない。

それでも、確かに冷たい。

指を離しても、冷えは消えなかった。爪の裏側から入り込み、手首を通り、肘の内側へゆっくり上がってくる。

私はその跡を見つめた。

家の奥で、誰かが息をした。

私は長く息を止めた。

止めたはずの私の呼吸が、廊下の先から返ってきた。

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