第6話 焼却の名を持つ複写

雨が上がったのは、昼過ぎのことだった。
中庭の銀杏は、雨粒を含んだまま重く枝を垂らし、風が吹くたびに、ぽつり、ぽつりと水滴を石畳へ落としていた。その音は、紙に水が染みる音によく似ている。私は研究閲覧室の窓を薄く開け、湿った外気と、室内に溜まった古書の匂いを入れ替えていた。午後の光は弱く、曇り硝子を通したようにぼんやりと白い。
扉が開いたのは、ちょうどその窓を閉めようとした時だった。
「失礼します」
芦原岳人が、濡れた上着を腕にかけて立っていた。眼鏡の縁に水滴が一粒残っている。彼はそれを拭わないまま、脇に抱えた紙束へ視線を落とした。茶色い紙袋から覗く複写資料は、端が波打ち、長年どこかに仕舞われていたものだと一目で分かる湿り気を帯びていた。
「濡れましたか」
「市役所の資料庫から歩いてきたので。傘はありましたが、紙袋の中まではどうしても」
芦原は上着を椅子の背にかけ、紙袋から複写の束を取り出した。薄い手袋をはめる仕草は、いつもより慎重だった。机の上に紙を広げる前に、彼は一度だけ、手のひらで机の表面を払った。埃を払うというより、場を整える儀式のようだった。
「図書館創設期の寄贈者名簿、その写しです。焼却処分されたとされている地方史資料――『秋月町火災沿革』の複写も、一緒に綴じられていました」
「焼却されたはずのものが、なぜ複写として残っているんです」
「焼却前に、誰かが写しを取っていたからです。原本は失われても、写しは別の場所で生き延びる。古文書の世界では、珍しいことではありません」
芦原はページをめくった。紙焼けした文字の列が、窓から差す弱い光の中で、茶色く沈んで見える。彼の指先は、文字をなぞるのではなく、行と行の継ぎ目を探るように動いていた。
「ここを見てください」
彼が示したのは、見開きの左側だった。戦前の寄贈者名簿の写しで、名前と資料名、受入れ日が縦に並んでいる。右側には、別の資料――町の火災記録の抜粋が重ねて綴じられていた。本来、別々の帳簿であるはずのものが、同じ紙の継ぎ目で繋がっている。
「寄贈者名簿の欄外に、町の火災記録の日付が書き込まれています。しかも、ただの書き込みではない。寄贈された資料の受入れ日と、火災の発生日が、同じ日付で並んでいる」
「偶然では」
「一度ならそう思います。けれど、これが三度続くと、偶然とは呼べません」
芦原は三箇所を指で示した。十月十七日。十月十七日。十月十七日。年は違う。だが日付だけが、律義に同じ場所へ戻ってくる。
「図書館の創設以来、十月十七日という日付には、火災か、それに類する出来事が繰り返し記録されています。しかも、そのたびに寄贈者名簿の同じ欄が、継ぎ紙で補われている。私は最初、単なる資料の劣化だと思っていました。しかし、継ぎ紙の筆跡と、補修の手つきを調べていくうちに――」
彼はそこで言葉を止め、最後のページをめくった。
複写の末尾に、小さな控えが挟まっていた。原本には存在しない、後から挿入されたとおぼしき一枚だった。細い万年筆の字で、短く記されている。
――保存のため、原本の一部を移す。責は私にある。
署名はなかった。だが、その「移す」という文字の払い方に、見覚えがあった。
書き慣れた筆圧ではない。けれど、記憶の奥を乱暴に掻くような、独特の角度があった。横画の最後だけ、わずかに右へ流れる癖。葉書の「ありがとう」の、末尾の「う」と同じ流れだった。
私は指先が冷えるのを感じた。紙に触れたわけでもないのに、その字を見ただけで、皮膚の表面が一段階、体温を失ったような感覚だった。
「柊真さん」
芦原の声が、少し遠くから聞こえた。
「この筆跡に、心当たりがありますか」
「……早瀬さんの字だと思います」
言った瞬間、喉の奥が乾いた。断定するだけの根拠は、まだ揃っていない。だが、断定を避けるための言い訳を探すほうが、今は不誠実な気がした。
芦原は頷かなかった。代わりに、複写のページを一度閉じ、表紙の上に両手を重ねた。手袋越しでも、その手が紙を押さえる力は、必要以上に強かった。
「私は、こういう瞬間がいちばん苦手です」
彼は静かに言った。
「資料を読むだけなら、どれほど古くても、どれほど痛ましい記述でも、ただの文字として扱える。けれど、それが誰かの筆跡だと分かった途端、紙は紙でなくなる。そこに書いた人間の呼吸が、戻ってくる」
「それでも、持ってきた」
「持ってこないという選択肢は、私にはありませんでした」
芦原は眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目が、いつもより少しだけ揺れていた。
「以前、私は似たような資料を追って、ある家族の長い沈黙を壊したことがあります。真実は戻りましたが、その家族の間にあった穏やかさは戻りませんでした。それ以来、私は自分に問い続けています。知ることは、本当に誰かのためになるのか、と」
「答えは出たんですか」
「出ていません。だから、答えの代わりに、持ってくることにしています。資料を手元に留めておくことは、知らなかったことにする行為と、何も変わらない気がして」
その言葉は、咲枝が言った「残すしかなかったものがある」という響きと、どこかで繋がっているように思えた。隠すことと、知らせることの間で、誰もが同じ重さの天秤を抱えている。
そのとき、閲覧室の扉が、ごく小さな音を立てて開いた。
久保田咲枝だった。書庫棟から戻る途中だったのだろう、片手に修繕用の和紙テープを持っている。彼女は机の上に広げられた複写の束を見た瞬間、足の動きを止めた。
一拍、二拍。
視線が複写の上を一度だけ滑り、継ぎ紙の跡、末尾の控え、そこに書かれた文字の角度まで、ほんの一瞬で検分したように見えた。だが、彼女はすぐに目を逸らした。逸らし方が、あまりに滑らかだった。見なかったことにする練習を、何年も積んできた人間の動きだった。
「お邪魔します」
咲枝はそれだけ言い、机の端を迂回して書庫棟の奥へ続く扉へ向かった。歩調は変わらない。けれど、和紙テープを持つ手の甲に、血管が一瞬だけ浮いた。

「久保田さん」
芦原が呼び止めた。
「この複写について、何かご存知ではありませんか」
咲枝は扉の手前で足を止めた。振り返らないまま、答えた。
「知りません」
「断定が早いですね」
「断定ではありません。知らないという事実です」
「もし、この筆跡に心当たりがあるなら」
「芦原さん」
咲枝の声が、わずかに低くなった。
「資料は、見た人間のものにはなりません。見つけた人間が、その重さまで引き受けられるとは限らない。あなたは史料を愛している。それは分かります。でも、愛することと、暴くことは別の行為です」
それだけ言うと、咲枝は扉の向こうへ消えた。鍵束の音も立てずに。普段なら響くはずの金属音が、今日はひどく静かだった。
芦原はしばらく、閉じた扉を見つめていた。
「暴くつもりは、ないのですが」
誰にともなく呟いた声は、複写の紙に吸い込まれるように小さかった。
入れ替わるようにして、朗読会の台本を抱えた佐伯理香が、閲覧室の入口から顔を覗かせた。十月の朗読会の準備で、机や椅子の配置を確かめに来たのだろう。彼女はいつもの笑みを浮かべたまま、部屋の中を一瞥した。
「あら、会議中でしたか」
「資料の確認をしていました」
私が答えると、理香は机の上の複写へ、ほんの一瞬だけ目をやった。それから、何も見なかったかのように視線を台本へ戻し、ページの端を指でなぞり始めた。すでに何度も直したはずの台本を、彼女はまた同じ箇所で立ち止まり、同じ指の動きで整えている。
「十月の演目、迷っているんです。毎年この時期は、どうしても選びにくくて」
「理香さん」
「はい」
「この複写、見ましたか」
理香の指が、台本の角でぴたりと止まった。
「見るというほどには」
「末尾に、控えがあります。筆跡に、心当たりは」
「柊真さん」
理香は顔を上げた。笑みは崩れていない。だが、声の温度だけが、わずかに下がっていた。
「朗読は、文字を声にする仕事です。だから、文字そのものの意味より先に、その文字を書いた人の呼吸を想像してしまう癖があります。もし今、その癖で何かを感じたとしても、それを言葉にするかどうかは、また別の話です」
「言葉にしない理由は」
「言葉にした瞬間、それはもう想像ではなく、証言になるからです。証言には責任が要ります。私にその責任を背負う資格があるかどうか、今はまだ分かりません」
彼女はそれだけ言うと、台本を胸に抱え直し、朗読会の机を整えるために窓際へ歩いていった。椅子を一脚動かす音が、やけに大きく響いた。
私は複写の末尾に戻り、もう一度その文字を見た。
――保存のため、原本の一部を移す。責は私にある。
焼却の名を背負わされた資料は、焼かれる前に、誰かの手で別の場所へ運ばれていた。移された先は、おそらく旧館の階段裏。そして、その「責」という一文字だけが、何年もの間、誰にも名指しされないまま、紙の上で息を潜めていた。
「柊真さん」
芦原が、複写を丁寧に紙袋へ戻しながら言った。
「これは、お預けします。原本ではありませんが、少なくとも、焼却されたことになっている資料の一部が、今も形を保って残っているという事実だけは、動きません」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いではありません。私はただ、知りたかっただけです。けれど――」
芦原は紙袋の口を結びながら、珍しく言葉を濁した。
「知りたいという欲求と、知らせていいという判断は、別の物差しで測るべきだと、ようやく分かってきました。この資料を、どう扱うかは、柊真さん、あなたに委ねます」
彼は上着を手に取り、雨上がりの匂いを纏ったまま、研究閲覧室を出ていった。
残された複写の束を、私は手元に引き寄せた。古い和紙の乾いた匂いの奥に、ほんのわずか、焦げた紙の記憶のような気配が混じっている気がした。窓の外では、銀杏の梢から、また水滴がひとつ、石畳へ落ちていった。
静かな人々が、静かに隠してきたものは、一冊の資料ではなかった。
それは、町そのものが長い年月をかけて守ってきた、名指されない「責」の在りかだった。
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