第3話 帰ってきた妹

翌日の昼、門の外で車のドアが閉まる音がした。
蝉の声が屋根瓦を叩き、庭の埋め戻した土は白い光を吸っていた。私は縁側に座り、昨夜の濡れた藁縄を新聞紙の上へ広げていた。朝になっても縄は乾かなかった。触れる気にはなれなかったが、新聞紙の端に残った泥の色を見ていると、どうしても処分を先延ばしにできない気分になる。
スマートフォンには、建築会社へ送る問い合わせの文面が開いたままだった。
水漏れ、床下の湿気、屋根裏の異音。
そこまで入力して、私は送信を押せずにいた。
門の方から、砂利を踏む音が近づいてくる。
「お兄ちゃん」
澪の声だった。
私は立ち上がり、縁側の柱に手をついた。柱は乾いていた。少なくとも、目で見る限りは。
澪は玄関先に立っていた。薄い灰色のシャツに、黒いパンツ。肩から下げた鞄は重そうだったが、持ち方に迷いがない。髪を耳へかける仕草も、子供のころから変わっていなかった。
敷居をまたぐ前に、澪は一度だけ息を吸った。
「何」
「何って、電話したでしょう」
「葬式の礼なら、もういい。こっちは片づけておくから」
「その言い方が嫌だったの」
澪は靴を脱ぎ、揃えた。爪先を玄関の縁へぴたりと合わせる。私が無意識にずれを直そうとするより早かった。
「こっちは片づけておく。大丈夫。問題ない。そういう言葉ばかりだったから」
「問題はない」
「昨夜、眠れなかったでしょう」
私は答えなかった。
澪は玄関から上がり、廊下の奥へ目を向けた。家の中には、昼の熱がこもっていた。外では蝉が途切れず鳴いているのに、廊下へ入った途端、その音が薄い膜の向こうへ遠のく。
「水音、した?」
「古い家だからな」
「聞いたんだね」
「聞こえただけだ。屋根裏か、床下か、どこかに湿気が回っている。昨夜、屋根裏を見た」
「一人で?」
「他に誰がいる」
「私が来るまで待てばよかったのに」
「雨漏りの確認に、妹の帰りを待つ必要はない」
「雨漏りじゃないかもしれないでしょう」
私は返事の代わりに、縁側へ戻った。
澪はすぐにはついてこなかった。玄関の上がり框に手を置き、家の中の空気を測るようにじっとしている。その顔に恐怖はなかった。恐怖がないのではなく、怖いものを前にしても先に形を見ようとする顔だった。
「祖母の部屋、見てもいい?」
「まだ何も処分していない」
「処分するつもりだったの?」
「必要なものだけ残す」
「必要かどうかを決める前に、何があるかを見る。それが普通じゃない?」
「普通は人によって違う」
「お兄ちゃんの普通は、捨てたあとで後悔しないために、後悔そのものを捨てることだよ」
その言葉に、私は振り返った。
澪は視線を逸らさなかった。声は平らだったが、平らにしようとしているのが分かった。感情が強くなるほど、澪の声は低く静かになる。子供のころからそうだった。祖母に叱られたときも、泣く代わりに畳の目を指でなぞっていた。
「祖母の部屋へ行くなら、勝手に箱を動かすな」
「分かってる」
「記録らしいものが出ても、持ち出すな」
「それはお兄ちゃんが言うこと?」
「家のものだからだ」
「家のものなら、私のものでもあるでしょう」
澪はそれ以上言わず、祖母の部屋へ向かった。
私は少し遅れてついていった。足の裏に、昨夜の冷えが戻ってくる。畳は乾いている。けれど、廊下の途中にある柱の前だけ、空気が重かった。澪もそこへ差しかかると、歩みを一度止めた。
「ここ、濡れてる」
「濡れていない」
「触ってないのに分かるの?」
「湿気があるだけだ」
澪は柱へ手を伸ばした。指先が木肌に触れた瞬間、眉がわずかに動く。
「冷たい」
「だから湿気だ」
「湿気なら、柱全体が冷たいはず。ここだけ違う」
「木の節だろ」
「節が体温を奪うの?」
私は答えず、祖母の部屋の襖を開けた。
部屋は昨日のままだった。段ボール箱は壁際に並べ、黒い紙を貼った箱と、赤い紙を貼った箱を分けてある。机の上には、遺言の紙が置かれていた。水の輪は消えていたが、紙の角はまだ柔らかい。
澪は部屋へ入ると、まず全体を見回した。机、箪笥、裁縫箱、押し入れ。私がどこを触ったか、何を動かしたかを確かめているようだった。
「この引き出し、開けた?」
「全部見た」
「中身は?」
「布と手帳。不要なものは箱に入れた」
「手帳は?」
「日付だけのメモ帳なら、机の右側」
澪は箪笥の前に座り、引き出しを一段ずつ開けた。中の物を取り出すたび、置く場所を決めているらしく、畳の上に小さな列ができていく。布袋、裁縫ばさみ、古い鍵、薬の包み。澪はどれもすぐには捨てず、匂いを確かめ、縫い目や紙の端まで見た。
「そんなに丁寧にやっていたら、いつまで経っても終わらない」
「終わらせるために見ているの」
「見れば迷う」
「迷わず捨てるのは、判断じゃなくて省略だよ」
私は顎の内側を指で触った。
澪は一番下の引き出しを抜き、空になった底を指でなぞった。何かを探しているというより、引き出しそのものの癖を読んでいるようだった。
「底板、少し浮いてる」
「湿気で反っただけだろ」
「お兄ちゃんは、何でも湿気で済ませるね」
澪は裁縫ばさみの先を隙間へ差し込んだ。祖母の使っていた古い鋏だった。私はそれを取り上げようとしたが、澪の手が先に止まった。
「使っていい?」
「壊すな」
「壊すのは得意でしょう」
「何の話だ」
「井戸」
その言葉が部屋に落ちた。
外の蝉の声が急に大きくなった。いや、家の中の静けさが一瞬だけ薄くなったのだと思う。私は無意識に天井を見た。
何も聞こえない。
だからこそ、耳の奥に残った昨夜の音がはっきりした。
ぽた。
澪は鋏の先を隙間へ入れ、底板をゆっくり持ち上げた。木が乾いた音を立てる。その下から、薄い布に包まれた手帳が現れた。
表紙は黒ずみ、角が擦り切れている。水を吸って乾いた紙特有の、硬く波打った手触りが見えた。
澪が布をほどく。
表紙に細い字があった。
井戸帳。
私は思わず手を伸ばした。
澪が先に手帳を胸元へ引いた。
「読むだけ。持っていかない」
「それは記録じゃない。祖母の覚え書きだ」
「だから読むんでしょう」
「井戸と関係があるとは限らない」
「表紙に書いてある」
「名前をつけただけかもしれない」
「お兄ちゃんは、名前があるものまで無かったことにするの?」
言い返そうとして、言葉が止まった。
澪は手帳を膝の上で開いた。紙をめくる音が、湿った部屋の中で妙に大きく響く。最初の頁には日付が並んでいた。古いものは祖母の字ではない。けれど、途中から筆跡が変わり、祖母の几帳面な字になっている。
米、ひとつかみ。
塩、小皿一杯。
酒、徳利半分。
白布、一尺。
古い針、三本。
澪の指が行を追っていく。
「供え物だな」
私は言った。
「たぶん」
「なら、昔の習慣だ。今は必要ない」
「必要ないから、井戸を埋めたの?」
「使っていない。危険な穴だった。祖母も、それを分かっていたから遺言を残した」
「お兄ちゃんに埋めさせるために?」
「そう書いてあった」
「埋めることと、終わらせることは同じじゃないよ」
私は澪から手帳を取り上げた。
紙は冷たかった。冷たいというより、掌の熱が吸い取られる。頁の端には水分を含んだような膨らみがあり、古い紙の匂いに混じって、昨夜の屋根裏で嗅いだ泥の臭いがした。
「どこが問題なんだ」
私は頁をめくりながら言った。
「品物が書いてある。祖母が供えていた。それだけだ。昔の家なら、そういう記録が残っていても不思議じゃない」
「これを見ても?」
澪が私の手元を指した。
供物の品目の横に、細い線が引かれている。その下に、名前らしい文字があった。だが、途中で削られている。墨を塗ったのではない。紙の表面を尖ったもので何度も擦り、文字ごと削り取った跡だった。
私は頁を傾けた。
光の角度で、消えた文字の溝が浮かぶ。
「誰かの名前か」
「そう見える」
「古い帳面だから、書き損じを消したんだろう」
「同じ場所だけ、何度も?」
澪は私の手から手帳を取り、削られた行を指先でなぞった。
「ここだけじゃない。ほかの頁にもある。品物の記録は残っているのに、その横にあった名前だけが消されている。しかも、消し方が同じ。祖母が書き損じを直すときは、上から二重線を引いた。これは違う。紙を削って、下の文字までなくそうとしている」
「名前を消したかったんだろ」
「誰が?」
「祖母か、その前の人間か」
「どうして消したの?」
「知らない」
「それで終わり?」
澪の声は静かだった。その静けさが、私を苛立たせた。何も知らないのは私も同じなのに、澪は知らないことを武器にして、私の判断だけを責めているように聞こえた。
「知らないから、確認するんだろう。古い家の帳面一冊で、井戸がどうこうと決めつけるな」
「決めつけているのはお兄ちゃんだよ。井戸とは関係ない。祖母は迷信深かった。古い習慣だ。記録の管理が雑だった。全部、先に答えを決めてから見ている」
「じゃあ、どうしろと言うんだ。家をそのままにして、祖母の部屋を保存して、井戸も庭に残して、何も触らずにいろというのか」
「そうは言ってない」
「では、何を言っている」
澪は少し黙った。
屋根の上で蝉が鳴いている。激しい音なのに、部屋の中では薄くしか聞こえない。閉じた襖の向こうに、別の家があるようだった。
「お兄ちゃんは、家を片づけたいんじゃない」
澪は手帳を閉じずに言った。
「家に残っているものを、自分の目の前から消したいだけ。祖母が死んだことも、ここで息をしていた時間も、井戸のことも。全部を物にして、捨てる順番を決めて、最後に空っぽにすれば、自分はここから出られると思ってる」
「感情の話をするな」
「感情を切り離しているつもりでも、手は正直だよ。お兄ちゃんは昨日から、何かを触るたびに拭いてる。濡れていないものまで」
私は言い返せなかった。
澪は私の手を見た。
昨夜から使っている懐中電灯を、私はまだ握っていた。汗を拭うための布も、膝の脇に置いてある。触れたものを拭く。濡れているかどうかを確かめる。濡れていなければ、濡れていないことを何度も確認する。
「井戸の水音を聞いた」
澪が言った。
「聞いたんでしょう」
「雨漏りだ」
「屋根裏に上がったのに?」
「原因はまだ見つかっていない」
「それでも雨漏り?」
「現時点では、それが一番可能性が高い」
「音が移動したのに?」
私は澪を見た。
「何で知っている」
澪は手帳を閉じた。
「昨夜、電話を切ったあと、しばらく起きていたの。お兄ちゃんの声が変だったから。今朝、ここへ向かう途中で、庭の井戸の写真を見た。埋めた場所の土が、周囲より濃い。雨がないのに沈んでいる」
「写真を撮ったのか」
「送ろうと思ったけど、やめた。お兄ちゃんがまた、写真の解像度や土の含水率の話をすると思ったから」
「実際、する必要がある」
「そうやって、怖いものを測れるものに変える」
澪は手帳の表紙を撫でた。
「でも、測った数字は、消えた名前を戻してくれない」
私は手帳を見た。
空白の頁がある。行の途中で記録が途切れ、次の頁へ移っている。日付だけが残り、品目も名前も書かれていない。その空白の端が、濡れたように濃くなっていた。
「これは祖母が書いたのか」
「途中からは、たぶん。でも、最後の方は筆圧が違う」
澪が最後の頁を開く。
そこには、短い行がひとつだけあった。
――まだ、足りない。
その下に、何かを書き足そうとした跡がある。筆先は紙に触れたまま、途中で止まっていた。墨は乾いているのに、文字の周囲だけが湿って見えた。
私は息を止めた。
どこかで水が落ちた。
ぽた。
部屋の中だった。
澪が顔を上げる。私は天井を見る。音は天井裏から来たようにも、机の下から来たようにも聞こえた。次の音を待つあいだ、家中の音が消えた。
やがて、私の脇に置いた濡れた藁縄から、雫がひとつ落ちた。
新聞紙の上に、黒い丸ができる。
澪は縄を見た。
「これ、屋根裏にあったの?」
「そうだ」
「触った?」
「軍手で」
「その軍手は?」
私は答える前に、台所の流しへ目を向けた。
昨夜使った軍手は、洗ってから流しの脇に置いたはずだった。だが、そこにはなかった。私は立ち上がり、台所へ向かう。
澪が後ろからついてくる。
流しの脇、物置、縁側。どこにもない。最後に、祖母の部屋へ戻ると、黒い紙を貼った箱の蓋の上に軍手が置かれていた。
左右そろえて、角まできれいに。
泥で汚れたままの軍手から、一滴だけ水が落ちた。
ぽた。
澪が小さく息を吸った。
私は軍手をつかもうとした。指が触れる寸前、祖母の部屋の天井裏で、何かが梁を踏んだ。
ぎ、と乾いた木の音がした。
続いて、家の奥から水音が返ってくる。
ぽた。
澪は井戸帳を胸に抱いたまま、私の袖をつかんだ。子供のころ、祖母が私の手首をつかんだときと同じ強さだった。
「触らないで」
「ただの軍手だ」
「今は、そういう言い方をしないで」
「何を根拠に――」
言葉の途中で、天井裏を何かがゆっくり移動した。
梁から梁へ。
見えない重さが、頭上を渡っていく。
私は軍手から手を離した。
その瞬間、井戸帳の最後の頁に、濡れた文字がひとつ浮かんだ。
祖母の字ではなかった。
けれど、私には読めた。
――透。
← 横にスクロールして読み進められます
