第2話 ぽた、ぽた

その夜、塚越家は妙に静かだった。

昼のあいだ屋根瓦に張りついていた蝉の声は、日が落ちると急に遠のいた。完全に消えたわけではない。竹藪の向こうや用水路の方角で、途切れ途切れに鳴いている。けれど家の中へ入ると、その音は厚い壁に吸われたように聞こえなくなった。

静けさというより、音が入ってくるのを拒んでいるようだった。

私は祖母の部屋で、最後の段ボール箱に古い布を詰めていた。白い晒し、黄ばんだ手拭い、誰のものか分からない袖口の切れ端。捨てるものと残すものを分けるため、一枚ずつ広げて確認する。黴の匂いが強いものは処分、虫食いが少なく再利用できそうなものは保留。保留の箱には赤い紙を貼り、処分の箱には黒い紙を貼った。

祖母は物を捨てなかった。

何年も使っていない布を畳み、同じ大きさの箱へしまい、箱の蓋に中身を書いた。私が子供のころには、その几帳面さが家の重さそのものに思えた。何もかもに名前があり、置き場所があり、戻す順番まで決められている。けれど今、箱の中身を一つずつ確かめていると、捨てられなかったのではなく、捨てる時期を決められなかっただけなのかもしれないと思った。

その考えが浮かんだことに、私は腹を立てた。

死んだ人間の事情を勝手に補うのは、片づけではない。残された側が勝手に意味を与えて、物を捨てられなくなるだけだ。私はそう考え、黒い紙を貼った箱の蓋を閉じた。

蓋は一度で閉まらなかった。

右奥が浮いている。中の布が偏っているのだろう。私は箱を開け、布を取り出して畳み直した。角を揃え、厚みを均し、もう一度入れる。蓋を閉める。今度はきれいに収まった。

指先で蓋の縁をなぞり、浮きがないことを確かめる。

そのときだった。

ぽた。

どこかで水が落ちた。

私は手を止めた。

ぽた、ぽた。

音は祖母の部屋の上から聞こえた。天井裏だ。雨は降っていない。屋根も乾いている。夕方、戸締まりをしたときに空を見た。雲はあったが、雨を含んだ色ではなかった。庭の土も、井戸を埋め戻した場所を除けば乾いていた。

私は耳を澄ました。

音は三滴目を落とさなかった。

代わりに、家の奥で木が軋んだ。古い建具が伸縮する音なら珍しくない。私はそう判断し、箱の蓋に黒い紙を貼り直した。少し斜めになっていたからだ。

貼り終えたところで、また音がした。

ぽた。

今度は、廊下の方だった。

私は椅子から立ち上がった。懐中電灯を持つ。祖母の部屋の襖を閉め、手のひらで二度押した。戸は音を立てずに収まった。念のため、取っ手を引いてみる。動かない。

廊下へ出ると、空気が一段冷えていた。

昼間に庭から入ってきた湿気とは違う。背中に張りつくような、水気を帯びた冷たさだった。肌の表面ではなく、シャツの布を通り抜けて皮膚へ届く。私は無意識に息を浅く止めた。

ぽた。

音は廊下の突き当たり、二階へ上がる階段の手前で鳴った。

懐中電灯を向ける。床は乾いている。板の継ぎ目にも水滴はない。天井を照らしても、梁の影が黒く重なっているだけだった。

「雨漏りなら、跡が残る」

声に出して、私は自分へ説明した。

「木が湿気を吸って鳴っている。あるいは、どこかの配管が破れている。配管は……」

そこで言葉が止まった。

この家の天井裏に水道管は通っていない。台所と洗面所の配管は床下を通り、庭の用水路側へ抜けている。古い間取りを調べたとき、私は自分で確認していた。

それでも、天井裏へ上がれば原因は見つかるはずだった。

脚立を運び、階段脇の天井板を外す。蓋を開けた瞬間、熱のこもった空気が顔へ落ちてきた。埃の臭いに混じって、湿った藁のような匂いがある。庭で土を掘ったとき、井戸の底から上がってきた匂いに似ていた。

私は懐中電灯を口にくわえ、脚立を上った。

屋根裏は低かった。身をかがめないと梁に頭をぶつける。古い断熱材の隙間から、細い蜘蛛の巣が垂れている。足を置くたび、板が小さく沈んだ。天井裏に上がるのは何年ぶりか分からない。子供のころ、澪と一度だけ忍び込んだことがある。祖母に見つかり、澪は泣かなかったが、私は耳をつかまれた。

あのとき祖母は、屋根裏にあった古い木箱へ手を伸ばそうとした私を止めた。

「そこは、触らなくていい」

「何が入ってるの」

「触らなくていいものだよ」

問いに答えないときの祖母は、いつも同じ顔をしていた。怒っているわけではない。怯えているようにも見えない。ただ、自分の背後に立つ何かから、私たちを隠そうとしていた。

私はその記憶を、頭の中で箱に戻すように閉じた。

今は雨漏りの確認だ。過去を思い出す必要はない。

梁に懐中電灯を向ける。木肌は乾いていた。埃も積もっている。指で撫でれば粉がつくはずだ。私は手を伸ばし、梁の表面をなぞった。

乾いている。

次の梁へ移る。

乾いている。

その次も同じだった。

ぽた。

音がした。

すぐ近くではない。頭上からではなく、背後のどこか。私は振り返った。光の円が屋根裏の奥を滑る。柱、古い木箱、崩れかけた瓦の束。誰もいない。

ぽた。

音は、今度は正面から聞こえた。

私は身を低くして、梁の間を進んだ。埃が喉へ入り、咳をこらえる。音のした場所まで行くと、梁の根元に古い藁縄が落ちていた。

濡れている。

触れる前から、それが濡れていると分かった。周囲の埃は乾いているのに、縄だけが黒く沈み、表面に薄い艶を帯びていた。私は軍手を取り出し、右手にはめた。庭で使ったものとは別の、新しい軍手だった。

縄をつまむ。

冷たかった。

水に浸されていたというより、土の底で長い時間を過ごしたものの冷たさだった。指先に泥の匂いが移る。私は縄を持ち上げ、懐中電灯で照らした。古い荷造り紐に見える。だが、両端は切れていなかった。どちらも擦り切れて細くなり、何かに結ばれていたような跡がある。

私はそれを持ったまま、しばらく動けなかった。

縄は、どこから来たのか。

物置にあったものなら、土や雨に濡れることはある。だが、この屋根裏に置いた覚えはない。祖母がしまったのかもしれない。祖母は何でも取っておく人だった。そう考えることはできる。

できるが、腑に落ちない。

私は縄を新聞紙で包み、屋根裏の蓋の脇へ置いた。明るくなってから確認するつもりだった。写真を撮り、材質を見て、必要なら廃棄する。原因が分からないものは、記録してから処分する。それが私のやり方だった。

下へ降りる。

脚立の一段目に足をかけたとき、耳のすぐそばで音がした。

ぽた。

私は反射的に顔を上げた。

水滴が落ちてきたわけではない。頬にも、手にも何も触れていない。それなのに、音だけが耳の内側へ落ちたように近かった。

階下へ降り、畳に手をつく。

冷たい。

指先が畳の表面へ触れた部分だけ、急に温度を失った。濡れてはいない。目を近づけても、畳の目に水の光はない。けれど指を離しても、冷えが皮膚に残った。

私は雑巾を持ってきて、畳の目に沿って拭いた。

一度。

二度。

三度。

拭いた場所は乾いている。雑巾も濡れていない。なのに冷えだけが消えなかった。

「原因はある」

私は呟いた。

「見えていないだけだ。床下の空気が上がっている。地下水が動いている。井戸を埋めたことで、どこかの水脈に圧がかかった。家の古さなら、それで説明できる」

説明を口にするほど、声が自分のものではなくなる気がした。

廊下の柱へ手を当てる。

乾いた木の感触がある。その一瞬後、掌の下へ湿り気が移った。冷たい。木の内部から、ゆっくり水が滲み出してくるようだった。

私は手を離した。

柱には何もない。

指先にも何もついていない。

それでも、掌の中央だけが濡れた布で包まれたように冷えていた。

その夜、私は寝床へ戻らなかった。台所から椅子を運び、廊下の端に置いた。家の中で水音がしたら、すぐに位置を確認できるようにするためだった。懐中電灯、メジャー、スマートフォン、雑巾、工具箱。必要なものを椅子の脇へ並べる。工具箱の蓋は閉じ、懐中電灯は光量を確認し、メジャーの先端を一度伸ばして戻した。

物を揃えていくと、少しだけ落ち着いた。

見えないものに対しても、手順は組める。音がする。位置を測る。濡れた場所を探す。原因を切り分ける。異常箇所を修理する。もし修理できないなら、業者を呼ぶ。

私はスマートフォンを手に取り、翌朝、町の建築会社へ連絡する予定を入力した。

そのとき、家の奥で音がした。

ぽた、ぽた。

二つ続いた。

音は天井裏からではなかった。

廊下の左手、祖母の部屋の襖の向こうで鳴った。

私は立ち上がり、襖の前まで歩いた。畳が足の裏へ冷たく貼りつく。襖の下には、細い隙間がある。そこから黒い部屋が見えるはずだった。

だが隙間の向こうに、薄い光があった。

私は祖母の部屋の電灯を消したままにしていた。明かりがあるはずはない。

懐中電灯を下げ、襖の隙間を照らす。

何もない。

光の反射だったのかもしれない。庭の外灯が障子紙を通っているだけだ。そう考えながら、私は襖を開けた。

祖母の部屋は片づいていた。箱は壁際に並び、机の上には遺言の紙だけが置かれている。紙の周囲に浮いていた水の輪は、拭いたはずなのに消えていなかった。

私は机へ近づいた。

ぽた。

今度は、紙の上に落ちたように聞こえた。

けれど紙は濡れていない。

その代わり、机の端に、細い指跡が三本ついていた。水を含んだ指で撫でたような跡だった。私は雑巾を取り、端から拭いた。跡は薄く伸びただけで消えなかった。乾いた布でも、濡れた布でも同じだった。

私は雑巾を置いた。

「誰かが触ったなら、誰かがいる」

声にすれば、まだ事実として扱える。

「誰もいないなら、跡は残らない」

言葉はそこで途切れた。

部屋の奥から、冷気が流れてきた。押し入れの方角だった。襖は閉まっている。私は押し入れの前へ進み、取っ手に手をかけた。

開ける前に、音がした。

ぽた。

すぐ頭上。

私は天井を見上げた。

音は梁の上から落ちたはずなのに、目の前の畳の隅で響いたように聞こえた。次の一滴を待つ。息を止める。家の中から音が消え、外の蝉も、用水路も、何もかも遠くなる。

無音が、耳を塞いでくる。

やがて、廊下の先で水音がした。

ぽた。

私は振り返った。

音は、さっきまでいた場所から移っていた。祖母の部屋の前ではない。寝間へ続く廊下の途中だ。

私はそこへ向かった。

一歩、進む。

ぽた。

もう一歩。

音が近づく。

ぽた。

目の前の柱に手を当てる。乾いている。次の瞬間、掌の下で木がひどく冷えた。湿り気が皮膚へ染み込み、背中へまわる。濡れた空気がシャツの内側へ入り、肺の奥まで重くなった。

廊下の板には、水滴の跡がなかった。

ただ、私の足元から寝間の戸口へ向かって、細い線が伸びていた。

誰かが濡れた手のひらで、床板を一度だけ撫でたような線だった。

私はしゃがみ込み、指先で触れた。

水ではない。

なのに冷たい。

指を離しても、その冷たさは消えなかった。皮膚の表面ではなく、爪の裏側から体の中へ入ってくるようだった。

明朝、床板を外す。

床下を確認する。湿気の通り道を探す。井戸の埋め戻し跡も測る。必要なら、土をもう一度掘り返す。

私はそう決めた。

そう決めたはずなのに、寝間の戸口から、低い息のような音が漏れた。

水滴の音ではなかった。

誰かが、暗い穴の底で息をしている。

私は懐中電灯を向けた。光は戸口の奥へ届かず、畳の上で弱く滲んだ。

そして、その光の外側で。

ぽた、ぽた。

音だけが、私のいる方へ近づいてきた。

← 横にスクロールして読み進められます

ぽた、ぽた - 井戸の声 - 誰でも作家life