第10話 第10話「家の中の水場」

家の奥で続いていた水音は、庭へ出ても止まらなかった。

ぽた。

ぽた。

音の間隔は一定ではない。近づいたり遠ざかったりするのではなく、家の中のあちこちで、同じ深さから落ちているように聞こえた。屋根裏でも、廊下でも、祖母の部屋でもない。家そのものの中に、音の底がある。

私は縁側に立ったまま、乾いた庭を見ていた。

さっきまで掘り返していた穴は、ベニヤ板と土で塞がれている。板の隙間から湿った空気が漏れ、朝の光の中に白く揺らいでいた。土を戻したはずなのに、表面はわずかに沈み、中央だけが黒い。

澪が隣に来た。

「家の中へ戻るの?」

「外にいても、音は聞こえる」

「だから戻るの?」

「確認する」

「何を」

私は答えようとしたが、言葉が出てこなかった。

家の中に何があるのか。誰の名前が戻ろうとしているのか。祖母が何を止め、何を差し出していたのか。

分からない。

分からないまま、私はまた確認という言葉に逃げようとしていた。

澪が、私の手に視線を落とした。

右手の甲に、濡れた跡がある。庭で水滴が落ちた場所だ。水そのものは残っていないのに、皮膚の上に白い輪が浮いている。火傷の跡にも見えた。

「痛い?」

「痛くはない」

「冷たい?」

「もう、慣れた」

言ってから、私はその言葉を取り消したくなった。

慣れたのではない。冷たさが、皮膚の外からではなく、身体の内側にある感覚へ変わっただけだ。手首を曲げると、骨の中で水が揺れるような気がする。

澪はそれ以上訊かなかった。

二人で家へ戻る。

玄関の三和土には、濡れた跡がなかった。だが、靴を脱いだ瞬間、足の裏から冷えが上がってきた。土間の石が冷たいのではない。家の中へ入ったことで、何かの水面に触れたような冷えだった。

私は戸を閉めた。

いつもの癖で、最後まで押し込む。建具が敷居に当たり、かすかな音を立てた。

その音のすぐ後、天井裏で同じ音がした。

からり。

何かを閉める音。

澪が顔を上げた。

「今の、聞いた?」

「聞いた」

「家の中で、誰かが戸を閉めた」

「風だ」

「窓は全部閉めてある」

私は廊下の奥を見た。

祖母の部屋の襖は、昨日までと同じように閉じている。だが、襖紙の中央だけが、内側から呼吸しているように膨らんだり、戻ったりしていた。

私は近づいた。

澪が腕をつかむ。

「開けないで」

「中を確認する」

「またそれを言う」

「開けなければ、何も分からない」

「分からないままにしておくことが、今は必要かもしれない」

「そんな判断はできない」

「できるよ」

澪は私を見た。声は静かだったが、指が私の腕へ食い込んでいた。

「開けたら、あれに名前を返すことになる」

「名前を返す?」

「呼びかけに答えること。見つけること。確認すること。そういう行為が、向こうにとっては全部、名前を戻すことなのかもしれない」

「なら、何もしないのか」

「何もしないんじゃない。何をするか決めるまで、余計なことをしない」

私は襖を見た。

膨らみが止まった。

代わりに、襖の向こうから、細い水音がした。水が床板の上を這うような音だった。

そのとき、玄関の外で砂利を踏む音がした。

一度。

二度。

誰かが庭を横切ってくる。

澪が振り返る。私は無意識に懐中電灯を握った。

戸口に立っていたのは、久世いとだった。

昼の光の中でも白装束は白すぎた。黒い日傘は閉じられている。いとは家の中へ入らず、敷居の手前で立ち止まっていた。

「ずいぶん上まで来たね」

いとは私の顔ではなく、足元を見た。

「何が」

「水が」

「見えるのか」

「見えないものを、見ようとするから遅れるんだよ」

いとは日傘の柄を親指で撫でた。庭の穴へ視線を送り、それから家の梁を見上げる。

「もう、外から土を掛けても戻らない」

「戻すつもりはない」

「そう言って掘った顔をしている」

私は黙った。

いとは、祖母の部屋の襖へ目を向けた。膨らみは止まっている。だが襖紙の奥には、まだ濡れた気配があった。

「祖母は、何をしていた」

私が訊くと、いとはすぐには答えなかった。

「聞いてどうする」

「知る必要がある」

「知ったものを、また片づけるのかい」

「同じことはしない」

「人は、同じことをしないと言いながら、順番だけ変えて同じ底へ落ちる」

いとの声は低かった。責めているようでも、慰めているようでもなかった。

澪が井戸帳を抱え直した。

「祖母は、兄を差し出さなかったんですか」

いとの視線が、初めて澪へ向いた。

「差し出さなかった子は、戻される」

「どこへ」

「戻る場所がないものは、家へ」

澪の指が、布袋の赤い糸を強くつまんだ。

私は襖を見た。

「俺の名前が、家へ戻ったということか」

「名前だけなら、まだ軽い」

「まだ?」

いとはそこで言葉を切った。

天井裏から、水滴が落ちた。

ぽた。

今度は、祖母の部屋の中から聞こえた。

襖の下に、細い水が流れ出している。畳を濡らすほどではない。だが、溝のような線が一筋、廊下へ伸びていた。

その先は、私の足元へ向かっている。

澪が息を呑んだ。

「いとさん。これは、何を待っているんですか」

「待っているんじゃないよ」

いとは答えた。

「探している」

水の線が、私の靴先で止まった。

私は後ずさろうとした。だが、足の裏が畳に貼りついたように動かない。冷えが靴底を通り、足首から膝へ上がってくる。

いとは、私の手にある懐中電灯を見た。

「庭の下を見たね」

「家の下へ空洞がある」

「それは空洞じゃない」

「なら何だ」

「戻るための道だよ」

廊下の奥で、襖がわずかに開いた。

一寸ほどの隙間から、暗闇が見える。

その暗闇の中で、誰かが息を吸った。

祖母の声で、私の名前を呼ぶ。

「透」

澪の手が、私の袖をつかんだ。

いとは目を伏せた。

「返事をしてはいけない」

分かっていた。

分かっていたのに、喉の奥から声が出かかった。

襖の隙間から、濡れた指が一本だけ現れた。畳の上を探るように動き、私の足元へ伸びてくる。

私は懐中電灯を向けた。

光の中に、指はなかった。

ただ、畳の目が一本ずつ黒く濡れていく。水は私の靴先を避け、円を描くように広がっていた。

その円の中心に、文字が浮かんだ。

透。

けれど、私の名前だけではなかった。

その下に、もう一つ、別の名が浮かび始めている。

見覚えのない、短い名前。

澪が井戸帳を開いた。

最後の頁が、ひとりでにめくれる。

紙の上には何も書かれていない。だが、裏側から水が滲み、細い線が文字の形を取り始めていた。

私はその名前を読もうとした。

読めば、何かが戻る。

読まなければ、何かが家の中に残る。

そのどちらも選べないまま、天井裏から私自身の声が降ってきた。

「戸、閉めたか」

私は息を止めた。

いとは日傘を開いた。屋内なのに、黒い布が音もなく広がる。

澪が私の腕を引いた。

襖の隙間から、今度は二本の指が出てきた。

家の中のどこかで、水が満ちる音がした。

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