第1話 井戸を終わらせる手

祖母の葬儀が済んだ翌朝、私は塚越家の庭に立っていた。

盆地の底に溜まった夏の熱が、夜のあいだに逃げきれず残っている。喪服の上着は脱いだが、黒いシャツの背中はすでに湿っていた。屋根瓦の向こうから蝉の声が押し寄せてくる。鳴き声はひとつひとつ聞き分けられないほど重なり、家全体を薄い殻のように覆っていた。

庭の隅に、古井戸がある。

石組みの縁には苔が生え、何年も使われていないのに、周囲の土だけは乾かなかった。子供のころ、祖母はそこを「水神さん」と呼んだ。呼ぶときは、誰かに聞かれないよう声を低くした。私が井戸の縁に腰をかけようとしたときも、祖母は手首をつかみ、ひどく強い力で引き戻した。

「そこは、座るところじゃないよ」

理由を尋ねても、祖母は答えなかった。代わりに私の手を濡れ布巾で拭き、井戸の方を見ないようにして家へ戻った。

そのときのことを、私は長いあいだ忘れていた。忘れていたというより、思い出さないようにしていたのだと思う。

庭先に置いた土砂の山を見て、私は腕時計を確認した。午前七時二十分。業者を呼ぶことも考えたが、祖母の遺した紙には、短い字でこう書かれていた。

――井戸は透が埋めること。人に頼まないこと。

理由はなかった。日付もない。便箋の端に、祖母の名前を書くときと同じ几帳面な筆圧で、それだけが残されていた。

私はその紙を、作業用のズボンのポケットに入れていた。何度も折り直したせいで、端が柔らかくなっている。

「人に頼まないこと、か」

声に出すと、祖母がまだ家の中にいるような気がした。返事はない。返事があれば困ると思った。

スコップを持ち、井戸の縁に立つ。底は見えなかった。水面があるのか、ただ暗いだけなのか、朝の光を向けても判然としない。私は懐中電灯を取り出しかけて、やめた。確認する必要はない。使われていない井戸を埋める。それだけの作業だ。

最初の土を落とす。

乾いた表面の下から、黒く湿った土が崩れた。石に当たった土砂が、低い音を立てて奥へ落ちていく。音が消えるまでに、妙に時間がかかった。

私は次の一杯をすくった。

土は重かった。水を含んでいる。だが、前日に雨が降ったわけではない。用水路から水が回っているのかもしれない。井戸の底に地下水が溜まっているだけだ。そう考えながら、私はスコップの柄を握り直した。

濡れた軍手が気に入らなかった。土をすくうたび、指の間にぬるい感触が入り込む。私は作業を止め、軍手を外して布で拭いた。布にも黒い染みがついた。新しい軍手に替え、汚れたものは庭の端に置いた。

祖母が生きていたころ、家の中の物はすべて置き場所が決まっていた。箸の向き、座布団の重なり、襖を閉めたときに残る隙間まで、祖母は黙って直した。私が小学生のころ、廊下に玩具を置きっぱなしにすると、祖母は叱らず、それを私の手に戻した。

「戻すところへ戻しなさい」

その言葉が嫌だった。物には戻る場所がある。人にもある。そう言われているように聞こえた。

私は家を出てから、物の置き場所を自分で決めてきた。仕事の机も、台所の棚も、靴の向きも。乱れたものは捨て、残すものは用途ごとに分ける。そうすれば、少なくとも目の前から混乱は消える。

祖母の死後、私がここへ戻ってきたのも同じ理由だった。

家を売るか、壊すか、残すか。家具を処分し、書類を揃え、土地の名義を整理する。やることは多いが、順番に片づければ済む。死んだ人間を悼むことより、死んだ人間の残した物を処理することの方が、私には向いていた。

井戸だけが、庭の隅で終わらずに残っていた。

昼前には、石組みの半分が土に埋まった。蝉の声が頭上から降り続けている。汗がこめかみを伝い、顎の先から落ちた。私は袖で拭おうとして、喪服の袖口に土がついているのを見つけた。黒い布に、灰色の筋が伸びている。

家の中へ戻り、洗面所で手を洗った。

蛇口から出る水は冷たかった。水音を聞いていると、井戸のことを思い出した。祖母は台所の水道を使う前に、いつも一度だけ庭へ目を向けた。窓の外にある井戸を見ていたのか、それとも、そこに何もないことを確かめていたのか、今となっては分からない。

顔を上げると、鏡の中の自分がひどく疲れて見えた。

私は水を止め、蛇口をもう一度ひねって確認した。完全に音が止まるまで、指を離せなかった。

午後、井戸の口はほとんど塞がった。

土砂を運ぶために何度も物置と庭を往復した。物置の扉は閉じるたび、右側だけが少し浮いた。蝶番が歪んでいる。私は工具箱を持ち出し、扉を外し、金具を締め直した。作業を終えてから三度、開閉を繰り返す。最後に音がきれいに止まったところで、ようやく次の作業へ戻った。

そうしているあいだ、井戸のことを考えずに済んだ。

夕方近く、底へ落とす最後の土を一輪車で運んだ。土は朝より湿っていた。山の表面は乾いているのに、少し掘ると指が沈む。私はスコップで崩し、井戸の中へ落とした。

どさり、と音がした。

続いて、何かが土の下で擦れた。

石が崩れたのだろう。井戸の側面に残っていた古い木材かもしれない。私はそう決めて、次の土を落とした。

どさり。

今度は、音が返ってきた。

底のない場所へ物を落としたときのような、遠く長い響きだった。だが、井戸はもう半分以上埋まっている。音が長く続く理由はない。

私はスコップを止めた。

蝉の声は変わらず屋根瓦に張りついていた。庭の竹藪が風もないのに擦れた。さらさら、さらさらと、細い葉が互いの背中を撫でる音がする。

井戸の奥から、ひどく小さな音がした。

水が落ちたように聞こえた。

ぽた、と。

私は井戸を覗き込んだ。暗がりはもう見えない。土の表面が、夕方の光を鈍く吸っているだけだった。

「水じゃない」

誰に言うでもなく、私は呟いた。

土が締まっただけだ。古い木が湿気で鳴った。地下の水脈が近い。説明ならいくらでもできる。私は説明を並べながら、スコップを動かし続けた。

最後の土を落とし、表面を鍬で均す。

庭の地面には、土砂を運んだ跡が何本も残っていた。私はそれを一つずつ消した。靴跡をならし、石を拾い、井戸の周囲に残った土の高さを揃える。埋め戻した場所だけが盛り上がっているのが気に入らず、余分な土を端へ寄せた。

祖母なら、ここまでやらなかったかもしれない。

そう思った直後、私はその考えを押し潰すように鍬を振り下ろした。

表面の土がわずかに沈んだ。

もう一度、鍬を入れる。

土は柔らかかった。踏み固めても、足の裏から冷えが上がってくる。夏の夕方に、地面だけが冬の水を抱えているようだった。

私は鍬の柄に体重をかけ、平らになるまで何度も押した。

「これで終わりだ」

言葉にしてみると、妙に軽かった。

家へ戻る前に、私は庭全体を見回した。物置の扉は閉じている。道具は種類ごとに並べた。土砂の袋は縁側の下へ移した。井戸の跡だけが、まっすぐな円になって残っている。

私は祖母の部屋へ入り、遺言の紙を机の上へ置いた。

紙の角が少し湿っていた。

汗がついたのだと思い、私は布で拭いた。だが、紙は乾かなかった。指で押さえた場所だけ、冷たく柔らかい。祖母の字の周囲に、薄い水の輪が浮かんでいる。

私は紙を裏返した。

裏には何も書かれていない。

それでも、紙の向こう側から、かすかな音が聞こえた。

ぽた。

私は顔を上げた。

家の中は静かだった。蝉の声も、用水路の流れも、庭の竹の擦れる音も、襖を一枚隔てたように遠い。耳を澄ますと、天井の上からまた音が落ちた。

ぽた。

私は立ち上がった。椅子の脚が畳を擦った。

天井裏に水があるはずはない。屋根は乾いている。雨も降っていない。配管はこの家の天井裏を通っていない。私はそう考えながら、廊下へ出た。

音は止まっていた。

懐中電灯を持って、天井を照らす。梁の影が、白い光の中で何本も重なっていた。濡れた跡はない。虫の死骸も、鼠の糞も、異常らしいものは見当たらない。

私は脚立を出し、天井裏への蓋を開けた。

熱い空気が落ちてきた。埃と古い木の匂い。その奥に、土を深く掘ったときのような湿った臭いが混じっている。

私は一段目に足をかけた。

そのとき、頭上のどこかで、また水音がした。

ぽた。

今度は、私のすぐ後ろだった。

振り返る。

廊下には誰もいない。祖母の部屋の襖は閉じている。私は閉めたあと、きっちり音が止まるまで押し直したはずだった。

それなのに襖の下から、細い冷気が流れ出していた。

私はしばらく動けなかった。

やがて、庭の方から土が沈む音がした。

ず、と低く、湿った音だった。

私は天井裏への蓋を閉じ、懐中電灯を握ったまま庭へ出た。埋めた井戸の跡は、夕方よりわずかに沈んでいた。掘り返した形跡はない。誰かが踏み込んだ跡もない。

ただ、均したはずの土の中央に、細い亀裂が一本走っていた。

その亀裂の奥から、夜の冷たさが上がってくる。

私は鍬を取りに戻ろうとした。

その途中で、一度だけ振り返った。

家の二階には明かりがない。天井裏にも、誰もいない。そう確認したかった。

家の奥から、もう一度、水の落ちる音がした。

ぽた。

今度は、庭ではなかった。

音は私の背中の内側で鳴ったように聞こえた。

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